第7話 チカラ
「ただ・・・元の場所に・・・私を元いた世界に帰してほしいだけよ」
自分達以外、人が誰もいないこの通路の中で志保が呟いたその言葉は大きく反響した。
老女は志保が発したその言葉に一度ぎょっとした顔をして彼女をまじまじと見つめていた。
「・・・あんたのいた世界、じゃと?・・・何を言う。ここはあんたのいる世界じゃないと言うのかね?」
「そうよ」
さらりとその言葉を言うと、志保はそれからにっこり作られた笑みを浮かべて、その言葉を口にする。
「別の世界の住人。『10年前の』あなたによってかけられた魔法で、ここに連れてこられた迷い人。・・・責任、取ってくれるわよね」
老女はただ、無言で志保を見つめていたが、通行人が階段から降りてくる姿を確認すると、人目を憚ったのか聞こえるか聞こえないかほどの小さい声で「ついておいで」と耳打ちした。
お香の匂いか、薬草の匂いか。老女が身近に触れたとき、嗅いだことのない何ともいえない香りが志保の鼻腔をさっと通り過ぎた。
★★★
案内されたのは薄汚いアパートだった。
鬱蒼と樹木や草が生い茂った空き地に囲まれるようにして申し訳なさそうに立っているようにも思えたそれは、一見廃屋のように思えた。
「あたし以外誰も住んでいないよ。実際ここにあたしが住む許可も下りてないしね」
「え・・・、そんなこと言ったら・・・」
「いいんじゃよ。誰かが文句言ったら場所移せばいいんだから。・・・誰もいないうちは、ここはあたしと猫たちの住処だ」
いつのまに来たのだろう。気がつけば野良猫が数匹、2人を囲むようにそこにいた。にゃおん、なんて鳴き声も立てず、ただじっとそこに座っていた。そして老女だけに視線を向けて。・・・まるでこの家の主を出迎えるように。
コンクリート塀にいつのまにか座っていた黒猫がそこからすとん、と軽やかに降りて老女の足元にすり寄ってくる。そんな野良猫の喉許を優しく指先で撫でながら老女は志保の方に振り向いた。
「まぁあたしがここを壊さないように、文句を言わないようにちょっとした細工をしたこともあるんだけどね。・・・知ってるかい?ここはもう20年以上誰も住んでいないんだよ。あたし以外ね・・・。よくここを誰もいないと勘違いして『お化け屋敷探検』なんてしたがるガキもいるようだが・・・」
そこまで言って、老女はにやり、と志保に向けて意味深な笑みを浮かべた。
そういえば、小学生をしていた時代、何度か子供達と『お化け屋敷探検』と称していろんな廃屋に忍び込んだ経験がある。
そしてこのアパートも、1度だけは中に入ったことはあったように思う。
部屋の中にも鬱蒼と草が茂っていて。くもの巣や得体の知れない匂いが立ち込めて。じめじめとしていて。きのこなんて生えてて。
どんな角度で長所を探そうとはしても、どうしても人が住めた状況ではなくお化けが本当に出そうだ、と子供達は顔を真っ青にしてこの部屋を出た覚えががある。
(まさか、こんなところに住んでたっていうの・・・?)
