身世打鈴PDFで表示縦書き表示RDF


身世打鈴
作:くまごろー


 一 夫婦の息子は順七


 その家のむ集合表札には、丁真一・可奈子・順七・真鍋梅子と四人の名前が並んでいる。丁という苗字が珍しい。豆腐の一丁、二丁では風情もないと主婦の可奈子は初対面の人に「沈丁花(ぢんちょうげ)の丁です」と説明するが、たいていの日本人が「はぁん、たぶん……」と察しをつける朝鮮姓である。
 真鍋(旧姓)可奈子は都内の某女子大英文科を二年で中退して、丁真一と一緒になった。彼は千葉にある工業大学の講師になったばかりだった。その後、いっこうに昇進の気配がなかったが、それでも仲のよい夫婦の結婚生活は順調だった。結婚三年めにひとりっ子の順七を産んで、その息子がもう二十六だ。夫の真一が偉人の名前から一字ずつ取ったと言うのだが、息子にはこの中途半端に古風な名がダサく思える。
 長男なのに「七」というのは変だ、と不満だった息子も、言われるままに塾通いをし、高校・大学から修士課程と順調に終えて、今は自動車メーカーに就職している。望み通り、国と太いパイプでつながった企業の研究部門に配属されて自動車燃料の研究をしている。今は国内留学の身分で早稲田大学工学部の博士課程に籍がある。
 息子の順七は一家が十年前に引っ越して来た千葉の高層マンション十四階からの眺望を気に入っていたし、就職してからも夫婦が息子に部屋代を請求するでもなかった。順七は大学時代から八帖の洋室を占拠している。不足はないはずだ。夫婦は理由が正当であれば一人息子の申し出を大抵は認めてきた。
「会社は横浜なんだしさ、大学も都内だからね。通う時間がもったいないよ。横浜か都内に住みたいんだ」
 可奈子は、来たな、と思った。ただで使える部屋を明け渡して金のかかる所へ移ろうというのだ。他のことではないだろう。
「順、どういう娘さんなの、お相手の方は?」
 さりげなく切り出すほうが、息子も返答しやすいだろうと可奈子は鎌を掛けてみた。順七は彼女との出会いから現在までをかいつまんで母親に話した。
 彼女の家族といっても娘に理解のある父親と弟が一人だけだ。父親という人は米国留学の経験がある大学教授で、亡くなった母親はアメリカ人だった。親戚に順七の苗字を気にするウルサ方がいるかも知れないが心配しなくていい、と彼女は言ってくれている。順七は結婚を前提につきあいを始めたのだ、ど。
「そお、韓国の方でハーフなの。お父さまもびっくりでしょうけど反対はしないでしょう。でも、一応お伺いはたてませんとね」
 ……国際結婚。順もやるわね。研究室の後輩なら浮ついたものではないだろうけど……。
 今の時代、家族の誰が何処でどんなことをやっているかなど見当がつかない。朝に出かけた夫と息子が夜には家に戻って四人そろえば一日が無事に過ぎたことになる。ウチの男二人は外でのことはまず話さない。それだけに息子の話は唐突な感じがした。息子の引っ越しはまだぼんやりした予定だが、この家では彼の別居がいちばんはっきりした予定、それもほぼ確定した将来だと家族は承知するだろう。可奈子はひさびさの「事件」に少し興奮している。

「もう、先方のご両親、いや、お父様にはご挨拶したの?」
「いや、それがまだ……」
「何か不都合なことでも?」
「母さん、うちの苗字、なんで丁なんだ?」
「お父さまの話だと、何でも韓国の由緒ある姓だということよ」
「テキトウだなァ、親父も。知らない訳ないのにさ……」
「え? 順、どういうこと?」
「なんだ、母さんもグルなのか。白いって字に一丁目二丁目の丁って書いてペッチョンだろ?」
「なぁに、そのペッチョンって?」
「知らないのかァ。呆れたな。四つ足の屠殺が仕事の韓国のアウトカーストさ。日本の部落と考えればそう違わない。丁や白という苗字が必ずしも白丁でもないだろうけど、無関係でもないんだろ?」
「な、なにを言うのよっ!」
 可奈子は部落と聞いて悲鳴に近い声をあげた。


