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名前のない街
作:nico



0044* 彼の脳裏を占めるもの


 その部屋は完全に長い夜が支配していた。
 「闇」「黒」――いずれの表現も相応しい。
 そこには月明かりや星に該当する光は一切なく、まさに夜之食国よるのおすくにという国本来の姿を表している。
 現在座敷では総勢10名の葦原中国あしはらのなかつくにに住まう者が乱雑に横たわっている。が、彼らは得てして自らここに進んで居るわけではなかった。

「うう……」

 ひとつ、うめき声が上がる。
 声を発したのは、ヘルメットとゴーグルを装着したままの、ユン 太柳テユという青年だった。
 目は未だ固く閉じられており、彼の鼻頭には大粒の汗の玉が浮かんでいる。
 そう、彼の脳裏は現在悪夢に支配されているのだった。

 彼の悪夢。それは――

 

 ハーレーダビッドソンに跨がる彼は、ひたすらまっすぐの道を悠々と走っていた。
 左右に広がるのは、太陽を反射して宝石のようにキラキラと煌めき続ける広大な青い海。
 そして後部座席に座るのは、普段から思考の大半を占めてやまない大好きな“あいつ”。
 一つ年上の“あいつ”は栗色のマッシュカールをなびかせて、眩しい為か、大きなアーモンド型の瞳をうっすらと細めている。
 彼女の存在を背中で感じながら、とかく彼は幸せに包まれていた。
 それは思わず口元が綻んでしまうほど。

「ちょっとテユ。何笑ってんのよ」
 そう言った後、彼女は彼と同じように微笑みを浮かべる。同時にその白い頬にはえくぼが浮かぶ。
「べっつにー。笑ってねぇし」
 振り向いて、彼は優しい目で“あいつ”を見つめた。
 白いレースのワンピースを着た彼女は、相変わらずとても可愛く美しい。
 他愛のない会話が彼にとって幸せで、彼女の声、その姿を見ているだけで、心は充分満たされて、彼女さえそばにいてくれるならもう望む物は何もないと強く思えるほどだった。

と、その時、彼の視界には、信じられない物が映ることとなる。
「うわ、なんだあの女……!」

 彼の目がとらえたのは、品のない露出高めの花柄ワンピースを身につけた、がっしりとした体型の女。
 眉毛が濃く、若干カモメ眉となっているのが特徴的だ。
 女は必死の形相でハーレーに追いつこうと全力疾走している。
 それは人間が出せるスピードとは、およそ考えにくいもの。
 彼は恐ろしくなり、さらにスピードを上げていく。すでに時速100キロを軽く超えていた。

「テユくーん、待ってぇ」
 女は甘ったるい声を発しながら、ゆさゆさとFカップの大きな胸を揺らしながらひた走る。
 女が地面を踏みつける度に地鳴りのように道は揺れ、同時に海には波紋が広がっていく。
 その両手は左右に大きく開かれており、追いつかれれば絶対抱き締められてしまいそうだし、あばらも何本か折れてしまいそうだと、彼はそら恐ろしく思った。

「は、早いわね。人間離れしてる……。っていうか、止まってあげないの?」
“あいつ”は冷静に猛ダッシュする女を見ながら言った。
「ば、バカ。止まるのは絶対自殺行為だ。…………くそ! 塚本うぜぇ」

 女は走りながらすごい音量でこう叫ぶ。
「テユくん付き合ってー」「ご飯行こうよー」「映画見に行こうよー」「そんな女より私にしなよー」
 いずれも腹の奥底にズンとくる重い声。彼はその声が聞こえる度に、どんどん暗くげっそりしていく。
 もう言葉を発する気力もない。
 しかもどんなにスピードを上げようと、それに応じて女もどんどんスピードを上げるだけ。

「テユくーん、止まってよぉ。止まってくれないなら、私、私……!」
 女は一層大きな声でこう叫ぶと、どこから取り出したのか、いつ手にしたのか、銀に輝く錫杖しゃくじょうを天空に向かってかざし、シャラシャラと音を鳴らし始めた。
 みるみるうちに、女の体は煌々と輝きを放っていく。
 彼はそれを見て驚きを隠せない。
「はぁ!? うそだろ。な、何してるんだ塚本……」
 恐怖心はさらに増し、彼の額からは汗が流れ落ちる。
 彼はそれを拭うと、真剣な顔つきで目一杯スピードを上げた。
 まさしくレーサーのような、限界への挑戦。

 女の発した光がようやく落ち着いた頃、そこにいるのはいつの間にか女ではなく、天狗面を顔につけた山伏装束の者であった。まるで手品、イリュージョン。
 その腰まで届く長い髪は白く、麻で出来た法衣も白い。
 真っ白の中、赤い天狗面のみがぽっかりと浮いたように鮮やかに映えている。
 天狗面は低く嗄れた声で、「逃がさぬぞ、少年」と呟き、素早く左手の人差し指を立て、右手でその指をにぎりしめた。――印である。
 
 突如、ハーレーとユン・テユ、そして“あいつ”は空気の塊のような物に弾き飛ばされ、大きく空へと舞い上がる。 
 彼は“あいつ”を見失わないよう、咄嗟に手を伸ばし、その体に触れようとした。が、あと少しで届きそうな時、彼よりも先に彼女の体をひょいと抱える者がいた。

「なっ!?」
 声にならない声を発した彼に、“あいつ”を小脇に抱える者は言った。

「キミには絶対渡さないヨ?」

 告げると黒いマントを翻し、消えた。












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