信じられない思いで再び歩き出した老女の背中を目で追いかけた、ちょうどそんなとき。あぁ、と老女が一度だけ低く唸った。
「思い出したよ、あんたのことを。あんたも、生意気そうなメガネの子や、ガキ大将風の太っちょの子、可愛らしいちょっとませた感じの女の子に、利発そうな雀斑だらけの子も。みーんな。あんたたち5人でうちに来たっけね」
歩きながら、老女は旧知の友人にでも会っているかのように心から楽しそうに大声で話していた。なんて言っていいか判らず、無言でいた志保ではあったが、老女はかまわず話を続ける。
「あんときから少しあんたには何かあると思っていたんじゃよ・・・。それで?元の世界とはどの世界のことを言っているのかね・・・。ふふふ、聞くのが楽しみじゃ」
こっちが慌ててしまうくらい、彼女は大きな声を出して笑った。さっきはあんなに人目を気にしていたのに、このままだと何もかも秘密をこの場所でばらされてしまうんじゃないかと思ったほど。
・・・もうここには誰も人が来ないとわかっているのだろうか。
(それにしても、昨日はこんなに横柄で、こんなに豪快な人だったかしら)
志保は首をかしげながら老女の後をついていく。
自分をババア呼ばわりするなと制す彼女は、『昨日』から10歳年をとったはずだ。
しかし、外見は年をとってはいても、気の若さではこちらの方が俄然若かったような気がした。
・ ・・それとも、昨日はただ、『演じていた』だけなのだろうか。既に初めから自分は彼女の魔法にかかっていたのだろうか。
「さっきから、何を考えているんだね?」
急に皺くちゃのアップの顔が目の前に現れて、志保は思わずぎょっとたじろぎ、慌ててかぶりを振った。そんな彼女に、老女は満足そうにうなずくと、しっかりとした足取りで草に覆われたそのアパートに足を踏み入れた。
そしてある一つの壊れかけたドアの前で立ち止まり、鍵を開けた。
★★★
これがこの人の能力の威力なのだろうか。
部屋の内部はまるでワンルームのような造りになっていて、まだ建てたばかりかと思わせるような新築特有の匂いがほんのり残る。
精神的に疲れた体。まるで吸い込まれるようにベッドに倒れこむ。はしたないとわかっていても、全ての疲れをとる欲求の方が脳を支配した。
「今日はその部屋使いなさい。話はまた体が休まったあとでいいから」
後ろから老女のしゃがれた声がして、志保は顔を上げて、ありがとう、と礼を言った。
ありえないのに。こんなことはありえるはずがないのに。でも。
(この世界では何でもアリなのかもしれないわ)
たとえ、彼女が本物の魔女で自分はただここに騙されにきた、ということになっても、それはこの世界では「有り得る」こと。
いや、この世界じゃなくて。「彼女」だから、か。
「ほら。・・・馬の小便とか、変なモンは入ってないよ。正真正銘の麦茶さ。・・・飲みな」
一体どこから取り出したのだろう。目の前に差し出された麦茶を受け取り、志保は体を起こすと、素直にそれを口にする。
冷たい麦茶がすぅっとのどを通り抜け、たった1杯の麦茶であるはずなのに、まるで1日オフの時間を過ごした後のように体がリラックスしていく。既に「正真正銘」の麦茶、というのはウソかもしれない。ふとそんなことを思い、志保は心で笑った。それから、満足そうに自分を見る老女を見つめる。
「ねぇ・・・」
「なんだい?」
「あなたは本当に魔女なの?」
シンデレラにカボチャの馬車を与えたり、眠り姫や城の人を100年の眠りの呪いにかけたり、ラプンツェルを高い塔に長い間閉じ込めたり。
そんな御伽噺に出てくるような、魔女が目の前の人物だというのだろうか。半分信じて、半分疑って。
「そんな大層なもんじゃないよ。人よりちょっと変わったことができるだけで。そんな人間この年になればざらにいる」
(いないと思うけど)
思わず志保は苦笑した。それから、さらにこう質問する。
「・・・どうしてあなたは私に優しくしてくれるの?」
「おや、責任取れといったのは誰じゃったかね?」
可笑しそうにくっくっと低く喉を鳴らして下品に老女は笑うと、それから言った。
「まぁ・・・そうさね。懐かしさ、っていうのかね。あんたはあたしをどんな女だと思っているかわからないけどさ。10年前、あたしに『魔法』をかけられたという女が目の前に現れて。・・・ちょっと興味を覚えたもんだからさ。・・・冥土の土産に聞いておこうと思ってね」
「・・・そんな」
「何、人間年には勝てんじゃろ」
「何今になってそんな年寄りくさいこと言ってるのよ。さっきまであんなにババア扱いするな、と怒っていたくせして」
志保が呆れた顔を老女にむけると、彼女は「それとこれとは話は別じゃ」とすました顔をしてみせた。
それから真面目な顔をして、それより・・・と口を窄めた。
「あんたが10年前のあたしと出会ういきさつを教えてくれんかの。残念だが、あたしはそのことを少しも覚えていないんでね」
「いいけど・・・。全てを話し終えたとたん、魔法で蛙や蝉に変える、なんてことはしないでね」
志保が思わず顔を顰めてそう言うと、老女は大口をあけて豪快に笑った。 |