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不眠薬
作:こめ


 ここが正念場だ、と、浪人生の彼は思った。
 なんせ、志望の大学を四年も連続で落ちているのだ。おそらくは気力の面からいっても、今年が最後のチャンスに違いない。
 彼は[合格]と記された手拭いを頭にキリリと結びなおし、机上の参考書に向きあった。
 が、朝からずっと受験勉強に首っぴきで集中力が続かない。
 壁の掛時計の針は午前一時。――眠い。自然と瞼は重くたれ下がってくるし、眼球は赤く充血している。
 受験生、とくに浪人生は寸暇を惜しんで努力しなければならないというのにダウン寸前だ。これではいけない。
 彼は濃いめのブラック・コーヒーを作って、たてつづけに二杯飲み干した。
 そして立ち上がり、走りだす。狭い部屋の中をグルグル、グルグル、走り回り続ける。眠気覚ましのため。
 しかし、意に反してますます意識はぼんやりとし始めた。
 ベッドがおいでおいでと手招きしている。 彼に逆う力などありはしない。その上へ、ゆっくりと倒れ込んでいく……。
 気が付いた時、外はもう明るかった。窓からさす日差しが目に痛い。
 十二時を知らせる鐘が遠くのほうで鳴りひびいた。
「なんてことだ、これじゃあ今年もダメではないか」彼はベッドの上に半身を起こし、おのれの不甲斐なさに歯がみした。
「よし、こうなったら」と言うなり階下へ赴き、玄関に備え付けてある電話に手をのばす。
「んっ、どうした。なんの用じゃ」送話口から彼の父であるI氏の声がもれた。――I氏は、某大学の薬学部で教授を勤めている。
「お父さん、いきなりで悪いんだけど頼まれてくれないかい」
「なにを、じゃ」
「あのね、お父さんのところで不眠薬は作れないかな」
「なぬ、不眠薬じゃと」受話器ごしに声がはねあがった。「それは不眠症の治療薬の間違いではないのか」
「違うよ。不眠薬だよ不眠薬。つまりは、睡眠薬と逆のものだよ。どうなの、出来るのできないの」
「うむ。出来ないことはないが、いったいそんなものなんに使うつもりじゃ」
「できるんだね。だったら、いっこくも早く作ってくれる。頼んだよ」彼は用件をつげると、慌ただしく受話器を架台に叩きつけた。
 わずかの間も、惜しいのだった。志望大学の入学試験は半年後である。
 彼は飯と糞と風呂を計十分で済まし、自室へ駆けもどった。脳裏には、バラ色の学園生活が渦巻いていた。
 翌日、またしても彼は床の上で寝息を立てていた。
 部屋の戸をノックする音で目が覚めた時は、またもや昼前。
「うわあああ、またやってしまった。またやってしまった」と、わめきながら戸を開ける。
 細長いフラスコを片手にI氏が突っ立っていた。「ほれ、頼まれたものじゃ」
「へぇ、もう完成したんだ」I氏から受け取ったフラスコをつくづくと眺める。――なかで、紫色の液体がブクブクと泡立っていた。
「これって、本当に不眠薬。なんか違う薬じゃないよね」恐るおそる尋ねる。
「なにを言うか。父を信用せんのなら、返せ」たちまちI氏は気色ばんだ。
「じょ、冗談だよ。冗談」彼は引ったくられそうになる薬を慌てて懐にかき抱く。「それじゃあ、効果のほうもバッチリなんだね」
「やはり、何からなにまで疑っとるのだな」
「いえいえ、めっそうもございません」彼はI氏の機嫌を取りなそうと、お世辞を並べ立てた。「なにせ、お父うえは頭脳明晰で博覧強記で聖人君子で、そのうえ」
「ああ、もういい」I氏は彼にストップをかけ、薬の説明を始める。「そのフラスコには目盛りの線引きがしてあるじゃろ」
「ええ。そうですね」
「そのひと目盛りで一ヶ月。全部で十二の線引きがしてあるから、つまり、それだけで一年分の不眠効果が得られるというわけじゃ」
「へえ、たったこれだけの量でそんな長い不眠効果が得られるのか。すごいなあ」彼はおおげさに感動してみせた。
「そうじゃとも、そうじゃとも」大学教授らしからぬ単純さですぐに機嫌を直したI氏は、自慢気に何度もうなずく。そして、腕時計をのぞき込んだ。「いかん、昼休みも終わりじゃ。急いで戻らねば、午後の講義に遅れる」
 どうやら勤めている大学が近所ということで、昼休みを利用しての帰宅らしい。
 I氏はドタバタと階段を駆け下りていった。
「落ち着きのないオヤジだ」彼はI氏の後ろ姿を見送ったあと、フラスコの液体を一息に飲み干した。そして、気が付いた。「げっ、そうだこれは一年分だったんだ」
 しばし、黙考する。
「まっ、いいか。一年ぐらい寝なくたって。不眠で得られた時間の半分は受験勉強に、残りの半分は大学生活をエンジョイするために使えばいいんだ。そうだ、そうだとも」うしししししっと彼は声を出して笑い、机上の参考書を開いた。これからはたっぷり時間が取れるぞ、と思った。
 それから三ヶ月後。彼の勉強は、まるではかどっていなかった。
 不眠に失敗したわけではない。薬はバツグンに効いた。ずっと起きっぱなしである。
 しかし、眠気がまったく取れなかったのだ。日毎に増していく。
 つまりは読んで字の如くの不眠薬。薬は彼を完璧な不眠症にしただけだった。ヒドイ話である。
 まずはその日の夜にモーレツな眠気に襲われ、受験勉強を放り出しベッドへもぐり込んだ。一時間が経ち、二時間が経過しても目は覚めたままだった。
 これに腹を立てて起き上がり、ふたたび机上の参考書に向き合った。が、頭はひどく混濁しているもんだから勉強なんて手に付かない。
 そして一周間目辺りからは勉強する気力が消え失せ、食欲さえもなくなってきた。
 幻覚が見え出したのは一ケ月が過ぎた頃だろう。小人の軍隊が部屋を横切り、ピンクの象によるタップダンス・ショーの開演である。
 今、彼は部屋の隅にうずくまりガタガタと震えている。
「くそぉ、あの馬鹿オヤジ」虚空の一点を無意味に見つめた。「なにがこの薬の効果は絶大で、解薬不可能だ、まったく。俺はこれから先……。うぎゃああああああ、サ、サメの大群だああああああ。人食いサメの大群だああああああ」
 彼は頭を抱え込んで絶叫した。その目は病的に赤黒く濁って、頬はゲッソリとこけ、髭はボウボウに伸び放題だ。
 最後にいつ食事をしたのかも、覚えていない。
 とその時、サメの大群の後ろから大鎌を肩にかついだ黒マントの骸骨が現れた。それは、だんだんと近付いてくる。
 これで彼の志望大学合格の夢は、叶わぬものとなってしまった。一生……。
  
 黒マントの骸骨は死神であり、しかも、それだけは幻覚じゃなかったのだ。
【了】














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