破の章 大けんか
夏休みに入った。
かりんはうきうきしていた。きょうから信州志賀高原での少林寺拳法部の夏合宿であったからだ。みっちりと少林寺づけの六日間はたしかにきつかったが、それ以上に仲間と過ごす毎日が楽しみだった。去年、同じ学年の子たちと仲良くなったのも夏合宿であり、今年はなによりも愛する竜介といっしょではないか。
道着、ジャージ、着替え、洗面用具などスポーツバッグに詰めこみ、かりんは入念に準備をした。集合場所は学校の武道場であり、その朝かりんはいつものように竜介と登校した。夏休みとあって校舎自体はひっそりと静まりかえっていたが、運動場では陸上部やテニス部、野球部が練習を開始しようとしていた。
武道場に全員が集まったところで有田先生が簡単な説明をし、のち部員たちは校門前に停車中の高速バスに乗りこんだ。バスのなかでは女子は女子だけで固まり、かりんは一番前に座る竜介と離れてしまうことになってしまったが、朋美は自分よりもずっと後ろのほうにいたので、かりんはなにも心配することはなかった。
「楽しみやね」
かりんのとなりでさゆりがいった。
とはいえ、その言葉とは裏腹にさゆりはべつのことを考えていた。さゆりはある噂を耳にしていたのだ。かりんが後輩の黒田朋美に携帯電話を使った嫌がらせをしているというのである。まさかとは思うが、最近の高杉先輩とかりんを見ていると、百パーセント否定できない自分もいた。かりんを信じたいが、あるいは噂は本当かもしれないという、そんな矛盾した思いがさゆりの胸の内に去来した。
バスはときおりサービスエリアで休けいをしながらも快調に高速道路を飛ばし、宿泊予定の民宿前に到着したのは夕方近くだった。スキーシーズンには賑わう冬山も、夏になると閑散としたもので、こうして合宿をする高校や大学のクラブのために低料金での宿泊が提供されていたのだ。
「ああ、ええな」
長時間縮めていた手足を伸ばし、かりんは高原の清涼な空気で肺を満たした。それだけで身が引きしまるようであった。
練習は翌日からとなり、この日は荷物を解き、旅の疲れを癒やすことが課題である。男子と女子はべつべつの棟に入り、かりんはまたしても竜介とは離ればなれになった。主将である竜介はばたばたと忙しそうに走りまわり、恋人たちがゆっくりと会うことができたのは部員たちが夕食と風呂を終えたそのあとだった。
「なあ、かりん」
竜介は彼女の手を取った。二人は民宿の庭にあるベンチに腰を並べていた。満天の星空が頭上に広がっていた。草の陰にひそむ虫たちは意外と賑やかだった。
「おまえ、まさか……」
といって竜介が言葉をためらったのは、例の噂の真相について聞こうとしていたからだ。
「まさか、なに?」
かりんは彼に先をうながした。竜介はちらっとかりんを見たのち、すぐに視線を正面に戻した。
「いや、つまらんことなんやけどな、おまえが黒田に嫌がらせをしてるという噂を、ちょっと小耳にはさんだんやけど、もちろん嘘やな」
「なにそれ!? だれがそんなこといったの!?」
かりんは不快をあらわにした。
「うーん、だれというより、一年女子のあいだで流れてる噂かな」
「そう。で、先輩はどう思てるわけ?」
試すような目つきでかりんは彼を見た。
「はっはっ、信じるわけないやないか。そんなもん嘘に決まってるやん」
竜介はからりといったが、内心はそれほど確信を持っているかどうか自分でも自信が持てなかった。彼は本心を見抜かれまいと、とっさにごまかしたのだ。
が、でたらめをいったのは竜介だけではなかった。かりんもまた本心を隠していたのだ。噂は真実であった。
竜介が朋美と川で密会しているのを目撃した翌日から、かりんは部員名簿に記載されている朋美の携帯に無言電話をかけるようになった。メールで脅迫じみた内容のメッセージも送り、その“努力”の甲斐あってか、朋美は心なしか竜介との距離を取るようになっていた。気味がわるかった朋美がそれを同じ一年の女子に相談したことが噂の発端となった。
「まあ、ええわ」
と竜介はこれっきりで話題を変えた。
だが、合宿という閉じられた空間のためか、噂は女子部員のあいだでおもしろいように広がっていき、やがてそれは竜介の耳にも達した。竜介は今度は朋美を呼びだし、それについて直接たずねた。
「嫌がらせされてることはほんまやけど、それがかりん先輩かどうかは知りません」
朋美は潤んだ瞳で竜介を見つめた。
たったそれだけであり、とくに朋美がなにをいったわけでもなかったが、竜介はすでにかりんが犯人であると決めつけつつあった。まったくなんの根拠もなかった。しいていうならば、この場の持つ雰囲気と朋美の瞳の魔力がそう思わせたのだろう。
朋美との会話のあと、竜介はかりんのもとへ走った。
「かりん。おまえ、やっぱり黒田に嫌がらせをしてたやろ」
「なによやっぱりって。先輩もやっぱりわたしのことを疑ってたわけ?」
かりんはいいかえした。まさに売り言葉に買い言葉であった。竜介の断定的ないい方が無性に腹立ったのだ。
「ああ、そうや。おれも最初からおまえやないかと思ってたんや」
竜介は心にもなかったことを口走ってしまい、二人はたががはずれたようにけんかを始めてしまった。
「信じられへん。先輩って嘘ばっかりなのね。ほんまはあいつと二股をかけてるくせによくいうわ」
「だれが二股かけてんねん……」
と竜介はいってみたものの、その語調が弱かったのは、心にほんのりと罪悪感があったからだ。
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