離の章 立ちはだかる壁
外にはより広い世界が存在することを知ってしまったかりんは、もはやふつうではいられなかった。
受験期ということもあって、同級生の大半は休み時間になっても机にかじりついたまま勉強に励んだ。が、かりんはすでに大学へ進む気などなく、その代わりに演技の勉強をすることに決めていた。とはいえ、ものごとがそう単純でなかったのは、周囲の人たちがかりんの選択に対して猛反対をしてきたからだ。
「星野。ちょっと進路指導室へ来い」
と放課後にいってきたのは担任の先生であった。さゆりが心配げにかりんを見ると、かりんは軽くうなずき、大丈夫といった。
進路指導室に入ると、かりんは背筋をぴんと伸ばし、担任と向きあった。
「おまえもよっぽど強情なやっちゃな。おまえは自分がなにをいっているのかわかってないんだ。よりによって女優になるだなんて」
担任は怒っているふうにも見えた。
「なっ、星野、考えなおしたらどうだ。おまえの一生に関わることだぞ。女優なんてそう簡単になれるものではないぞ。おまえだってそれぐらいはわかっているだろ」
かりんは無表情で担任の言葉を聞いていた。担任の話はまだつづく。
「そんなもん失敗するに決まっているじゃないか。なっ、これはおまえのためにいっているんだ。おまえの学力じゃ、関西圏の国公立大学にだって行けるんだから、もう一度ちゃんと考えたらどうだ」
という担任の言葉は途中から聞こえなくなり、代わりに有田の声がかりんの脳内に響きわたった。
「なるべくでっかい夢に挑め。はじめから失敗することを恐れて、こぢんまりまとまった無難な人生を選ぶな」
有田は何度も同じことを説くのだった。
「いや、べつに失敗してもいいんだ。きみたちはまだまだ若い。ちょっとぐらい失敗したところでいくらでも取りかえしはつくんだ。だから、でっかい夢に挑戦してみろ」
その言葉はかりんに勇気を与えるようであった。が、かりんの思考は担任によってさえぎられた。
「お母さんはなんていっているんだ。お母さんだって反対しているんだろ?」
と、かりんがここでうつむいたのは、まさに担任のいうとおりであったからだ。その担任の顔には、生徒を小バカにするようなニヒルな笑いが浮かべられていた。
帰国してすぐに、かりんは母に女優になりたいことを告げた。
「わたし、女優になろうと思うねんけど」
かりんがそういうと、母の夏子は飲みかけていたお茶をこぼしそうになったほどにあわてた。
「ちょ、ちょっと、なにいってんのよ。大学へ行くんでしょ。この前もそう話したばかりやないの」
と夏子がいったのは留学する直前のことであり、そのころかりんはたしかに進学することもすこしは考えていた。が、気持ちが変わったのは新しい目標が見つかったからであり、かりんはもはや大学を受験するつもりなどなかった。
「それにお母さんがどれだけ苦労して苦労してあんたを女手ひとつで育ててきたのか、あんただってわかってるでしょ、それぐらい」
夏子の目にはうっすらと涙が浮かべられていた。
「それはわかんねんけど、それでもわたしは女優になりたいんや。どうしてもなりたいんや」
かりんは悲しみと悔しさが入りまじった複雑な心境になっていた。なんでお母さんはわかってくれないのだというもどかしさである。
「ねえ、かりん。お母さんの話をちゃんと聞いてんの? お母さんはね、あんたにわたしみたいな苦労をしくほしくないの。ええ大学を出て、ええ仕事について、ええ人生を歩んでほしいの。子の幸せを願うのは親として当然でしょ。ねっ、だから女優になりたいやなんていわんと、ふつうに大学へ行ってちょうだい」
「お母さんこそわたしの話をちゃんと聞いてるの!? 子の幸せをほんまに願うんやったら、わたしの選んだ人生を尊重してくれたってええやろ! わたしはどうしても女優になりたいんや!」
「か、かりん。なにもそこまで大声を上げなくても――」
「じゃ、わたしの選択を認めてくれんの!?」
「それとこれとは話はべつでしょ」
「お母さん! 話をそらさないで! とにかくわたしは女優になるねん! お母さんがなんといおうと、わたしは女優になるねん! なるねん! なるねん!」
「ああ、もうっ、うるさいっ!!」
と同時にかりんがほおに鋭い痛みを感じたのは、母のびんたが飛んできたからだ。
「あっ……」
夏子ははっと息を詰めた。
かりんはあまりにものことに言葉を失い、母と子はただ驚いたように見つめあった。
「お母さんの分からず屋! お母さんなんて大嫌い!」
と吐き捨て、かりんは自室に逃げこんだ。そしてふとんを頭からかぶり、子供のようにわんわん泣いた。
それがおとといのことだ、以来、かりんは母とは一言も言葉を交わしていない。
「なっ、星野。そういうことだから、もう一度よく考えてみろ。いいな」
ふたたび担任の声にかりんは現実に戻ってきた。
「……はい……」
かりんはかろうじて答え、席を立った。扉のところで回れ右をし、担任に礼をして進路指導室を出た。 |