破の章 自分を試す 2
そして彼女はいよいよ当日を迎えた。
佳代子は坂口先生や自分のクラスの生徒たち、そしてついでに政二郎も招待し、本番に臨んだ。場所は市民ホール、広い会場の席は観客で埋まっていた。
出番を待つあいだ佳代子は目を閉じ、空想の鍵盤に向かって指を動かした。みっちりと練習を積み重ねてきた曲ではあったが、まだそれほどの自信はなかった。もっともっと練習をしたかった。せめてもう一週間――いや、あともう一か月――いや、あともう一年と気持ちがどんどん消極的になっていく自分に気がつき、佳代子は苦笑した。
坂口先生がいるのだと思うと、どうにも気持ちが落ちつかなかった。緊張感に心臓が飛び出しそうだった。うまく弾けるだろうか。失敗はしないだろうか。だが、みんなが見ているのだ。無様な姿は見せられない。
そうしているうちに、ついに佳代子の出番となった。口の中がからからに渇いていた。いまさら躊躇しているひまなどない。これまでに練習してきたものをここで一気に出しきるのだ。そうでないと、なんのためにがんばってきたのかわからなくなるではないか。
「さっ」
と自分を奮いたたせ、佳代子は背筋を伸ばしてステージに出ていった。
観客に向かって一礼したのち、グランドピアノの前に座る。椅子の高さとペダルの位置を確認する。そして一呼吸を置き、気持ちを落ちつかせる。
まず左手を鍵盤に乗せ、ゆっくりと動かしはじめる。遅れて右手も乗せ、緩やかに旋律をつむぎだす。優しく、優しく、優しく気持ちを込めて弾く。
心は静かで穏やかだ。幸せとさえいえる。さっきまでの緊張感は嘘のように消え、佳代子は全身でこの場を楽しんでいた。
旋律が徐々に高揚していき、それにともなって魂が肉体から解放され、どんどん軽やかになっていくようであった。少なくともこの瞬間は坂口先生のことも、賞のこともどうでもよくなっていた。
佳代子は観衆の視線、思考、呼吸を肌で感じることができた。彼女は聴衆と一体化し、彼らの魂にふれることができた。
苦手な五十二小節目の四十八連符も無難にこなし、頭のてっぺんから足のつま先にかけて電流が突き抜けていく。心が浄化されていくようだった。気分がさわやかだ。こうしてもっと弾いていたい。なのに、あと少しで曲が終わろうとしている。
ふわりふわりと、一枚の落ち葉が下降していくようにエンディングに向かっていく。
「ああ……」
最後の小節で佳代子の口から息がもれた。彼女は達成感とも寂寥感ともいえない、自分でもよくわからない気持ちに包まれていた。
わあと拍手が起こった。佳代子だけに向けられた称賛だ。彼女は立ちあがり、観衆に深々とおじぎをした。拍手が増大していく。彼女はなんだか胸のうちがすかっとする思いがした。
だが、ことはこれだけでは終わらなかった。惜しくも最優秀賞は逃したものの、佳代子は審査員特別賞を授けられたのである。
「先生、おめでとう!」
と声をかけてくれたのは、坂口先生だった。彼は憎らしくなるほどにさわやかな笑顔を浮かべており、佳代子は人の気持ちも知らないで、と思いながらも頭をぺこりと下げた。
結局彼とはどうにかなるようなこともなく、それどころか彼は遠くの学校へ転勤することになってしまった。数年後に彼が結婚をしたということを風の便りで耳にしたが、そのころには佳代子はべつに好きな人ができ、新しい幸せのうちにいた。 |