破の章 自分を試す 1
とはいえ、政二郎の言葉は佳代子の心に残った。人はみな違うのだと彼はいった。みな違う能力を持ち、ユニークなのだという。生まれたときからそうであり、自分を人と比べるのはナンセンスだといった。
それはわからないでもなかったが、佳代子にとっての問題は、自分が人とどう違ってユニークなのか、まるでわからなかったことだ。そう気がついた瞬間から、佳代子の自分探しが始まったといってもいい。ただし、政二郎はひとつだけヒントを与えてくれた。
「なんでもいいから好きなことをやれ。その先に答えがある」
あの男はたしかにそういった。
佳代子は考えた。自分にとっての好きなことはなんなのか、と。いろいろあったが、彼女はなによりもピアノを弾くのが好きだった。気持ちがもやもやするときでも、ピアノを弾けばなぜか嫌なことを忘れることができた。自分のピアノの才能が人より秀でているとはいいがたかったが、とりあえずピアノは自分にとってのよき趣味であった。
そのことを知った政二郎は、佳代子に一枚のチラシを渡した。授業が始まる前、職員室でのことである。
「これに出て自分を試してみろ。なにかが見えてくるかもしれないぞ」
佳代子はチラシに目を落とすと、それは市が主催するピアノ・コンクールの知らせだった。
「えーっ!? こんなのはずかしいよ」
彼女が頭を振ったのは、自分の腕はとても人前で披露するほどではなかったからだ。
「ふんっ、このいくじなし。いつまでもそうやって自分の狭い世界に閉じこもってろ」
政二郎は吐きすて、職員室を出ていった。
授業開始のチャイムが鳴っても佳代子はチラシを見つめたまま、しばらく動くことができなかった。たしかに彼のいうとおりだった。坂口先生はほかに目がいっており、佳代子のことなど眼中になかった。ここでこのピアノ・コンクールに出てみてなにか賞でも取れば、あるいは彼も少しぐらいは注目をしてくれるかもしれない。どこまでも希望的楽観的な観測ではあったが、佳代子は無理にでも自分にそう思いこませようとした。そうでも考えなければやっていられなかったのだ。
「よしっ、やってみよう」
彼女はつぶやいた。
どこかでなんらかの行動を起こさないと、いつまでたっても状況は変わらないだろう。政二郎はそれがいいたかったのではないか。そう気がついた佳代子は、コンクールに出場することを決意し、さっそく練習を開始した。
選んだ曲目はショパンの夜想曲第八番変二長調作品二十七の二だった。ピアノの詩人と呼ばれるショパンによって作曲されたノクターンは全部で二十一、その中で一番好きなのがこの第八番変二長調であった。
この曲との出会いは、佳代子がまだ中学生だったころにまでさかのぼる。母親に連れられて行ったピアノ発表会ではじめて耳にしたのだ。
奏者は音楽大学の女学生だった。彼女の指は鍵盤の上を蝶々のように舞い、あまりにも美しく繊細な旋律に佳代子は瞬時にして心を奪われていた。なんと甘く、なんと切なく、聴いているうちに恍惚感が深まっていく。ふと顔にふれると、ほおは涙で濡れていた。
「わたしも弾きたい……。わたしもこれが弾きたい」
佳代子は思い、結局これがきっかけとなってピアノ教室に通いはじめた。
あれから十五年になる。もはや教室に通う時間はなかったが、佳代子はひまを見つけてはピアノの前に座って練習をすることがあった。完璧とまではいえないが、第八番変二長調もなんとか弾けるようになった。そして自分の原点ともいえるこの曲で、いま佳代子はコンクールに出ようとしていた。
小さな目標を作ることによって、佳代子は人生において――ささやかな――方向性を得ることができ、彼女の内部でくすぶっていたエネルギーはその一点に注ぎこまれるようになった。
音楽の先生も佳代子を応援し、毎日放課後になると音楽室に残ってピアノの指導をしてくれた。佳代子が第八番が弾けるといっても、まだまだ技術的に問題が多く、彼女は自分のレベルを高めることに余念がなかった。
コンクールまですでに一か月を切っていたが、佳代子は焦りながらもその与えられた条件内でベストを尽くした。授業の準備などもあり、練習に割ける時間は限られていたが、佳代子は不思議と疲れを感じることもなくがんばることができた。
自分がいったいなんのために練習をしているのか途中でわからなくなる瞬間も、たしかにあった。これでなにか賞を取ったからといって、坂口先生がこっちを振り向いてくれるとは本気で思ってなどはいなかった。だが、それでも佳代子は練習をせずにはいられなかった。でないと、自分の中で渦巻いている彼への気持ちが、逆に自分を食い荒らしそうで恐かった。 |