守の章 不良が変わるとき 2
なにが起こったのかわからず、北沢はしばらく呆然とした。すると、耳の端で女子部員たちがくすくすと笑うのが聞こえてきた。
はずかしさもあり、頭に血がかっとのぼった。北沢はバネのように跳ねあがり、その勢いをもって有田にタックルをこころみたが失敗に終わり、いともあっさりと転がされてしまった。なにかの妖術でもかけられたのだろうか、目の前から先生が消え去ったかのようでもあった。
こうなると北沢はいよいよ逆上し、何度も何度も有田に挑みかかった。北沢にはなにがなんだかわからなかった。自分は肩ではあはあと息をしているのに、先生を見るとまるで平然としているのはどういうことだろうか。やはり人間ではなく、妖怪の類なのか。
また、北沢は一八〇センチをこえる長身であった。中学時代にみっちりと空手のトレーニングを積んだ彼は、拳法部のやつぐらいであれば軽くあしらう自信があった。いや、現にそのとおりであった。少林寺には空手の組み手にあたる剛法乱捕りという練習法があったのだが、先輩たちですら彼と組むのをいやがるほどに北沢は強かった。
それがどうだろう。北沢は自分よりはるかに小さな相手に手玉に取られていたのだ。ウェイト・トレーニングで筋肉隆々の自分は、こんなしょぼくれた中年に手も足も出なかったのである。
「ああ――!」
北沢は道場の床に寝転がった。
「もうええわ! わけがわからんわ、このおっさん」
手足を大きく投げだし、彼は叫んだ。
先生と生徒がやりあうのを見守っていた部員たちはその輪をせばめ、北沢のまわりに集まり、顔をのぞきこんだ。
「どうや、北沢。おまえもお父さんのもとでもっとまじめに修行してみないか」
声をかけてきたのは、中学時代の先輩だった。
「少林寺拳法はまだまだ奥が深いぞ」
と先輩がいったことを、北沢本人はすでに身をもって実感していた。
両方の手首に鈍い痛みがあり、体のあちこちがずきずきした。金玉もうずいたのは何度も蹴られた――かする程度ではあったが――からであり、目を突かれそうになったときにはさすがに身の危険を感じた。自分がやってきた空手では目つぶしも金玉を狙うのも反則であり、こうみると少林寺拳法はなんとも危ない競技であった。
だが、北沢は大きな勘違いをしていた。少林寺拳法というのはスポーツではなく、あくまでも自分の身を守るためのものなのだ。小さくて非力な者でも、大きくて力のある人を制せられるようになっており、すべての技は理論的かつ効率的にできあがっていた。
あるレベルまでは空手といった格闘技のほうが強くて格好がいいかもしれないが、少林寺拳法は技を極めるほどに世界も深まり、名人達人にでも挑みかかろうものならば、その身にふれることもなく飛ばされている自分に気がつくだろう。
「…………」
北沢は座りあがり、体の痛むところを手で押さえた。それほど突かれたおぼえもないのにあちこちに鈍痛があったのは、有田がピンポイントで北沢の急所を狙ってきたからであった。人体には無数の急所があり、有田はそのすべてを正確に把握していたうえに、好きなところを寸分たがわずに突くことができた。
「はい、ちょっと腕をかしてみなさい」
お母さんは北沢のとなりに正座をした。
一瞬のとまどいを見せながらも、北沢は結局すなおに腕を差しだした。有田に徹底的に打ちのめされたあとである。もはやいつものように反抗する気力などなかった。
「さあ、痛いの痛いの、飛んでいけ」
お母さんはいい、北沢の腕を優しくさすってやった。一分ほどそれをつづけただろうか、不思議と痛みがやわらいだ気がした。
「はい、つぎはどこ?」
慈母のまなざしで福本先生はいい、北沢はぽかんとした心境であったが、とりあえずすねのあたりを指した。福本は同じようにそこを撫でると、今度もまた痛みがすうっと引いていくのがわかった。
北沢が背中に温もりを感じたのは、有田の大きな手がそこにあったからだ。
「人間の手からは気が出とる。少林寺拳法で手と手を合わせて合掌をするのは、その気の力を高めるためだ」
いいながらも、有田は北沢の背中をさすりつづけた。
その北沢の両目から、ふいに涙があふれてきた。有田と福本の優しさが彼の心にふれたのだ。もし幼いころに北沢がこの愛情と温もりに包みこまれていたならば、北沢はこうまでひねくれることもなかったであろう。
とはいえ、ものごとには遅すぎるということはない。逆にいまやりなおさなければ、いつやりなおすというのだろう。それに北沢にはお父さんとお母さん、そして多くの兄弟や姉妹がいた。そう気づくと北沢はいよいよ涙を抑えることができず、お母さんの胸に飛びこんで大声を上げて泣きだした。女子部員のなかにはもらい泣きをするのもおり、こうして北沢は更生への第一歩を踏みだしたわけである。
人を変えられるのは罰則や厳しさではない。真の優しさと思いやりのみが人を変えられるのだ。そしてその北沢も、いまでは部全体を引っぱる主将にまで成長していた。 |