 二 真一の父、高山貞一郎


 可奈子は何も知らなかったし、知ろうとしなかった。真一は家族のことを語りたがらなかったし、話そうとしないことを掘じくり出すのも嫌だった。尊敬する父親が全幅の信頼を寄せていた真一だったから、可奈子は父親に倣った。そういう自分でこれまで何の支障もなくやって来れた。確かに苗字のせいでおかしな視線を感じたことはある。でも、生活態度からしても誠実さは疑いようがない真一を可奈子は尊敬している。それでも長い結婚生活のうちに切れ切れに知ったこと、知らされたことを自分の想像を交えてつなぎ合わせてみると……。
 夫の実家は真一の祖父にあたる甚三郎の代までは和歌山の大地主だった。夫の父親の貞一郎は京都の同志社大学を中退したのを内緒にしたまま、実家から学費と生活費を送らせた。家が裕福だったからできたことだが、甚三郎が貞一郎に帰郷を命じたときには財産と名のつくものは残っていなかった。甚三郎は先物取引きで大失敗をしたのだった。
 甚三郎は損失を焦って埋めようとして更に損失を出していたが、明治男の面子なのか祖母のアサにはそのことを一切知らせなかった。網元の娘は金の苦労知らずに育った。アサは、高山の家が資産家であると信じて嫁いできたのだったし、甚三郎が直面している危機を深刻なものと感じとる知識もなかった。ただ甚三郎の嫁として忠実に仕えていた。息子の退学を知らされると、さすがに動揺したが、株や先物取引きで毎日血まなこで殺気だっている夫に息子の退学は報告できないでいた。
 貞一郎は母親への連絡に、当時珍しい電話を使った。手紙ではアサの手に渡るまえに甚三郎に読まれると危惧したからだ。両親がそろっているのに、わざわざ母親宛てに手紙を出せば、自分の方に隠しごとがあると白状しているようなものだ。親の期待にそむくなど考えられない時代だった。貞一郎はアサを頼って電話をよこすのだ。
 授業料滞納及び出席不良にて学業継続の見込みは乏しい……大学から甚三郎宛てに封書が届いた。それを自分の手で開封して、アサはひとり悩んだ。何があったかは分からないが、学費を使い込むほどなら、息子一人ではどうにもならないことが起っているくらいは察しがつく。よくよく考えて行動するように、とアサは甚三郎の知らない持参金を充てた。

「母さん、僕は、朝鮮の女の子を孕ませてしまった。日本に出稼ぎに来た娘で、商売女とかそんなんじゃないよ。英姫(ヨンヒ)はいい娘なんだ。僕は僕で考えもあるけれど、あの頑固親父は聞く耳を持っちゃいないよ。勘当は覚悟しているし、これ以上の迷惑はかけられない。お願いだから僕のことはあきらめてくれないか。僕にはこうするしかない……。
 母さんは家柄とか世間体なんてことは言わないよね。家は弟の雄二郎に任せればいい。実情を知ればあいつだって僕とは縁を切るって言い出すよ。親父は堕ろせって言うに決まってる。恥さらしだものね。堕ろさせて身辺をさっぱりすれば日本人のままで生きられないこともない。でも、だんだん膨らんでくるあいつの腹を見ていると、僕はとてもそんな気にはなれない。いっぺんに二つのことは出来ないしさ。僕が日本人のままで子供を見殺しにするか、僕が朝鮮人になって子供を生かすか、ふたつにひとつだろ? 母さんならどっちを取る?」
 ……この息子は何を考えているんだろう。世間の力、時代の力は個人の理想などおかまいなしだ。日本人を捨てて得することなんて一つだってないのに。朝鮮で暮らすと言っても貞一郎が考えるほど甘くないだろう。京都の大学生たちが警察に捕まる話はよく聞くが、貞一郎も危険思想とやらに染まってしまったのか。それにしても、よりによって朝鮮の娘に子を作ったなんて……。でも、この話はこの子がわたしを頼って打ち明けたことだ。それを私が夫に頼ってどうなろう……。
「たしかに世間が私らに何をしてくれるわけじゃないさ。でも、世間さまを向こうに回して人がしあわせになれるってものではないよ。おまえの味方にはなってやりたい。でも、国の音頭に踊らされて朝鮮人といっしょになるなんて、食いつめた女たちだけじゃないか。おまえにだって世間の白い眼は見えるんだろ? おまえも勝手だよ、あきらめろだなんて。母親が息子をあきらめられるものかね」
 ……母親なら我が子への思いはだれも同じだろうが、わたしが折れなきゃおまえが生きられないなんてねえ。おまえ、騙されているんだろ? 本当はおまえの子じゃないんだろ? そう言えたらどれだけ気が楽か。内鮮一体だとか何だとか言っても、人のやることなんておいそれと変わるもんじゃないんだ。おまえ、世間を甘く見ちゃいないかい……
「母さんが送ってくれていた金ね、ぜんぶ彼女の実家に仕送りさせてもらった。向こうの両親にも会ったよ。胎のなかの子を生かすには日本より半島で暮らすほうがいい。僕は英姫の家の婿になることにした。いや、特に由緒ある家柄じゃない」
 貞一郎の「婿になる」という言葉を聞いて、アサは息子はもう帰って来ないと思わない訳にいかなかった。貞一郎が言うようにあきらめなければならないだろうと思った。間違った育て方をしたつもりはないけれど、縁だけはわたしらの思案の外だ。
 ……米糠三升あったら婿に行くな、それが世間相場だ。日本でさえそうなのに、なんでまた朝鮮なんかに。自分から身を落とすなんて正気の沙汰ではない。この子は大学まで行って自分の頭のなかに筋道というものがないんだろうか、情けない。私の方がおかしくなりそうだ。でも、その英姫とやらは貞一郎の子を身ごもっている……。あゝ、何てことをしでかしてくれたの。落第したならやり直せばいい。同志社がだめなら他の大学もある。でも、子供だけはやり直しがきかないんだよ。この子も考え抜いて朝鮮に渡る決意をしたんだろうから、もうこの子を信じてやるしかない。ふがいない長男を持ったとあきらめるしかない。親戚にも顔向けできない。高山の家は間もなく修羅場になるだろう。しかし、もうなるようにしかならない……。
「それで、向こうで仕事の当てはあるのかい?」
「ツテを頼って新聞記者をやろうと思っている。日本人じゃなくなれば、役人や勤め人にはなれないからね。警察の眼も節穴じゃないし。でも、僕なりの考えがないわけじゃないさ。僕だって英姫に子供さえできなければ、こんな風には考えなかった。友だちは勉強して共産主義になるけど、僕のは頭で考えたことじゃない。子を生かせるようにするだけさ。僕の子がまっとうに生きられれば、それが日本と朝鮮の関係も一番いいってことだしね」
「日本人のままじゃいけないのかい?」
「日本人の面子も立場も要らないってことだよ。英姫の家族も親戚も僕が日本人というだけで今は喜んでいるけど、あの人たちの思惑通りには行かないな。僕は金もないし日本人の立場を利用しようとも思ってない。認知すれば胎の子は日本人になるよ。けど子供は朝鮮人のほうがしあわせになれる。子供の将来のことだし、尊厳の問題なんだよ。僕と一緒になっても向うの身内が思ってるように英姫が日本人を産んで玉の輿ってわけじゃないんだ。僕に利用価値がなけりゃ日本人でも何でもない、朝鮮人以下だろね」
「鮮人以下って、おまえ、そんな所で暮せるのかい?」
「やってみるさ。日本人に生まれただけで朝鮮人とこれだけ違うのはどう考えてもおかしいだろ。考えみておかしいと判りゃハナっから考えなかった振りをするんだな、人間ってのは強欲だからね。自分に都合のいいことだけが正しいことなんだろ……」
「面子を捨てれば日本人も鮮人もない、ってのかい?」
「そう。朝鮮人の糞は臭いって言うけど、日本人の糞が臭くないわけがない。僕は英姫と出会った、と言うより、出会ったら英姫だったってわけさ。日本人の面子を捨てれば僕らは生きられる、日本人より貧しくたってそれなりの生き方はあるんだ。毒とでも何とでも呼んで構わないけど、食らうなら皿までさ」
「……おまえの覚悟のほどはわかったよ。これはお父さんにもどうにもならないことだね。お父さんはおまえがいなくなったらわたしを責めるだろうけど、そんなことは心配いらない。おまえの道を行くがいいよ。ただ、しあわせな家庭を作るのよ。難しいことは分からないけど、お願いだからそれだけは約束してよ。離れていても母さんは味方なんだからね」
「ありがとう。やっぱり父さんより母さんの方が物わかりがいい」
「ありがたくはないね、そんなこと」
 アサは自分の気持ちを持て余してしまう。振っ切れないものを振っ切るのだ、時間はかかる。


