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この作品には 〔ガールズラブ要素〕 が含まれています。

あの日、君と別れて



 雪根(ゆきね)に恋人が出来たという噂を聞いた時、私は動揺せずにいられたと思う。

 そう冬香(とうか)は考えていた。

 私たちも高校二年生だ。異性に惹かれ、好きになり、想いを告白したりされたりして付き合うことは、不自然なことじゃない。正常な発達の一過程だ。

 昇降口前に立つ冬香に、中秋の風が絡み付く。仰げば空は斜陽に燃えていた。その光景は言葉にならないものを引き連れ、襲いかかって来るように見えた。

 視線をゆっくりと、地上に下ろす。校門には見慣れた後姿がある。
 問われるでもなく、冬香は続ける。

 だから今、雪根がその恋人と並んで帰る姿を見ても、何も変わらない。思いや考えは同じだ。足が止まってしまったのは、雪根に存在を気付かれたくないという、自然な心の働きだ。思考が痺れたようになっているのも、カロリー不足のせいだ。

 冬香はある時期から、雪根と距離を置いていた。
 冬香は今日の昼食に、トマトジュースしか飲んでいない。

 そうやって、誰にともなく冬香は弁明を続ける。
 何も、何も不思議なことじゃない、と。

 しんしんと降る静けさは、彼女が慣れ親しんだ世界だった。好きな小説の一文にあるように、孤独は人間が背負うべき最低限の荷物だということも、理解しようと努めていた。一人であることは苦痛ではない。だからこそ、頑なに考え続ける。

 ――雪根に恋人が出来たところで、私の生活は何も変わらない。

 しかし、自分にそう言いかせた時。不意に胸の奥からころりと音を立て、何かが転がり落ちてきた。手にとって眺める。心は、冬香をたまらない気持にさせた。

『あのね、秘密だよ。わたし、好きな人がいるの』

 小学六年生の、修学旅行の夜のことが脳裏を過る。その夜、冬香と雪根は賑やかに話す他の女の子たちから離れた場所で、それぞれの布団に包まっていた。

 二人は上手く集団に馴染むことが出来ていなかったが、それはあまり問題ではなかった。二人だけで安心と呼べる時間や場所を、形作ることが出来ていたからだ。

 その夜も、そうだった。しかし、少しだけ異なっていた。

 清潔な旅館。夜が敷き詰められた畳張りの部屋で、とろける笑顔に熱い雪根の目を、恐れるように冬香は覗き込んでいた。

『好きな、ひと?』
『そう』

 雪根が、冬香にとって思いもよらぬ告白をしていた。

 夜に咲く、怪しくも美しい花弁のように雪根の瞼が閉じる。次いで潤った、二つの瑪瑙(めのう)のような瞳が冬香を捉えた。その光景を、冬香は繰り返し思う。

『わたし、好き。冬香ちゃんのことが好き。大好き』

 忘れてしまいたいのに、忘れられないこと。
 過ぎ去ってしまったのに、過ぎ去らないこと。

 あの日、布団から伸ばされた雪根の手を恐れから退け、気付くと五年に近い年月が過ぎていた。冬香はその一件以来、雪根から少しずつ離れた。それでも、視界の隅では雪根を追い続けていた。目が合えば、その目をそっと逸らした。

 ――いつまでもいつまでも、私はここにいる。

 鞄を持たない左手で、ほっそりとした自身の腕を抱く。零れ落ちた水が低い窪みに流れ着き、静かに留まるように。流れに任せていれば、いつか相応しい場所に辿り着けるだろうか。そう考えたが、その考えは彼女を楽にしなかった。

 ――雪根は前を向き、私は後ろを向いて歩いている。

 口触りを確かめるように雪根の名を呟くと、心は再び、冬香をたまらない気持ちにさせた。視線を遠くに移すと、雪根は恋人と歩き始めていた。


* *  *


 朝の日差しが寝不足の体を痛ませる。眠れずに天井を眺め、意識を落とし、起きて、ウトウトとして。そんなことを繰り返していると、いつしか朝になっていた。

 地球に届いたばかりの光が、冬香には疎ましく感じられた。太陽から放射された熱が真っすぐに伸び、層を刺し貫き、屈折し、季節や時間によって様々な色合いを見せる。まったく光は、無愛想な私よりも表情が豊かだ。そう冬香は思う。

 まるで、彼女の……。

 知らず、冬香の目は細められていた。いつからか癖になっていた。透明な冷気が肌を刺し、今年も冬がやってくるのだと彼女に知らせる。

 ベッドから体を起こし、いつも通りの支度を始める。母親は朝食を済ませ、居間で経済新聞を読んでいた。お互い挨拶をすることもなく、冬香は一人でパンを焼いて食べ、学校に向かう。中学生になって以来、ずっとそんな関係が続いていた。

『あなたも中学生なんだから、自分のことは自分でやりなさい』

 要職に就く母親は、仕事と女であること以外、関心を持たない人間だった。父親はいない。小学校低学年の頃に、いなくなった。優しかった記憶だけがあった。

 睡眠が不足している時に感じる、この痛みはなんと呼ばれているのだろう。

 停滞感そのもののような思考を引きずり、冬香は朝の学校の廊下を歩く。部活には所属していないが、いつも早い時間に登校していた。その時間帯が好きだった。

 常に何かが始まろうとしているが、その実、何も始まっていない。喧騒よりも静謐が目立つ。人の声よりも歩く音や、椅子が引かれる音の方が強い。光が到るところから降りて、塵を照らしている。閑寂とした、清潔な気配に満ちている。

 清潔であるということは、大切なことだ。冬香はそう考える。(やま)しい所が無いということ。暗い個所が無いということ。そんな朝の廊下で、ふと目を上げた。

 冬香のクラスは二年七組だ。廊下の端にあり、六組の前を避けて通ることが出来ない。その六組に面した廊下の窓際に、雪根を見つけた。数人のクラスメイトの女の子と、お喋りをしていた。

 冬香が小学生の時、クラスは二つだった。委員会は十、クラブは八つ。雪根が四年生の頃に転校してきてから、冬香と雪根はそのどれもが一緒だった。

 四年二組、五年一組と六年一組。図書委員にパソコンクラブ。

 それが中学生になると学校も大きくなり、クラスは七つに増えた。委員会の数も、クラブから部活へと名前が変わった部活の数も、小学生の頃より多くなる。

 中学に入ってから二人は、そのどれもが一緒ではなかった。高校でもそうだ。出来るだけ、冬香は雪根から遠ざかった。

「あっ……」

 秋の空は薄い色をしているのに、朝の光だけはこんなにも濃い。どうしてだろう。

 取り留めもなく冬香が思考を働かせていると、極彩色のフィルターが掛った編まれた光の中、雪根が冬香に気付き、顔を向けてきた。あっ、と声を漏らした。

 その視線に気付いても、冬香は今まで無視をしてきた。今まで。雪根に恋人が出来るまで。その噂を聞き、目撃するまで。それがその日、促されるように目を向けてしまう。

 雪根は驚いているようだったが、冬香も同じように驚いていた。自分を裏切ることが、意外だった。静かな、永遠のような数秒の間を置き、雪根の小さな口が動く。

「お、おはよう」
「あぁ、うん」

 音もなく通り過ぎる毎日の足音。何事もなく雪根の傍を通り過ぎる。「知り合い?」と問われ、「う、うん。小学校からのお友達なの」と雪根が背後で応じていた。

 お友達……雪根は多分、知らないだろう。冬香は膝を抱えるように、暗く思う。それが高校に入って、四度目の会話だということを。一度目は入学して直ぐ、入学式前の体育館でだった。二度目は文化祭の模擬店の係をしているとき。三度目は。

 日常に生じた小さな綻び。それに捕らわれながら教室に向かっていると、二年七組の後方扉から男子生徒が出てきた。一瞥の気配を覚えるも、目を向けることも挨拶をすることもなく、冬香は男子生徒と擦れ違う。教室に入ろうとする。

「あっ、斎藤くん」

 その間際、雪根の声に冬香は顔を振り向かせた。男子生徒が雪根に向けて軽く手を挙げ、挨拶をしていた。心の温度が冷え、見覚えのある背中にそれが昨日、雪根と肩を並べて歩いていた“彼“だと気付く。「あぁ」と冬香は思った。あぁ、と。


* * *


「成瀬、ちょっといいか」
「なに?」

 その彼に冬香が声を掛けられたのは、翌日の昼放課、昼食を食べ終わった後のことだった。

 中学生の頃から、冬香は一人でいることを覚えた。冬香のような人間は、クラスにも常に何人かいた。自分の机で時間をやり過ごす人たち。このクラスでもそうだ。町田さんという、眼鏡を掛けた女の子。棚町くんという気の弱そうな男の子。

 普段は殆ど一人でいるが、町田さんに話しかけられれば冬香は話もした。昼食を誘われれば一緒に摂る。町田さんが好きだというアニメやゲームの話を、嫌がるでもなく、かといって深く理解するでもなく、聞くともなく聞いていた。

「成瀬、篠崎と小学校の頃、仲良かったんだってな」

 成瀬とは冬香の苗字で、篠崎とは雪根の名字だ。雪根の話題が出たことに驚くも、冬香は表情に出さなかった。雪根の恋人である、斎藤司を見据える。

 司とは一年でもクラスが一緒だった。彼が冬香たちの机に現れてから、町田さんは緊張を膨らませ続けている。思考を逸らすようにその理由について冬香は考える。

 例えば司が整った顔をしていることや、クラスの男子生徒の中心に近い位置にいること。

 司は自ら騒ぐタイプではない。どちらかというと一人で行動するタイプの人間だ、そう冬香は思っていた。大人びた雰囲気もある。頭も悪くなかったと記憶していた。

 しかし、整った容貌が彼を一人にさせないのだろう。司が一人でいると、騒がしい男子生徒が集まってくる。司は表面上は面倒臭そうにしながらも、それを嫌っている様子はなかった。声を掛けられれば応え、時にふざけ合い、笑っていた。

 談笑の中、司が立ち上がれば他の男子生徒も立ち上がり、移動を始めれば他の男子生徒もついて行く。バスケットボール部で、女の子たちからも人気があった。その司が冬香と雪根の仲を尋ねてきた。小学校の頃、仲良かったんだってな、と。

「……それが、どうかしたの?」

 自分でも不機嫌に聞こえる調子で、目を逸らしながら冬香は答える。

「いや、別に、大したことじゃないんだが」

 それに司が、気遅れしたように応じた。

 冬香はある時から、ぞっとする程に怜悧な眼差しを持つ、母親と同じような眼差しを作ることを、厭わなくなった。それが人を遠ざける要因になっていることも、気にしなくなった。小学生の頃は、冬香は自分のその顔がとても嫌いだった。

