0033* 朧月
夜尊は正面を見据えながら小さく笑う。その身体は未だにぴたりと止まったまま。
「まいったナ。ボクにはそんな趣味はないヨ。男とキスするなんて想像するだけで、吐きそうになっちゃウ。キミはいつから同性愛者になっちゃったノ? お兄ちゃんは悲しいヨ」
ミチルはフンと鼻を鳴らし、
『兄上は『男』ではない。これからは『女』になるんだ』
そう告げると、形の整った綺麗な指先は、夜尊の唇をねっとりと撫でつけた。
『今のあなたは男でも女でもない。大人でも子どもでもない。あの時から、呪で止まったまま』
ミチルは徐々に顔を夜尊に近付けていく。
「何をやっておられる、夜尊。早うお逃げ下され!」
猿田毘古は大声で叫ぶ。彼の中では、ただじっとされるがままになっている夜尊に対し、数々の疑問が沸き上がる。そして錫杖をシャラリと鳴らすと、ミチルの方へ一直線に指し示した。
『なんだ国津神の分際で挑発しやがって。サルタヒコ、俺と戦おうというのか?』
ミチルは夜尊に素早くキスをすると、踵を返し、サルタヒコの方へと歩いていく。
「……ねぇマアサ。ボクの背中を思いきり叩いてくれなイ?」
夜尊はミチルに聞こえないよう、慎重に小声で真朝に伝える。
真朝は必死にミチルから隠れるように、相変わらずマントにしがみついていた。
「な、な、なんで、叩くの? なんで?」
思わず声は吃ってしまう。彼女の心臓はもうはちきれそうであった。軽くパニック状態である。
「あのね、ここだけの話だヨ? ボク、アイツがボクらのほうに飛んできた時、こっそり「影ぬい」されちゃったんダ。だから気付けがないと、動けなイ」
夜尊は相変わらずピクリともしない。その様は人形のように不自然である。
「影ぬい……って何?」
「まったく動けなくされちゃうことだヨ。イヤになっちゃウ。ね、早くしテ。じゃなきゃ、アイツが戻ってきちゃウ」
真朝は「アイツ」を恐る恐る見た。天狗面と向かい合い、腕を組んで堂々と立っている。
「せ、背中……叩くと動けるようになるの?」
「うん、そうだヨ。ボクとしてはマアサのキスでもいいんだけどネ」
――バシン!!
真朝はためらう事なく、夜尊の背中を思いっきりぶっ叩く。
その瞬間、夜尊は無意識に軽くぴょんと飛び跳ねた。それは、想像以上の痛みであった。
「い、痛イ! ……キミって意外に力強いんだネ〜。ボクの背中、絶対もみじになってるヨ」
夜尊は言葉とは裏腹に、嬉しそうに微笑むと、背中に手をのばしてさすりはじめる。
『女、何をする!』
気づいたミチルは怒りを露にして、サルタヒコの眼前から瞬時に二人の方へと猛進する。
夜尊は一足先に、真朝を抱えて大きく空へふわりと浮いた。
「残念だネ。キミの「影ぬい」はもう解けちゃっタ。ボク、ほんと焦っちゃったヨ。やっぱりいつの時でも油断は大敵だよネ〜」
ミチルは空を見上げながら、悔しそうに唇を噛みしめる。
「お、下ろしてーーー。浮いてるしっ。っていうか、やめて。高いの嫌いなのよ。高所恐怖症なのよ。ホント、本当にムリなんだってば! 高いーーー」
真朝は落ちないように必死で夜尊の首にしがみつきながら、大声で騒ぐ。
声を無視し、夜尊はただ下を見下ろすと、ミチルをじっと凝視した。
やがて琥珀の目を一層輝かせると、表情を一転させ、鋭い顔つきとなっていく。
それは大袈裟に言うならば、天使から悪魔に変化したような、そんな変わりようであった。
そして告げる。
「須佐之男。何故私に会いに来た? 何故此所にいる? 干渉するなと言った事、忘れたのか」
その声は、今までとは違う、澄んだ氷のような声。
無感情で無機質な、……そんな冷めた声――
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