離の章 逃げる少女
「ああ……もうダメ……」
控え室に戻ったかりんは、がっくりと肩を落としていた。
せりふはかみまくり、相手役との呼吸もずれまくり、おまけにステージを下りるときに観衆の前でつまずいてしまったではないか。もう自分がいやだ。
そんなかりんに内心喜んでいたのは、えり奈である。
他の受験者もそれなりに演技が上手だったが、えり奈は彼女たちには余裕で勝つ自信があった。実力が違うのだ。えり奈は何年も厳しいレッスンを積んできたのであり、きのうきょうから女優を目指しはじめた人に負けるわけがなかった。
ステージのほうでは自由演技の審査に移ろうとしていた。えり奈はすでに自分の芝居を組み立て、あとはそれを本番で見せるだけだった。
(にしても、この子ときたら――)
茫然自失のかりんを一瞥し、えり奈は鼻でふふんと笑った。
時間になると、ファイナリスト一番の佐藤亜由美から審査に入った。
地方の小さな劇団に所属している亜由美であるが、質と量ともにこれほどの大舞台は踏んだことがない。それだけに緊張も高かったが、ここまで来たのだからあとは自分の持てるものを精いっぱい発揮するだけだ。
ステージ上にはベッドと勉強机のセットが配置されていた。亜由美はその机に向かって座り、マンガを読んでいる演技をしていた。ときどきおかしそうに笑い、楽しそうである。
すると突然、携帯電話が鳴った。もちろん効果音だ。
「あっ、秀介からだ」
亜由美はぱっと表情を輝かせた。
「はい、もしもし」
「もしもし、秀介の母ですが」
と声だけの出演は、今回のために雇われたプロの声優である。声のトーンが低い。
「はい……」
戸惑いぎみに返事をする亜由美。
「落ちついて聞いてね。あのね、秀介がね……秀介がね……車にはねられて……病院に運ばれる途中で……息を引き取ってしまったの……」
声に涙が混じっている。
電話が切られ、ツーツーという電子音が響きわたる。力なく携帯電話を落とす亜由美。視線が遠くなる。みるみるうちに表情が崩れていき、つぎの瞬間、亜由美は口を開けて大声で泣きだした。
他のファイナリストたちは出番を待ちつつ舞台袖で亜由美の演技を見守っていたのだが、一人かりんだけは胸の苦しさから芝居を直視することができなかった。仕打ちといえば、これほどのひどい仕打ちがあろうか。かりんは自分の順番になるまで、つらい思い出の詰まったこの場面を何度もくりかえし見なければならなかったからだ。
実際そのとおりになった。一人ずつ演技をこなしていったが、それにともなってかりんの苦しみも高まっていくようであった。かりんは唇をかみ、苦悩に胸を押さえた。これではまともに舞台には上がれないだろう。かりんは気が変になりそうだった。できればここから逃げだしたいほどだった。
かりんはきょろきょろとあたりを見回した。だれも自分のほうを見ていない。いまがチャンスだ。かりんはそっとその場を離れようとした。
「つぎあんたの番でしょ。いまからどこへ行こうっていうのよ」
不敵な笑みを浮かべてかりんの前に立ちはだかったのは、なんとえり奈だった。
「ああ――、さては逃げようとしたな」
えり奈は嘲笑の眼差しをかりんに向けた。 |