「そう……あなた達、付き合ってるんだってね」
「え? あ、あぁ。なんだ、知ってたのか」

 本に目を落としながら尋ねるように、さして興味もなさそうに冬香は尋ねる。司は驚きを口調に滲ませていた。冬香は少し早口になる。

「噂で聞いただけよ」
「そうか。なぁ、今は、どうして」

 冬香は顔を上げた。今は、どうして。
 司は突然のことに、動揺したようになる。

「なに?」
「いや……悪い、何でもない」

「そう、」

 そうやって二人が小さな遣り取りをしていると、司の背後から男子生徒が笑顔を秘めて近づいて来た。「つっかっさく~ん」と、驚かせるように司にのしかかる。

 冬香はその男子生徒の名前を知らない。司が厭うように反応し、他にもよく司と一緒にいる男子が集まってちょっかいをかけ始めると、場は直ぐに騒がしくなった。

「やっぱりバスケ部は違うなぁ。ナチュラルにナンパしてるしさ」
「は? ナンパじゃねぇし、バスケ部は関係ねぇだろ。どっか行け、帰宅部」

 司は抗議の声を上げるも、それも談笑の中のよくある台詞の一つで、男子生徒たちは特有の大きな声で、楽しそうにワイワイと話をし始める。

「え~どっか行けって、そんなこと言っちゃっていいの? なら見せちゃうよ。誰も止めることの出来ない、鍛えに鍛え抜かれたオレの……帰宅をね!」

「単なる早退じゃねぇか。あぁ、もう、じゃあさっさと帰れよ」
「ちょ、聞いた? え~~っと、町田さん。司くん、ひどくない?」

 町田さんは緊張しながらも、男子生徒の遣り取りを楽しそうに聞いていた。そうやって問われれば「え、あの、ど、どうかなぁ」と恥ずかしそうに笑う。

 ふと、冬香は考える。司と付き合い始めた雪根もまた、彼の友人が織り成す喧騒を微笑ましく聞いているのだろうか……と。そう考えると、どうして隣にいるのが雪根じゃないのだろうと、そんなことを思ってしまう。

 それからも司たちはふざけ合いを続けていた。冬香は自分を持て余しながらも、先程問われた言葉が脳裏に滲み出てくるのに任せ、じっと眺めた。

『そうか。なぁ、今はどうして』

 今は、どうして。続く言葉を想像するのは難しくなかった。友人と談笑している司と、ふと視線が交錯する。冬香の中の何かを覗こうとしている、そんな目だった。

 居心地の悪さに、冬香は席を立った。


* * *


 成瀬冬香というのが、アイツの名前だ。
 司は自分の感情を整理するため、よくそうやって、一から考える癖があった。

 高校一年で同じクラスになり、大人びた眼差しと孤独、ひどく簡素な自己紹介をしていたことが印象に残っていた。司は思考の中で、冬香の姿を思い描く。

 ――しかし、どうしてそんなにアイツのことが気に掛るのか。

 細長い手足に白い肌、光に濡れているような黒髪。その髪が時に、緑に煌くのを司は見たことがあった。遠くから眺めれば、幾つかの美点を冬香から見出すことが出来る。しかし、司は容姿には目がいかない。それよりも目を惹くものがあった。

 アイツは、おかしな女だ。

 成瀬冬香は、斎藤司にとって初めて目にする種類の女性だった。中学でもそうだが、クラスであぶれてしまう人間が生まれるのは避けられない。司はそう考える。

 そういった人間は息を潜め、教室の背景になろうとする。教科書を意味もなく開いて眺めたり、次の授業の準備を殊更ゆっくりとしたり、携帯を弄ったり、寝たフリをしている。訳あって一人でいるんだと、周囲と自分に言い聞かせるように。

 元々は俺も、そっち側の人間だった。

 司は中学生になる頃に、今住んでいる地方都市に県外から引っ越してきた。中核都市から電車で三十分の、ベッドタウンだ。そのため昔の彼の姿を知る人間は殆どいないが、司は保育園の頃から肥満体形で、積極的に人と交わったり、自分から談笑したがるタイプではなかった。室内で大人しくしていることが多かった。

 その気質から、小学五年生のある時期は苛めの対象にされ、酷いあだ名で陰口を叩かれたり、数か月にわたりクラスメイトに無視された経験もあった。

 長く感じる放課の休み時間を気にし、誰にも気付かれないよう息をする。図書室に逃げ込み、同じクラスの男子生徒が騒ぎながらやって来たのに気付くと、存在を押し殺して固まる。学校で息を潜めた経験がない奴は、そんなことをしている人間がいるなんて、思いもしないだろう。遠くを眺めるように、司は思う。

 人がいなくなると、ようやく深い呼吸が出来た。孤独は人がいる中で、人から外れたところにあった。誰も人がいなければ、孤独になんてなることはないのかもしれない。当時の語彙とは違うが、そんなことを漠然と考えたりもしていた。

 それが親の転勤で中学から学校を移ることが決まり、司は変わった。変わらなくてはと思い、ダイエットを始めた。短い春休み。引っ越し後が済むと毎日近くの総合体育館に通った。一人には慣れていたし、それを好んでもいた。水泳をし、陽が暮れるまで体を動かす。中学が始まると新しい環境で部活に熱心になった。

 司の父親は、仕事は出来るがパッとした外見をしていなかった。反面、母親は一度見たら忘れられない印象を残す、美しい人だった。その特徴を司も受け継いでいた。夏には痩せ、今の司に近い司となった。急にちやほやされ、いい気にもなった。

 しかし、思えばその時からかもしれない。折に触れ、司はそう考える。小学生の時とは別の意味で、俺が孤独について考えるようになったのは、と。

 その考えは、賑やかしさの中にあればある程に強く、濃くなっていった。そんな司から見ると、高校で初めて出会った冬香は奇妙な人間だった。そして、孤独について知っているように思える、最初の人間でもあった。

 アイツは息を潜めるでもなく、そのままのアイツとして教室の中にいる。クラスの中心から七メートルほど離れた場所で、そっと佇んでいる。

 それが司から見た、冬香の姿だった。不思議な女だと思った。どうしてあぁも毅然といられるのか。ひょっとしたらアイツは、世界が孤独であることを知っているのか。冬香の根底には暗く、それでいて上品で凄烈なものが流れている。そんな気さえしていた。教室の中、冬香を盗み見ながら考える。

 どんな影が、アイツにあるんだ……。

 そうやって自分の影を冬香の影に重ね、じっと眺めていたら……いつしか冬香のことしか見えなくなっていた。学校では意識の何処かで常に冬香を探している自分に気付き、司は笑ってしまう。そこで自覚をした。

 あぁ、そうか、俺は成瀬のことが好きなんだ。

 それなのに雪根に告白されると、司はあっさりと返事をしてしまった。何故だろう。自分でもはっきりと分からない。司は言い訳じみた思いで考える。

 決して派手な訳ではないが、篠崎が男子から人気があるのを知っていたからだろうか。あんなに必死になって、想いを告白されたからだろうか。それとも……。

 司は目を細める。

 篠崎が小中と成瀬と同じ学校だと聞き、付き合いを通じてアイツのことを知ることが出来るかもしれないと……そう、考えたからだろうか。

 そういう考えがあればこそ、昨日の朝は驚いた。教室から廊下に出る間際、冬香と雪根が挨拶を交わしている光景を盗み見て、不思議な心臓の高鳴りを覚えていた。

 雪根は懸命に声をかけ、それに冬香は何でもないように応じる。冬香は司と擦れ違っても一瞥すら寄越さないが、司の目には不思議と冬香が苦しそうに見えた。

「篠崎、成瀬と仲良かったのか? 小学校から一緒だったって誰かに聞いたけど」
「え? 成瀬って、冬香ちゃんのこと、だよね」

 挨拶をして尋ねると、雪根はキョドキョドし始めた。司は苦々しく思う。篠崎はいつもそうだ。自信を持っていい容姿をしているのに、誰よりも自信がなさそうに振舞う。だが司が感じるその仄かな苦みも、雪根の返答に直ぐに紛れてしまう。

「う、うん。わたし、小学四年生の頃に引っ越してきて。それで小学校にあまり馴染めなかったんだけど。冬香ちゃんが傍にいてくれて。いつも、一緒にいて。でも中学になってからクラスも離れちゃって、それで少し疎遠になってるっていうか」

 成瀬が傍に? その返答は司の中では意外なものだった。

 アイツは誰にも手を取られることなく、また誰の手を取ることもなく、一人で歩き、一人で生きる。冬香に対し、そんな印象を司は持っていた。

 しかし、思えばそんなことはある訳がなかったのだ。司は考え直す。アイツにも小学生の時期があり、その頃はまた違ったアイツであったんだろうと。

 でも……じゃあ、いつだ。いつから成瀬は今の成瀬になったんだ?

「成瀬、ちょっといいか」

 些細な会話の糸口を見つけた司は今日、そうやって冬香に話しかけていた。冬香はどんな感情も瞳に灯すことなく、無機質に似た光を両眼に宿し、司を見た。

「なに?」

 その反応に、司が冬香にとって何でもない人間だということが司自身によって暴かれる。臆しそうになったが、そんなことは分かってもいた。いや、だからこそ俺は成瀬に惹かれているんだ。打ちひしがれながらも、苦笑するように司は思う。

 それこそアイツは、これが六度目の会話になるだなんて、知りもしないだろう。なぁ成瀬、お前、人を好きになったことあるのか?

 司が雪根との仲を尋ねると、「それがどうかしたの」と素気なく返された。ただ二人が付き合っていることを知っており、そのことに冬香が珍しく言及してきた。

 あぁ、とか、うん、とか、そう、としか言葉を返さない成瀬が、どういう風の吹き回しだろう。

 それから本題ともいうべき尋ねたいことがあったが、冬香の織り成す空気の中で言葉を萎ませているとクラスメイトに忍び寄られ、結局、果たさずに終わった。

「つっかっさく~ん」

 気軽に絡んでくるクラスメイトを、いい奴らだと司は思っていた。だが彼らが必要としているのは司ではなく、“司のような奴”だ、ということも分かっていた。

 お前ら、俺が太ってダサくなったら、驚くほど簡単に俺を切るんだろ?

