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ファイト! かりんの青春日誌
作:天野美里



守の章 お父さんとお母さん 2


 いじめる側に立つか、いじめられる側に立つかは相手による。相手が自分より強ければ卑屈な態度を取って小さくなり、自分より弱ければ相手に向かっていばる。どっちに転ぶかは微妙なバランスのうえにあるのだ。
 たとえばだれかが自分にとって気に入らないことをする。人はその相手に対して、親が教えてくれたようにふるまうであろう。つまり怒るか、たたくか、ぐちぐちと文句をいうかする。相手を無視したりすることもあるが、いずれにしても親の子への接し方に原因があるわけだから、学校に怒鳴りこんでくる親ほど矛盾に満ちたものはないといえよう。
 ときに集団で一人の子をいじめるケースもある。この場合、いじめる側といじめられる側には共通の幼児体験があることになる。いじめっこたちは、いじめられっこに幼少時の自分を投影し、相手をいじめているにすぎない。彼らは親にされたとおりのことを、気に入らない相手にしているだけなのだ。
 これらの悪因悪果を解消するには、人としての正しいあり方を教える必要があった。それには口だけで教えるのではなく、実際に態度で示してやるのがもっとも効果的である。そして部員たちにとって道場はまさに親子関係をやりなおす場所であった。
 実際、ほとんどの子供たちはなんらかの人格的な片寄りをいだいていた。それは現代という性質上、仕方がないことであった。この時代、完全な人間というのはすくないのだ。だから有田のような先生がいることは、ある意味において奇跡ともいえた。
 有田のやり方はじつに単純で明快であった。彼は決してなにがあっても子供たちを叱ったりすることはなかった。ましてたたいたり、ぐちぐちと説教を垂れることもなく、ただ彼らに深い思いやりと優しさを示してやった。
 ひとことも発することなく、たんにその子供を抱きしめてやることもあった。たいていの子供はなにかをがまんし、なんらかの感情を押し殺していたので、有田はなんとかそれを刺激し、解放するようにした。なにもがまんすることはないのだよとその生徒にやんわりといってやり、ただ愛情をもって受けとめてやるのである。
 だから福本先生という、まるで観音さまを具現したような女性の助けが必要だったのだ。たとえば、女子部員にとって、異性である有田よりも、同性である福本に対して心を開くのがたやすい場合があったからである。
 いや、これは男子部員にとってもそうであった。福本はそのふくよかな胸に抱きしめてやるだけで、その子は長年蓄積してきたものを一気に吐きだすことがあった。生徒はまるで赤ん坊のようにわんわんと泣きさけび、そうすることによって内面をすっきりさせることができた。
 もしも福本が若くてぴちぴちした女性であったならば、これはそううまくいくこともないかもしれない。男子生徒は感情の浄化よりも先にべつの欲望を感じてしまうであろうからだ。そういう理由からも、有田や福本のように性的興味がとうに枯れてしまった人間がよかったのである。












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