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婚約者は、私の妹に恋をする 作者:はなぶさ

これが、本当の最後なら。

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5

それは例えば一枚の絵画であり、一つの宝石だった。
絵画の方は屋敷で一番目立つ場所に掲げられており、宝石の方は鏡台の引き出しに隠された。
対照的な末路を辿ったとも言える二つのものは、我が父から私たち姉妹にそれぞれ一つずつ与えられたものだ。美しさではどちらも負けていない。しかし、その価値には天と地ほどの差があった。
素人の描いた絵画と、この世で二つとない希少な宝石。
稀有で値段がつけられないという点では同義であったが、そこに込められた想いは同等とは言えなかった。
宝石を手に入れたのは私の方で、第三者から見れば間違いなく私の方が幸運なように見えただろう。
だけど、そうではなかった。
だからこそ私は、その宝石を入れた四角い箱を、鏡台の一番上の引き出しに隠した。
自ら望んで手に入れたものではない。欲しくはなかった。こんなもの。

*
*

私の胸元を飾る首飾りをじっと見つめて、「いいなぁ、お姉さま」とシルビアは言った。
心底羨ましそうに唇を尖らせた彼女に、私は苦笑するしかない。
単に何と言って良いか分からなかったのだ。
「お父様の絵では不満だというのかい?」
シルビアの声をすぐ傍で聞いていた父親が、彼女の細い髪を指で撫でながら優しく言った。指を滑るさらさらとした感触を楽しむかのように何度もその動作を繰り返す。シルビアはそんな父親に特別な反応を示すこともなく、当たり前のように受け入れていた。年頃の娘であれば、父親の過度な接触を厭う傾向にあるものだが妹に限ってそんなことはなかった。
仲睦ましい家族なのだろう。世間はきっと、そう見るに違いない。実際、そうだった。
―――――だけど、私だけはそれに含まれない。
父親とそれほどに密着したことはないし、覚えている限り、髪を撫でられたことなど一度もない。
私と父親は昔からそれほどに疎遠だった。
「せっかくお前の為に為に描いたのになぁ……」
落ち込んだ素振りでそう言った父に、シルビアが慌てて首を振った。
「あ、いえ、そうじゃないの……!ごめんなさい、お父様……」
ベッドの上に半身だけを起こした状態で父親に縋りつくその姿は、恋人同士に見えなくも無い。四十代も後半に差し掛かろうとする年齢だというのにいつまでも若々しい父の精悍な容貌は、見目麗しい貴族社会でも口の端に登るくらいには有名だ。
シルビアの慌てた様子さえも愛おしそうに眺めていた父親が大仰に肩を竦める。
「ふふ、まぁお前がそう言うのも仕方ない。確かにイリアにあげた石は高価なものだから」
こちらに視線を流しながら私の名を口にするのに、目が合うことはない。
シルビアが私のことを口にしたから、仕方なくこちらに顔を向けたで意味などないのだ。
再び妹に視線を戻した父の横顔は、シルビアのことが愛しくてたまらないのだと雄弁に語っている。
それを少し離れたところから見ている私は、舞台でも眺めているような心地で観客に徹していた。
私は、この物語の登場人物ではない。脇役でもないし、傍観者でもない。ただの読者だ。そんな気分で二人が寄り添うのを見ていた。