 そういうことを考えながら対応していると、ふと、もどかしさを瞳に溜めているような冬香の目を司は見つける。目が合うと逸れ、冬香は席を立った。

 不思議なことが多い日だった。


* * *


 次に冬香が雪根と出会ったのは、週明け月曜の放課後のことだった。多忙を極める母親との二人暮らし。マンションとなる自宅が冬香はあまり好きではない。だから直ぐに帰ることはせず、一日の復習と明日の予習を図書室で毎日行っていた。

 それを終えると帰り支度をし、潮のように寄せる黄昏が浸し始めた無人の廊下を歩む。陰鬱な階段を下り、昇降口へと向かった。自分のクラスの下駄箱へと歩む途中、誰かが気落ちしたような気配を滲ませ、奇妙なことをしているのに気付いた。

「なに……しているの?」

 耳に煩い程の静寂が、昇降口には満ちていた。或いは冬香が緊張しているのか。

 別のクラスの下駄箱に、華奢で無防備な背中を晒し、佇んでいる女の子がいた。突然掛けられた、聞き覚えのある声に困惑したのだろう。ばつの悪さを隠すように笑いながら雪根が振り向く。校舎の外では燃え盛る色が大気の中を駆け抜けていた。

「冬香……ちゃん。あ、あはは。最近、よく会うね」
「雪根」

 雪根は何かに困っている様子だった。そして雪根の躊躇いと羞恥の理由は、彼女が隠すように手にしている物にあった。

「靴を持って、何をしているの?」

 冬香が真っすぐ尋ねると、「あっ」と、雪根は困ったように息を詰める。雪根が手に持つ濡れた靴から滴がポタポタと落ち、足元の簀子に染みをつけていた。

「あ……え、えっと」

 下を向き、雪根は質問に窮する。冬香の目は細まった。察するに、どうしてか濡れてしまった靴をハンカチで拭き、水分を除こうとしているらしかった。

「靴、濡れてるの?」
「う……うん、そう、みたい」

 今日、雨は降っていない。雪根は園芸部でも水泳部でもない。ホースで誤って靴を濡らすことは考えられなかった。そのことを冬香は知っていた。

「どうし」
「最近、ちょっと、こういうこと、あって」

 どうして、と冬香が問う前に、雪根が焦るように早口で言う。

「あの、えっと、わたし、冬香ちゃんと同じクラスの斎藤くんと付き合い始めたの。それで、そのことを、あまりよくない風に思う人がいるみたいで。それで……」

 景色や言葉の意味が塗り替わるように、すっと冬香の心は冷えた。

 そう……それで、あなたが困っているのに、その斎藤君は今、どこにいるの? とは聞かなかった。斎藤君の部活が終わるのを待って一緒に帰ったりしているから、目立って、そんな悪戯をされてしまうんじゃないの? とは、言わなかった。

 その代わり、

「そういう人は、どこにでもいる」

 そう、冬香は雪根に言っていた。

「だから、気をつけなくちゃダメよ」と。
「え……?」

 そんな言葉を掛けられるとは、疎遠になっていた冬香が言うとは、思ってもいなかったのだろう。雪根は驚くように目を僅かに瞠った。そしてその後、「う、うん、そうだね」と苦く笑う。何の解決にもなっていないと知りながら、「き、気をつけるよ」と、泣きそうな、冬香にとっては懐かしく映る顔で応えた。

 いつでも雪根はそうやって、冬香の心を掴む。
 優しく、強く、否応なく。だから、

「今日のところは」
「え?」

 そうやって注意した後に、冬香はゆっくりと言う。

「私の靴、貸してあげる。もう少し勉強してから帰るし、保健室の先生に相談すれば、乾かすのを手伝ってくれると思う。ひょっとしたら予備があるかもしれないし」

 述べてから考える。新品でない靴を貸すなど、奇妙な行為だろうか。雪根は突然の提案に驚きながらも、困り、迷っている様子だった。微かな不安に冬香は包まれる。むしろ保健室にあるかもしれない予備こそを雪根が履いて帰るべきだろうか。

 ただ、冬香は知っていた。司と待ち合わせている雪根には時間がなく、臆病だから先に帰ってとも伝えられず、司に現状を説明することも、出来ないだろうと。

「で、でも、冬香ちゃんに、悪いよ」
「いいの」

 冬香は静かな心で静かな動作をする。首をそっと横に振った。

「冬香ちゃん」
「ほら、斎藤君、待ってるんじゃない?」

 それから冬香は「少し待っていて」と言うと、自分の靴を持ってきた。小学生の頃は同じサイズだった。今もそれ程サイズは離れていないだろう。事実そうだった。

 雪根の逡巡は長かったが、結局おずおずと受け取った。「あ、ありがとう」と言い、冬香の靴に自分の足を収める。サイズの問題を聞くと「大丈夫そう」と応えた。

「そう、ならよかった」

 口の端に微笑を浮かべている自分に気付き、笑顔なんていつ以来だろうと、冬香は遣る瀬無さに似た無力感を味わう。その笑顔に雪根は数瞬、言葉を無くしていた。

「あっ、え、えっと」

 だが何かを思い出したかのように視線を彷徨わせ、言葉を口にし掛ける。やがて意を決して口角を引き絞ると、照れて笑った。眩しい笑顔だった。人の喜びに似た。

「あの、冬香ちゃん。本当に、本当に、ありがとう」

 そして頭を下げると、走っていった。躊躇う素振りはあったが振り返ることはなく、その後姿を見送りながら冬香は思ってしまう。いつかのように、あぁ、と。

 恐ろしさに拒んでから。その想いに蓋をするように遠ざけてから。いざ奪われてしまってから。焦って取り戻そうとするなんて。

 自分が組み替えられていくのが、冬香には怖かった。何も欲していない時は強くいられた。動揺することも苦しくなることも少しはあったが、今程ではなかった。

 残された、濡れた雪根の靴を手に持ち、そっと抱きしめる。

 冬香は冬香であることが嫌で、それでも、冬香には冬香が必要であるということ。そのことを、無限に悲しくも不自由にも思った。


 * * *


 バスケ部の練習を終え、汗臭いシャツを片づける。待ち合わせの校門近くの時計台に司が行くと、雪根は珍しく時間に遅れていた。

 練習の時は他の女子と見学に来てた筈なのに、どうしたんだ?

 カノジョを待っていることをバスケ部の連中にからかわれながら司が訝しんでいると、雪根が昇降口の方から走って来た。

「ご、ごめんなさい。おくれ、ちゃって」
「いや、そんなに待ってないし、大丈夫だけど。どうしたんだ、何かあったのか?」

 理由を尋ねても篠崎は本当のことは教えてくれないだろう。そう司は思っていた。案の定、「ちょ、ちょっと友達と話してたら、遅れちゃって」と、誤魔化すような笑顔で雪根が応える。司は時々思う。花みたいに、いつも笑わなくてもいいのに、と。

「友達って。一緒にバスケの見学に来てたやつらか?」
「あ、ううん。皆は一足先に帰っちゃったから」

「あぁ、それじゃ別の」
「あ、あの、冬香ちゃん。たまたま昇降口で会って。図書室に勉強に戻るみたいなんだけど、散歩してたらしくて」

 雪根と付き合い始めてから、司の日常に冬香の名前が増えた。「成瀬が……」と、視線を昇降口に移す。何故だろう、そんな訳ないのに。アイツがそこにいて、じっとコチラを伺っているんじゃないか。そんな不思議な感触を司は覚えてしまう。

「そういえば先週、俺、成瀬に話しかけた」
「え? そ、そうなの。なんて?」

「いや、この間の話だよ。成瀬と篠崎、小学生の頃は仲良かったんだなって」

 昇降口から視線を転じると、雪根は身じろぎするように肩を硬直させた。だがそれも一瞬のことで、「そ、そうなんだ」といつもの見慣れた笑顔で対応してみせた。

「冬香ちゃん、なんて、言ってた?」
「いや……別に、“それがどうかしたの”って」

「あ、あはは。冬香ちゃんらしい、かも」

 その伺うような雪根のぎこちない反応を見て、司は考えを深くする。今は疎遠になっているという二人の関係に対し、やはり何かあったのだろうかと考えた。

 小学生から中学生になる過程で、クラスが離れたり友人関係が変わるなどして、疎遠になることもあるだろう。しかし二人の間にはそれだけじゃない、別の“何か“が挟まれているように思えてしまった。昔の経験から、司は人間関係に敏感だった。

 あるいはその“何か”が、アイツを一人にしたのだろうか。そして篠崎と付き合っていれば、いつかその、“何か”についても知ることが出来るだろうか。

 そんな考えを浮かべながら、司は雪根と二人、駅に向けて歩き出す。その途中、いつものように雪根は懸命に司に話題を振った。それに応じながらふと視線を足元に落とすと、雪根が冬香の靴を履いていることに気付いた。透き通って、思う。

 分からないこと、分かり切れないことが、二人と俺の間には、ある。


* * *


 二学期の期末テストが始まり、教室はいつもの緊張と怠惰と殊更の明るさを装った、奇妙な空気感に包まれ出した。と、冬香は思った。雨に覆われた週でもあった。冬香は雨が嫌いではない。雨は隠したいことを許してくれる優しさがあると思う。

 初日、二日目と問題なく進む。学力は力だ。冬香はそう考える。無力な自分が掴み取れる、数少ない力だと。だから冬香は勉強に時間を割くことを惜しまなかった。

 この力の獲得を続ければ、いつか勉強は、私を自由で幸福な人間にしてくれるだろうか。力があれば、色々なしがらみから、私を……。

「あ、冬香ちゃん」

 テスト期間中は学校も短い。帰りのホームルームを終えて図書室に向かおうとしたら、廊下で待っていたらしい雪根に声を掛けられる。

 この二カ月、冬香は雪根と会話することが多くなった。

 靴の件以降も、雪根の日常には小さな嫌がらせがあった。登校したら上履きが消えていたり、移動教室の間に机が荒らされていたり、傘を折られたりしていた。

 冬香は困っている雪根を見つけると、自分の上履きを貸し、保健室に訪れて予備を借りた。可愛い傘を折られて泣きそうになっている姿を帰り際に見つければ、自分の傘を渡し、職員室で傘を貰って帰った。雪根は今も、司と付き合っている。

「あの、よかったら一緒に勉強しない?」
「勉強?」 

 その雪根に問われ、思わず尋ね返す。
 スイートピーのような唇を動かし、雪根が応じた。

「うん。斎藤くんと図書室でしようって約束してて。よかったら冬香ちゃんも」
「あぁ」

 司とも会話する機会が増えた。一度雪根に強く誘われ、バスケット部のミニゲームの見学に行ったこともある。身長が百七十センチ後半の司も、バスケット部の集団の中にいると普通の背丈に見えた。司はコートの中を機敏に動き、的確な指示を出してパスを回し、所属するチームを勝利に導いていた。雪根は喜んでいた。

