夢人駅(むじんえき)
ほんのりと、不思議な気持ちになっていただけたら幸いです。
駅とは、時に不思議な者と邂逅する……。
◆◇◆
(あーあ……疲れたなぁ……)
もう、終電も近い時間。人影などない、ベンチにだらしなく座るスーツの女性――須坂優莉を除けば全くない、寂しい駅のホーム。バレッタで後頭部に留めている一本結びの髪を、バリバリと掻き毟る。そんなおっさんじみた事が出来るのも、汗と時間経過で崩れたメイクのままでいられるのも、ホームが無人なお陰。
「……疲れたなぁ」
心中で呟いた言葉を、思わず声にして呟いた。音にしてみると、予想以上に蓄積された疲労を身体が実感し、早々に後悔の念に襲われる。だが、一度口を衝いて出た負の言葉は中々止まってはくれない。
「……もうやだなぁ……」
次々と、泉のように湧き上がる負の感情。ぼんやりと屋根からぶら下がる蛍光灯を眺める優莉の脳裏には、思い出したくもない会社での出来事。
とある製本と印刷を掛け持つ会社の、唯一の女性営業たる彼女。しかし、電子書籍が普及しチラシですらネット上で見られるようになった昨今に、印刷した本や紙媒体のチラシが普及する筈もなく。元々若手で営業スキルが乏しいというハンデもあり、悪かった売り上げは更に落ちてしまった。男性だらけの営業部の紅一点、且つ若いという事もあり、表立った風当たりが厳しくないのが幸いだ。そう、表立った風当たりは、だ。
実際、裏で何かを言われているのかは優莉にもわからないしわかりたくもない。だが、赤字に近い売り上げで何も言われない方がかえっておかしい。本日行われた営業会議だって、先輩社員達が腹の底で何を思っているのかわかったものではない。それを見返したくて、けど上手くいかなくて。知らず知らずのうちに溜まっている仕事を片付けていたら、いつの間にか時間は終電ぎりぎり。
「あーあ……なんでこうなんだろ……」
溜息が、ホームに溶けていく。憧れで入った、製本業界。ベストセラー本の仕事を取ってこられる営業になりたいと面接の時に告げ、入社して忘れた頃に配属されたのは製本ではなく印刷の営業。営業も上手くいかないどころか、会社の汚い面まで最近見え始め、何もかも上手くいかなくて、歯がゆくて……。
「はぁ…………ん?」
何度目かの溜息の時、視界に妙なものが映った気がした。目を擦って、再度それを確認して、彼女は目を疑った。
優莉が座っているベンチの、端。そこにはいつの間にか、奇抜な格好の少女が腰掛けていたのだ。
白いブラウスを隠すように羽織った空色のケープに、同じ色の長いパンツ。頭に被ったこれまた空色のとんがり帽子の下の顔は、まるで人形のように可愛らしい。宵闇色のまあるい瞳は、ぽんやりと線路の虚空を見つめていた。
だが、流石に何の変哲もない駅のホームで、さながらゲームの吟遊詩人染みた女の子がいるのはおかしい。渋谷や原宿といった特別な服を纏う人々が集まりやすい場所だとしても、こんな日付が変わったばかりの時間帯ではまずありえない。
(……とうとう、壊れ始めた、とか?)
あはは、と思わず乾いた笑いが零れた。それが、奇抜な少女の耳にも届いたのだろう。虚空に向けられていた瞳が、優莉を捉えた。
「あ……」
「……こんばんは」
ふんわりと、少女が笑った。無垢な子供独特の、美しい笑み。その美しさと無垢さに優莉も釣られて、「こ、こんばんは……」とぎこちなく言葉を返した。
「お姉さんは、お仕事帰り?」
「へ?! あ、う、うん。そうだよ」
「そっか。お疲れ様」
また、少女が笑う。疲れ切った思考ではどう返していいかわからず、優莉は再びの乾いた笑いを溢すだけだった。
本来ならば、未成年たる少女を自宅に帰るよう説得するのが大人の役目。しかし、繰り返すが疲労困憊の優莉には、そんな事を考える余裕すらない。それが少女にも伝わったのだろう、笑顔が徐々に曇っていった。
「……お姉さん、疲れてるの?」
「え? あ、うん。ちょっとね……仕事、上手くいかなくて……」
「……そうなんだ」
うーんと、何故か考える仕種の少女。顎に指を当て、そして口を開いた。
「……お姉さんは、何がしたいの?」
「……はい?」
唐突過ぎる問いに、思わず間抜けな返答。脈絡のないそれに戸惑っていると、少女は言葉を重ねた。
「お姉さんは何がしたいの? 何がやりたいの?」
「え……何がやりたい、か……」
