(1)
手もとに面高亀治郎著『社会言語学序説(上)』という古本がある。先だって古書店のワゴンで見つけた¥20の小冊子であるが、僕はウサン臭そうなこの手の本が好きなのである。論調は高慢チキなくらいなほうが元気があってよろしい。「日本人の心、その出来・不出来」と副題のついた貧相な装丁の本をかいつまむと次のようになる。
元来「たましい」と「こころ」は明らかに別モノであったものが、二者を識別する必要を感じなかった無知の者らによって、長く混同され使われた。学者もこれら二語の正しい定義と用法を確立することに熱心ではなかった。ついには「たましい」と「こころ」を識別する糸口までもが失われて、「たましい」は「こころ」に、「こころ」は「たましい」に同一視されて、同義語になり果てた。そして学者に限らず国民に蔓延した勤勉精神の欠如と相まって、他国に類を見ない宗教的デタラメである神仏習合をもたらし、言葉の識別をおろそかにした恥知らずの国民に太平洋戦争に敗れるという未曾有の天罰が下った……
……学術書にしては珍しい、いや恐ろしい。それにしてもすごい跳躍力で、話が飛躍する……。僕はうれしくなった。ドットばかりの判然としない著者近影に僕は声をかけた。「あんた、何者なん?」
混乱を避けるために少し補足しておくほうがよいだろうと思う。「たましい」と「こころ」の2語に関する著者面高の〈語感〉は我々のものからはかなりの隔たりがある。読者諸氏自ら辞書に当たられることを希望するが、辞書の定義でさえこの2語には重なり合う部分が多く、残念ながら区別は明確だとは言えない。面高は、
「たましい」を「人の肉体に宿る精気・精力」
「こころ」を「人の精気・精力をつかさどる気のはたらき」
という意味で用いているようである。どっちがどっちとも言えない説明が辞書にあるのは面高の指摘通り、我々の側の「混乱の結果」なので、これは認めざるを得ない。僕は同書を2度通読して俺なりにハッキリさせてみた。ご参考までに。
「たましい」=(本能的)衝動
「こころ」 =(本能的)衝動のコントロール
さて、学者なのか、ただのホラ吹きかはわからないが、面高の言い分にもマトモな部分もなくはない。《日本語の「たましい」は、西欧では〈anima・アニマ〉と呼ばれる生命維持本能を指したもので、アニメーションとかビタミンなどの語にその名残りをとどめている》などはその数少ない例のひとつだが、この男の危険なところは「限度をわきまえない」ことなのだ。同掲書のいたるところで学者をコキおろしている---これは学者の世界といえども弱肉強食であろうから、わからないではない。しかし、読者にまで喰ってかかるのは分をわきまえた者のすることではない---よくもまぁ出版社が引受けたものだ……ま、出版社にもよほどの事情があったのだろうとしか僕には言えない。
面高は動物だけでなく、植物にまでアニマを当てはめて、再生されるものすべてがアニマ有するのだとしつこい。『動物と植物の間に明確な境界などあるものか、な、ねぇだろッ?』と読者に念を押したりする。「ヤッホー」の谺は木々のアニマが空気中に放出されることなのだから、「ほとばしり」の「魂」を当てて「木魂」と書くのが正しいと得意そうに言い張る。
余談だが、彼の略歴に「『植物との交感』についての講演予定多数」とあったのには僕も吹き出してしまった。学者が業績を記すのはわかるが、「予定」というのはこの著者ならではと思う。『植物との交感』で僕は〈サボテンと話す男〉として、スプーン曲げの超能力少年やUFO研究家のY氏とテレビに出た二番目の兄を思い出していた。
著者は「こころ」について、いかにも学者ふうの難解な口調になる。
「こころ」とは生態系のなかで同種の別個体が共有し、種として存続するための謂わば「暗黙のコード」であり、外界(特に同種の別個体群)から刺激を受けて、後天的に習得的される方法として当該個体のアニマを抑制・制御すること、特にそうする或はそうできる熟達度のことを言う。「こころ」が「たましい」と異なる点は個体によりコード受容機能の差がレベルの差を生む云々……
何のことやらさっぱりわからん。ま、要するに、心は「存在」というより「働き」だと言いたいワケだろう。事実、他の箇所で面高は〈アニマの練れ具合〉とか〈アニマの鍛え具合〉という句で「こころ」を説明しているのだから、それでいい。
(2)
著者の面高によれば、不幸な混同のために世間一般では逆のニュアンスで使われていると言う。(読者には辞書の定義が必ずしも分明でなかったことを想起していただきたい)
本能的・情動的な欲の表出形態である「たましい」を用いるべきことろに抑止的(理知的)・倫理的能力を言う「こころ」をあてがったがために、用法が逆転したにもかかわらず、同義語として混ぜ合せてしまったせいで、言わば、その逆転を見抜けなくなった訳である云々……
……そう言えば、我々は「情」の字をあてて「こころ」と読ませる小細工をしたり、「魂」と言うと宗教的にもワンランク上といった印象を抱くと思うが、面高亀治郎の考えには、やり方はたしかに少々強引だが、元来別種の二つに分けて使おうという努力は見られる。
アメリカ原住民やアイヌ、日本も身分社会が出来る以前は、世界の片隅でちっぽけな村落共同体を営んでいたから、「たましい」と「こころ」の区別は厳としてあった。村落はその二者の統合体とでも言うべき自己責任の観念を有する自覚した個人たちで成り立っていた。そうした自然とともに暮らす自律社会では、平和裡に共存しなければ社会が立ち行かなかったのはうなずけよう。現代のように細分化されてしまった社会(職場)が要求するのは、個人の能力の一部の「職能」だけで、トータルで全人的な個人が求められてはいない。現代の個人が内部分裂を起こすのは当然である云々……。
プライバシーを保護しようなどと言うのは、病的に分裂した陰の部分をいたずらに助長するだけで、個人としても社会としても決して健康的な考え方ではない。見られて恥ずかしいものを神が与えるはずがあろうか? 恥ずかしく思わなければならぬのは、分裂した人間の捩じ曲がった驕りのほうである」
……いいねぇ、迫力があって。読者に迫るね。まるで路上で男女がくっつき合っても構わないと言わんばかりである。狂信者は他説を含め、人間の文化を一気に否定する傾向を有するものだ。面高亀治郎って狂信者なんだろうか?