「……だけど、お姉さまの首飾りは本当に素敵。お姉さまの目の色と同じなのね」

伯爵家第三位と言えど屋敷はそれなりの広さを誇っているので、妹の部屋だって決して狭くは無い。
シルビアのベッドとは離れているので、声を張り上げなければ意思の疎通が図れない。
しかし、私はすでに淑女教育を受けている身で。そんなはしたないことはできないと思う。
特に父が居る前では。
だけど、なぜか、声を張り上げている様子もない妹のうっとりと潤んだ声は良く聞こえた。
空気を入れ替える為に少しだけ開かれた窓の隙間から入り込んでくる柔らかな風が、彼女の声を運んでくるのだろうか。
決して近づくことのできない、天蓋の向こう側。
ベッドに腰掛けた父に甘えるように半身を預けた妹の姿が見えている。
何度も「いいな」を繰り返すシルビアに、
「イリアには社交界デビューの記念に贈ったものだからね」と父が優しく諭す。
舞踏会に呼ばれたわけでもないのに、地味な普段着に豪奢な首飾りをつけているのは少し滑稽でもあるが、シルビアが見たいと言えばそうせざるを得なかった。
箱に入れたまま、ただ見せるだけでは駄目なのかという私に「お姉さまが付けていないと意味がないのよ」と拗ねた表情をする可愛い妹を無視することができなかった。
私が社交界デビューしたその日、妹は例に漏れず寝込んでおり、この首飾りを見ることが叶わなかったのだ。だからこそ、そんなことを言い出したのだろう。
「社交界デビューかぁ、じゃぁ私は今年ね!」
嬉しそうに頬を染めるシルビアを、父親は微笑ましくも哀切の混じる眼差しで見つめていた。
シルビアは気付いていない様子だけれど、もしかしたら社交界デビューさえ危ういのではないかと思う。
一日の大半を寝て過ごしているような彼女には淑女教育を受ける時間もないし、何より勉強が追いついていない。いかに自分が他人よりも優れているのかを競い合う場に無垢で無知であるあの子が出て行くのは非常に怖いことだ。
まだ十代とは言え、伯爵家の名を背負って出るようなパーティーなのだから、粗相はまず許されない。
それに、舞踏会に参加することを考えるだけで興奮するような子だ。当日になって熱を出す可能性も高い。
学院へ入ることを許された彼女が、その当日に寝込んだのは記憶に新しかった。
父の反応を見ても私の考えは間違っていないような気がする。
だけど、わざわざそれを口にして妹を悲しませるような愚かものではない。
父がどれほどにシルビアを大切にして、慈しんでいるかは十分すぎるほどに理解していたから。

確かに私の首元を飾る宝石は美しく華やかで、地味な私には分不相応なほどだった。
社交界デビューする娘を愛するが故にそれほどの物を買い与える親は少なくない。何よりも矜持を大事にする貴族なれば、娘が恥をかかないように最高級品を用意して当然だろう。
当然、当家もそうであった。
しかし、それが愛情によって与えられたものではないことを知っている。
凝った金細工が最高級品だということを示しているし、真ん中に配置された黄緑色の宝石は貴族の持ち物に相応しい存在感を醸し出している。持ち主が私でなければ、貴人を飾るに十分すぎるほどの品物だ。
それをシルビアが羨ましがる気持ちも分からなくはない。
自室からほとんど出ることが叶わず、童話の中のお姫様に憧れているような妹だ。貴族女性というものに尊敬と畏敬と憧憬を抱いていても仕方が無い。だからこそ、貴族の子女が持つようなものを欲しがるのだ。
だけど、それは、あくまでもそれが与えられた経緯を知らないからこそ言えることだと思う。

『これの目の色と同じ宝石を一つ頼もう』

ある日突然、父親に書斎に呼び出され、何用かと問う前に聞かされたのはその言葉だった。
呼び出した理由も、久しぶりに対面した娘に掛ける言葉もなかった。
私が部屋に入るよりも前からその場に居た商人に、ただそれだけを口にした。
注文を受けた商人は恭しく了解の意を唱え、手品のように胸元から白い紙を取り出すとささっと首飾りの絵を書き上げた。
そして、『……これでよろしいでしょうか?』と舌なめずりでもしそうな顔で言った。
それに気付いているはずの父親は一瞬、不快そうな顔をしたがそれだけだ。
いつものことなのかもしれない。
商人は、それがどれほどの値打ちになるのか饒舌に語りながら、年若い子女が持つには十分すぎるほどの代物ですと唇の端を吊り上げる。
父はそれにさして興味も示さず一つだけ頷くと、請求書を家令に渡すように言い置いて部屋を去った。
私の方には一度も視線を向けることなく、退出の許可さえ与えず部屋に置き去りにした。
取り残された私に商人が困った顔をする。何か希望はないかと、どこか気の毒そうな顔で聞いてきた。
同情されているのが分かった。父親に見向きもされず、ただ宝石だけを与えられた哀れな少女だと。
様々な名家を出入りしているはずの商人だ。彼が何を思ったのかは分からないが、他の家では見られないような光景だったのかもしれない。
父親は、ただ義務的に、宝石を買い与えたに過ぎなかった。
社交界にデビューする私が、伯爵家第三位の名を穢すことのないように。
宝石も買えないような家だと侮られないように。