 行く、とも行かないとも冬香が答えあぐねていると、司が教室から出てきた。二人を見つけ、声を掛けてくる。

「あれ? 成瀬、どうしたんだ篠崎と」

 一瞥をして冬香が黙していると、「あ、あの、冬香ちゃんも一緒に勉強どうかなって」と、雪根がおずおずと答えた。「あぁ、」と司が声を出す。

「でも成瀬の迷惑になるんじゃないのか? 一人の方がはかどるタイプだろ」

 最近、司と言葉を幾つか交わすようになり、思うことがあった。
 この人は、どうして私のことを知っているのだろう、と。

 少しだけ司に興味を持った。確かに冬香にとって、勉強は一人の方がはかどる。人に教えることも、教えられることも冬香は下手だ。効率が悪い。それなのに、

「せっかくだし、一緒に行く」

 気付くと何故か、司の視界から雪根を隠すように立ち、そう答えていた。司は意外そうに眉を上げ、雪根も冬香の背後で驚いていた。「そ、それじゃ、席が空いている内に早く行こ」と、雪根に先導され、三人は図書室に向かった。

 小学生の頃のようだ、と、冬香は思った。雪根と並び、図書室に向かうなんて。

 雪根にテストの調子を尋ねられ、今のところ問題はないと応えた。小さな会話が続く。司は二人の後ろを黙ってついて来た。雪根が「あっ、二人で話しちゃってごめんね」と振り返って言うと、「気にするなよ。俺は俺で楽しんでるし」と応じた。

 雨もあってか、図書室にそれほど人はいなかった。窓際の一角に三人で座れる場所があり、雪根と司がごく自然な調子で並んで座る。冬香は雪根の前の椅子に着く。

 三人とも真面目だった。雪根と司、二人が時折交わす密やかな声を聞きながら、冬香はノートに向かい、黙々とペンを動かす。

「なぁ篠崎、ここの」
「えっと、確かプリントにね」

 ざり、ざり、と紙ヤスリに心を擦られる音が冬香の中から聞こえてきた。顔を上げると雪根と目が合う時があった。雪根が笑う。ざり、ざり。冬香は静かに思う。

 あなたの笑顔、笑っているというより、嬉しそう。

 三時間もすると人が殆どいなくなる。冬香がお手洗いに立つと雪根もついて来た。横に並び、えへへ、と、嬉しそうに照れたように雪根が笑う。

「最近、冬香ちゃんとまた仲良くなれて嬉しい」
「え?」

 そして図書室を出るなり、そんなことを言ってくる。冬香は雪根の横顔を伺い、足を止めた。立ち止まった雪根は迷うような素振りの中、何かを言おうとしていた。

 冬香はその何かを恐れていた。沈黙を唇に読む。雪根と二人きりになる際、常に冬香に寄り添う恐れでもあった。いつそのことを口に出されるのか。或いは触れずにそっとしておくのか。雪根の横顔は、静かな決意を周囲に漏らしている。

「あ、あのね。あのね、冬香ちゃん」

 沈黙を破り、雪根が申し訳なさそうな顔を向け、呼び掛けてくる。冬香は泣くように無防備になった。小学生の頃から雪根は、「あのね、あのね」と言う。何かを打ち明ける時は、いつも。それは冬香だけが知っている、雪根の癖だった。

『あのね、あのね、冬香ちゃん』

 どうしたの、雪根? また誰かに苛められた? 何か困ったことがあった? 女の子たちが、また、悪口を言っていたの? 大丈夫、大丈夫よ。全部、私が……。

「ずっと言わなくちゃって、思ってたんだけど」

 過去に潜って黙している間に、雪根が言葉を紡ぐ。現在という水面に冬香が浮上し、あっ、と思った時には遅かった。

「小学生の、修学旅行の夜。わたし、変なこと言って困らせて、ごめんなさい。あの……せいだよね。冬香ちゃんがわたしのこと、避けるようになったのって」

 瞬間、無限の速度を伴う何かが冬香の中を通過した。

「」

 言葉が出ない。それはやはり冬香が恐れていたことだった。風が吹き抜けたかのように、長い髪を浚う音を確かに聞いたかのように、心は何処までも静寂に染まる。

 修学旅行の、時。変な、こと。変なこととは、何だ。
 冬香は痛むように考える。

 女の子が女の子に好きと言うこと。親愛の情から好きと言うこと。それは別に、変じゃない。まだ性にも情緒にも未熟な間は、きっと、そういう例はある。

 本当に変なことは、それを……。

『あのね、秘密だよ』

 白く拡張していく意識の中、言葉の残響が過去の風景を手繰り寄せ、冬香の脳裏をめくる。淡色の影絵になってしまったかのように、冬香の輪郭が希薄になった。

『わたし、好きな人がいるの』

 人のいない廊下は、まったく、世界を二人だけのように静寂にした。外では今も、別に降る必要もない細い雨が、降り続けているのだろう。そう思いながら、冬香は意を決して応える必要があった。別に、困ってなどいないと。謝る必要はないと。

「…………変な、こと?」

 しかし数秒の沈黙の後、ようやくその場に押し出されたのは、涙するような冬香の声だった。或いは愉快で笑おうとするも失敗したような、潰れた声だった。

 雪根が長い睫を瞬かせる。「え?」と、怪訝そうな顔を作っていた。

「あ……」

 失敗してしまった。そんな響きに似た声が、冬香の口から漏れる。違う、ここは笑ってすませるところだ。そう瞬時に悔悟する。そんなことあったわね、と。別に気にしてないわ、と。

 ――それ、なのに……。

 冬香が混乱している間に、雪根は疑問から立ち直っていた。変なこと、の意味を自分の中で解釈し直し、冬香に改めて言う。謝罪する。

「う、うん。変な、こと。あの後から冬香ちゃん、わたしのこと気持ち悪く思って……それで、避けたんじゃないかなって、思って。そのこと、ずっと謝りたくて」

 その言葉を耳にし、冬香はじっと、痛みに耐えるように顔を俯かせた。

 秘密にしたいこと、隠しておきたいこと。それらは全て、完全に隠すことなんて出来ない。沈み込んで行きそうな不安定な足場に立ち、冬香はそう考える。だってそれは……自覚した瞬間、自分自身にばれているのだから。

 痛い、痛い、痛いの。

 心と感情。その二つが密接に絡み合うどこか奥深い所で、何かが死に切れずに残っていた。それは決して死んでしまおうとせず、締め付ける憂愁となって、その存在を冬香に知らせる。脈打つ悲しい動悸の音に、胸の哀れな響きに溺れそうになる。

 全てを嘘に出来たら、どれだけいいだろう。

『好きな、ひと?』
『そう。わたし、好き。冬香ちゃんのことが好き。大好き』

 じっと雪根を眺める。舌に含めば溶けて消えそうに、白く甘い、雪根を。森の奥、残雪の輝きにも似た、輝かしいものを放つ、雪根を。

 ――どうしてだろう。どうして人は間違うのだろう。

 何度も冬香は自問する。取り戻せない過去を前に、人は、どうあるべきなのか。

 震えるように押し黙る中、雨はどれだけ降っても記憶を癒すことなく、気配という音だけを世界に注ぎ続ける。再び冬香が俯き、どれだけの時間が過ぎただろう。

「変……なの?」
「え?」

「本当に、やっぱり、そうなの?」

 前髪に表情を隠していた冬香が、顔を上げる。泣きたい心地に笑い、尋ねていた。異常なのか。おかしいのか。離れているのか。女なのに、女なのに。

「冬香、ちゃん?」

 怖いとも悲しいともいいようない思いに胸が塞がり、それでも雪根が必要で。

 気付けば冬香は、自身を律している手綱を離していた。困惑している雪根の手を取る。そのまま歩き始めた。雪根は驚きながらも、引っ張られる形で着いて来る。

「ど、どうしたの? 何所に行くの?」

 その問いかけを無視した。

 自分が何所に行けばいいのか、分からないのと。分かっている人なんているのかと。そう胸中で答えながら、図書館脇の階段を上る。そのまま足早に、二つの踊り場を抜けた。施錠されている屋上へと至る扉の前に、雪根を連れて立ち止まる。

「ど、どうしたの、冬香ちゃ」

 横に並んだ雪根の手を離す。顔を向けると、雪根は目に怯えを浮かばせていた。迷いを断ち切るよう、冬香は雪根の言葉を遮る。

「私は、変なこととは、思わない」
「え?」

 それから雪根に近づくと、その唇に、口を押し付けていた。


* * *


 篠崎が成瀬をテスト勉強に誘ったと聞いた時、まさか成瀬が来るとは思っていなかった。だがそれは、司にとっていい意味での驚きだった。

 最近、篠崎の口からよくアイツの名前が出る。

 理由は良く分からないが、靴をプレゼントしただとか、一緒にミニゲームの見学に来たいだとか、果てはデートの最中、アイツに渡すのだと言って傘を買っていた。

「また、仲良くなったんだな」

 そう司が尋ねると、一拍置いてから、「うん」と雪根は答えた。無くしたと思っていた宝物を見つけた時のような、そんな、思わず頬が緩む笑顔だった。

 その純真な笑顔を見ながら、司は考える。
 篠崎を、成瀬以上に好きになれたら、どれだけいいだろうかと。

 付き合い始めてまだ二か月だが、雪根とは分かれることになるだろうという、強い予感が司にはあった。司は雪根を通じ、冬香のことを考えてしまう。

 冬香の小学生の頃の話や、好きな食べ物の話、好きだった本などの話を聞くと、嬉しいと感じてしまう。

 三人で勉強している今も、司は冬香の気配ばかりを追っていた。ノートから顔を上げれば、その冬香はついさっき、雪根と揃って席を立ったばかりだ。

 訳もなく、冬香の後ろ姿が見たいと司は思った。ここに来る途中ずっと眺めていたその姿を、寂しさを絡めていそうな長い黒髪を、後ろから眺めたいと。

 その寂しさを、()いてやることが出来るだろうか。(くしけず)るような、雨に似た。

 嘆息する心地で、それが難しいだろうとは考える。笑みが零れた。確かに今は難しいだろう。でも、これからのことは分からない。ゆっくり進めばいい、そうだろ? 

 あれ? なんだ……?