ふむ、と今度は優莉が考え込む。やりたい事は、ある。先輩社員を見返してやりたいという、願い。だが、この幼い少女に理解は出来ぬと考え、違う言葉で返した。
「そうだな……沢山仕事を貰ってきて、それが出来るようになりたいかな」
「…………」
わずかな、沈黙。その後、
「お姉さんは、何がしたいの? 何がやりたいの?」
繰り返される、問い。今度は少し顰め面な少女に、優莉もまた眉間に皺が寄った。
「や、だから仕事を沢山出来るようにって」
「お姉さんは何がしたいの? 何がやりたいの?」
「……あのさ、さっきからお姉さん言ってるでしょ?」
「何がしたいの? 何がやりたいの?」
まるで、その言葉しか知らない人形との無意味な言葉のキャッチボール。流石に苛立ちが募り、思わず声を荒げようとした。その瞬間――、
「お姉さんは、周りにいる会社の人達を見返してやりたいから、だからその会社に入ったの?」
どくり。心臓が、嫌な音を立てる。自分はまだ、彼女にその事を伝えていない筈。だというのに、目の前の少女はピタリと言い当てたのだ。
何故、なぜ、ナゼ。渦巻く疑問に縛られ硬直する優莉に、少女は更に詰め寄った。まっすぐに透き通った、美しい宵闇色の瞳が覗き込む。
「ねえ、お姉さんがその会社に入ったのはなんで? 物を作るのが好きだから? 本が好きだから? ただそれだけなの?」
「…………」
優莉は、何も言えない。否、胸にふつふつと煮える感情は、反論したい思いは確かにある。しかし、その感情の正体が何かわからない。そんな状態だった。
それはまるで、大事な『何か』を霧の中、忘れてきてしまったかのようにもどかしい感覚……。
「ねぇ」
少女が、問う。
「お姉さんは何がしたいの?」
ううん、違うと彼女は首を振った。
「質問、変えようか。
お姉さんは、『本当は』何がしたいの?」
本当は、何がしたいの。
少女から投げられたその問いを、ぼんやりと反芻する。本当に、やりたい事。その問いがぐるぐると渦を巻き、小さな風となって――霧を晴らして隠れていた答えを導き出す――。
「……私は――」
刹那、まるで彼女の答えを掻き消すように鳴り響く汽笛。驚く優莉に、少女は優しげな笑み。
「……もう、時間みたい」
「……時間?」
小さく、少女が頷く。それに合わせるかのように、ホームへと近付いてくる明かり。それは徐々に大きくなり――近付くに連れ、その異質な姿を露わにした。
「……SL!?」
そう、汽笛を鳴らし、ホームに到着したのは黒い車体の汽車、所謂蒸気機関車という物だった。まま使っている駅だが、蒸気機関車が走っているなどという話は聞いた事がない。唐突過ぎる出来事に、優莉は驚きが隠せない。
「え、ちょ、何で!?」
困惑する優莉を尻目に、少女は躊躇いもせず連結されている客車へと乗り込む。その、如何にも当たり前という風体が、更に彼女の困惑を招いた。
「ちょ、ちょっと待って!! これはどういう事なの!?」
「……大丈夫、だよ」
少女が振り返り、また笑った。あの無垢な、優しげな笑顔で。
「お姉さんは、自分が本当にやりたい事を見付けられた。だから、大丈夫。きっともう、ここには来ないよ」
「ここって何!? 君は一体誰なの!?」
「……ここは、自分の気持ちが迷子になった人が迷い込む、『夢人駅』」
「……むじん、えき?」
繰り返す優莉に、一つ頷く。
「そう。けどお姉さんは、迷子の気持ちが見付かった。本当にやりたい事、見付けられた。だから――」
もう、大丈夫だよ――。
刹那、世界が霧散した……。
◆◇◆
『――く、一番ホームに、神幸行きが参ります。黄色い線の内側に下がって、お待ちください。まもなく、一番ホームに――』
「ん……」
聞き慣れたアナウンスに、優莉は閉じていた瞳を開いた。いつの間にか眠ってしまったのだろう、ぽんやりとした頭で現状を整理する。
今自分は、会社帰り。ホームで終電を待っていた。間隔の開いた電車を待って、ベンチでぼんやりと考え事をしていて、そして――。
「……あれ?」
小さく、首を捻る。何か、忘れているような気がするのだ。だが、それが何か思い出せない。
「……なんだろう」
しかし、いくら首を捻ってもその『何か』は思い出せないまま。ならば考えてもしょうがないと自らに納得させる。そして、退社した時よりも何処か晴れ晴れとした気持ちのまま。ホームに到着した電車へと乗り込んだのであった。
自らが叶えたいと願う、本当の『夢』へのプランを計画しながら――。
Fin...