「だけど、宝石よりもお父様の絵のほうが素敵よ!」

俯けば嫌でも視界に入る首飾りを見るともなしに眺めていれば、耳に飛び込む妹の声。
無邪気に笑うその言葉が何よりも、私の気分を沈ませる。
ベッドの脇に置かれた父が描いたシルビアの肖像は本当によくできていた。
大きなカンバスにいくつもの色を乗せて。シルビアの儚い容姿をうまく表現している。それと同時に溢れんばかりの愛情を感じた。見ている者の心を惹き寄せる魅力がある。
時間をかけて丁寧に描かれたのが良く分かる絵だった。

それを描いたのは、他ならぬ父である。
私に首飾りを与えた同じ年、父はその絵を贈った。
「ね、お姉さまもそう思うでしょう?」
唐突に話題を振られて首を傾げば、シルビアは唇を尖らせた。
ちゃんと話を聞いていてよ、なんて拗ねた振りをしてみせる。
「それに、どうしてそんなところに居るの?」と今更なことを聞かれて困惑するしかない。

体調を崩しているシルビアとの接触は、最低限に控えること。
これが、遠い昔に母親と交わした約束だった。
だから、つい先日まで体調を崩していて未だに本調子とは言えないシルビアから距離を取るのは、私にとっては当然のことだったのだ。
しかし、シルビアは「そんなに離れなくても、私の病は移ったりしないわ」と悲しそうな顔する。
母親が命じたことだと思ってもいない様子だった。
そして、そんなシルビアを慰めるように声を掛けている父親は、隠すこともなく私に非難の目を向けてきた。全て知っているはずなのに、私を庇ってくれる気はないようだ。
たった一言、「お前の母親が命じたことなんだよ」と言ってくれればいいだけなのに、それをしない。
万が一にでも、シルビアが母親を責めることがないように、接近禁止を言い渡したのが己の妻であることは隠しておくことにしたのだろう。
「……酷い、姉さんだね」とそっと囁く父親の声が遠くから聞こえる。
酷い言い草だとは思うが、何をしても無駄だということは分かっていた。
なぜなら、この家はシルビアを中心に動いているからだ。
この家の当主である父親がそうであり、その伴侶たる母親がそうであるから、使用人もそれに習っている。
シルビアの具合が悪いから、シルビアが体調を崩しているから、シルビアが可哀想だから、シルビアが寂しがっているから、シルビアが、シルビアが―――――
それを悲しく思っていたのはいつまでだっただろうか。

唯一の例外は他でもない私で。私だけは私を優先することができた。
使用人も含めて、皆が皆シルビアの名を口にするその間、私は机にかじりついてペンを握っていた。
未来の侯爵夫人である私にだけは、そうすることが許されていたのだ。
両親だって、それをさも当然のことのように受け止めて気に留めることはなかった。
夕食のときに顔を合わせる母は『貴女は一人でも大丈夫だから、安心だわ』と微笑を浮かべ、父親は黙ったまま見向きもしなかった。
幼い頃はそれを、信頼されている証だと思っていた。
だけど、そんなはずもなく。ただ単に放置されているだけなのだと知ったのはいつだったか。
一人でよくやっていると褒めるわけでもなく、一人でも大丈夫かと聞くわけでもなく。一人にしても大丈夫だから安心だと、そんな風に断言して目を逸らされた。
何かを強制しているわけではない。一人で頑張るべきだと言われたわけでもない。だけど有無を言わせない卑怯な物言いだった。
だから、私はそれに淑女の微笑みを返した。
感情を見せない為の完璧な武装。貴族たるもの、そうすべきが最善だと思ったのだ。
そして、私は再びペンを握って机に向かう。

これだけが私を支えるものだと知っていた。知識と知恵と教養だけが私を形づくる。
だから、もっともっと努力する必要があった。
何度、人生を繰り返しても、それだけは同じだった。


