0043* 炎の女
蘇芳簾の向こう側、天孫 邇邇芸の命は片眉をつり上げながら、聞耳を立てつつ回廊の様子をうかがっていた。
大きな目は閉じていると錯覚するくらい細められ、その表情は何かを企んでいるように怪し気に目に映る。
それを間近で見ている猿田毘古は、ミチルを担ぎなおすと、夜尊もニニギ殿も突然どうしたことかと不思議に思い、首を横にひねってみせた。
「……ニニギ殿、先程から何をされておるのです」
ニニギは眉をゆがませたままでサルタヒコをいちべつすると、
「会話が聞こえなかったのですか? 夜尊は本日結婚する気の様子。……これは、高天原を揺るがす一大事です」
と歯をギリギリと噛みしめた。
その言葉にサルタヒコは大きくこくりと頷いて、一丁締めのようにひとつ大きく手拍子を打つ。
「いやあ、本当にめでたき事ですな! まさに高天原の一大事。ようやくこの夜之食国にも、ご世継ぎが誕生される事となりましょう。まさに安泰、拙者も後ほど祝詞を述べに……」
「愚か者!」
声を荒げ、ぴしゃりとニニギは遮った。
何がなんだか訳も分からず、サルタヒコは一歩後ろへ下がり、素早く彼に向かってひざまずく。
「これは失礼致した」
「……サルタヒコ、ここへ五の部の首長を集めて下さい。夜尊をお止めしなければ、私も貴方も生きてはいられませんよ」
「なんですって!!?」
回廊にいた天宇受賣は、断りもせず、簾を跳ね上げ中へとづかづか入っていく。
ニニギは目を見開き、サルタヒコは口をあんぐりと開け、アメノウズメの端整な顔をみた。
彼女は肩で息をし、ニニギを鋭い眼光で睨み付けている。
「な、何ですか、アメノウズメ。勝手に中へ……」
たじろぎながら、ニニギはようやく言葉を発することができた。それほど、しりごみするほど、アメノウズメの迫力はすさまじい。
「何です、ではないでしょう! 我が夫、サルタヒコが生きていられないとは、命の危機とは、一体どういうことなのです!? ニニギ、返答次第では容赦いたしませんよ!」
「いや、サ、サルタヒコだけではなく私も命の危機……」
ニニギは呟くが、声が小さくアメノウズメには届かない。彼女は顔をカッカと赤くしながら心底腹を立てている。
サルタヒコは妻を畏怖の念を込めて見、「ウ、ウズメ殿……。天孫ニニギ殿を呼び捨てとは何たる事……そ、それより主に向かってなんたる無礼を……」
「うるさい、サルは黙ってなさい! これは私とニニギの問題。それよりその肩の女、何なのよ? ま、まさか、浮気……!? 返答次第では……」
アメノウズメはピンと親指をつき立てて、自らの首に向けて指し、左から右へとそれを横断させた。そして親指はゆっくりと下へ向けられる。――それは、無言の「殺す」という合図。
サルタヒコは、あわてて肩に担いだミチルをドスンと床に下ろし、首を大きく振りながら、自らの潔白を妻に必死にアピールした。
「ご、誤解だ! これはその、大いに誤解。仕方なくこの女を担いでいたのだ! そもそも拙者はウズメ殿ひとすじであり、他の女子など目に写らぬ。本当だ! これは本当。真実ゆえ、拙者の言葉を信じて欲しい」
下唇をかみしめながら、アメノウズメはサルタヒコをギロリと睨み、
「後で一から十までみっちりと説明してもらいます……いいわね?」
とすごむように言い、視線を再びニニギに戻した。
彼女と目があったとたん、ニニギは緊張からか、口にたまった唾をごくりと音を立てて飲み込んだ。
しかし意外にも彼女は手を胸の部分で合わせ、深々と頭を下げて敬礼をする。
拍子抜けしたニニギは「え?」と言葉を漏らしそうになった。
「ニニギ、取り乱して申し訳ございません。どうかお許し下さいますよう……。恥ずかしながら私は夫の事となりますと、頭に血が昇り見境が無くなってしまいます。それから夜尊のご結婚に関し、何やら問題があると見受けましたが、そのわけを五の部の首長の1人として、この私も知りたく存じます。どうか御説明くださいませんか」
ニニギは腕を組み、軽くため息をついた。
「すみませんが説明することはできません。貴女には他にやっていただきたい事があります。先刻私は依頼しましたね? 葦原中国の者達を根堅州國でも耐えうるように仕上げてください、と。これは有能な貴女にしかできない事と私は考えています。そろそろ彼らは目覚める頃。急ぎ東の対屋に向かい、備えて下さい。……貴女には大いに期待していますよ」
アメノウズメは納得できないと言わんばかりの表情を見せているが、やがて断念したように、
「過分なお言葉、痛み入ります。御期待に添えますよう、尽力致します」
と小さく告げる。
それから再度敬礼すると、長い睫を伏せたまま、ふわりと浮かぶように簾の向こうに消えていった。
……その後、しばしの間、部屋は静寂に包まれる。
「貴方の妻は、太古の昔から少しも変わりませんね……。燃えさかる激しい炎のような女性です」
ニニギは目にかかる一筋の髪を横に撫で付けながら、彼女の消えた方向を見つめ続けた。
「ニニギ殿、どうかお許し下さいますよう。罰するならば、代わりに拙者を」
サルタヒコはアメノウズメと同じように、深々と頭を下げて敬礼をした。
「彼女を罰する気など毛頭ありません。それに私は、炎が好きですよ。……とても」
口を弓形に歪ませながらニニギは言う。そして、続ける。
「サルタヒコ、時間がありません。とりあえず五の部の首長をここへ」
「……御意」
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