0013* 夜兎の霧の国
風は、ない。
芳しい香りが辺りに漂っている。
そこは相変わらず白い世界であった。
濃密な霧が全てを包みこんでいる。
……チリン…チリン……
鈴の音が、微かにこだまする。
音は、次第に大きくなっていく。
何かがぼんやりと霧の中に現れたのだが、そのシルエットから、大型の牛車であることが確認できる。
――牛車。
その正体は、一台の絢爛豪華な唐庇車。
塗り重ねられた漆は艶やかに黒光りし、所々に埋め込まれた金や真珠は幻想的に虹光を放っている。
それは平安時代に上皇や皇后、春宮などが使用したものと同じであった。
屋根や庇は檳榔で覆われ、その前後と物見に赤い蘇芳簾がぶら下がっている。
ゆっくりと車を引くのは瘤牛で、顔には漆黒の仮面をつけている。
……チリン……
突如、簾は跳ね上がり、中から黒いものが飛び出した。
黒いもの――それは、兎面をつけた夜尊。
長いマントをたなびかせ、ふわりと優雅に着地する。
おりると同時に首飾りは鳴り、長い兎耳もファサリとゆれた。
そして二つの紅玉を輝かせながら、元いた唐庇車を見る。
「ねぇ、邇邇芸。『あと1人』は到着したノ? ボクはもう、待ちくたびれちゃったヨ」
そう言って上体を揺らしてみせた。
両の手は後ろで軽く組まれている。
蘇芳簾を丁寧に上げ、ニニギは桟を使って下りてくる。
「今しばしお待ち下さい。……少々問題がございまして……」
「問題ってなあニ?」
「いえ、貴方様が気になさる程でもありません。もうじき解決致します」
アーモンド型の目は、自信に満ちた光を放つ。
それからニニギは静かに歩き、やがて夜尊の隣に立った。
「で、……お気に召した者はいましたか?」
「うーん、まだよくわかんなイ。ニニギはダレが気に入ったノ?」
夜尊は首をかしげてニニギを見る。
ニニギは何かを包み込むように両手を重ね、それから左手を静かに下ろした。
残された右手には、――どこから現れたのか、水晶玉が乗っている。
そしてニヤリと笑いながら、「私は」と、水晶玉を指差した。
「……ふぅん、なるほド。いかにもキミの好きそうなタイプだネー」
夜尊が確認すると、ニニギの水晶はスゥとかき消えていく。
「この者は私がいただいてもよろしいですか?」
「うん、ニニギの好きにしなヨ。……それより急いでネ。もう待ちくたびれたかラ」
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