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灯りの消えた部屋で
作:くまごろー



            “しあわせ”とは心地よいイスに座れること。

 男がその部屋に足を踏み入れるのは、じつに5日ぶりだった。そこには男の好きなミントの香りが待ち受けているはずだ。ドアの前に立ってスイッチを入れた瞬間に、床とドアとのわずかな隙間から、薄い一枚の光の紙がサッと廊下に突き出される。それを確認しておもむろにノブをまわすのが男のクセだ。

 その日、男は2度、3度とスイッチを入れたり切ったりしながら自分のつま先に目をやっていた。部屋に明かりのともった様子がない。男は蛍光灯の寒々とした光を好まず、照明を電球にしていた。そして電球の寿命は短い。

〈…ちっ、またか…〉

 男はとたんに不機嫌になった。乱暴にドアを開けて男はともかく部屋に入った。まっ暗だった。男はドアを後ろ手に閉め、すぐにロックした。これも男のクセだ。無意識のうちに安心感を求めているのかもしれない。

 とりたてて孤独を好むタイプには見えないが、静かな部屋を好むのだろう。事実、男はドアをノックされることが嫌いだった。家族には、床に這う明りで在室を確認したら、やさしく声をかけろと言い渡していた。

 ストレスの多い現代人のこころは癒されなければならない。人は部屋に凝る。意匠をこらし演出をし、できるだけ快適な空間にしたいと願う。落着いた壁の色、やわらかな間接照明。バラやラベンダーの香りの漂う空間に座りごこちのよいイスがあれば理想的だ。ゆったりと思索の時間を持ちたい…。

 男はポケットからライターを取出して擦った。慣れ親しんだ部屋も照明がないだけで勝手がまるでわからなくなる。ライターの炎は照明用ではない。はローソクのような明るさがなかった。部屋の様子に変わりはなかったが、10秒ほどでライターの金属部分が持っていられないほど熱くなった。

 あちッ!…タバコの点火以外には使用しないでください、だったな。なるほど照明には向かない。

 イスの位置はわかった。暗いなかで男は、ネクタイを荒っぽくゆるめると、いつものようにいつものイスに腰をおろした。ライターの火が消えた。

 暗闇のなかで男はかたく握りしめた両の拳を震わせていた。何かあったのだ。男は低く獣のように唸っていた。ゆったり座っているというふうではない。身を乗り出すような前傾姿勢だ。近づくと男は額に脂汗をにじませている。悩みはそうとうに深いのだ。

「…部下のひとりを近々リストラしなければならい。リストラ…。きょうは仕掛ける側も、明日は我が身…。恨みも恨まれずもせずに人の世というものは渡れぬのか…」

「…俺の人生は何だったんだ。あいつが不倫をするなんて。まさかこんなことが、この俺に降りかかってこようとは…。腹わたが煮えくり返る。どうすりゃいい…」

「…ボケた父の介護を何だかんだと理由をつけては逃げてきたくせに…。遺産分与のこの段になって、まったくどの面さげて。ふてぶてしい。盗っ人のような兄嫁だけは許すまい。憎い…」

 男の頭のなかをどんな考えが駆けめぐったのか。それは誰にもわからない。男はタバコに火を点けた。暗闇のなかでぼんやりした赤い光がせわしなく上下した。

「うあッ、痛ッ!」

 男は一瞬走った激痛に悲鳴をあげた。息をつめて痛みをこらえた。15秒ほどして、その息をかすれた声と同時に肺の底から少しずつ吐き出した。男は身をかがめ、震えながら痛みの過ぎるのをまった。

「痛ったぁ〜・・・」

…このままではだめだ。もう病院行きを覚悟しなければならん。職場にも家族にも迷惑がかかるので我慢してきたが、いよいよだ。男は暗闇のなかで決意した。

 男の充血したまなじりに涙が浮かんでいた。男は手をのばして処置のための紙を取った。まっ暗でも男にはありありと分かる。…紙は重さが手に感じられるほどたっぷりと赤い血を吸い込んでいる…。男の力ない手がもう一度のびて軟膏を探っていた。軟膏のチューブには「痔の痛み・出血・はれ・かゆみに」とあった。

(了)














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