 三 真一の誕生


 英姫は男の子を産んだ。貞一郎の信念は朝鮮に渡って更に深まった。立場を捨ててはじめて見えてくるものがある。それこそが真実で、人間が選ぼうが選ぶまいが真実はそれ一つなのだとの思いから、息子を「真一」と命名した。丁真一(チョンジニル)、可奈子の夫、順七の父の誕生だった。

 高山貞一郎は朝鮮人と変わらなかった。丁貞鍋(チョン・ジョンホ)と名乗る新聞記者を周囲はだれも日本人とは思わなかった。ある意味では朝鮮人よりも朝鮮人だったかもしれない。彼は英姫の両親を引き取ってソウルで馬車馬のように働いた。新聞記者には寝る間もないほどの時代だった。

 朝鮮人・丁貞鍋になった男は、日本敗戦の恨むより光復節(クァンボッチョル)(=韓国が日本の支配から解放された八月一五日)をよろこんだ。彼には日本の敗戦でやっと日朝が共存できる基盤ができたと心底思えたからだ。片方が沈めばもう片方は浮いてくる。ひとつの事実にも裏と表がある。周囲の朝鮮人たちは日本への恨みを口にしたがらない丁貞鍋に不足を感じたかもしれない。しかし、丁貞鍋は日本を憎むことが自国を愛することになる朝鮮人たちとはちがう。彼が朝鮮を愛するのは英姫を愛するからで、日本を憎むためではない。日本を憎んでも英姫を愛することにはならない。
 日本の敗戦で日本による朝鮮統治が終わると間もなく六・二五(ユギオ)と呼ばれる朝鮮戦争になった。ソ連の支援を受けた金日成とアメリカに応援を求めた李承晩とが半島を統一できず、南北に分かれて戦った。韓国、北朝鮮の両軍は一進一退の攻防を繰り返し、犠牲者は数を増すばかりだった。日本海(トンヘ)の向こうの列島は、この戦争で特需景気に沸き返り、急速に経済発展を遂げている。
 彼我の差に皮肉な運命を感じながら、丁貞鍋は戦況を伝えるために走り回った。何日も家をあけるのが当たりまえの日々だった。ひげ面になって思いがけずひょっこり我が家に帰ってくる父親を家族はありがたく迎えた。朝鮮ならどこでも見かけた光景であるが、この家の主人は朝鮮人だけが犠牲になってしまうこの戦争を朝鮮人以上に憎み、米ソの手先になり下がった南北の力のなさに口惜し涙を流した。
 朝鮮戦争は三八度に停戦ラインが敷かれて戦火がおさまった。南北に分断された二国の間に小競り合いは散発したものの、大きな戦闘はなくなった。ソウルの新聞社に呼び戻された貞鍋の取材は、混乱の続くソウル周辺が主になった。相変わらず飛び回ってばかりいたが、国境と違って晩には英姫と真一と三人が顔をあわせるしあわせな家庭が待っていた。
 ……しあわせ? 今の生活は自分が覚悟して選んだのだから、僕はしあわせなはずだ。しかし、妻と子の顔を見てほっと気が弛んだときに心のなかに生まれてくる不全感のようなものは何だろう? 英姫に失望や物足りなさを感じたことはない、真一の将来にも期待をかけている。なのに……。
 忙しくしていると気づかない自分のなかの、何かで埋められていなければ自然でないような心のすきま。事実、自分はこの通りしあわせだと思っているのに、それはただ夢中になっているだけで、心の全部が潤っているとというのとは違った感じがする。それ自体が不幸と言うほどのものではないが……。そんなときだ、どうかするとふと日本が思い出されてくる。割り切って捨てたはずの日本が。 
 貞一郎は、心というものは全部自分のものだと思ってきたが、どうやら自分以外から埋めてもらわねば埋まらない部分もあるらしい。貞鍋となってから『あきらめきれるものかね』と言ったアサを、音信も絶えて位牌もない母を思い出して、心のなかで掌をあわせることもある。……どれほど英姫と真一を愛しても僕は韓国人にはなりきれんのかも知れん……。
 何年かが過ぎて、貞鍋は再び南北国境付近の短期取材を命じられた。
 うららかな国境の春だった。レンギョウがまっ黄色に途切れない流れを作って北の地に続いている。……国境だなんて、だれが……。
我等(ウリエ)悲願(ソウォヌン)統一(トンイル)……」
 北を眺めながら思わず歌い出してしまった貞鍋を同行の警備兵が制止したとき、北側から乾いた銃声がパーンとひとつ鳴った。丁貞鍋はその弾に斃れた。愛する英姫や真一のことを思う間もないあっけない死だった。身を伏せてM1ライフルを撃ち続ける警備兵の傍らに貞鍋の動かない体が転がっていた。
 新聞社から訃報を知らされて英姫は卒倒した。
 どれほど眠っていたのか。昏睡から醒めた彼女の薄目に、枕もとで濡れ手拭いを絞っている幼い真一が姿が映った。
「オンマァ、オンマァッ」
 真一の声が甲高く英姫の鼓膜を突き刺す。オンマァ…… 英姫は現実に引き戻された。夫の死を信じずにいても、夫はもう帰っては来ない。……この子を路頭に迷わすわけに行かない……
 とたんに苦しくなった家計を英姫は在韓米軍の食堂(メスホール)で必死に働いて支えた。労賃の他に食べ物が現物で手に入る。戸籍上は韓国人だが日本人とのアイノコを産んだ英姫を援助してくれる親戚など一人もなかった。韓国はそんな時代だった。そんな中でも真一がグレずに育っているのが英姫には救いだった。面影がますますあの人に似てくる。うれしく、誇らしい、それでもやっぱり悲しい。
 英姫が真一の高校入学と同時に水商売に入りかけたのは、どうしても大学は出さなければならないという焦りからだ。清州の畑は親の代に、登記書類を日本語で書けなくて日本人にだまし取られていた。財産はない。
 事情が分かっているのかいないのか、真一は高校を終えたら士官学校を受験すると言い出した。
「あなたのお父さまは戦争を憎んだ人よ、そんなことも分からないで、アイゴッ」
 英姫は泣わめいて真一に思いとどまるように懇願した。
「そんなら、オンマ。僕は金のかからない大学に行くから、水商売だけは止めてくれっ」
 真一の言葉は英姫の耳に、はっとするほど男らしく頼もしく聞こえた。真一は成長したのだ。でも、そんな大学がどこにある?


 四 真一の日本留学


 真一が同級生たちと異なっていたのは両親から習った日本語が自由だったことだ。貞一郎(貞鍋)が、こんなバカな時代が長く続くわけがない、と隣国どうしの二国が協調する時代を見越して、反日一辺倒のなかで隠れるようにして息子に教えたのだった。
 真一は韓国の大学には行かなかった。日本の千葉県にある私立の工業大学に入った。そこは外国人を受け入れたし、成績優秀者は学費免除の特典があり、返還不要の奨学金が出るからだった。反日感情しかない韓国からは珍しい日本への留学だった。
 ずいぶんな年齢になってしまったハラボジとハルモニの面倒を見ながら母一人に働かせるのは心苦しい。楽をさせるための土台作りから始めなくてはならない。隣国とはいえ見知らぬ国で四年もの時間がかかることが真一には悩みだった。
 真一は順調に特待生になり奨学金をもらった。
 日本は折から趙容弼の歌う『釜山港へ帰れ』が大ブームで、NHKでは『アンニョンハシムニカ』という韓国語講座も始まっていた。大学近くの駅前飲み屋街にも韓国語を習いたいという物好きな日本人が多く現れた。真一は割のいい個人教授で稼いだ。長期休暇になるたびに母親に会いに行けたのも仕込んでもらった日本語のおかげだった。
 英姫が真一に聞くでもなしに呟いた。
「京都のほうはどうなっているかねぇ……」
 京都は母が父と出会った街だ。
 ……オンマァ、そのうちに京都に行こうな……。

 徴兵があって真一は大学を休学した。韓国に戻ってROKA(韓国陸軍)に入った。日本海側の国境警備をする部隊だった。外出許可がおりる度にソウルの母を訪ねた。
束草(ソッチョ)も寒いんだろ? なんでおまえがあんな所までねえ。まだ一年もあるのかい? もったいないねぇ」
 英姫は軍隊が嫌いというよりも、夫の死んだ場所の近くに息子が今いることが耐えられない。
 真一は士官学校を受験すると言って泣かれたのを昨日のことのように思いだした。
 二年ぶりに千葉の大学に戻ると、クラスの顔ぶれがすっかり変わっていた。オンマの言う通りだ。なるほど二年は長い。
 四年生になって真一は指導教授から大学に残ってほしいと言われた。名誉なことだが、韓国の会社に入って日韓の通訳をしながら技術的な仕事をしたほうがオモニが楽になる。このところ白髪もシワもめっきりふえた。何より母と一緒にいられるほうがお互い安心だ。
「家のものと相談してみませんと。時間いただけますか?」
「うむ、期待してるぞ。理事会に都合をつけてもらわにゃならんこともあるが、なに、先は考えている。心配いらんさ」
 教授は真一の両肩をポンと叩いて「ウムッ」と自信ありげに言った。
 真一はその晩にソウルの母親に電話をした。
「そりゃ、教授ニムがそう言ってくださるんなら、そうなさい。わたしなら心配いらないよ」
 ……さびしくないはずないのに。オンマァ、楽がまた先に延びちゃったね……


 五 可奈子の父、真鍋勇助


 真鍋勇助は大田区に町工場を経営していた。従業員も十名そこそこの小さな工場だった。仕事熱心な男であったし、人の好い、子煩悩な父親でもあった。一人娘なだけに可奈子には小学校から色々な習い事をさせた。それが自慢でもあり楽しみでもあったのだ。可奈子は機械油のにおいがする父親を嫌いではなかったが、その日に習ったことを晩酌する父の前でおさらいさせらされるのはうんざりだった。
「お父さん、そのうち可奈子に嫌われますよ」と言いいながら梅子も夫のとなりで、可奈子のバレーやピアノや英会話などを楽しむ。ありふれた平和な家族団らんである。習い事のほとんどは高校に入って止めてしまったが、可奈子はくったくのない明るい娘に育っていた。
 人が好いというのは経営者には不向きな性格かもしれない。可奈子が大学に入学したとたんに工場の経営が悪化した。不渡りを出したのだ。少ない工員をさらに減らした。家が抵当に入ると、入れ代わったように母親がパートに出た。リビングからピアノが消え、有名画家のものだという油絵もなくなった。明るかった娘の顔にもかげりのようなものが見えるようになっていった。
「なぁに、大学くれえは出してやるって」
 可奈子は父親の意見に従ったものの、家庭の窮状ははっきりしている。……アルバイトしたくらいじゃどうにもならない……。
 仕事を出してくれる親会社に「真さん」という技術指導の先生が千葉の大学からやってくる。細かい仕事上のヒントがもらえるのでありがたい。お礼に家に呼んで食事をしてもらったこともあったが、自分のことは話したがらない青年だった。当時高校生だった可奈子が弾くピアノにうっとりして「家庭はこうでなきゃいけませんね」と年齢に似合わないしみじみした口調で言ったのが真鍋の印象に残っている。
「あっはっは。そうかァ、先生にも悩みがあったか。いいよ、真さん、聞くだけでよけりゃ俺が聞いてやるよ」
「ありがとう、真鍋さん」
 真一には父親がない。話がある一線を越えると彼を取り囲む輪は急に広がって遠のいててしまう。相談…… これだけはひとりじゃできない。彼は日本に一人は親身に話せる人がほしいと思っていた。真鍋製作所の勇さんなら……。
 真一はある晩、真鍋と連れ立ってヤキトリ屋に行った。店の焼酎は軍隊時代に浴びるほど飲んだ銘柄だ。酔いが二人を饒舌にしていた。
「そっか。真さんの大学は日本国籍じゃねえと教授にはなれねえのか……。日本だとか韓国だとか、そんなことが何だってんだろうなァ」
「真鍋さん、聞いてもらえてすっきりしました。胸のつかえがおりたみたいで。ありがとう」
「いつも通り真鍋の『勇さん』でいいじゃねえか。俺だって大学の先生をとっ捕まえて『真さん』って呼ばしてもらってんだ」
「やっぱり目上の方だとそうも行きませんよ」
「真さんの言葉、日本の若い衆に聞かせてやりてえね」
真鍋はこの若者の筋を通すところが好きだ。
「そうか、おやっさんは同志社だったんだね。昔、あの辺に住んでたから、ひょっとしたらすれ違ってたかもしんねえなァ」
「真鍋さんの真って僕の真でしょ。鍋の方は親父が韓国で使っていた字なんですよ。貞鍋っていって……」
「ふぅ〜ん。偶然とか縁とか、わからねえもんだなァ」
「なんか真鍋さんが他人のような気がしません」
「あっはっは。真さんもセンチだなァ。ウチもそうとう傾いてるけど、よかったらこれからも遊びに来なよ」
「ありがとうございます」
「友だちのせがれを預かるみてえで俺も悪い気はしねえんだ。あっはっは」

