離の章 シャロン・ストリーム
翌朝、かりんは小鳥たちのさえずりで目を覚ました。となりにはもうジェニファーの姿はなく、かりんは寝ぼけ眼のまま宙の一点をぼうっと見つめていた。
「グッド・モーニン!」
なんともさわやかな登場をしたのはジェニファーだった。ツリー・ハウスのはしごを登ってきたところのようである。
「おもしろいところに行ってみようか」
ジェニファーが誘ったのは、きょうは土曜日で学校が休みだったからだ。かりんは深く考えるまでもなく、行きたいと答えた。
朝食を済ませると、二人は自転車にまたがって家を飛びだした。だんだんと寒い季節に向かっていたとはいえ、この日はすでに気温の高まりをみせつつあり、サイクリングをするのにまさにうってつけの日和であった。
ティーシャツにジーンズというかりんに対して、ジェニファーはタンクトップによって豊満な胸は強調され、セクシーな足はショートパンツからすっと伸びていた。さすがにカリフォルニアの高校生は違うなと、かりんはまぶしそうにジェニファーを見つめた。
土曜の朝とあって、車量はいつもに比べてすくないようであった。空は雲ひとつないほどに晴れわたり、自転車で走りぬける朝の空気は清涼として気持ちがよかった。
この日、二人が向かったのはジェニファーが通う演技スクールだった。ハリウッドでの成功を夢見る彼女は、ここで演技の実地訓練を受け、将来に備えていた。スクールは規模としては小さいほうで、それほどの歴史もなかったが、生徒の中にはちょこちょことテレビ番組の脇役をもらうのがいた。そういうジェニファーもホームドラマや学園物に何度か出演していた。
演技のためのスクールといっても、ステージがあるわけでもなく、総板張りのフロアがあるだけだった。二人が着くころにはすでに多くの生徒たちが集まっており、彼らはそれぞれにストレッチをしたり、発声練習をしたりしていた。ジェニファーもすぐに準備に入り、かりんは壁際に控えて全体のようすを見学した。
ほどなくすると先生らしき人物が登場した。女性だったが、彼女が一歩入ってきただけでフロアの空気が軽やかになったようにかりんには感じられた。
とても大きな目に小さめの鼻、微笑をたたえた口もとはなんともチャーミングだった。愛らしい顔立ちのこの女性の名はシャロン・ストリーム――今年で七十になってはいたが、かつてはハリウッドの銀幕を飾った大女優だった。五十のときに大病をわずらい、一時は表舞台から姿を消したが、六十歳の誕生日にロス郊外においてこっそりと演技スクールを立ちあげ、現在にいたる。
生徒たちはシャロンに元気よくあいさつをしたが、声の張り方や表情の輝きから彼らがいかにシャロンを敬愛しているかがうかがわれた。
「はい、みなさん。そのままつづけて」
先生はいい、スクール生は各自やっていたことに戻った。
「シャロン」
といったのはジェニファーであったが、かりんは一週間たっても、互いをファースト・ネームで呼びあう彼らの習慣にはなじめなかった。日本であれば有田先生を、政二郎と呼び捨てにするようなものではないか。
「彼女は日本からうちのハイスクールに来ている留学生で、名前はカリンです」
ジェニファーが紹介をすると、かりんはぺこりと頭を下げた。
「そう! じゃ、きょうはゆっくりしていってちょうだいね」
シャロンはかりんをハグした。この外国式のあいさつにとまどいを感じながらも、かりんは心の底からわきあがる温もりを感じた。
スクールの方針として、生徒たちはつぎつぎとオーディションを受けさせられた。テレビ番組から映画まで幅広く、彼らは自分の実力を試すように強いられた。そうすることによって彼らは現場の空気にふれることができ、貴重なアドバイスを受けることもできた。また、それは他人と比べることで、自分を客観的に見つめることにもなった。
いざ練習が始まると、とたんに空気が引きしまり、フロアは緊張したものに変わった。シャロンはスクール生に課題を出しては彼らに演技をさせ、一人一人にていねいに助言を与えていった。かりんは興味深くその光景に見入っていたが、そのかりんに突然の試練が襲いかかってきたのは、開始から三十分もしないうちだった。
テーマは<爆笑>であった。生徒たちは腹をかかえて笑うように指示をされたのだが、シャロンはかりんにも参加するようにいってきた。
「えーっ!? そんなのはずかしくてできへん」
思わず日本語で答えたほどにかりんはあわてた。だが、すでに全員の視線が自分に集まっており、そこにはどうにも逃げられない雰囲気があった。かりんは意を決して笑ってみることにした。
笑った。しーんという白けたムードが広がった。かりんはたらりと冷たい汗を流した。もう一度笑ってみた。今度はさっきよりも大きな声を出すようにした。が、それでも足りないのか、生徒たちは腕組みをしたりして、ただかりんを見つめていた。
「うーん」
とシャロンはうなったあと、生徒の数人に目でなにやら合図をすると――なんと、かりんは彼らにまたたくまに押さえこまれてしまった。少林寺拳法部の副将まで務めたかりんが反応できなかったほどに、それはあっというまの出来事であった。いままで修行してきたのはなんのための護身術か。
「はい、やって!」
先生が命令をすると、ジェニファーはかりんの脇腹を思いきりくすぐりはじめた。
「ちょ、ちょっと、なにすんのよ」
足をじたばたさせ、かりんは抵抗したが、大勢に無勢である。まったく無駄なあがきだった。
かりんはげらげらと笑い、それでもやめてもらえず、さらに笑いつづけた。そうするうちに思考力がいちじるしく低下していき、ある瞬間をこえると、頭の線が一本切れてしまったかのように笑いが止まらなくなってしまった。 |