 不意に司の中で、冬香に向ける言葉にならない渦のようなものが浮かび上がる。何気なく浮かべた想いは、司の中で全く新しい響きを伴っていた。

 ――その寂しさを、()いてやることが出来るだろうか。

 その思考をじっと眺めながら、人気(ひとけ)がなくなった図書室を見渡す。苦笑し、二人の不在に耐えかねるよう席を立つ。気分転換に手洗いに向かおうと思った。

 それが図書室の扉を開け、視界の端で雪根の後姿を捉えたことにより、足の向きが変わった。雪根が誰かに引っ張られるように、図書館脇の階段奥へと消えて行った。その先は施錠されている屋上に繋がっている筈で、滅多に使われることはない。

 どうしたんだ? と思うのは僅かの間だけだった。雪根が誰に引っ張られて行ったのかを考え、急激に司の心は静かになった。新たな疑問に司は捕まる。

 成瀬と……だよな。

 気付けば息を潜め、後を追うように歩を進ませていた。その行動に驚くと共に、何処かで納得してもいた。依然として、二人の関係性が司には分からない。

 秘密とも言い変えることが出来そうな、二人の間に横たわる何か。伺い知ることの出来ない何か。その端緒がこの先にあるのではないか、そう思えて仕方なかった。

 階上からは二つの急くような、ばらばらの足音が響いて来る。足音を殺し、二人の後を司は追う。一つ目の踊り場から先を伺う。いない。

 雨の校舎は陰鬱を溜めこむよう、司の目に黒く映った。音に気を配りながら階段を上る。二人の足音は消え、静寂の中、冬香の思い詰めた顔が司の脳裏を過った。

 成瀬は一人でいる時は強いが、篠崎といると、弱い。

 司の目に、冬香はいつしかそう映るようになっていた。楽しそうなのに怯えていて、嬉しそうなのに何処か痛そうで。あれ……それって何かに似ているなと、今更ながらに思う。

 ぼそぼそと、冬香の声が聞こえた。まったく自分は何をしているんだと呆れながら、司は二つ目の踊り場に到る。屋上前に並んで佇む二人を、盗み見た。

 ――あぁ、そうか。成瀬の篠崎に向けるそれは、まるで、恋をしているようだと……。

 そう考えた直後、二人の間に動きがあった。

「え?」

 零れそうになるその声を、寸前のところで留める。光景は、司の存在を否応ない力で抑えつけた。一刹那(ひとせつな)が刻まれる内、体も思考も、時の流れでさえ滞ってしまったかのような錯覚に陥る。飛び込んできた光景に、目を疑い続けた。

 おい、成瀬。お、お前……何をして……。

 何が行われているのか、意味を推し量ることが司には出来ずにいた。じゃれあっているとか、遊びだとか、そういった気配は微塵も感じられない。分からない。分からない。分からない。上げそうになる声を抑え、もう一度目を凝らして見つめる。

 冬香が雪根に、キスをしていた。


* * *


 押し付けていたものをゆっくり離す。ロクシタンのリップクリームの味。二つの可憐な動物のような双眸が驚きを宿し、純粋な真雪のようにちらちら輝いていた。

「と、冬香、ちゃん?」

 怯えるというよりも、混乱のただ中にいるような顔で、雪根が冬香を見ていた。いつか雪根が言ったように、冬香は言う。

「内緒の、話よ」
「え?」

「私、好きな人がいるの」

 それから硬直している雪根の左手を取る。甲にキスをした。

「え、な、なに?」

 中指。人差し指。薬指。小指。再び手の甲。ハンドクリームの良い香りがした。続けざまに何度も何度も冬香は唇をつける。ずっとずっと、こうしたかったと。

「あ……」

 次第に音は粘着を孕み始める。声を漏らし始めた雪根の中指を、冬香は舌先で上げる。熱い吐息を当てた。口に含むと、仄かな鉛筆の匂いに似た味がした。

「と、とうか、ちゃん?」

 陶酔の中に確かな困惑を浮かべ、雪根が静止を促すように名前を呼ぶ。絞られた眉の下で潤む雪根の瞳は、宝石のように輝いていた。

「少し、黙って」

 だが冬香はそれに構わなかった。波が寄せては返すよう、雪根の指を口の中で行ったり来たりさせる。口で磨く。時に甘く噛んで慈しむ。絡ませれば舌は官能に喜び、悦びが体の中を温かな波となって先々まで打つ。様々な神経が集まった指は冬香が口内で戯れれば戯れる程に雪根を恍惚とさせ、その反応が冬香の興奮を煽る。

「いや……だめ」
「なにが、だめなの?」

 嬌声を上げ始めた雪根の指から口を離し、笑いながら冬香は述べた。今度は自分の右手、その人差し指を雪根の口に近付ける。温かい口内に差し込んだ。

「ん……」
「雪根の口、温かい」

 雪根は歯で拒まなかった。薄く微笑み、冬香は指を前後に動かす。雪根は目を瞑りながら声を漏らし、羞恥の赤い頬を晒す。冬香は微笑みの角度を深くした。唾液で濡れた冬香の指の根がてらてらと光る。生命の全てのような光だった。

「素敵よ、雪根」

 雪根が強く迫られたら断れないのを、冬香は知っている。泣きそうな顔で為すがままになっている雪根の口から、指を抜いた。左手で雪根の体を壁に押し付け、また、キスをした。舌を入れる。鍵盤のように並ぶ歯を、歯茎ごと舐めていく。

「だ、だめ……だよ」
「知ってる」

「と、とうかちゃ」

 喘ぐような呼吸の間を、唇で塞ぐ。

 激情にも似た恍惚感は、絶えず火花のように閃いては消える。温かい泥のような官能の底に、このまま雪根を連れていったらどうなるだろう。冬香はそう考えた。

 それぞれの唾液に濡れた手を、ゆっくりと絡ませる。場所を変え、嫌がる彼女を抑えつけ、首筋にキスをし、濡れた目と目を合わせ。それで……。

 ――そうやって、おかしくなってしまいたい。

 冬香は願う。健全さや倫理から遠く離れ、気の弱い彼女に迫り続け、正常な判断をなくさせてしまいたい。だけど……。

 瞬間、冬香の心はすっと透明になる。雪根の唇から口を離す。熱い吐息が雪根から漏れ、その鼻先で、冬香は静かな眼差しになって言う。

「あの日、寂しい悲しい思いをさせてしまって、ごめんなさい」

 驚きの連続の中、雪根の思考は痺れたようになっていた。“あの日”という言葉の意味が直ぐには開かれず、「え?」と呆けるような疑問の声を漏らした。

「でもね。私、とても怖かったの。雪根に好きと、そう……言われて」
「こわ、かった?」

 次第に雪根の思考の焦点が合い、目にも正常な色が戻ってくる。なじりも突き飛ばしも逃げもせず、怯えと物憂さが混ざり合った瞳で、雪根は冬香の寂しさを見た。

「えぇ……私は私が、怖かったの」

 それから冬香は、懐かしい話をした。二人が小学生の頃、修学旅行に出る少し前のことだ。女の子だけが集められた授業で、当時の女性担任は性の話をした。

 その中で担任が、正しいことをよく知っている大人が生徒に尋ねる。皆に好きな人はいますか。そう問われた際、真っ先に頭に思い描く人はいますか、と。

 冬香の頭に真っ先に浮かんだのは、雪根、だった。

 少し前から、これはなんだろうと思っていた。ごく自然に、冬香は冬香として雪根が好きなのだ。優しい雪根。冬香を頼って来る雪根。学校では大人しいが、自分の家だとはしゃいで冬香を楽しませる雪根。何処に行くにも一緒な、大切な彼女。

 ある時から冬香は、雪根を見ると、静かな胸の鼓動を覚える自分を発見した。宝物のように、愛おしい。雪根の好きなところも嫌いなところも、沢山言える。

 でもそれが恋だとは、思っていなかった。

 それから先生はゆっくりと説く。皆が持っているのは、恋の種だと。それを成長させると、立派な恋になるのだと。女教師の話は、冬香が雪根に恋をしていることを否応なく理解させた。だがその後で、こうも言った。

 思春期に異性に惹かれるようになることは、“正常な発達“だ、と。

 それは全然、おかしなことではない。男の子を好きになるのは恥ずかしいことじゃない。それが正しい在り方だと。

 教室に籠った熱の中、途端に冬香の心は、さぁと潮が引くように静かになる。

 ――正常な発達。正しい、在り方。

 雪根のことが好きかもしれないと自覚し始めてから、悩むことがあった。果たして女の子が女の子を好きになってもいいのかと。不安の中にいた冬香に、先生が常識であるかのように告げる。異性に惹かれるようになることは“正常な発達“だ、と。

 結果、その一言は冬香には深い混乱をもたらした。

 男の子を好きになることが“正常な発達”で、それが正しい在り方だとするのなら……。私は、なんなんだ。ちっとも男の子を好きだと思えない。雪根が好き。雪根が好き。心が裂けるように、冬香の心は叫んでいた。私は、雪根が、好き。

 ――しかし、なら、女の子が好きな私は、異常なのか。おかしいのか。

 授業後、冬香は一人、暗い面持ちとなっていた。先生に尋ねたかった。誰かに聞いてみたかった。でもこんなことを相談したら、噂が広がるかもしれない。

「そんな時に、あなたが、私のこと、好きだなんて言うから」

 泣かないと決めていた。しかし声が震えることは、どうしようも出来ない。雪根は声を無くし、瞳の中で光を静かに揺蕩(たゆた)わせていた。

 修学旅行の夜、雪根に好きと言われて嬉しかった。それは間違うことのない、冬香の本心だった。雪根と同じ思いであることが知れて、とても嬉しかった。

 嬉しいからこそ、怖く、なった。

 ――雪根の好きは、私の好きと、同じなの?