*

侯爵家嫡男の婚約者と決まってソレイルに出会ってから、私の時間のほとんどはその為の勉強に費やされた。元々は出来の良いほうではない。物覚えだって人並みだし社交性があったわけでもない。
そうなるべく研鑽を積んできたに過ぎない。
屋敷の書庫に篭って、それこそ朝から晩までペンを握った。
諸外国と交流がある侯爵家であるから、外国語はひとつでも多く覚えた方が良いと思ったし、それに合わせて世界の歴史も知っておく必要があった。そういった些細なことが外交において有利に働くこともあるだろうと期待していたから。
時には教師に付いてもらい、時には一人きりで。私はただ只管、ソレイルの婚約者として恥ずかしくないように努力してきたつもりだ。
机の上に積んだいくつもの蔵書。それが私の強みになると思っていた。
音のない空間に紙の上を滑るペンの音だけが響く。息抜きにと用意した紅茶も冷え切っているが侍女がここに入ることはまずない。時々、アルが様子を見に姿を見せるが話しかけることもなく出て行く。集中している私を気遣っているのだろう。
何時間も同じ格好で座っているので腰が痛む。ぐっと背伸びをして息をついたそのとき、静寂を切り裂く微かな笑い声が響いた。
書庫に居るのは私一人きりなので、当然、室内から聞こえたものではない。
再び聞こえた少女特有の高い笑い声に誘われるようにして窓の外に視線を向ける。
書庫の赤絨毯の上に差し込む陽の光が眩しい。思わず眇めた視界の向こうにシルビアと侍女の姿が見える。芝生に落ちた陽の中を弾むように進んでいく。楽しそうに声を上げて今にも走り出そうとしているその姿を侍女が慌てて引きとめた。
何気ない日常の、何気ない一こまだ。別段、珍しくもない。
一つ違っていたのが、その後ろを歩くのが我が家の当主であり父親であるその人だということ。
そしてその更に後ろを母が歩いている。
今日は何か特別な日だっただろうかと首を傾いで、広大な敷地を誇る庭にいくつも落ちた陽だまりの中を進んでいく妹と両親の姿を上から見下ろしていた。
2階にある書庫からは、その姿が本当によく見えた。
楽しそうだな、と純粋にそう思って、日差しを避ける為に影の中に潜んだ自分の姿を省みる。暗い色のドレスが何だか不気味に思えた。風に揺れる妹のドレスは淡い色で、陽の光を全部取り込んでいるように見える。脆弱で部屋から出られないことも多いというのに、彼女には明るい場所がよく似合っていた。

やがて両親と妹は、実に仲睦ましそうに一つのところに留まって昼食を広げ始める。
よくできた侍女が屋敷から既にテーブルを運び出していた。
窓のガラス越しに指で辿れば、そんな家族団らんさえ指で触れるような気がして何だか苦しくなる。
この書庫は私の居場所でここで頭に知識を叩き込むのが私の仕事だった。それに関しては誰も何も言わなかったし、母は非常に満足そうな顔をしていたからそれで良いのだと思っていたし、今だってその気持ちは揺るがない。
だけど、両親との交流と言えば、夕食時くらいで。父親に関してはろくに会話をした記憶さえない。
領地経営に関しての学習でどうしても父の意見が聞きたく、また教えを乞いたかったときに従僕に話しを通してもらったのだが、忙しいという一言で面会の申請は却下された。ほんの僅か、たった数分でも自由になる時間はないとのたまう。
その人がシルビアに微笑みを向けて、あろうことか庭先にカンバスを置いた。
立ち位置からして、父が絵を描き、妹がそのモデルになることが分かる。母はそれを見届ける役なのか。少し離れて二人の姿を見守っていた。
時々交わされているのであろう会話に笑い声が混じり、私の居る場所までご丁寧にもその音を届けてくるのだ。こんなにも離れているというのに、不思議なことだった。
穏やかな昼間。賑やかに流れる家族の時間。それを離れた場所から眺めている私。ふと、机の上に重ねた語学の本に視線が落ちる。
今すぐにでも本を広げて言葉を学ばなければ。そうしなければ、同世代の他の女性たちに負けてしまう。
こんな風に、両親と妹の姿を眺めている場合ではないと思う。
だけど、だけど。
どうしても剥がすことのできない視線を振り切る為に、一歩後ろへ下げると途端に力が抜けた。
体の重みを支えることができない。咄嗟に伸ばした右手が、積み上げていた本を机の上から払いのけてしまった。あ、と思ったときには、本が崩れたのと同時にインク瓶が倒れていた。
机の上に広がる紺色の液体は次から次へと机の端から零れて、床に落ちた本を容赦なく汚していく。
突然のことに混乱していた私は、思わず、机から落ちるインクを受け止めようとして手を伸ばしていた。
指先から手首を伝って真っ黒に染めていくそれが何を表していたのか分からないけれど、本当の私は、こんな風にどこもかしこも汚れているのかもしれないと思った。
何度も繰り返してきた人生で、私は私を守る為に何だってやったのだ。娼婦に落とされたときだって、私は己の肉体を差し出すことでこの命を守った。
「今日」という日を、一日でも多く重ねること。
それが私の目標であり、たったそれだけが、私の人生となった。
そう思ったらどうしようもなく泣きたくなって、だけど、どうしても泣きたくなくて強く目を閉じた。
噛んだ奥歯がぎりりと嫌な音をたてる。それでも、唇を緩めたくなかった。
少しでも力を抜けば嗚咽が漏れてしまいそうだったから。
何度も瞬きを繰り返して、涙が霧散するのを待つ。
黒く染まった両手をそのままに、服の上から心臓を抑えた。