 真鍋製作所は倒産した。勇助は警備員になり一家は今やアパート暮しだ。それでも真一は真鍋の家に手みやげを持っては遊びに来た。気が安らぐこともあったが、真一には惹かれるものがあった。可奈子である。
「お父さん、可奈子さんを僕にください」
 真一は座ぶとんを脇に外して頭を畳にすりつけた。
「真さん、ついに言ったね。気づいちゃあいたよ。可奈のほうもまんざらじゃねえんだろ? いやな、俺も羽振りがよけりゃ、こっちからお願いするつもりでいたんだが、こう落ちぶれちまうとなァ、どうも真さんを狙い撃ちしたみてえでよ。言い出せねえ。あっはっは」
「僕は韓国人ですけど、かまわないですか?」
「お父っつぁんは日本人だったんだろ? なら、真さんのどっからどの辺までが韓国人なんだい?」
「気にする人はずいぶん気にしますよ。本当にいいですか?」
「真さん、自信がねえなら可奈はやれねえよ。人間に大事なのは生きてく自信だろ?」
「真鍋さんはうちの父とそっくりですね。ありがとうございます」
「ちょい待ち、おふくろさんはどうなんだい? こっちにすりゃ、そっちの方が心配だァな」
「真鍋さん、来月にでも体のあく日を二、三日作ってくれませんか? うちの母と僕、勇さんと可奈子さん。京都に行ってみたいんです……」


 *  *  *  *  *  *  *  *


「京都に行ったんだったなァ。三十年なんてあっという間だ」
「ほんとにね」
 真一と可奈子の夫婦はそんな会話をする年齢になった。真一の母の英姫も可奈子の父の勇助もとうに鬼籍に入った。真一もずいぶん遅れはしたが教授にもなった。なんせ赤ん坊だった順七が二十六だ。誰にも同じだけ時間は過ぎるのだから、真一と可奈子も若かったらおかしい。息子が近々家を出ていく。家族は夫婦と可奈子の母親の梅子バァちゃんの三人だけになる。


 六 ソウルの友人、崔秀哲氏 


 出席者に配られた冊子に刷り込まれた名簿では真一は同年代だったが、崔氏は年齢よりずっと老けて見えた。ソウルで開かれた電子工学の国際学会で、真一の名札に気づいて崔氏の方から声をかけてきたのだった。無理もない、と真一は苦笑する。ローマ字が日本式の〈チョー・シンイチ〉から韓国式の〈チョン・ジニル〉になっている。名札を作るほうで間ちがえたのだ。
「いえ、日本国籍の日本人です」
 真一はきっぱりと韓国語で言った。
「でも、訛りのない京畿道ウリマル(私らのことば)ですよ。失礼ですが、日本に(チョン)という苗字がありますか?」
 ……痛い所を突く……。真一は言葉を濁した。
「ま、珍しいとは思いますけどね」
 ……父はプライドをもって、それもそうとう無理をして韓国人として生きた日本人だった。その辺りを初めての人に説明するのは難しい。お互い工学畑、悪い人ではなさそうだが、鋭い。
 二人は少しずつ打ち解けた。相手が酒好きなのをそれぞれが喜んだ。
「やはり韓国の方ですね、わかります。先ほどから煙草を吸うにも酒を飲むにも顔をそむけますね……」
「親父のクセが感染しましたかな、はっはっは」
「お父上が韓国の方ですか?」
「はい、韓国人になりました」
「その、なったというのは?」
「もともと全くの日本人なんです……。長い話になりますから」
「丁氏、お差し支えなければ、お話し願えませんか」

 *  *  *  *  *  *  *  *

 真一は、かいつまんでも長い話を終えると、不思議に肩の荷がおりたような気がした。……妻の可奈子にも息子の順七にも話さなかったことをどうして初対面の男にしゃべったのだろう。軽率ではなかったか。しかし、話を聞いてもらえているというのはじつに良い気持のものだ。派手なあいづちを打つでもなく、じっと聞き入っているこの男。韓国にも日本にも住んだけれど、誠実な聞き手というのは多くない。僕の気持ちが楽になってるということは? 自分一人で持ちこたえるには重すぎたのかもしれない。恥ずかしい話や自慢話でないなら正直でいいということかな。真一は改めて名札を見た。Choi Sucheol、チェ・スチョル。

