0029* 邇邇芸の指令
……ジジジ……
蛾が火に飛び込み、静寂を保つ薄暗い部屋にかすかな音を立てる。
煙は1本に真直ぐあがり、そして、消えた。
蝋燭は2本灯されており、円座に胡座をかいている邇邇芸の命をゆらゆらと照らし出す。
彼にしては珍しく落ち着きがなく、親指の爪を強く噛みしめている。
「馬鹿な! なにを考えておられるのだ。大鳥居にいらっしゃるのも謎だが、その上……」
水晶玉は映し出す。妖しげな虹光を放ちながら。
「結婚だと!? そんな事をされては困る。しっかりと言い聞かせなければ!」
水晶を乗せた彼の手は強張り、高天原で眉目秀麗と名高いその顔も、予想外の出来事に、いくばくか歪んだ。
(猿田毘古め。何が「それならば」だ。止める立場だろうに。……あの阿呆)
「失礼致します。天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命……御呼びですか?」
簾の向こうから、女の声がする。
女は手を胸の部分で合わせ、45度の最敬礼を行ない続けたまま。
ニニギは服装を正し、一つ咳払いをした後、
「御苦労様です。中へ入って下さい」
と告げた。
足音を立てずに、女はしなやかに簾の中へと入っていく。代わりに足首の鈴がシャラシャラと音を立てた。
女はうす布を身に纏い、細かなヒダのついた裳を揺らしながら歩いている。
肩には深紅の御須衣をかけ、手には七色に光る羽衣を持つ。
「天孫、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、お久しぶりです。幾年ぶりでしょうか。この度、御呼びがかかった事、大変嬉しく――」
ニニギは手で女を制止する。
女は不思議そうな顔をしながら、言葉を止めた。
「ああ、もういいですよ天宇受賣。何度言ったら分かるのですか。私の名は省略して『ニニギ』と呼んで下さい。私の本名は長く煩わしいものですから。なにしろ高天原一の長さですからね」
「ですが――」
「略して下さい」
アメノウズメは、なぜか頬を染めて小さく頷き、
「分かりました。ニニギ」
と答えた。
ニニギは苦笑いをする。
(いきなり主に向って呼び捨てか)
「でも何か違和感がございますね。天孫に向ってニニギだなんて……」
そう言うと、アメノウズメは頭をポリポリと掻いた。
再び咳払いをして、ニニギは、
「貴女を呼び出したのは、他でもありません。例の部屋にいる葦原中国の者達の世話をして頂きたいのです。必ず根堅州國でも耐えうるように仕上げて下さい」
と言い、懐から鍵を取り出した。鍵は宝石が埋め込まれ、豪奢な作りとなっている。
「あの人間達を、ですか。……慎んでお受け致します」
「では、頼みましたよ。半日後には彼らは目覚めるでしょう」
鍵を受け取るとアメノウズメは一礼し、その場を去ろうとするが、思い立ったようにくるりと振り返る。
「ニニギ、私の夫は貴方さまのお役に立っているのでしょうか? 彼は、その、何といいますか……そそっかしくて」
そう言って、頬を再び赤らめてみせた。
顔に落ちる一筋の長い髪を元の位置にすくい上げ、ニニギはにんまりとただ微笑む。
「心配は無用です。サルタヒコは私のよき右腕となってくれていますよ。あなたたち夫妻には感謝していますし、期待もしています」
「嬉しいお言葉。私も最善を尽し、必ずや御期待に添うようにつとめます」
再度敬礼をすると、満足そうな笑みを浮かべ、アメノウズメはふわりと浮かぶように簾の向こうに消えていった。
|