離の章 失意のかりん
とぼとぼと歩いていく。六甲山への陽の当たり方が美しかった。かりんはその優しい風景に目を細め、ふうとため息をついた。
武道場のほうへ近づくと、部員たちの元気な気合いが聞こえてきた。入口の外に立ち、そっと中のようすをのぞく。朋美が後輩を指導しているのがうかがわれた。きょろきょろと探したのは有田の姿だった。
「お父さん……」
小さな声でつぶやいた。が、まるでテレパシーが伝わったかのように、有田はかりんに気づいてくれた。その有田がかりんのほうに寄ってきた。
「星野、ちょっとこっちへ来なさい」
といい、有田はそのまま武道場を出た。かりんは黙ってあとについていった。有田は階段のところに腰を下ろした。
「さっ、ここに座りなさい」
有田がうながすと、かりんはそのとおりにした。
「星野、もう負けたのか。早いな」
はっはっと笑い、有田は目でかりんにほほえみかけた。かりんは驚いた表情で有田を見た。
「じつはな――」
と有田が明かしたのは、きのうの出来事である。
「有田先生、星野かりんの保護者からお電話です」
職員室で授業の資料を準備していると、有田は呼ばれた。
「はい、お電話代わりました」
「娘のことで折り入ってお願いがあります」
という星野夏子の声には、なんとなく切迫した雰囲気があった。
「はい、なんでしょう」
有田はとりあえず答えた。
「じつは、娘が受験期のこの大事なときに、急に女優になりたいなどといいだして、先生のほうから一つ、やめるようにいっていただけないかしらと思いまして。娘は先生を尊敬しているようですし、先生のいうことであれば素直に聞くと思うので、どうかお願いできませんか」
「はあ」
「ご存知のとおり、うちは母一人、子一人の母子家庭ですし、娘にはなんとしてもいい大学に進学して、いい就職先も見つけて、わたしみたいに苦労してほしくないのです。ですから先生、どうか娘を説得してくれませんか。お願いします! お願いします!」
いまにも泣きださんばかりの星野夏子に、有田はほとほと困ってしまった。
だが、ことはこれだけでは終わらなかった。かりんの担任もまったく同じ内容のことで相談に来たのである。
「有田先生、ちょっといいですか」
と声をかけられたのは、まさに武道場へ向かおうとしていたときだった。
「じつはうちのクラスの星野ですがね」
担任がいう。
「女優になるとでもいっとるのか」
有田は苦笑しながら答えた。
「なーんだ。知ってらっしゃったんですか」
担任の表情がぱっと明るくなった。
「ならば話が早い――。それで、もしあれでしたら、ちょっと有田先生の方から考え直すようにいってくれないだろうか。一言に女優になるといっても、そう簡単になれるわけでもないし――。それに彼女の学力じゃ関西圏の国公立大学を充分に狙えるし――」
と担任は有田に訴えかけてきた。
「で、お父さんはなんて答えたんですか」
かりんは有田の対応が気になった。武道場のほうからは相変わらず部員たちの元気な気合が聞こえてきていた。
「うん? お父さんはとくになにもいわないよ。はあとか、ほうとか、適当にごまかしておいたよ」
有田はとても愉快げに笑った。その言葉にかりんはほっとした。
「なあ、星野」
笑いを収めた有田は真剣な口調となった。
「人生にはな、気持ちをしっかりと持たなければならないときがあるんだ。まわりのプレッシャーが強く、どうにも倒れそうになる、そんなときだ。そういう状況でこそ、人はぐっと踏んばらなければならない。女優になるんだという大きくて、立派な夢を持ったいまこそ、きみは何度も何度も決意を新たにし、何度も何度も自分を奮いたたせ、何度も何度も勇気を振りしぼってかんばらなければならないんだ」
有田は熱いまなざしでかりんを励ました。その情熱に打たれ、かりんの目には自然と涙があふれてきた。
「それにきみは女子副将を最後まで務めあげたんだ。そのきみだ。やる気にさえなれば、なんだってできるはずだ。いまこそがんばるときだ。逆に、いまがんばらなくて、いったいいつがんばるというんだ」
かりんの瞳からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちてきた。
「星野! がんばれ! 負けるな!」
有田はエールを送った。かりんはこらえきれずに有田の胸に飛びこみ、その懐で泣きくずれた。有田はかりんの肩をとんとんとたたき、彼女の心を優しさで包みこんだ。
やがてその涙もかれてきた。かりんは手の平で顔をふき、決意に満ちた表情で空の向こうに目をやった。
(そうだ。いまがんばらなくていったいいつかんばるんだ――)
かりんは有田の言葉を反すうし、さっそうと立ちあがった。 |