「いや、わかってもらいたいのに言いにくいことってあるもんです。親父のことを知ってもらえば私のことも誤解されずにすみます。ええ、僕の日本への帰化は母も望みませんでしたから」
 真一は自分が韓国人に対して抱く後めたさを先回りして説明しようとした。
「立ち入って何ですが、オモニムは、因果はめぐると苦しい納得をなされたんでしょうな」
「人間いくつになっても人に分かってもらいたいもんなんでしょう。長いこと私のなかでわだかまっていたものが……。いや、崔秀哲氏。とんだ身の上話にお付き合いいただき、感謝します」
「なんの。それでは丁真一氏、こちらの話も聞いてもらえますか? 私もわかってもらいたいのですよ、あははは。お話を伺って、私も貴方ならと思いました」
「はあ? かまいませんが、崔氏の方にもなにか?」
「大ありです」
 崔氏は(ソル)をポケットから取り出して、火を点けた。
 ホテル地下のバーに夜は更けていった。

「一昨々年に家内を亡くしましてね」
「それはそれは……」
「アメリカ人でした。美人じゃありませんがいい女でした。いや、自慢じゃないです」
「どうぞ、ご自慢なすってください」
「私はテキサス工科大だったんですが、家内はそのときの後輩です」
「それでは奥様も電子工学を?」
「はい、家内が大学院に入ってすぐに娘を妊娠しました。若気の至りというやつですね」
 崔氏は髪の少ない頭を掻いて照れた。
「学生結婚が多かったですねえ。私もアメリカかぶれでしたから、当り前のように思ったのかもしれません。西洋人どうしなら問題もないでしょうが、ウチらは事情が違ます。家内の家族は理解がありましたがね、ウチの親父がだめです。子供ができたと知らせると、関係を清算して帰国しろ、とカンカンです。いやぁ、悩みました。勉強どころじゃなかったですな。家内は「堕ろそうか」とまで言ったです。それで私は腹をきめましてね。父親の承諾を得ないまま、家内を連れて帰りました。臨月近い家内の腹は目立ちました。懐かしの故郷どころじゃない、もうハチの巣をつついたようで、あっはっは」
 真一もつられて笑った。
 韓国ならそうだろうな、真一は崔氏の話が懐かしく微笑ましいものに聞こえた。それにしても世間には似た話があるものだ。……大変な話なのに、話すのも聞くのも愉快なのは言葉のせいなのかなァ……。日本に暮らして三十余年、日本の方が長くなってしまった。真一には懐かしい母国語の会話だった。 
「家内はジャネットという名でアイルランド系です。『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラをご想像ください。いえ、ヴィヴィアン・リーちゅう美女じゃなくて、あのこだわりと根性の方ですよ、あっはっは。どの国でも女房自慢はバカ亭主と決まってますが、健気な女でしてね」
 真一は可奈子を思い出していた。……一昨々年。ついこの間だ。僕は可奈子が死ぬなんて一度も考えたことがなかった。可奈子がいてくれるだけでありがたい……。
「家内には我々の上下関係やシキタリが嫁いじめ、よそ者いじめとしか思えなかった訳ですよ。騙された、と何度もなじられましたねぇ。反対に一族の者たちには家内のやり方が屁理屈のわがままにしか映らない。家内は勝ち気を通すもんで、いつだってテンヤワンヤのハチの巣です。私の力不足は否めんですが、可哀相なことでした。蔭でヤンコ(洋鼻)呼ばわりされましたからね。私の方は陰口じゃなかったです。『本家の跡取りにアメリカ人の嫁では一族に示しがつかんだろッ』と大伯父たちから面罵されたことが何度もあります。つらかったです。そりゃもうアメリカに逃げて帰りたかった……」
「なぜそうなされなかったのです?」
「そりゃできません。理由は二つあったです」
「二つ?」
「じつは私にも日本人の血が流れとるです。驚いたですか? あっはっは。先生のお父上のように立派じゃないですね。父は最後の日本留学組だったです。親の決めた許婚が韓国にいてですよ、日本の女性に子供を作りました。父の時代にはよくあったそうですが」
「そうなのですか?」
「本人がそう言ってました、あっはっは。相手はいいとこのお嬢さんです。背孕み、ちゅうんですか、目立たなかったんですね。先方は箱入り娘が朝鮮人の子を産んだとカンカンで、もちろん結婚など許しゃしません。父は男の子だったもので私を連れ帰ったです。私は実母の顔も何も知りません。私と弟妹たちは腹ちがいですよ」
 崔氏はあっけらかんとすごいことを言った。真一は唸った。
「まさか親子二代、立て続けのバカはできませんでしょ。何がなんでも家内を本家の嫁と認めさせなくては、踏み止まらねばなりませんでした」
「で、アメリカに戻らなかったもひとつの理由というのは?」
「それは家内の性格です。ま、血ですな。こちらは丁氏にはお分かりにならんでしょうが。あっはっは」
「血ですか? 何のことやら」
「家内は私といっしょに韓国に住むことに決めたんです。アイルランド人は自分の住み着いた土地を手放しません」
「あ、そういう意味のスカーレットですか。何となく分かるような気もします」
「一族が集まるチェサ(祭礼)には本家の嫁として正装で臨みましょ? 目上の女たちから『チェサに紅毛はふさわしくない』と言われると、家内はさっそく赤毛を黒く染めて出席しました。アメリカ娘は夫の土地に溶け込もうと必死だったわけです。ところが、チェサが済めば済んだで、今度は別の女たちから『染めたりしたら余計おかしい』と笑われる。事あるごとにヒステリーを起こしましたよ、ええ。鼻と眼の色はどうにもならんですが、二人目に仁洙(インス)、はい、男の子を産んでやっとアイリシュの気丈さが「継ぎ木」されたんですかな。弟たちの母親とは軋轢がさらに深まったですが、あっはっは。またまたハチの巣です。それでもじょじょに一族の女たちを束ねるようになりました。ええ、長い時間でしたよ。
 ……崔氏は夫人と戦友を同時に失ったわけだ……
「ほ〜お、たいした奥様ですね、烈女(ヨルリョ)といいますか……」
「はっはっは、烈女ね。わかってくださるか、丁真一氏。ありがとう」
 夫君の崔秀哲氏も一族本家の長男としての立場と妻を愛する平凡な夫の立場の間を行き来して神経をすり減らして来たのだ。実際より老けて見えるのもそのせいだろう。
「娘も、私や家内を見ていて人間関係のむずかしさには心を痛めたんでしょうなァ。娘が人に頼らない、技術で世の中に出る道を選んだのも自然と言えば自然なんです」
「なるほど」
「失礼な言い方になったら謝りますが、日本では欧米人との混血だけには寛容なようですね、ちがいますか?」
「何とも言えませんが、そんな気はしますね」
「私と家内がやり合うことも多かったですから、娘はアメリカも韓国も好きになれんのですかな……。お父さんのことが心配だから留学は日本にすると、泣かせることを言うんですわ。娘の眼には妻に先立たれた哀れな父親にしか映っとらんのですね。これが娘です」
 崔氏は財布から娘さんの写真を取り出して真一に渡した。
「私は、娘には勉強だけじゃなく日本でいい連れ合いを見つけてくれたらと思っとるんですよ」
 写真を見ながら真一は息子の順七を頭に浮かべた。無意識のうちに二人を並べてしまう。この美しい娘が両親の胸中を思いながら育ってきたのかと思うと、真一は息子がどうにも甘ちゃんで幼く思えてしまう。
「ほお、きれいなお嬢さんですなァ。で、今はどちらに?」
「早大です」
「え? 早稲田と言われましたか? ウチの息子もでして。化学専攻です。娘さんも化学なら、ひょっとして……。日本に帰りましたら、さっそく息子に聞いてみますか」
「ウチの娘も三日に一度は電話して来ますから、私のほうでも」
 父親どうしが意気投合すると親の欲目で見合い話に仕立てたくなるのかも知れない。日本、韓国に限らず、どこの国でも父親の想いは変わらないのだろう。二人の父親は淡い期待を持ち始めたようだ。