 布団の中、震える体に雪根の手が迫って来る。この手を取ったらどうなる? 手を繋げばきっと幸せで。私は温かさを知ることが出来るかもしれない。そう考えた。

 だけど……。

 ――でも、ねぇ、雪根。私はね、あなたのことが「好き」なの。

 幼い冬香の目に、水の膜が張られる。涙が浮かび上がった。

 苦しいくらいに好きなの。ここにこうしていてもいいって、誰に言われた訳でもないのに、私はあなたの隣に、私の居場所を見つけたの。

 言葉になること、ならないこと。思いは次々と、冬香の中から溢れて来る。

 知ってる? あなたのことを思うと心臓がドキドキして、眠れないこともあって。だけど夢に出て来ると幸せで、毎日の中であなたの笑顔を思い返して、あなたの名前を見るだけで、嬉しくて、そうやって……。

 その温かな感慨の中、冷たい水によく似た考えが、冬香をひったりと包む。

 ――だけどそれは、異常、なんだ。

 気付くと雪根の手を、冬香は払っていた。触らないでと言うように。『あ』、と雪根が驚きの声を洩らすのを聞きながら、冬香は背中を向ける。涙が零れていった。冬香は冬香が怖かった。小学六年生の体に、異常の言葉は、とても重たかった。

 それ以降、冬香は自身の性質を認めまいと雪根から遠ざかった。焦燥のような(かつ)えた思いで、想いに蓋をしようと試みた。でも駄目だった。どうしても異性を好きだと思うことが出来ない。自己否定を重ね、だが執着だけは消えず、雪根を絶えず意識しながらも、自己に対する何の解決も復縁も果たさぬまま、日々を過ごした。

 そうして今、奪われてしまってから、無残にも取り戻そうとしているのだ。泣くように冬香は考える。間違ってしまった方法で。雪根の想いを、知りたいが為に。

「ねぇ、雪根」

 冬香の呼びかけに対し、雪根は意識を散らしたままだった。
 それでも冬香は尋ねる。


「私の好きと、雪根の好きは、違うものよね?」と。



* * *



 冬香が雪根にしている行為の数々を、司は黙って盗み見ることしか出来なかった。

 簡単な言葉で形容されるのを拒むような、計り知れないものが成瀬の中で踊っている。自分の常識が、ぐらぐらと足元から揺れるのを司は感じた。何が行われているのか、どうしてそんなことをしているのか、答えは朧に煙っていた。

 だがそれから暫くして、冬香が語り始めた言葉を耳にし、次第に司は落ち着きを取り戻すようになる。落ち着く代わりに、白い闇は、濃くなった。

 小学生の頃に、雪根が冬香に好きと言ったこと。それを冬香が退けたこと。冬香は怖かったこと。自分の性質を認めることが、怖かったこと。

 は、ははは、と、自嘲するように司は笑いたかった。

 男が好きな男がいるように、女が好きな女がいる。言葉の意味でなら、ちゃんと理解出来る。しかしそんな人間が本当にいることに、司はこうして盗み聞くまで、考えを及ぼそうとすらしなかった。それが冬香と雪根の間に横たわっている“何か”で、冬香を孤独にし、孤独に慣れさせていたものだと、その時になって気付く。

 それで、それに気付いて俺は、どうすればいい?

 自分の中から出てきた疑問に、司は思考の足を取られる。諦めること。諦めざるを得ないこと。成瀬にどれだけ手を伸ばしても、俺の手では、アイツに触れることは出来ない。髪に触れ、孤独を梳いてやることが、俺では出来ない。

 諦観よりも喪失感が、司を強く捕らえていた。
 そんな時に、冬香が雪根に問う。


「私の好きと、雪根の好きは、違うものよね?」と。


 冬香の声は震え、自分でもその答えがはっきりと分かっている人間の声だった。だからこそ――

「わ、わからないの」

 そう雪根が応えた時、冬香は司にとって初めて聞く、うろたえた声を出した。願っていながら、手に入りそうなことに怯えて。冗談でしょと、そう言いたげで。

「え……あ、あなた、優しいから。ち、違うって、そう、ちゃんと応えてくれて」
「違う。違うよ……違うんじゃ、ないの。わから、ないの」

 雪根の頬につつと流れるものがあった。いつも自信が無さそうに振舞う篠崎。司にとってそのように映る雪根が、意を決し、胸の内を吐き出すように言う。

「わ、わたし、好きだった。本当に、本当に、冬香ちゃんのことが、好き、だったの。だけど、わらかない! わから、ないよ……。あれから、冬香ちゃん、わたしのこと、気持ち悪いんだって、そう思ってるんだって、そう思って。だから、おかしいのかなって、女の子が女の子を好きになるなんて、おかしいのかなって。色んな本を読んだり、保健の先生にだって聞いたよ。だけど、わたしたちの年代には、そうやって錯覚することはよくあることだって、そんな風に書いてあったり、言われたりして。ますます分からなくなって。どんどん、どんどん分からなくなって」

 あぁ……と、雪根の言葉を耳にしながら、司の心は息継ぎに似た嘆息を欲した。

 後になって、司は思うことが幾つかあった。その一つに、雪根のその話を聞いた時、さっさとその場から去ればよかったんだというものがあった。心を落ち着け、雪根とも別れ、冬香のことを揺れながら見つめ、一人で泣いたり叫んだりしながら、失恋したんだと悟り、また別の、誰かを好きになればよかったんだ……と。

 だが司は、その場からどうしても動くことが出来なかった。恐れを抱いた冬香の声と、雪根の決然とした声が階上から交互に響く。

「あなた、だけど……斎藤君と、付き合って」
「分から、なかったから。だから、男の子と付き合えば、わたしのことが、分かるかもしれないって。それで、思い切って! なのに、冬香ちゃんがまた……優しくするから。どうして、助けてくれるの? 小学生の時みたいに。もう、助けないでよ! そんなことされたら、わたし、わからないよ。わからない!」

 その告白に、胸を突かれるような衝撃が無かったと言えば嘘になる。司との付き合いも、分からないことを分かろうとする為だったと雪根は言う。それでも司は自分に後ろめたさがあった分だけ、動揺もしなければ大きく取り乱すこともなかった。

「雪根……違う、違うの。私は、優しくない」
「違わない! 違わないよ。だって、だって!」

 ただ重苦しい驚きの連続の中、司は自身の体を支えることが困難になっていた。ドンと、階段の折り返し地点の手すりに腰をぶつけてしまい、その音に反応した二人が司を捉えた。身を隠すのを忘れサッと顔を逸らしたが、何の意味もなかった。

「さ……斎藤、くん」

 雪根に声を掛けられ、司は振り向く。どういう顔を作ればいいのか、分からなかった。申し訳なくすることか、怒ることか、笑うことか、泣くことか、その全てか。

 この場で正しいことをしている人間は、一人もいなかった。皆に疾しさがある。冬香には冬香の、雪根には雪根の、司には司の。時間は方向性を見失い、滞留する。

 その中で司は考えた。自分はどうあるべきかと。

 裏切られた。誰にか。篠崎にか? そうじゃない。それを言うなら俺こそ最初から裏切っていた。なら誰にか。成瀬にか。成瀬にか。成瀬にか。

 好きだった、いつも目で追っていた、アイツにか? そうじゃない。勝手に自分が失恋しただけ。勝手に好きになっただけ。それ、なのに……。

 冬香が異性の誰かが好きなことを知り、それで失恋をしたのなら、司は上手く割り切ることが出来ていた。チャンスは完全に断たれた訳じゃない。嘗て努力して自分を変えたように、冬香に向けて努力をすればいい。また、自分を変えればいい。

 しかし、冬香が好きな人間は異性ではなく同性だった。異性をどうしても好きになることが出来ないと言う。次第に熱に浮かされたような、乱暴な考えに司は捕らわれ始める。

「おい……成瀬」

 常にない、体温を感じさせない司の声に、冬香と雪根が訝るような表情を見せた。二人に向け、司が恐れ、笑い、泣き、怒るように言う。時間を不器用に動かす。


「お前、オカしいぞ」


 慄然とした眼差しに、冬香が苦痛のような嫌悪を浮かばせる。諦めという気持ちがいつしか司の中で捨て鉢な、行き場のない苦々しい怒りに変わっていた。

「だ、だって……そうだろ? お前、自分が誰を好きになったのか、分かってるのか? 篠崎だぞ。女、女なんだ。なんだよ、それ。どうして、どうしてだよ?」

「わから、ない」

 そんな苦しそうに応える冬香の姿を見るのは、司にとって初めてだ。あぁ、そうだ。成瀬はいつも初めてだ。初めて見る孤独、初めて見る狼狽、初めて見る苦痛。それだけ俺はアイツのことを、何も、何も、知っていない。知れていない。

「分からないって、何でだよ。さっきからお前ら、何なんだよ。分からない分からない分からないばっかりで。どうしてだよ。なぁ、成瀬、俺は、俺はなぁ!」

 自分自身に対し、こんなに必死になるのは初めてのことだった。また、初めてだ。司は自嘲する。気恥ずかしくて意識するのを避けていたが、優しかった保育園の先生に対するものを除けば、冬香は司にとって、初恋の相手かもしれず……。

「さ、斎藤君。お願い、やめて」

 そんな司の憤りに対し、中断を挟む人間がいた。冬香を庇うように立つ雪根に、司は視線を移す。雪根は臆し、怯えたようになりながらも、はっきりと言う。

「ごめんなさい。謝らなくちゃいけないこと、沢山、あるよね。でも、冬香ちゃんのこと、そんな風に、お願いだから」

「篠崎……」

 それは司が見たことがない、毅然とした姿の雪根だった。

「さっきの話、聞いてたよね。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。わたしも、分からなかったから。それで、男の子と付き合えばって、思って。それで」

 司は憤慨を呑み干し、頭を横に振った。雪根が見せる必至さに、冷静さが僅かばかり戻って来た。唾を呑み、考える。篠崎は今、色んなことを勘違いしている。

「違う。違うんだ。篠崎。謝るのは俺の方だ。俺もなんだよ、俺も、違ったんだ」
「え? ち、違うって、何が……」

 迷ったのは一瞬だった。冬香に視線を移す。

 燃え立つように息苦しい物が司の中を巡り、出口を求める。実際に言葉は、渡されることなく、その場に零れ落ちるような形となった。

「成瀬、俺は、俺はなぁ……お前のことが、好きだったんだよ!」

 空気の層が張り詰め、一瞬、新たな静寂が生まれた。雪根は息を呑み、冬香は信じられないことを聞いたとでもいうような、無機質な驚きを示した。

 その冬香が、困惑するように問う。

「あなた、何を……言ってるの?」

 司は苦く笑った。

「普通のことを、言ってる。お前のことが好きだって、そう言ってる。一年の時からそうだよ。お前のこと、お前が孤独なんか見せるから。その孤独に、惹かれちまったんだよ。どうしようもなくな。だから、いつか俺が、お前の孤独を癒せたらって、は、ははは。そんな、そんなことだって考えて、だけど、お前は、お前は」

 言ってしまった。と、司は思った。言うことで少しでも気持ちが軽くなるかと思った。しかし考えとは裏腹に、もの悲しい慰めの無い感情に捕らわれただけだった。

 司と冬香の間に、感情の交流はなかった。あったのは戸惑い、訝しがるような冬香の瞳だけで……。

「斎藤君」

 そうした中、どこにも所属していない透明な声で、冬香が司の名を呼ぶ。

「……なんだ、成瀬」

 俯きがちだった顔を、のろのろと司が上げる。

 成瀬、お前、俺の名を呼ぶの、これで二回目なんだぜ。司はどうして自分がそんなことを考えているのか、分からなかった。知らないだろ、なぁ、初めてお前から名前を呼ばれた時、俺が、どれだけ嬉しかったかなんて。なぁ、成瀬。

