彼女は今日も、無数のお友達とホテルのベッドの中にいる。
私はいい加減、それに嫌気がさしている。
「ねえ、外に行こうよ。昨日雨が降ったから、ガンジス河がすごいことになってるんだよ。濁流って言うの?なんか、木とか流れてくるし、楽しいよ?インド人もびっくりだよ?」
私はしつこい。もう三十分も同じようなことを言い続けている。
彼女も頑固だ。薄いボロ毛布の中で丸くなったまま、うんともすんとも言わない。安宿ベッドにつき物の、ダニさん・ノミさんと会話でもしてるのかもしれない。この十日間で、さぞ仲良くなったことだろう。
時刻は午前十時を回った。私は諦めた。彼女に聞こえるように大きく息を吐き出し、部屋の扉を開く。
「私、行くからね?気が向いたら来てよね?インドも、ベナレスも、今日で最後なんだからね?」
音を立てて扉を閉め、もう一度ため息をつく。
今朝も負けてしまった。彼女はたぶん来ない。これで0勝10敗だ。
明日には日本に帰らなきゃならないというのに、彼女は一度も宿の外に出ようとしない。ハウスキーパーも驚くような引きこもりっぷりだ。ヒンディー語が話せれば、どうやって彼女のベッドのシーツを換えているのか、訊いてみたいもんである。
※※※
そもそも、彼女とのインド行きを提案したのは私だった。
私と彼女は中学からの親友同士で、家族ぐるみのお付き合いまでしている仲だ。あの頃はお互いの家を行ったり来たり、晩御飯をご馳走になったりご馳走したり、下校時はいつも一緒だった。あんなに楽しい日々は、二度とないんじゃないかと思う。
別々の高校に進学してからも友人関係はそのまま続いた。放課後に駅で待ち合わせて、高校生になってもお互い相変わらずだよねと笑いながら、それぞれの新生活を話したり聞いたりしていた。
ところが、二年生の春、彼女はいじめに遭った。高校生になってまでいじめですか、そんなん残存してるんですか、新しいクラスに馴染めなかっただけじゃないんですかと突っ込みたいところだけど、少なくとも本人は「いじめに遭った」と言っている。
彼女の性格はがらりと変わった。明朗は陰気に、快活は根暗に変貌した。だんだんと学校を休みがちになり、やがて登校することを完全にやめ、ついに三学期には高校を中退してしまった。
それ以来、彼女は家に引きこもって生活している。学校も部活もバイトもない三年間だ。私なら耐えられない。
一方、私は順調に高校を卒業し、動物カンケイの専門学校に二年間通った。トリマーになりたくて入学したものの、卒業後はフリーターになった。就職課の先生がペットショップへ推薦してくれるという話もあったけど、私はきっぱり辞退した。トリマーの初任給は安すぎて、とても働く気になれなかったのだ。「高い学費を払ったのに」と親は文句を言ったが、最後には勝手にしろと折れた。
自分が人並みに稼ぐようになると、そうではない彼女のことが気にかかるようになった。
それまでは、彼女は彼女で自分なりの人生を歩んでいけばいいじゃないかと寛大なフリをしていたのに、彼女も私と同じハタチだし、きちんと親から自立するべきだと思うようになったのだ。
「私たち、ちょっと人生変えようよ」
私はある日、彼女にそう言った。彼女の両親の前で言ったのはわざとだった。
「インドに行こう、だいぶ遅いけど夏休みが取れたから。私は二度目だからさ、いろいろ案内するよ」
彼女は食事の手を止め、うつむいたまま、あからさまに顔をしかめた。代わりに身を乗り出したのは彼女のお母さんだった。
「あらあ、いいじゃない、行って来なさいよ、インドなんて素敵じゃない!」
お父さんも慌てて腰を上げる。
「そうだそうだ、行って来なさい。おまえ、海外なんて行ったことないだろ、きっと世界が広がるぞ!」
私はにっこりと笑った。予想通りだった。
「インドに行くと人生観が変わるっていいますもんね。でも良かった、おじさんもおばさんも、危ないからって反対するんじゃないかと思ってた!」
「反対なんてするもんか。君にはいつも、この子を連れ出してもらってるんだ」
黙りこくったままの彼女を置いて、話は進んでいく。
「じゃあ、航空券とホテルの手配は私がやるから。おばさん、荷造り手伝ってあげてくださいね」
とうとう、彼女は明確な意思を示さなかった。
結局、荷造りは彼女のお母さんが一人でやった。嫌がる彼女を空港まで連れて来たのはお父さんだった。飛行機に乗せ、ホテルまで引っ張って来たのは私だ。
彼女は、無理やりここへ連れて来られた。
そうして毎日ベッドの中で、やり過ごすように時を費やし続けている。
日本の自宅でも、きっとこうして無為に生きてきたのだ。
※※※
「あーあ」
夕暮れ時、ガンジス河のほとりで、私は膝を抱えている。
数歩後方に牛糞がこんもり落ちていて、自分が身につけているのは白い木綿のワンピースなんだけど、そのことを特に気にはしない。インドに来たのは二度目だし、東南アジアや中近東を旅してまわったことがあるから、我ながら普通の日本人より耐性はあると思う。
昨日の雨の影響はすでに消え去っていて、河は穏やかに流れていた。
彼女を連れ出すことには失敗したけど、今日も一日、悔いなく遊んだ。
インドを歩くのは、混みあった温水プールの中をウォーキングする感覚に似てる。塊みたいな濃縮な熱気を肩できって、大音量の雑音を全身で聴く。ぎらぎらと照りつける太陽に上から押しつぶされ、灼熱の鉄板のような地面に下からじりじり焼き焦がされる。
市場や近所の雑貨屋や土産物屋を見て周り、片言のヒンディー語(あいさつと値切りワード程度)でインド人と触れ合い、奇妙なお土産を買い込み、ビールを飲みながら馬鹿みたいに辛いカレーを右手で食べる。幸せそうに路地をうろついている牛に声をかけ、野良犬に追いかけられ、タクシー運転手と大喧嘩する。ストリートチルドレンに出会って胸を痛め、浮浪者の姿にカースト制度や貧富の差を考える。
毎日が刺激的で、鮮やかで、にぎやかで、私はこうじゃないと落ち着かない。
自分を変えるには、こうして外に出て、色々なものと触れ合って、それらを吸収しなくちゃ駄目だ。彼女にも私を見習って欲しいもんである。
「冷たあい」
ざぶざぶとガンジス河に身を浸す。日が暮れかけ、気温も水温も下がりつつある。
百パーセント不透明な水底は階段状になっていて、足で感触を確かめながら、少しずつ河に入っていく。石段はぬるぬるするから、サンダルは履いたままだ。
どぶ色に濁った水に入ることに最初は抵抗があったけど、もうすっかり慣れてしまった。隣でおじいちゃんが歯磨きしてても平気だし、おばちゃんがお父さんのパンツを洗濯してても何とも思わない。(おじいちゃんが「ぺっ」とやるときと、人間や牛の御遺体がざぶざぶ沖に運ばれていくときはさすがに若干よけるけど)
「少しは人生、変わったかな?」
仰向けになり、河面にぷかぷかと浮かぶ。目を閉じる。
そうすると、静止しているようにすら見える大河の、確かな流れを感じるのだ。
「少しは私、ましな人間になったかな?」
本当は、遅い夏休みが取れたなんて嘘だった。営業成績が悪くてバイトをクビになって、別の女と結婚するからって彼氏と思っていた男にふられて、どうしようもなくヘコんでただけだ。
自分が嫌になって、大嫌いになって、どこかで泣き喚きたくなっただけだ。
インドに、私を変えて欲しかったんだ。
「……変わりたいよう」
ゆっくりと流されていきながら、私は茜空に向かって泣き言を言った。実際、本当に泣きそうだった。
インドには何百という神様がいる。その中の誰か一人でも、私のことを気にかけてくれればいいのに。
