第11話 誘惑
彼女のその老女の衝撃的な告白を聞いてから、既に3時間は過ぎていた。花を売りにでかけた老女と判れ、提向津川を跨いでかかるその橋の欄干に手をかけ、川の流れをぼんやりと見つめながら、彼女は立っていた。思うことは唯一つ。
遠くにいる彼のこと。・・・結ばれることはなくても、それでも彼を愛しているから。
「工藤くん・・・」
彼に、逢いたい。声を、聴きたい。
彼女はポケットの中から携帯電話を取り出すと、リダイヤルボタンから彼の名前をすぐ見つけ、ボタンを押した。
「・・・なんだ、ここにいたのか・・・」
そのときだった。その声がしたのは。電話の受話器口からではなく、ナマの声で、『彼』の声がした。
はっとして振り返る。そこには、案の定、自分が会いたいと願っていた相手とは別の、しかし顔も中身も同じ『彼』が立っていた。驚いたような、そしてその後で心から安心したような顔を浮かべて。
彼の登場に、思わず携帯電話をぎゅっと握り締める。受話器の向こうからは未だ、単調な機械音が鳴り続いていた。
「・・・『江戸川くん』」
「はいよ」
志保がその言葉を口にすると、コナンは半ばうれしそうに口の端を緩めた。
「・・・思い出したか?」
「え?」
きょとんとした顔で志保がコナンに訊ねると、彼は思わず苦笑した。
「・・・どこに行ってたのか知らないが、大分落ち着いたみたいだな」
彼の大きく骨骨したその手が、そっと志保のその緋色のふわふわな髪を梳くように撫で上げる。彼の手のぬくもりを地肌で感じ、少しこそばゆい。
「・・・随分探したんだぜ?」
「・・・ごめんなさい」
素直な言葉が出ている自分に驚いた。そして、彼も同じ感情を抱いていたのか、一瞬目を丸くしてからにやり、と笑って、「よろしい」とだけ呟いた。その言葉の響きにまた、どきりとする。
ふわり。引き寄せられる彼の腕。そして、とくんとくん、と波打つ彼の心音。温かいぬくもり。固くて厚い胸板。
「おかえり・・・」
耳にそっと囁く彼の吐息。
(あぁ、ダメだ・・・)
わかっているのに。こうなってはいけない、とはわかっているのに。
彼を見ると、こんな風にされるとどうしても動けなくなる。
『願いなんて・・・』
『あるはずじゃよ、あんたには。ずっとそのココロの中にあったはずじゃ。・・・もっと、素直になってもいいんじゃないかね?』
抱きしめられながら、彼の鼓動を感じながら、あのときの老女の言葉が頭の中に浮かんできていた。自分が願ったこの世界。もし、一生戻ることがなかったら?
