0038* 夜之食国 …霧の国…
夜之食国。――霧が全てを包み隠す国。
本来なら夜の闇が、瞬く星々が支配するその国も、いつの頃からか変わり果て、霧の国と呼ばれるようになっていた。
濃霧が全てを包み込む、長年その全貌を覆い隠された、秘密めいた白い世界……。
住人はこの国を【夜兎の霧の国】と呼ぶ。
霧の国のほどなく中心部、高くそびえ立つ岩山に、その木造の建築物は存在していた。
その様式は寝殿造と呼ばれ、繊細で緻密な造りは平安時代を思わせた。
南側にある壮麗な寝殿の、そのまた東、寝殿と対屋をつなぐ渡殿で、1人の髪の長い女が胡座をかいて座っている。
女の頭上には、七色に輝く羽衣が、ふわりふわりと揺らめいている。
「まだ目覚めないなんて。あいつら、遅すぎる……。一体いつまで待たせるつもりだ、あの寝ぼすけ達め!」
指をポキポキ鳴らしながら、女は「覚えてやがれ」と舌打ちをした。
もしも近くに誰かがいたのなら、今の言葉は決してこの胡座をかいた女が発した言葉だとは思えないし、信じたくはないだろう。
なぜなら女は清楚でゆかしい顔つきで、白くしなやかな肌は、気品高く美しい。間違っても可憐な朱の唇からは、「覚えてやがれ」などと発せられそうもない。
――ブッ!
その上なんと、女は無表情で無防備に、渡殿に響き渡るほどの屁をこいた。
これを聞いた、彼女を知る世の中(高天原)の男は、ショックのあまりに卒倒するにちがいない。
「ああ、退屈」
欠伸をしながら女はごろりと寝転んだ。
その姿、目も当てられないほどにだらしない。
直後。
「なんということだ!!!」
寝殿に、耳をつんざくような声が走り、こだまする。
女は驚き跳ね起きた。
「な、何事!? これはひょっとして天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命のお声?」
羽衣を掴み、体に巻き付けると、女はふわりと宙に浮く。
すぐさま女は寝殿の方へ飛んで行った。
「邇邇芸、いかがなさいましたか」
紅に染まる簾の手前で、女は45度の最敬礼を行ない続け、上目遣いに「入ってもよろしいですか?」と遠慮がちに聞く。
「……なんでもない、何でもありません。……天宇受賣、ここはいいですから…………下がりなさい」
アメノウズメは不満そうに眉をつり上げたが、黙って踵を返し、東対に戻っていった。
一方、簾の向こう側。
円座に座ったニニギは、冷や汗を幾重にも垂らしつづけている。
その顔色はまさに蒼白。彼の顔色が変わるのは、非常に珍しい事であった。
先刻、お祖母様に強く忠告されたにもかかわらず、まんまと夜尊と建速須佐之男の命を会わせてしまった。
その事実に彼は焦りを隠せない。
「なんたること。なんたる大失態……!」
言葉と同時に、ニニギは拳を床に思いきり叩き付ける。
その大音は屋敷中に轟いて、それは先刻去ったアメノウズメも驚いて飛び跳ねてしまうほど。
彼の傍でゆらゆらと灯る2本の蝋燭は、衝撃とともに煙をひとすじだけ上げて儚く消えた。
後に残されたのは、漆黒に染まるただ黒々とした闇の世界のみ。
……暗い中、ひとりニニギはギリギリと歯噛みをする。
もっと早くに自らが動いていれば、このような事態は避けられたかもしれない。……そう、彼は最大級に己のふがいなさを恥じていた。
それは高天原を揺るがすやもしれぬ、一大事となるかもしれないからだ。
そして呟く。
「忌々しい。まさか須佐之男の命が娘に憑依するとは思わなかった。遥か遠くの根堅州國よりそんなことが出来てしまうのか! それほどまでに、彼奴の力は強いというのか……。糞。暗い世界で永遠に大人しくしておればいいものを」
彼は凄まじく腹を立てていた。必要以上に怒っている。――根堅州國を統べる、スサノオに対して。
やがてじりじりとニニギの瞳は漆黒から金色へと変わっていく。
再び猫睛石の瞳へ……。
2つの宝石にも似た瞳は、闇の中で煌々と輝いている。
その後、流れるような手つきで、両の手を忿怒拳の形にし、胸の前で背中合わせに交差した。その左右の小指は絡められ、人指し指はそれぞれ立てられている。
――印である。
それは、降三世明王が結ぶ、降三世印と呼ばれる印相に似ていた。
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