「雪根、斎藤君と付き合ってから、いろんな嫌がらせを受けていたの。靴を濡らされたり、上履きを隠されたり、机が荒らされて、傘を折られたりもしてた」

 冬香の言葉は整然と並べたてられ、息が抜かれるような驚きを司に与えた。しかし、その言葉の意図が、司にはよく分からなかった。

「篠崎が……。そう、だったのか」

 司が雪根に視線を移すと、雪根は気まずそうに、縮こまったようになる。冬香は二人の反応を意に介さず、淡々と続けた。

「でも雪根は、そういうことは隠してた。雪根にも、負い目があったからかもしれない。でもそれ以上に、雪根はちょっと弱いけど、優しい子だから。あなたに変な気を遣わせたくなかったんだと思う。そういう娘なの、雪根は、昔から」

 よく知ってるんだな、篠崎のこと。
 苦笑するように司は冬香を見つめ、

「でもね」

 そして、次の冬香の言葉に、目を見開いた。


「それは全部、私がやったことなの」



* * *



「なる……せ? お前、なにを」

 通り雨が余韻を残すことなくあっさりと過ぎ去るように、冬香は静かに言う。

「靴を濡らしたのも、上履きを隠したのも、私。机を荒らしたのも、気分が悪いと言って保健室に向かう途中に、私がやった。傘を折ったのもそう」

 司を見ながらも、冬香の意識は常に視界の端の雪根に向けられていた。大きな反応は、そこにはなかった。そのことから雪根も薄っすら察していたのかもしれないと考えたが、微かに震えている肩から、あぁ、そうではなかったのだと悟った。

 あらゆるものが渦巻いては、何もなかったかのように黒く染まっていく。意識の中に潜れば、暗闇が冬香を見て笑った気がした。

「なんで、そんなこと」

 司が、冬香を好きだと言った男の子が、問うてくる。

「そこで私が雪根を助ければ、雪根は私のことを好きになってくれるかもしれないでしょ? それをきっかけにまた、雪根と話が出来るようになるかもしれない」

 は? と、司の泣きそうな困った顔を見て、冬香は一瞬だけ目を伏せた。

 皮肉な話だが、普段自覚することを避けている自己という存在を、何か間違えを起こした時ほど、痛烈に自覚できるような気がした。次第に恐怖と焦燥が他人ごとのように遠ざかる。彗星のように尾を引きながらも、闇の彼方に消えていく。

 困ったように、嘘だよねと言いたそうに笑いながら、雪根が冬香に顔を向けた。

『優しくするから。どうして、助けてくれるの? 小学生の時みたいに。もう、助けないでよ! そんなことされたら、わたし、わからないよ。わからない!』

『雪根……違う、違うの。私は、優しくない』
『違わない! 違わないよ。だって、だって!』

 本当なら、あの時に言うつもりだった。それが司の存在に気付いたことで遅れてしまったが、結局は良かったのだと考える。終わりは、変わらないから。

 叶うなら、いつまでもいつまでも雪根に頼られる存在でいたかった。苛められてぐすぐす泣いている雪根の傍にあり続け、慰めてあげたかった。友達と、してでも。

 でも、残念なことにもう、私たちは小学生ではない。冬香は瞼を閉じる。

 雪根に再び頼ってもらう為に、歪んだことを私は平気でした。虚ろに満ちた満足と矛盾を抱え、雪根を助けているフリをした。だけど許されることでは、ないのだ。

「私は、そういう卑劣な人間なの。いつからか、そうなってしまったの。こんな自分に、なりたかった訳じゃない。でも、なってしまった。だから、だからね」

 愕然とした面持ちながらも、真っすぐに視線を投げかけてくる司に、冬香は言う。自分自身に言い聞かせるような声で。司に、そして雪根に告げるように。

 雪根の靴を手にし、蛇口を捻った時から。この胸に雪根を思う気持ちがある限り、どうやっても終わりの形は定められていたのだと、そう、思いながら。

「私に、人に好きになってもらう資格なんて、ないの」

 何かがはっきりと折れる、乾いた音を聞いた気がした。終わりはこんな形で、やはりよかったのだと冬香は思った。ようやく、雪根に向き直ることが出来た。

 分からないと、そう答え()()()()彼女。私の好きと雪根の好きが重なれば、どれだけ良いだろう。冬香はそう思わずにはいられない。本当に、どれだけ……。

「ごめんなさい。雪根が好きで仕方なくて、そんなこと、しちゃった」

 諦めを込めて、冬香は晴れ晴れと言う。

 でも、心の底では分かっていた。そんなことは、あり得ないと。あってはいけないんだと。雪根は、こっちに来ちゃ、駄目だ。それはやはり、勘違いなのだから。分からないということ、否応なく襲われるのではないということ、それは……。

「あ……と、冬香、ちゃん」

 全ての感情を絞りつくしたかのように、雪根は、乾いてそこにあった。

 何よりも、同性や異性が好きという問題を超え、私は雪根に酷いことをした。大好きな人を、傷つけてしまった。冬香は震えを隠そうとして、雪根に笑いかける。

「軽蔑したでしょ? 私は、そういう人間なの。同性が好きで、根暗で卑怯な、変な女。もう、あの頃とは、私もあなたも、色んなことが違うの。小学生の頃、雪根はとても狭い世界にいた。そこで、少しでも頼りになる人間がいたから、きっと、勘違いしちゃったのね。でも今……もう、雪根は広い世界を知っている。私への依存から離れ、雪根はちゃんと、世界を広くしている。素晴らしいことよ」

 自己を憐憫するような眼で眺め、軽く俯いた後、司へと冬香は視線を移す。

「二人の日常に入ってしまって、ごめんなさい。もう、私も構わないから。あなたたちも、構わないで。本当に、自分勝手で、ごめんなさい」

 司は口を僅かに開き、事態に縛りつけられていた。ゆっくりと冬香が階段を下りる。上履きのソールが床を叩く音に、そっくりそのまま、その場の陰惨な空気が漂っているようだった。固まっている司の横を過ぎ、最後に、冬香は雪根を見上げた。

 どうして、私は私なんだろう。
 どうして、あなたはあなたなんだろう。

 それは冬香の中で何度も行われた、自問の声だった。

「それじゃ、さようなら。私も構わないから、もう、あなたも構わないで」
「冬香ちゃん、なに、を」

「私のことは、忘れて。目を向けないで。辛く、なるだけだから。それじゃ」

 そう言うと、冬香は踊り場から階下へと向かった。階上から音はなく、冷たい霧にしんと包まれているように、底知れず静かだった。図書館脇まで下りて俯くと、名残に階段を見上げた。堪らず、気付くと荷物も持たず、冬香は走り出していた。

 走り去る中で冬香の印象、やがては思考も奇妙にぼやけ、混乱するようになる。

 一連の行動を、思う。雪根を連れ出して、無理やり迫って想いを告白し、行いを告白して、諦めて、去る。頼って欲しくて雪根の靴を濡らし、上履きを隠して机を荒らし、傘を折る。たまたま通りがかった風を装い、雪根を助ける。慕ってもらう。

 勝手に好きになり、勝手に困り、勝手に物語に没入し、言いたいこと、やりたいことだけをやって、一人だけで何かを解決した気になり、去る。

 まるで射精するまでの物語を求める、男性のようだ。そう冬香は思った。男性だったら、よかったのだろうか。ねぇ雪根。分からないよ。私には何も、分かれない。

 昇降口に辿り着くと荒い息を落ち着け、冬香は下駄箱を開いた。そこには大切に履いていた、雪根がプレゼントしてくれた靴があった。ほんの今朝まで、仄暗い喜びの中で確かな光を放っていた、プレゼントが。傘立てには、傘が。

 上履きのまま、冬香は帰った。傘も持たず、濡れて帰った。


* * *


 司が雪根とデートをしたのは、期末テストが終わって直ぐの日曜だった。

 土曜日曜と一日部活の予定が司にはあったが、日曜は午前中だけ参加し、無理を言って午後からは休んだ。雪根と電車で町に出た。

「悪かったな」

 雪根が好きなパンケーキ屋。初めてデートした場所で司がそう言うと、雪根は頭を横に振った。自らに巣くった苦悶を、振り払おうとしているような顔だった。

「成瀬が好きだったんだ、俺は」

 改めて言う必要もないかと思ったが、口にせずにはいられなかった。

「ずっと見てたんだ。アイツのこと」

 こくりと、雪根が頷く。声を立てずに司は一瞬だけ笑う。冬だが、気持ち良く晴れた日だった。

「でも成瀬は篠崎が好きで、篠崎も自分の気持ちが分からなくて……」

 そこまで言うと、雪根は苦しそうな顔を見せた。テーブルの端に視線を置きながら、口を開く。

「ほ、本当に……ごめんなさい。斎藤くんで、試すようなこと、して」
「それは、いいんだ。俺だって、似たようなことしてたし」

 利己的なのは、人間の性分だ。自分のことを棚に上げる醜さを感じながらも、だからこそ、人の利己的な部分について、司は特別だとは感じない。

「結局、結局ね。わたしは……分からないの」

 甘いパンケーキに手を付けずにいる、雪根をじっと眺める。今、ようやく本音で話し合えているなと感じながら、司は尋ねた。

「何が、なんだ?」
「人を、好きに、なること」

 答えは雪根の口から、壊れたガラス細工のような形で出てきた。思わず司が黙ってしまうと、雪根は苦しそうに吐露を始める。

「へ、変だよね。嫌になるくらい、自分のことは好きなのに。小学生の時、冬香ちゃんに好きって言って、拒否されちゃって……。あんな風に冬香ちゃんが悩んでいたこと、知らなくて。でもね、わたしも、悩んで、わたし、変なのかなって思って。そこからね、色々考えたの。これでもね、色々と頑張ってみたの。でも頑張って、好きな気持ちを知ろうとすればするほど、分からなくなって。本当に、わからなくなっちゃって。自分のこと、なのに。好きって気持ちが、わたし……」

 二人の間に無言が落ち、司は頼んでいた紅茶を口に含んだ。冷めていて、味は良く分からなかった。それから司は、自分のことを話した。昔から彼が、今の彼ではなかったこと。転校前にクラスメイトから無視されていたこと、その中で思ったこと、変わろうとしたこと。冬香に惹かれたこと。

「ちょっと似てた気がしたんだ。いや、似てたんだと思う。だからという訳でもないけど、成瀬が篠崎にしてたことも、分かる」

 また雪根は、こくりと頷く。あの翌日の朝、雪根の下駄箱には紙幣が収められた封筒が入っていた。靴と傘、上履きの代金だと直ぐに気付き、雪根は司に知らせた。冬香は風邪の為、保健室のベットで試験を受けていた。

 司は紅茶のカップを傾けながら、静かに考える。

 俺たちは同じ人間で、なら他人に宿っている物が、どうして自分にも宿っていない等と言えるだろう。興味を引きたくて、関心を持ってもらいたくて、小さな策略をすることもある。時には嘘も吐く。成瀬のそれも、同じ種類のものだ。