 七 新しい家族 


 ソウルの学会から帰国した真一は家でもよくしゃべって機嫌がよかった。
「崔教授なァ、なかなかの苦労人で……。順、知ってたか?〈Choi〉って書いてチェと読むんだぞ。いやぁ、この年齢になって友人ができるなんて痛快だ。奇跡だよ。あっはっは」
 ……間もなく順七が家を出ていく。時は過ぎてしまえば早いものだ。さびしさが息子の前に出るとぎごちない快活さを装う……やせ我慢だな。
 息子の順七は「チェ」と聞いて心臓が止まりかけた。研究棟で通りすがった美人留学生の名札を盗み見て〈Choi Milan〉が読めなかった。……チョイ・ミラン? ミランはミラノかな、するとイタリア系か。音は可愛いけど、チョイっていまいちパッとしないなァ。親しくなる前の順七はそんなふうに思っていた。彼女が順七の研究チームに加わることになって初めて〈Choi〉が韓国の崔という姓だと知ったのだった。……でも、まさか、親父がミランのことを知ってるわけないし……

「娘さん、美人で名前も素敵だったな。教授がアメリカ英語でミラーンなんてLの発音したもんで韓国人の名前には思えなかった。名前がミラノじゃアイリッシュじゃなくてイタリアンだ、あっはっは」
 ミランと聞いて順七の心臓がドッキンと止まった。まさか、親子ってこんなところまで似るものなのか。親父がミランを知ってるのか? アイリッシュとまで出たんだから知らない方が確率が低い。順七はドキドキしながら父親の次の言葉を待った。
 電話が鳴って真一が出た。ソウルの崔教授から国際電話だった。
「いやぁ、丁氏ぃ。娘から電話がありましてね、この度のご縁を本当にありがたく思っとります……」
 ……さあ、息子を連れてさっそく崔氏と再会だ……
 真一は電話の向うの新しい(ヒョン)ニムの笑顔を思い浮かべた。(了) 

 

















ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




◆BACK
小説家になろう