0001* 旅立ちの朝
午前六時――時計のアラームは鳴り響く。
坂下真朝は布団の中でもぞもぞ動き、やがて手を伸ばして時計に触れた。
リンという余韻を残し、部屋は静寂に包まれる。
ゆっくりと上体を起こして窓をみると、ベージュ色のリネンのカーテンは光っている。
裾をめくり外を見ると、そこには雲一つない青空が広がっていた。
……旅立ちの日には申し分のない清々しい日である。
「真朝、起きているのー?」
毎日聞こえるおなじみの快活な母の声。いつもはうざいなと思い、不機嫌な声で答えるのだが、
「起きてるよ」
明るく優しく言う。それはしばらく母ともお別れだからだ。
真朝は今日、成田へ向かう。フランス、パリに向かって。
服飾を本格的に学ぶためだ。まずは言葉を覚えるために語学学校へ通う予定。
「真人は起きてる?」
真朝は階下にいるであろう母に大声で問う。するとすぐさま返事は返ってきた。
「まだよ、起こしてちょうだい」
「……はぁ、やっぱりまだ寝てんのね」
真人は真朝の双子の兄だ。二卵生双生児。
本日の彼女の予定は、真人に駅まで送ってもらい、新幹線で東京に着いた後、成田エクスプレスで成田空港へ向うことになっている。
しかし真人は朝が恐ろしく弱く、起こすのは重労働であると言えた。彼女はできれば母に送ってもらいたいと思ったが、残念ながらペーパードライバー。父はといえば、現在単身赴任中で不在である。ということは、やはり真人に頼るしかない。
ため息をつきつつ、真朝は真人の部屋のドアを叩き始めた。
「真人、時間だよ! 起きて」
……反応はない。分かりきったことである。人一倍朝に弱い男なのだ。もしかして日本一朝に弱い男かもしれない。
「こいつ……起きろっつの!」
舌打ちした後、ドアを力一杯開け放ち、鼻息荒くドカドカと入っていく。
視界に広がるのは、見事に服やら雑誌やらゴミやらが散乱した汚い部屋。その様はブタ小屋以下。いや、ブタも気を悪くするかもしれない。
「起きてってば! 駅まで送ってくれる約束でしょ?」
言いながら、布団を頭までかぶる真人を揺り動かした。布団からは、ちらちらとボサボサ頭がのぞいている。
「……ったく、うるせぇなぁ」
「うるせぇじゃないでしょ、起きてよ!」
「……わかってるって、あと5分だけ……」
この言葉に、真朝は頭の血管がちぎれるくらいにイラっときてしまう。
「何が5分だよ、いつも5分5分って全く起きないじゃん! だいたい小さな頃からアンタはいつもそうやって5分って言って…」
キンキン声が汚部屋に轟く中、遮るようにして、
「うるさいなぁ。…………我慢しろよ」
真人は煙たそうに呟いた。
「我慢? んなものできるかよ!」
真朝は布団を鷲掴みにすると、思いっきり部屋の片隅へと投げ飛ばす。同時に押し入れはガタリと大きな音を立てた。
「わ、何、……寒っ」
虚をつかれた声で、真人は上体を縮込ませる。
「分かったら、とっとと起きろ! このなまけもの!」
そう言って真人のボサボサ頭をどつくと、腕を組んで仁王立ちになった。その形相は、まるで阿吽の像の吽形のよう。
「……怖ぇ」
「何か言った?」
「別に。……ったく、しょうがねぇなぁ」
真人はめんどくさそうに瞼をこすりつつ、恨めしそうに真朝を見上げた。
坂下真朝・真人の両双子はとても似ている。昔は一卵生双生児によく間違えられたものだ。
現在、真朝の髪の長さは肩まであり、目にはまつげのエクステをしているし、真人は少し長めのボサボサ頭に眼鏡をかけている為、さほど似ていないと思われがちだが、基本的な顔の作りは成長した今でもほぼ同じ。
大きなアーモンド型の瞳、大きな黒目、高すぎず低すぎない形の整った小振りの鼻。
二人は母親似であった。
「ご飯できてるわよ」
母はフレンチトーストを3つ用意し、豆乳バナナジュースをミキサーからグラスへと移した。
部屋には暖かな匂いが充満している。
「サンキュ、いただきます!」
これでしばらく母の作る朝食を食べる事ができないのかと、感慨にひたりつつ、真朝はお皿にその手をのばした。
「いただき、ます」
とぼけた声を出しながら、一足先に、真人はぱくりと噛み付いた。
窓からは光が帯となってさしこんでいる。
母、朝子はグラスを口に運ぶ娘の顔を、ただじっくりと見つめ続けた。
旅立ちの日――これから真朝はパリへと旅立つ。小さかった、まだまだ子供と思っていた真朝が世界へ……。
そう思うと目頭が熱くなりそうになり、あわてて朝子はエプロンをはずし、新聞を取りに玄関へと向った。
「そろそろ、時間なんだろ?」
真人はトレーナーとジーンズに着替え、頭にパイル製のヘアターバンをつけながら、真朝に問うた。
「うん、おねがいね」
彼女は言って、精一杯にっこりと笑って見せた。
ずっと一緒にいた双子の兄とも、これでしばらくお別れだと思うと、少々寂しい気もしたからだ。
「言っとくけど、それ、大事に使えよ。俺のなんだからな」
「わかった」
「まじで乱雑に扱うなよ? あと、貸すのは1年間だけだからな。絶対返せよ?」
「……わかってるって」
真朝の顔は、微笑みから次第に苦笑いへと変わり始める。
「10万超えるんだぜ! 肝に命じろよ」
「はいはい」
真人が指を差すのは、アルミ合金板でできたドイツ製のRIMOWAの大きなスーツケース。冬のボーナスで買ったのだ。
どうせ、海外にしばらくは行かないんでしょうってことで、真朝が無理矢理借りたのだった。
(別れ際なのに、カバンの心配ばっかりかよ……)
スーツケースはまだ新しく、目立つ傷はひとつもない。
「真朝、気をつけるのよ。ちゃんと着いたら連絡するのよ?」
母は終始心配そうな表情をうかべていた。
「はーい」
白いレースのワンピースに身をつつみ、真朝は旅立ちの一歩を踏み出す。
真人は愛車、黄色のニュービートルの窓から顔を出し、すでに真朝を待っていた。その表情は、ひたすらめんどくさそうだ。
「お母さん、いってきます!」
清々しい顔で言う。
「いってらっしゃい。……真人、お願いね。運転気をつけてね」
「はいよ」
母は車がエンジン音と共に去り、見えなくなった後も見送り続けた。
それは娘が旅立つというのもあるが、妙な胸騒ぎがしていたからかもしれなかった。 |