「お願い、今度こそ私を変えてよ」
返事はなかった。その代わりに、川辺の寺院で晩鐘が鳴った。この世のものとは思えない、美しい音色だった。
※※※
彼女は、夜になっても毛布の中にいた。
私は彼女とのコミュニケーションを諦め、スーツケースに荷物を詰め込むことに専念した。お土産を買いすぎたのか、到底フタが閉じそうにないのだ。
「やっぱ何か捨てていくべきか?もう着ない服とか?考えなしに買いまくったツケだよなあ。結局、私、全然変わってないな」
彼女が返事をしてくれないので、近頃独り言が多い。ほとんど一人旅の気分だ。話し相手が欲しい。
「インドよ、何故に私を変えてくれなんだ……!」
適当に踊りながら宝塚調につぶやく私の背後で、彼女がもそもそと動いたのはそのときだった。振り返ると、彼女が毛布から顔を出していた。
「人任せだね」
インドに来て初めて、彼女が口をきいた。私は聞き返した。
「え?」
「インドが自分を変えてくれることを期待するだけで、誰かが、何かが、自分を救ってくれることを願うだけで、自分では何の努力もしてないよね」
数秒間、私は言葉を返せなかった。自分の頭に血が上っていくのが手に取るように分かった。そして、あまりにも図星を刺されたことも。
「そんなこと、あんたには言われたくないっ!」
「あたしは変わろうなんて思わないよ。あたしはあたし、無理して変わる必要なんてないから」
ベッドから起き上がり、顔を上げ、淡々と語る彼女の顔は、日本にいたときよりも血色が良かった。
「あるよ!あるに決まってるでしょ!あんたは変わらなきゃ!このままずっと、親に頼って生きてくわけ?!このままずっと、ベッドの中でいじけてるつもり?!」
「ううん。働く。そう決めた」
真っ直ぐに私を見つめ、彼女はきっぱりと言った。私はまた聞き返した。
「え?」
「大検取って大学に行こうかとも考えたけど、これ以上親に負担かけたくないし。最初は契約でも、バイトでも、まずは働くよ。ここの人たち見てたらさ、働くことって生きることとイコールなんじゃないかって思えてきたの。どんなに貧しい人でも、辛い仕事を持ってる人でも、生まれつき自分に与えられた役割をこなして、社会の歯車であることを当然のことのように考えてる。私に生まれつき与えられた役割は、日本で働くことだと思うの。だから働かなきゃなって」
「あ、そう」
そうとしか言えなかった。
「良かったね」
「うん、ありがとう」
安宿のノミとダニだらけの毛布に包まり、十日間じっと引きこもっていた彼女が何かを悟り、毎日外出して「刺激を受けて色々吸収していた」私が二打席連続の空振り三振に終わった。
虚しい気持ちを抑えて窓を開けると、夜のガンジス河が見えた。相変わらず、水溜りのように静かな流れだ。
「独りになってから、いつもこの窓から河を見てたんだよ」
彼女の告白に、私は驚いた。もしかしたら、彼女は外に出たかったのかもしれない。一生懸命ここから出ようとして、出られなかったのかもしれない。だからまずは、この小さな窓を開けたのかもしれない。
「流れてないように見えて、ちゃんと流れてるんだよなあ」
そして時々、大雨が降ってどどーんと流れる。行き先を見失って漂ってるものを全部、まとめて海へ押しやってしまう。
私は窓枠に頬杖をついた。隣で、彼女も同じしぐさをした。夜風は冷たかった。
「やばい、悟りを開いたかもしれない」
私が真剣に言うと、彼女は思い込みだよ勘違いだよ妄想だよと立て続けに否定した。その中学時代の彼女のような辛口応酬に、あの頃の無意味に楽しい日々がふいに帰ってきたような気がして、私は声を上げて笑ってしまった。彼女も少しだけ顔をほころばせた。
私はもう一度、ゆったりと流れる偉大な河を見下ろした。 |