……著者の面高亀治郎は、熱が入ってくると文体がなぜか擬古調になる。自説に対する自信の表れなのか、興奮を自ら鎮めるためなのか。読者がそれを知る由もないが、読む方とすれば異様な感じを免れない。
「たましひ」と言へるは「賜ひし」の訛りにて山茶花を(サザンカ)と読み誤りしを慣用とせし如くに音の交替に拠るものなり。森羅万象を司る神より賜ひし「たましい」に依りてのみ、生きとし生けるものらは己の命の絶える前に子を産むを許されたるものなればなり。他方「こころ」とは「ころころ」とものの転ずるさまをを言ふ擬態語の転成なり。円きはものの有りやうとして究極なる形状なれどもその円きがゆゑに人その扱ひに手許不如意に陥ること多し。訓戒の意をこめて祖先より伝来せし命名なり。宜なるかな。
……まったく読みにくい。本人はアーティスティック・インプレッションを狙ったのかも知れないが、ひとりよがりの趣味を読者に押しつけるのは困りものだ。他説に耳を貸さないところなどは一般人に悖る。「たましい」を「玉惜し」(生命を尊んでそれを惜しむ)に由来するとする説を「根拠不十分」のたった5文字で片付けている。読者とすれば〈面高説〉をきわだたせるためにももう少し説明が欲しいところだが、「他説の根拠の無いことを証明するほど閑人ではない」と自著に堂々と書く男がそんなことをするはずもない。
太平洋戦争に突入し之を推進したる日本軍部は「たましひ」の語をば本来の正しき意味に用ゐて『やまとたましひ』とはなせり。然るに此のとき既に大多数の国民は「たましい」及び「こころ」の取り違へに迂闊且つ無関心なりしが禍ひし軍部を批判すること能わざりき云々……
……国民が先祖伝来の知恵を引き継いで、「『たましい』って『こころ』とはちがうはずなのに、変だな…?」と〈こころ〉していれば、力まかせ(著者のいう本能の発露である「たましい」の暴走)がどれほど野蛮で危険なことか、またそのシッペ返しまで思いをめぐらして戦争への歯止めとしても働いただろうと言うのか。『大和魂』が「戦争」なら『やまとのこころ』は反戦平和でなく「いくさ」だろうになぁ。俺はだんだん面高に「読まされている」と思うようになった。面高亀治郎は作家だな、どうも。生硬な表現を避けてもっと楽しいものが書けばいいのに、惜しい。「たましい」と「こころ」の二語の相違を、ここまで押し拡げる大風呂敷は学者より作家のものと言うべきだろう。
(3)
僕はこうした「よた話」は嫌いではない。内容の方は話半分として聞いておけばよい。しかしわざわざ分冊にしたのは何か意味があってのことなのか。上下の2分冊か、上中下の3分冊か知らないが、(上)の論調を維持したとすれば、続巻では人間のあるべき社会を模索して、更なる大風呂敷が拡げられていることだろう。残念ながら、俺の手元には上巻しかない。
内容とは別に、僕は著者のようなまっしぐらで危なっかしい心根をなぜか可愛く思ってしまう。向こう見ずな性格も少々うらやましい。……そう言えば、うちの身内にもいたな……。龍一郎、亀二郎、寅三郎、犀四郎、クマゴロー……。
小学生だったときに、裏の畑で母が真新しい本の束を燃やしているのを見たことがある。本は跨いでもいけないと育てた家で、本を燃やすなどあるまじきことだったので覚えていたのである。
「かあちゃん、メンコウ・カメジロウってだれ?」
「さ、だれだろね。おおかたどっかのバカもんさ……」
そう言いながら母は、それでも5册ほどをよけて、煙に顔をしかめながら燃やした。当時、大学生になったばかりの次兄が、母の虎の子で小説を自費出版したという話はずっと後になって聞いた。父に内緒だったものが露見して「法学徒が文士のまねごとをするでないッ」と焼却を命じられたのだった。
『社会言語学序説(上)』というのは紛らわしい題名の「小説」のつもりなんだろな。……「面高」もふつうに読めば「オモダカ」だろうがな。え? オモダカ? 「面高」は「沢瀉」とも書き、我が水野家の家紋である。改めてぼやけた著者近影を見ると、ボサボサ頭に詰め襟の学生服姿は次兄のそれに間違いないと思えてきた。(了)
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