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不良市民の不安
作:くまごろー


 ……まだ気づかれてはいないな。でも、だれだったかなぁ、アイツは……。
 その日は午後一時をまわったころ小雨がパラついた。俺は押さえていないとすぼまってしまうやっかいな傘をさしていた。こわれたのだ。きついバネに逆らって広げている指先が痛くなり、右、左と持ち替ながら小雨のなかを歩いていた。そこに一〇メートルほど先からこっちに向かって歩いてきたのがアイツだった。俺はその男の顔に見おぼえがあった。……うっ、思い出せねぇな……。

 男は不気味な歩調で俺に近づいてくる。……年齢のせいにしたくはないが、最近とみに顔と名前が一致しない。でも俺が友人の顔を忘れるワケがない。あかの他人なら見おぼえがあるワケない、ということは顔見知りってことになるが、飲み屋で見かける顔ではない。ちっ、中途ハンパな〈知人〉ってのがいちばん困るよな。知り合いなら挨拶せにゃならんぞ、さて、どうしたものか、傘で不自然に身を隠して逆に見つかりでもしたらどうなる……?

 俺の心は不安を感じ始めているのに、焦ってはいないのだった。……妙だ。挨拶するより知らぬ顔の半兵衛で行くか。よし、そうしよう……。俺はサッと遠近両用メガネを外して内ポケットに放り込んだ。
〈逃げたい〉というのとは少し違う。それでも〈会わない方がいい〉と虫が知らせるのだ。気持のどこかでアイツとは係わり合いたくない気がする。そうかといって、逆方向に一目散に駆け出さねばならぬほどの危険も感じない。メガネを外したのは「あの時はメガネをかけていませんで、大変失礼しました」という言い訳になる、と無意識の計算があったのだろう。現実の鉢合わせは回避できないまでも、俺の方の気分は変わる。

 ……うむ、気分は少し楽になった。背の高い“やさ男”だ。メガネを外したのは消極的な〈逃げ〉にはちがいない。俺はどうしてアイツを〈避けたがる〉のか……。万引の現場を店主に見られたかと不安がる少年ではないが、なにか変テコな気分だ。若いのにスキのないヤツだ。なにか威厳のようなものさえ感じられる。……さぁて、俺にこんな知り合いがあったろうか……。

 長身の男は大股に歩き、俺との距離を着実につめて来る。
 俺はここまでの自分の行動を振り返ってみた。
 ……駅の南口を降りて直進三〇メートル、コンビニの角を東に折れて甲州街道沿いを歩いて来てアイツと出くわしたのだ。でも、なぜ甲州街道なんだ……。俺は自分の用件がわからなくなっていた。……こんなざまでどうするんだ? 老後は長いのだぞ、しっかりしろいっ。いや、認知症などでは断じて、ないッ……。そう自分を叱咤してみるものの、不安は消えない。軽度なパニックだ。俺は努めて冷静になろうとした。アイツに怯えていることは自分でわかるのだが、それは怯えとは言えないほど微かなものだった。切迫感がないのが妙だ。

 俺はアイツに借りがあるような気がしてならない。たしかに借りている気がする。……借金? いや、取り立て屋の顔じゃない。穏やかすぎて、公務員ふうな大人しさだ。それに俺の方だって、ここ二年はサラ金の世話になんかなってないぞ。そのスジの者とは思えないな。それなら、飲み屋でおごられでもしたか? 俺にそんな奇特な知り合いがいるわけない。あゝ、ますますわからない。でも、借りたのはたしかだな。でも、金でないなら何を借りたというのだ。車か? 友人でもない男から、それはない……。

 アイツに〈借りている〉という思いは俺のなかでますます固まっていった。それには〈今日返さなければならない〉という強迫観念のようなものがへばりついている。俺はアイツを軽くかわしたいだけで、アイツから〈逃げよう〉とまでは思っていない。それが自分で不思議なのだ。それどころかその借りも〈今日こそは返せる〉という妙な自信さえあるのだ。どうしたことだ。……わけがわからない。給料日前で財布はカラだ。アイツに返せるいったい何があるというのだ……。俺の頭は悲しいほど老人のそれだった。

 男との距離がぐっとつまって、もうメガネなしでアイツの顔がよく見えた。見おぼえがある。ぱっちりとした二重。濃いめのヒゲの剃りあと。ウェーブは天然らしい。沖縄系によくある顔立だ。しかし細身の長身というのは沖縄らしくない。俺は頭のなかに日本地図を描いて地方の典型的な顔立ちを想像する。……俺の知り合いだとすると、いったいどこの出身だろう? 年齢に差があり過ぎるから、知人と言っても友人よりは他人に近いな……。

 おそい昼飯にでも出てきたんだろう、アイツの姿が目と鼻の先に迫った。
 ……さ、半兵衛、半兵衛。ほっかむり、ほっかむり……。
 アイツとの距離は二メートルになった。アイツは首にひもをかけたままIDカードをシャツの胸ポケットに入れていた。仕事中は顔写真のついたそれを心臓の下あたりにだらりと垂らしているのだ。

「ああッ!」

 思わず手を離した傘が一気にすぼまった。アイツは俺をみつめてかすかな声をあげた。二人の声が重なったとき、古いセーターがほぐされるようにきれいに記憶が甦ってきて、彼と俺の関係を理解した。背中に手を回してリュックの外側から中身を確かめる。……よし、持ってきている。これを渡せば天下晴れて自由だ。アイツのことはもう一切気にしなくていい。しかし、それでもやはり、俺たちはお互いに名前すら知らない仲なのだ。お、彼が何か言いたげだ……。

「あ、あのぉ、今日は〈館内整理日〉なのでお休みですよ」
「あれぇ? 今日でしたっけ?」

 図書館へはもう七メートルほどの距離であった。(了)




借りた本やCDは期限内に返しませんと無意識のうちにストレスをためてしまいます。無駄に気をもむことのように、借りた物は期限内に返却するよう心がけましょう。













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