(・・・それでも、いいのかもしれない)
彼の胸の中がとても居心地がよくて。
あの老女の話を聞いてしまったから。
この世界は『自分を中心に回っている』。
彼は『自分』を愛している。自分は大学に通っていて、きっとあの大学にはあの時代では交流の途絶えてしまった子供たちがいて。あのころと同じように過ごして。
−−−きっと笑顔でいられる自分がいる。
「灰原・・・」
彼の囁き。
あの老女に縋らなくても。魔法を解いてもらわなくても。元に戻れなくても。
この世界にいることは決して『損』ではないはず。
彼は『工藤くん』ではないけれど、そこに『彼女』がいないけれど。
でも、彼は「彼」であることは確かで、優しく愛してくれて、そして・・・。
「・・・だれ、なんだろうな」
ボソリ。自分の頭上で彼がそう呟くから、志保はそっと顔を上げた。憎憎しげに呟きながら、彼のその大きな手は、またそっと彼女の顎をそっと包んだ。
「お前をこんなに苦しめたヤツ。・・・こんなに混乱させちまって・・・一時はどうなることかと思ったんだぜ?」
きっと記憶を飛ばすほど、混乱させるほど怖い思いをしてきたのだろう、と彼は思っているようだった。そうはわかっていても、まさか老女の魔法だとも言うこともできず、言うタイミングも掴めず、志保はただぼんやりと彼に身を任せていることしかなかったのだが。
「言うなよ?」
「・・・え?」
「もう、自分は『灰原じゃない』だなんて。『宮野志保』だなんて」
言葉が出てこない。そんな志保に対して、コナンは「おいおい・・・」と困った顔をして見せた。
「・・・俺らは捨てたんだ。生まれてきたときの名前を。俺は『工藤新一』・・・そして、お前は『宮野志保』を。・・・俺は『宮野志保』じゃなくて、『灰原哀』をこの10年間、愛してきたんだから。・・・この10年を否定するようなこと・・・言わないで欲しい」
『工藤新一』を捨てて10年生きてきた『江戸川コナン』である彼を見上げて、それでもその約束をするわけにもいかなくて。
ただ、ぼんやりと彼の顔を見つめることしかできなかった。そんな自分に対して、さらに彼は眉を顰め、それからぷっと吹き出した。
「ホーント、そーいうとこ頑固なんだよなぁ、おまえ。融通が利かねぇっつーか」
こつん、と人差し指で額を軽く弾かれた。
「普通彼氏がそうやって真面目に頼んでんだから『わかった』ぐらいは言ってくれるのが普通だろ」
『彼氏』その一言に再びどきんと心が反応する。
その様子の変化にコナンは気づいたのか、いぶかしむようにその整った眉を顰めた。その後で一度自分の体から外してまじまじと見つめ、それから小さく溜息をついた。
「・・・やっぱり、治ってないようだな。っつーか、おまえ、もしかして・・・。怖い思いしたとかそういうのじゃなくて・・・博士の実験のモルモットにされただろ、だから」
「・・・違うわ」
思わずジト目になって反応すると、彼はさらに困った顔をしてみせる。
「だってどうしても尋常じゃねぇって」
「最初から尋常じゃないのよ、全てが」
「何言ってんのか、わかんねーよ!」
コナンの手がぎゅっと志保の手を掴んだ。あまりにきつく手を掴むから、その強引さに思わず顔を顰めた。
「やめてっ」
その手をのけようと、無理に腕を振り上げて抵抗した。その拍子にコナンの目の前に、彼女の手の中にある携帯電話をこれでもかというほど間近に見せ付けられた。
「・・・なんだ、これ・・・。すげー古いケータイ。・・・イマドキこんなの販売してねぇぞ?・・・一体どこで見つけたんだよ、こんなもん」
「あっ」
彼はひょいと彼女の手から取り上げると、ものめずらしそうにじろじろとそれを手にとって眺めた。志保自身、気づかなかったが、既に通信音は途絶えていて。音という音は受話器の方から何も聞こえてこなかった。
「懐かしいなぁ。これ、こーやって耳に当てて喋るんだろう?」
嬉しそうにはしゃぐコナンに対して、志保は思わず呆れて、それを彼の手から取り上げた。それから、その携帯電話を二つに折ってポケットに入れようとして、それがまだ『通話中』という表示だったということに気がついた。
「!?」
はっとして、それを耳に当てる。
「『工藤くん』・・・?」
目の前にいる、『かつて工藤新一だった男』が、怪訝そうに自分のことを見つめているその視線を痛いほど感じながら。その受話器の向こうにいるはずの、『現在の工藤新一』の声を探した。
『・・・みや・・・の?』
受話器の向こうから、声が聞こえた。信じられない、というような驚きの充分入り混じったその声。
向こうの世界の。・・・自分が本来身を置くべき世界の住人、『工藤新一』の声。
そう。
まだ、電話は繋がっていた。
そして恐らく、電話の向こうの『彼』も、ここにいる『彼』も、『彼女』の周りに確かに起こっているただならぬ状況に、ようやく気づき始めていた。 |