―――――社交界デビューしたその日、会場で挨拶回りをする私の手を取っていたのは、婚約者であるソレイルだった。彼は私の首元を飾る宝石を見て、素晴らしい石だと評した。父君の、君への愛情が透けて見えると。
着飾った私を「美しい」と、全く感情の伴わない声音で賞賛した後、そう続けた。
彼は、正しかった。大きな石は私と同じ枯れ葉の色を映していて、二つとない希少価値の高いものだったから。素晴らしいというのは間違っていない。
父の愛情が透けて見える、というのもまた、間違っていなかった。

私を、さして、愛していないというのが透けて見えただろう。

だけど、そのときはそれで良かった。
だって、ソレイルが居てくれたから。この手を取って、新調したばかりの慣れない靴に倒れそうな体を支えてくれたから。
その、冷たく凍えた眼差しさえ愛しく思えた。
この人がいつか私の夫になるのだと、そう思うだけで心が満たされた。
きっと他の誰にも分からないだろう。
母親からの抱擁に戸惑いを感じるほど、他人の温もりに飢えていた私の気持ちなど。
世間的には何の価値もないはずの素人が描いた絵を、どんな宝石よりも美しいと感じていた私の気持ちなど。
愛されていないわけじゃないと、己に言い聞かせながら生きてきた私がどれほど惨めだったかなんて。
だから私は、夫となるその人を無条件で愛したのだ。


『―――――なぜ、愛されないのか、考えてみたことはある?』

いつの人生だったか、この場所でそんなことを言った人がいる。
真っ黒なローブに日の光が落ちると、それがほんの少しだけ青みを帯びていることに気付いた。
不穏な会話だというのに、その黒い眼差しはどこまでも凪いでいる。

『人を愛することに理由がないのと同じように、愛されないのにもまた、理由がないのかもしれないと思ったことはない?』

陶器を焼いたような人間味のない顔だと思うのに、哀しみを貼り付けたような顔をしているような気もした。かと言って、芝居がかっているようには見えない。ただ、世界中の全てを疑ってみているような、そんな目をしていた。
私はいつものように机に向かってペンを握っているけれど、ノートには何も書き込んでいない。
その手元に視線を落としたカラスが、また一つ笑った。

「どうして、」

落ちた疑問が、相変わらず外からの笑い声を拾う書庫に響いた。

「どうして、カラスが、」

大げさなくらいに声が震えた。どくどくと脈打つ心臓が耳の奥で激しさを増していく。

『……愛に理由がないのだとしたら、君のやっていることは無意味なのかもしれないよ』

霞んだ視界の向こうに、困ったように笑う白い顔が見える。そんな人間くさい顔をするなんて、カラスらしくないと私は笑った。カラスは、そんな私を見て『僕だって笑うさ、』と窓の外に視線を落とす。
無意味だって分かってるのよ、と呟いた私の声が聞こえなかったのか彼からの返事はなかった―――――

「なぜ、ここに、」

指先が冷えていく。記憶の中の私とカラスは、確かにこの書庫で言葉を交わしている。
だけど、今の今まで、それを思い出しもしなかった。
いや、というよりはむしろ―――――
記憶にさえなかった。

かつては、全てを忘れない人間だった。だからこそ、この恋心を捨てられないのだと思っていたのだ。
しかし、人生を重ねるごとに記憶は混濁していった。
思い出せることもあるし、それ以上に思い出せないこともある。きっと、そうだ。

―――――何か、大事なことを、忘れているのかもしれない。







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