離の章 演劇の女神
「な、なんでやねん。なにアホなことをいってるねん」
はっとしたかりんは、とっさにごまかした。
「嘘つくな。あんたの目、小猿みたいにおびえきってるやん」
「小猿やと!?」
あまりにも単純なかりんだった。かりんはえり奈のたった一言にかっと頭に血が昇り、さっきまで悩んでいたことを忘れていた。
「じゃあ逃げないで最後までちゃんと戦いなさいよ」
えり奈はかりんをにらみつけた。だいたいこの星野かりんという女のことになると、えり奈はどうにも自分の気持ちをコントロールできなかった。彼女を見ているだけで腹が立ってくるというか、なぜかいらいらしてくるのだ。
「あんたにいわれなくたって、最後までちゃんとやるよ」
かりんはえり奈をにらみかえし、二人のあいだにバチバチと火花が散った。
舞台上の勉強机の前に座ると、かりんは静かに呼吸を整えた。まだ照明は暗く落とされている。本番になるまでうじうじと悩んでいた彼女である。まったくなんの準備もしていなかったが、こうなればもう出たとこ勝負でいくしかない。気持ちがあふれるままに演じるまでだ。
かりん一人にスポットライトが当てられた。そして、演劇の女神が彼女に舞い下りた。
突然鳴った携帯電話にかりんはドキッとした。マンガを置き、電話に出る。
「もしもし」
と声優がいう。声に緊張感が交じっている。
「はい……」
かりんが答える。
「落ちついて聞いてね。あのね、秀介がね……秀介がね……車にはねられて……」
とその瞬間、かりんの脳裏に事故のようすがスローモーションで映しだされた。
横断歩道を渡ろうとする自転車。よそ見をしている運転手。赤に変わる寸前の信号。
「あっ!」
と顔を引きつらせる運転手に、ガチャンとにぶい音をして吹き飛ばされる自転車。その自転車に乗っていた男の子は地面に頭をしたたかに打ちつける。
ただし車にはねられて頭から血を流しているのは――なんと竜介であった。
「かりん……」
うつろな目で助けを求める竜介、こちらを見ている。
あまりにものリアルな映像にかりんは携帯電話を落とし、両手で頭を抱えこんだ。
「きゃあ――――!」
会場を稲妻が突きぬけ、観衆は電流に貫かれたように固まった。
「きゃあ――――!!」
かりんがもう一度叫ぶと、見ている者は全員、はっと息を詰めた。
「嘘よ……」
重苦しい沈黙のあと、かりんがぼそっとつぶやいた。
さゆりと朋美はまばたきをするのも忘れ、舞台上の光景に釘づけになっていた。演技をするとは、こういうことをいうのか。目の前にいるのはたしかに星野かりんではあったが、同時にそこにいるのはまったくの別人だった。 |