0035* ねぇ、約束できル?
夜尊は舌を出し、マズイものでも食べたかのように遠慮なく顔をしかめた。
「お断りだネ! もう二度とごめんだヨ」
『ふっ』
鼻で笑う彼女の顔は自信に溢れ、口は不敵に弧を描いている。
『あなたの考えは必ず変わる。見ているがいい。……では愛しい兄上、今日はこれにて』
そう告げた後、ミチルはその場にゆっくりと倒れ込んでいく。それはスローモーションのように感じられ、まるで魂が抜けていったかのようであった。
猿田毘古は恐る恐る近づき、倒れた彼女を錫杖で軽く突いてみる。
「む、動かぬ……な」
「うん、弟は去ったみたいだヨ。気配はもうないネ」
夜尊は宙から徐々に降りていき、滑らかに足を地表へと下ろす。同時に小脇に抱えられた真朝もへなへなと着地した。それは見事なへっぴり腰である。
「何を企んでおられるのでしょうな、須佐之男殿は」
サルタヒコは問うが、沈黙は続き、夜尊の返事はない。
はて? と思い、彼の方を見てみると、再び真朝にキスをしていた。
真朝は足をバタつかせ、必死の形相でもがいているが、夜尊は涼しい顔でそれを押さえ込んでいる。
(なんとも……緊張感のないお方。本当に三貴子の1人であらせられるのか)
サルタヒコは肩をがっくりと落とし込む。
「夜尊、何をしておられる。……接吻は後にしてくだされ」
ようやく真朝から口を離した夜尊は、
「だって、口直ししたかったんだもン」
と、モジモジしながら答えた。
彼の隣では、ぐったりと真朝が座り込んでいる。もう立ち上がる気力もないようだ。
「こうしては居られませぬ。また根堅州國の者が現れては一大事。早う、御殿に戻りましょう。邇邇芸殿も待っておられる」
夜尊は何も言わずに再び真朝を抱え上げ、大鳥居へ向ってぴょんと跳ねた。
サルタヒコもこれに続いてふわりと飛ぶ。
「ま、待って! あの人は、彼女はどうするのよ」
真朝の目に映るのは、広大な砂漠に小さく横たわるミチルの姿。だんだん遠ざかっていく。
「捨て置くべきですな。いつスサノオ殿が憑依するか分かりませぬ」
サルタヒコは吐き捨てるように言う。古来より彼は、スサノオに対して畏怖の念を抱いている。
「捨て置くって……。そうしたら彼女はどうなっちゃうの」
「当然死ぬヨ。カノジョはスサノオのおかげで体力をひどく消耗してル。おまけにこーんな日照りの砂漠じゃ、もう何分ももたないネ」
夜尊は静かな表情で答えた。
サルタヒコもそれに頷き同意する。
「死ぬ、ですって? ち、ちょっと、アンタ達、助けなさいよ!! 見殺しにする気!?」
真朝は目を見開きながら大暴れする。ミチルのもとに行こうとしているのだ。
しかし、無駄であった。あまりにも夜尊の力は強い。
「マアサはカノジョを助けたイ?」
「助けたいとか、そういう問題じゃないでしょ。助けるのが普通でしょ。何言ってるのよ!」
人の命を何とも思っていないような二人に対し、真朝は底知れぬ恐怖心を持つ。
人形のように欠点のない左右対称の美しい顔、そしてひび割れた天狗面。いずれも無表情で無感情。より一層不気味に映る。
ふいに夜尊は顔を歪ませニッコリ笑う。しかしその目は笑っていない。
「キミがそう言うならカノジョを助けてあげル。でも、ボクの言う事もちゃんと聞いてネ。……約束できル?」
サルタヒコは慌てて彼らに割って入る。
「夜尊、いけませぬ!」
「サルタヒコは黙ってテ。キミには関係ないでショ。邪魔しないデ」
不機嫌そうに言い放ち、そしてもう一度真朝を見つめながら繰り返す。
「ねぇ、約束できル?」
「……な、何よ。何なのそれ……」
「答えになってなイ。ねぇ、ボクの言う事、ちゃんと聞ク? ……聞かないならカノジョは置いて行くけどネ」
真朝の額にじわりと汗が浮かぶ。それは暑さからではない。
「聞くわよっ。聞けばいいんでしょ! だから早く助けてよ」
半ばヤケクソ気味で答えた。
夜尊は「絶対だヨ?」と言うと、真朝を抱えたままでミチルのもとへ引き返す。
「お、お待ちくだされ!! ……なんと、愚かな事を!」
サルタヒコはその場に立ち尽くし、後ろ姿をただ唖然と見つめ続けた。 |