名前のない街(29/61)PDFで表示縦書き表示RDF


名前のない街
作:nico



0029* 邇邇芸の指令


 ……ジジジ……

 蛾が火に飛び込み、静寂を保つ薄暗い部屋にかすかな音を立てる。
 煙は1本に真直ぐあがり、そして、消えた。
 蝋燭は2本灯されており、円座に胡座をかいている邇邇芸ニニギみことをゆらゆらと照らし出す。
 彼にしては珍しく落ち着きがなく、親指の爪を強く噛みしめている。

「馬鹿な! なにを考えておられるのだ。大鳥居にいらっしゃるのも謎だが、その上……」
 水晶玉は映し出す。妖しげな虹光を放ちながら。
「結婚だと!? そんな事をされては困る。しっかりと言い聞かせなければ!」
 水晶を乗せた彼の手は強張り、高天原で眉目秀麗と名高いその顔も、予想外の出来事に、いくばくか歪んだ。
猿田毘古サルタヒコめ。何が「それならば」だ。止める立場だろうに。……あの阿呆)


「失礼致します。天邇岐志国アメニギシクニ邇岐志天津日高ニギシアマツヒコ日子番能邇邇芸命ヒコホノニニギのみこと……御呼びですか?」

 簾の向こうから、女の声がする。
 女は手を胸の部分で合わせ、45度の最敬礼を行ない続けたまま。
 ニニギは服装を正し、一つ咳払いをした後、
「御苦労様です。中へ入って下さい」
と告げた。
 足音を立てずに、女はしなやかに簾の中へと入っていく。代わりに足首の鈴がシャラシャラと音を立てた。
 女はうす布を身に纏い、細かなヒダのついた裳を揺らしながら歩いている。
 肩には深紅の御須衣みすいをかけ、手には七色に光る羽衣を持つ。

「天孫、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、お久しぶりです。幾年ぶりでしょうか。この度、御呼びがかかった事、大変嬉しく――」
 ニニギは手で女を制止する。
 女は不思議そうな顔をしながら、言葉を止めた。
「ああ、もういいですよ天宇受賣アメノウズメ。何度言ったら分かるのですか。私の名は省略して『ニニギ』と呼んで下さい。私の本名は長く煩わしいものですから。なにしろ高天原一の長さですからね」
「ですが――」
「略して下さい」
 アメノウズメは、なぜか頬を染めて小さく頷き、
「分かりました。ニニギ」
と答えた。
 ニニギは苦笑いをする。
(いきなりあるじに向って呼び捨てか)

「でも何か違和感がございますね。天孫に向ってニニギだなんて……」
 そう言うと、アメノウズメは頭をポリポリと掻いた。
 再び咳払いをして、ニニギは、
「貴女を呼び出したのは、他でもありません。例の部屋にいる葦原中国あしはらのなかつくにの者達の世話をして頂きたいのです。必ず根堅州國ねのかたすくにでも耐えうるように仕上げて下さい」
と言い、懐から鍵を取り出した。鍵は宝石が埋め込まれ、豪奢な作りとなっている。
「あの人間達を、ですか。……慎んでお受け致します」
「では、頼みましたよ。半日後には彼らは目覚めるでしょう」
 鍵を受け取るとアメノウズメは一礼し、その場を去ろうとするが、思い立ったようにくるりと振り返る。
「ニニギ、私の夫は貴方さまのお役に立っているのでしょうか? 彼は、その、何といいますか……そそっかしくて」
 そう言って、頬を再び赤らめてみせた。
 顔に落ちる一筋の長い髪を元の位置にすくい上げ、ニニギはにんまりとただ微笑む。
「心配は無用です。サルタヒコは私のよき右腕となってくれていますよ。あなたたち夫妻には感謝していますし、期待もしています」
「嬉しいお言葉。私も最善を尽し、必ずや御期待に添うようにつとめます」

 再度敬礼をすると、満足そうな笑みを浮かべ、アメノウズメはふわりと浮かぶように簾の向こうに消えていった。












ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう