離の章 始まりの広場
「ああ、疲れた」
卒業したとはいえ、学校から家まではいつもどおりの自転車通学であった。もっとも、それもきょうで終わりではあったが……。
かりんは景色を慈しむようにゆっくりとペダルをこいだ。かつては毎日のように竜介と通った同じ道である。高校を卒業することによって、彼との思い出とも切り離されるようで、かりんはいよいよ感傷を抑えることができなかった。
上京はあしたの予定だった。すでに東京の下宿におおかたの荷物を運んであったので、あとは自分の身を持っていくだけでよかった。
その晩、かりんは彼の好きだったクライング・エンジェルの曲に耳を傾け、彼との記憶にひたった。いつも胸の中でわたしを励ましてくれる大切な人よ――と、ミーナこと春日美奈子がうたうのは、かりんにとってもまさにそのとおりだった。どんなつらい場面になっても、彼のことを思うと勇気と元気が湧きあがってきたからだ。
負けないで、負けないで、ただ自分を信じて大空へと羽ばたくのよ――というこの曲は<アップ・イントゥ・ザ・スカイ>というタイトルだった。これもクライング・エンジェルのインディーズ時代の作品だったが、そのメッセージはこれから未知の世界へ飛びだそうとしているかりんの心情をみごとにとらえていた。
「先輩、わたしやるからね。わたしのこと、見ててね」
竜介の写真に向かって、かりんは誓った。
そして出発の朝――。
「じゃ、お母さん。東京へ行ってきます」
娘がはじめて自分のもとを離れるのである。寂しくない親などいるだろうか。
「うん、体に気をつけてね。向こうに着いたら電話ちょうだいね」
夏子はしんみりといった。
「うん、わかった。お母さんも体に気をつけてね。じゃ、行ってくるね」
といい、かりんは歩きだした。
何度も振りかえると、母はいつまでも自分を見送ってくれていた。
小さなかばんを肩にかけてかりんが向かった先は三宮であった。駅を下りるとセンター街の雑踏を抜け、メリケンパークのほうへゆっくりと歩いていく。よく竜介とデートをしたコースであり、あちこちに彼との思い出を見つけることができた。
メリケンパークの端の石段に座り、彼とよくしたように缶ジュースを片手にぼうっと海を眺める。故郷を離れるのだと思うと、急に寂しさがこみあげてきて、彼に会いたい気持ちが強く湧きおこってきた。空の雲が彼の笑顔に見えてきて、かりんはぽろりと一粒の涙を流した。
もう一度三宮駅のほうへ戻り、気がつくと彼女はあの小さな広場に来ていた。
思えば、すべてはここから始まったともいえる。三年前、かりんはここで有田と話をし、それがきっかけとなって少林寺拳法に入門することになった。
あのとき先生とは映画の話をしたが、これから女優になろうとしているかりんを考えると、あの会話はなんと予言に満ちていたことか。
「星野、きみはなにが好きなのかな」
と先生がたずねてきたのに対して、かりんは映画が好きだと答えた記憶がある。
いまかりんは好きなことである映画を仕事にしようとしていたのだから、先生は出会った当初からかりんをこの道へ導こうとしていたのだろうか。わからない。だが、先生に対する感謝で心があふれていることはたしかだった。
そこからは坂をのぼり、神戸北野異人館街のほうへ歩いた。
途中、通りすぎたラブホテルはむかしよく援助交際で利用したところだった。お金のために体を売るなど、いまでは考えられないが、その当時は必死だったのだ。それ以外に愛を手に入れる方法は知らず、どんどん深みにはまっていくようであった。
異人館街は多くの人出で非常な賑わいを見せていた。ここも竜介とよくデートをした場所であり、かりんは懐かしさで胸が押しつぶされそうになりながらも足早にそこを抜けていった。
先の尖った背の高いホテルの向こう側にある新幹線の駅にたどりついた。新神戸である。
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