 ただ分からないことが、

「成瀬は、篠崎じゃなきゃ、女じゃなきゃ、駄目なんだよな。何でだろうな?」

 それだけが、司にはどうしても分からなかった。

 だが、思えば当たり前のこともかもしれない。司も冬香を何故好きかと問われ、それに明確な理由を与えて答えることは、出来ないでいるのだ。

 好きという、裏付けのない感情の不確かさを思う。きっと、誰もがそうなんじゃないだろうか。何か説明を与えることが出来たとしても、それは後付けのもので。好きという思いを、どうして相手を好きになったのか、整然と述べることなど……。

 思わず司は天井を見つめた。今、世界には当然のように沢山の人間がいる。その誰もが、誰かを好きになるということ。その中には男が好きな男もいれば、女が好きな女もいるということ。視線をゆっくりと雪根に転じる。篠崎も、きっと……。

「篠崎、俺たち、別れるか?」

 それはある種、突き放した質問だった。お互いが本気で好きあっている訳では、ないのだ。なら別れることも、当然のことのように思えた。それなのに雪根は、おずおずとしながらも、はっきりと、司の目を伺うように見ながら応えた。

「う……ううん。もし、斎藤君がよければ、お付き合いを続けてくれたらと、思う」

 今まで気付かず、見ていなかったことがある。
 司は雪根と目を合わせた。

「それは、どうしてだ?」
「分から、ないから。でも、分からないことを、いつか、分かりたいと思ってるの」

 篠崎はいつも自信が無さそうにしているが、自分は、曲げない。
 それは司が見つけ出した、新しい彼女の姿だった。

「俺と付き合っていれば、分かる日が来るかもしれないと?」
「う、うん。少なくとも、その、一人、よりは」

「そうか……篠崎ってさ、」
「え?」

「実は結構、自分勝手だよな」
「うん……ごめんなさい。すごく、そうだと思う」

「いや、別にいいけどさ。誰でもそういうもんだろ」

 篠崎のことを、弱いけど優しいと成瀬は評した。司は考える。しかし、成瀬が見えていない篠崎の一面が、確かにある。

 雪根はそれぞれの手で、ぎゅっと膝頭を掴んでいた。目の前の少女の中で何かが変わろうとしているのかもしれないということを、司はその時、漠然と感じ取る。

 篠崎は篠崎で今回の件から何かを学び、活かそうとしているのではないか。ひょっとすると、いつか、成瀬と笑顔で対面する為に……。

 ――では……俺は、どうだ?

 少し早いが、二人は解散することにした。雪根を近くの改札まで送り、司は町を歩きたくてぶらぶらと足を彷徨わせる。町中で突然、声を掛けられた。

「君、大学生? いや、マジでイケメンだね。どう、ホストとか興味ない?」
「はい?」

 こういう(やから)がいることは、知っていた。髪を金色に染め、ダメージジーンズを履き、先が尖った靴を履いている。ホストのスカウトだ。こうして町中で拾ってきた人間の売上の何パーセントかを貰う為に、よく声を掛けているらしい。

「いや、俺、高校生なんで」
「あ、そうなんだ。でも君、マジで格好いいね。卒業後はなに、大学生とか? ならよかったらウチでバイトしない? LALALA Clubっていって、ここら辺じゃ相当有名よ? 体験入店も出来るし、気が向いたら電話して。いつでもいいから」

 差し出された名刺をどう対処しようか迷ったが、結局受け取ることにした。年齢が不明なホストの男は、「マジよろしく」と司を指差した後、にへらと笑い、その場を去った。恐らく、他の人間の勧誘に向かったのだろうと司は思った。

「ホスト……か」

 それこそよく分からない職業だ。夜の人間を相手に、酒を呑ませる仕事。未だ司が足を踏み入れたことがない町の一角には、司の目によく分からないと映るもの、知らないこと、そういった物やこと、人間が溢れている。

 ただ……ただ……と、考える。

 その世界に行けば、普段は会えないような人間と、出会えるのだろうか。ホストの仕事を通じてばかりでなくとも。例えば男が好きな男や、女が好きな女といった。

 町の闇のことは、よく、分からない。だが自分を変えようと欲したなら、既存の世界を破壊する必要がある。自分の、枠組みを。俺はまた、変われるだろうか。

 ――成瀬、俺さ……。

 名刺を財布にしまい、司は静かに去って行った冬香のことを思う。それこそ高校生活はまだ続いている。クラスだって一緒だ。会おうと思えば簡単に会える。声を掛けようと思えば、簡単に掛けられる。でも……それでは、駄目なんだろう。

 大きく司は息を吐き、吸う。空気が、自分の中で新しく巡るように。

 とりあえず、力をつけよう。そう思った。部活を辞め、塾にも通い始める必要があるかもしれない。成瀬のように頭を良くし、色んな可能性を伸ばす。それで……同じ大学に進学したい。アイツは国立大進学クラスに進む。俺も、今からでも志望しよう。大学生になって、もしこの町の大学に進んだら、名刺の男に電話をして。

 来た道を、司は振り返る。それは駅に繋がると共に、司を新しくさせる道だった。

 未練たらたらな自分が可笑しくて笑う。あぁ、やっぱり簡単に諦め切れるもんじゃないなと、そう思った。だけど、とにかく歩もう。いや、走ろう。俺は走りたいんだ。自分がまだ何所にでも行けると、そう表すように。実際、司は走っていた。

 それは冬香を初めて意識した時から司が求めていた、力強い、衝動だった。


* * *


 歳月に手を引っ張られるようにして、一年が過ぎた。そう冬香は感じていた。県内の希望の大学に進学を決め、奨学金の申請準備もし、近くのパン屋でのバイトの算段も着いた。一人暮らしを始めるべく、冬香は新しい住居で荷解きをしていた。

 冬の名残を残した風が、窓から入り込んで冬香の髪を浚う。ラジオのFMからは軽快な、新緑そのものを思わせる、春に向けた希望の歌が流れていた。

 一人だけの為の、一人だけの食器を棚にしまう。こうして本当に一人になった。冬香は静かに考える。勿論、家族には所属している。しかし疎ましさから離れ、雪根からも離れ、思い出の地からも離れ、一人になった。ラジオを消すと実感が迫る。

『私に、人に好きになってもらう資格なんて、ないの』

 あの日から、冬香は雪根と話をしていなかった。同じ学校だ。廊下などで擦れ違うこともある。それでも雪根は痛みに堪えるような視線を寄越すだけで、話しかけてはこなかった。三年でも違うクラスとなり、司とは奇妙な縁で同じ国立大の進学クラスになり、大学も同じになった。司と雪根は付き合い続けているらしい。

『成瀬、俺と篠崎はお前とのこと、忘れたわけでも、諦めたわけでもないから。今はまだよく分からない部分も多い。だけどな、俺たちは』

 司がいつか投げかけた言葉に、冬香は目を細める。それ程に大げさなことではないと思う。あるところには転がっている話で、都会でなら、よくある苦悩の一つとして、「あぁ、そうなの」と簡単に処理されるんじゃないか。そんな風に思った。

 荷物の開封作業の手を休め、フローリングに腰を下ろす。膝を抱えた。窓から吹き付ける風は少し寒いが、寒いくらいが丁度良い。疲れが溜まっていたのか、その態勢でうとうととしていると、いつしか寝てしまう。起きると空は、夜だった。

 短い眠りの中、冬香は夢を見た。懐かしい笑顔が、雪根が夢の中にいた気がする。二人は小学生のままで、何の問題もなく笑っていられた。そんな気がした。

『靴を濡らしたのも、上履きを隠したのも、私。机を荒らしたのも、気分が悪いと言って保健室に向かう途中に、私がやった。傘を折ったのもそう』

 しかしもう、笑い合うことなんて出来ない。冬香は膝を抱え直す。

 そうやって自分が求めたものを破壊し、二度と元には戻らないと知りながらも、粉々にしなければ、生きていけないのだ。どうしてか、そうなってしまった。どうしようもなく、そうなってしまった。

 温かい泉から何かが込み上げてくる。涙が、零れた。

 雪根とのことで、私に泣く資格なんてない。そう冬香は考える。一人暮らしの寂しさが、迫って来たのだろう。そうに違いない。そうであってくれないと、困る。

 不意に、自分の質量を自覚した。人間は、生きている間は複雑で不可解な自分の重さを抱え、生きる必要がある。まるで、孤独の重さに似た。

 ――私の中の泣くべき理由は、そんな、ありふれた程度の、ものだ。

 ただ、思う。思ってしまう。思うことを止められない。ねぇ雪根、と。小学生のあの頃に戻れたら、私は、言うよ。自分から手を取り、言うよ。

 あなたのことが、私も、大好きだよ、と。

 想いを隠し続け、露にはせず、雪根の傍で生き続けられたかもしれない自分のことを冬香は思う。苦しく笑いながらも、友人として、傍にいる自分のことを。

『冬香ちゃん』

 泣き崩れ、顔を手で覆う。雪根の笑顔だけが、浮かんできた。雪根の笑顔ばかりが、浮かんできた。光そのものが、照らしたがっているかのような、その笑顔。

 あの日、あの夜、別れてしまってからの日々。話したいことが、沢山あった。聞きたいことが、沢山あった。灰色に似た日々にも、裏返せば光る美しいものが、確かにあったのだ。それを見せたいと思うことが何度もあった。美味しいものを一緒に食べたり、景色に感動したり。美しいと感じる心の豊かさを、雪根と共に……。

 嗚咽が漏れる。しかし、そういったことは、果たすことが、出来ない。冷血な筈の体から、雪を溶かす程に温かい涙が次々と零れる。手に濡れる。

 おかしなことだった。冬香は我慢強い筈で、父親が突然いなくなった時も、泣かなかった。参観日に自分だけ家族が来なくても、運動会も、一人で平気だった。それなのに、今、止めどなく涙が溢れてしまう。おかしかった。おかしかった。

「ゆき……ね、」

 特別な響きを持つ言葉は、悲しい祈りのように、一人暮らしの部屋に落ちる。

「ゆき、ね……」

 水中の鯉が酸素を求めるように、冬香もまた、ぱくぱくと、繰り返し、繰り返し、雪根の名を求めた。

『あのね、あのね、冬香ちゃん』
「あのね……あのね、雪根。聞いて欲しいことが、あるの。私ね、あなたのことが」

 雪の名前を冠した彼女への想いが、ゆっくりと、いつか溶ければいいなと願いながら。冬香の魂は、温かい光の中で笑っている、自分の姿を追い求めていた。


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