ようじょ注意報
タバコを買いに行く道中のことだった。
慣れた道のりだ。小汚い景色に心動かされるわけもなく、機械のように足を進めていた俺は、電柱に身を預けるようにしてたたずむ少女に目を奪われた。
まるで美術展の絵画。こぼれおちるブロンドの波が白いワンピースに映え、うつむいて地面を蹴るといういじけた仕草が少女性を高めている。道端に転がる空き缶でさえ、彼女の美しさを際立てるために配置されているようにしか思えなかった。
年は、小学校に入学して間もない、といったくらいか。いや、見たところ外人のようだし、もっと若いのかもしれない。
右良し、左良し。通行人は他にいない。思わず小さなガッツポーズが出てしまったのは気のせいだ。困っている女の子に声をかけるにもこういった苦労をしなければならないとは。悲しい日本の現実がそこにある。
安全神話の崩壊、と人は言う。性善説などあざ笑うかのごとく、昨今は非情な世の中になってしまった。いい年した男が幼い少女に心動かされるなど、まして声をかけるなどあってはならないと言わんばかりの怒号が飛び交う。ロリコンの何が悪ッ……ではなく、これはただの親切心。しかし、それすらも警察の御厄介になるような事態を引き起こさないとも限らないのだ。寂しい世の中だよなぁ、まったく。ま、防衛策をとるに越したことはないっつーわけです。
あたりに人気のないことを確認すると、すすすっと少女に忍び寄る。不審者ではない。ただの善人だ。
「ど、どうしたのこんなところで」
声に反応し、彼女が顔を上げる。遠目に見て予想はしていたが。正直、これほどとは。
フランス人形のような真っ白な肌の上に、愛らしいパーツが見事なバランスでおさまっている。大きな緑色の瞳は潤み、きらきらと輝いて見えた。
しばらくは不思議そうにコチラを見ていた彼女だったが、突然ボロボロと大粒の涙をこぼし……ちょ、泣かれるのは困る!
右見て、左見て、よし! 人はいない!
――これはいじめっ子のようで居心地が悪いからであって、叫び声をあげられては困るような下心があるからというわけではない。断じて、ない。
「だ、大丈夫? もしかして迷子?」
「ちが……う、もんっ! 家に、いないん、だ……もんっ」
滴り落ちる雫を白く細い手ですくいながら、必死で言葉を連ねていく。
「バイト先も、学校も、コンビニもっ。行くって、ちゃんと、言って、るのに!」
女の子は、羊のストラップがついているだけのシンプルな携帯をつきつけてきた。ストラップはともかく、子供がもつにしては無愛想というか、可愛げのない携帯だ。最近の子供携帯っつーとたまごっちのようなのとか、レゴブロックで作ったみたいなカラフルなやつとかのイメージがあるけど。お母さんから借りてきたかな?
彼女が話しやすいようにその場にしゃがみ込んだ。
「誰を探してるの?」
しゃくりあげる姿が実に可愛らしい。
「……お兄ちゃん」
あどけない声に、人の親切を疑わぬ純粋な心が垣間見える。
「お兄ちゃんはどこに住んでる?」
涙を隠そうとするしぐさの、なんと、なんといじらしいことだろう。うはぁ。
「マンション。1人で住んでる。私、会いに来たの」
こんな小さな子が来ると分かっていて、家を空けるか、フツー。自分なら……絶対にそんなことはしない。断言できる。幼女を泣かせるなど言語道断、紳士にあるまじき行為!
気づいた時には彼女に向かって手を伸ばしていた。
「ちょっとその携帯、貸してくれるかな? そのお兄ちゃんに話をつけてあげるから」
「本当?」
黙って頷く。
じぃっと見つめる彼女の瞳にはキラキラと輝く星が見えた。次第に涙で赤らんでいた彼女のほほが、柔らかい色に染まりなおしていく。
「お兄ちゃん、ありがと!」
舌ったらずな言葉の波にエコーがかかる。脳の奥の方がジンとしびれる。とろけるような感覚に体中の力が抜けていきそうになる。かろうじて姿勢を保ちながら視線を戻すと、そこにははじけるような笑顔。
――何かが心臓を的確に貫いていった。
即死コンボをくらいほとんど白紙となった頭の中に、「生きていて良かった」という言葉がぼんやりと浮かんだ。
彼女は不慣れな様子で携帯をいじると、何の躊躇も見せずポンと預けてきた。画面には携帯の番号が表示されている。
「これがね、お兄ちゃ……あっちのお兄ちゃんの番号」
「あ、うん。このお兄ちゃんにまかせて」
コール音を右耳に、彼女の可愛らしい声を左耳に聞きながら相手の男を待つ。優しいお兄ちゃん大好き、とか……この場で死んでも構わない。
ぷつっと音が鳴る。
――先手必勝。
こんな小さな子をほっぽって何やってんだ、と怒鳴りつけようと口を開けた時だった。
『さっきからしつけぇんだよ! メリーさんとかふざけんのもいい加減にしやがれ!』
若い男の声だった。
鼓膜を割らんとする勢いの罵声が耳の中に渦巻く。用意していた言葉を吐くことも忘れて、その場に硬直するしかなかった。
ぶつっ。
つー、つー。
機械音が遠くに鳴る。メリーさん、だって? こんな小さな子が怒鳴り散らすような相手にイタズラ……まさか。いや、しかし。
携帯を握っていた手が垂れ下がる。それを待っていたかのように、背後で待っていた彼女の愛らしい声が耳をくすぐった。
「やっぱり、だめだった? でも……お兄ちゃんはあっちのお兄ちゃんとは違う、よね?」
彼女が小さな白い手を伸ばしてくるのが見ずとも分かった。携帯を固く握りしめていた俺の指をほどき、彼女の携帯を取り返していく。
触れられたところから凍っていきそうなほどに、彼女の指はひどく冷たかった。
メリーさんの電話。
ランドセルを背負っていた頃、聞いたことがある。
メリーさんを名乗る少女が電話をかけてきて居場所を伝えてくるという。何度も何度もかかってくる電話。徐々に縮まる“メリーさん”との距離。そして――。
ジーンズの尻ポケットに入れていた携帯がブルブルと震えた。
そっと抜き取り、耳に当てる。
「私、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの」