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〜ばらばら殺人事件篇〜
作:九尾洲生



3 後半部


 茨木は稔に向かっていった。
「話が冗長になって申しわけありません。なぜ私が麻子さんを殺してしまったのかということですね」
「いえ、いいんですよ。どうぞ、そのまま続けてください」
 稔は先を促した。
「なぜあんなことになってしまったのか、バラとドライアイスで麻子さんをピアノ部屋に封じ込めようとしたのか、本当のところ自分でもよく分かりません。まったく人間、疲れてくると、とりとめのないことが次々と頭の中にわきあがってきます。
 例えば。うちのお客さんのひとりですが、バラの愛好家で熱帯魚を飼われている人から聞いた話を思い出しました。その方は水草メインで熱帯魚を飼育しているのです。よく分かりませんが、通は魚だけではなく水草をも楽しむとのことです。ところがある日、夜中に雷が鳴り停電が起こったようで、水槽に空気を送るエアーポンプと照明用の蛍光灯が止まってしまい、朝になると魚が全部水面に浮いていたそうです。つまり夜、水草は光源がなくなり光合成をやめてしまったので、アクアリウムという密閉空間の中で酸素が足りなくなったのです。蛍光灯の光があれば夜でも植物は光合成を行います。普段なら呼吸で消費する量よりも光合成で生じる酸素の量が多いのです。
 それから、また別の話で恐縮ですが、私はバラ作りの参考にと、よくヨーロッパへに行きます。ある時イタリアのバラ育生家に、中世の時代から伝わる風変わりな洞窟グロッタ・デル・カーネのことを教えていただいたことがあります。直訳すると《犬の洞窟》で、犬が中に入ると死んでしまうという不思議な洞窟です。人間はなんら命に別状はありません。もっとも種明かしは簡単です。洞窟はナポリにほど近い温泉地、アニャーノにあるのですが、そこは死火山の火口にできた町で、そのため洞窟内部では地面の割れ目から火山性のガスが吹き出ているのです。その成分は主にCO2でして、そもそも植物が必要とする二酸化炭素の話をしていてこの洞窟の名が相手の口から出てきたのです。二酸化炭素は空気より重いため底に沈み、洞窟には約三十センチの高さまでガスが漂っています。人間はこの高さより上に鼻がありますが、犬はそういうわけにもいかず、たちまち地面に倒れこむというわけです。もちろんすぐに外に運び出せば犬は意識を取り戻しなんともありません。そのせいで昔は見物客を喜ばせるために嫌がる犬をむりやり洞窟内へと引きずり込んでいたそうです。さすがに殺すのは気がひけますし、なにより生き返らなければ気味が悪いだけですからね。もっとも初めての犬はまったく恐怖心を抱きません。それが面白いというのでわざわざ遠くから犬を運んでくる人もいたということです」
「犬と二酸化炭素といえば保健所ね。捨て犬を保健所で安楽死させるときは、場所によっては二酸化炭素が充満した部屋に入れたりするわね。昔は一匹一匹、撲殺してたらしいけど」犬好きの美樹が苦い顔でつけ加えが、茨木は軽くうなずいただけだった。
「またアボガドという果物は、その実が熟して十日ほど経つと、呼吸によって一時間に一キログラムあたり六十ミリリットルもの二酸化炭素を排出します。
 このような雑多なことが夢遊病者のように脈絡もなく頭の中で交錯したのです。そのうち、それらの連想が私の中でひとつにまとまっていったのでしょう、なぜか麻子さんが真夜中に赤いバラの花で深くつつまれる姿ばかりを想像してしまうのです。そしてしだいにその光景のすべてが冷たい闇におおわれていき、麻子さんも赤いバラもこの世から跡形もなく消えてしまうのです。私が思い描く理想の女性もはじめから存在しなかったことになるのです。
 もちろん現実にはバラの花の呼吸によって人が死ぬことはありません。ほんの微々たるものです。でもそんなこと私にはどうでもよかったのです。これは精神的なものなのです。自分の心の中の麻子さんを葬り去るのにはぴったりのシーンだと思いました。私が夢にまでみた女性なら降り積もるバラの中で静かに永遠の眠りにつくでしょう。
 殺すこと、それが目的ではありません。イメージだけです。たぶんあきらめるきっかけが欲しかった。それで満足でした。きっかけです。きっかけを求めていたのです。今までのバラ一筋の人生を捨てようとするのです。麻子さんの死は、バラの死でもあるのです。私はこのままでは一歩も先に進めません。それは一種の儀式。単なる通過儀礼。忘れたい一心なのです。ただそれだけ。
 偶然をたのんでの見込み殺人にすらなりません。普通のひとなら。どんなに偶然が重なりあおうとも死ぬことはありません。密室、それに焼けつくように冷たいドライアイスの上です。バラの花びらだって、柔らかいとはいえ、湿り気があって不快で、物理的には決して寝心地はよくないでしょう。
 私は実際に麻子さんを殺す気はまったくありませんでした。自分のこの胸の中に生きている麻子さんを殺すつもりでした。私がこんなにも苦しむほどに慕い続けてきた女性なら、まちがいなくこの方法で簡単に死んでしまうはずです。でも彼女は理想どおりのひとではありませんでした。そう思っていたのです。事実、自分の信じていたような女性ではなかったと思い込んでいたのですから。
 愛とは、愛するに値しないものを、ひとり勝手に愛する価値があるものだと錯覚することからはじまり、結局その幻想は激しい幻滅で終わるだけなのかもしれません。私にとって、なにものにも侵すことのできない尊厳に満ちた愛が無残にも打ち砕かれたとき、それは貶められた愛になり、これ以上ない嫌悪へと変わっていったのです。
 もう私はバラに魅力をまったく感じなくなっていました。あんなに心ときめいたバラの花を無残にもむしりとるのです。もはやバラなど私にとって憎しみの対象でしかなかったのです」
 茨木の言葉に稔はしっくりとこないものを感じる。そこでとりあえず「ドライアイスを敷いたのは殺意のあらわれではないでしょうか」と軽く疑問をぶつけてみた。殺意というものは相手に容易に悟られる。おそらく茨木のいうように殺意はなかったのかもしれない。それなら今度は、どのような理由で茨木がドライアイスを使用したのかは謎になる。
 茨木は感きわまった様子で叫ぶ。
「ドライアイス! なんという偶然なのでしょう! それにしても、なぜドライアイスを。じつは私にもよく分かりません。つめたい雪。誰ひとりとして近寄りがたい、けがれなき世界。そういう心象風景をもっていたためでしょうか。神聖なバラをそのままに美しく封じ込めてくれると」
 茨木は思い出すようにいった。
「ドライアイスを手に入れたのは昨日の午前中のことです。調べてもらえばわかりますが、本当にたまたまなんです。
 うちは直販が基本なんですが(バラをていねいに扱いたいので、宅配も他の業者にまかせず自分の所でするぐらいです)、熱意に負けて一軒だけ卸している生花店がありまして。バラ専門の切り花店です。その店の店長から、よかったらどうぞ、と頂いたものです。事情をきいてみると、四月から新しく入った女の子がドライアイスの注文を一けた多く間違えてしまったというのです。注文伝票の記入ミスです。二十数キロでいいところを二百キロ以上運ばれてきました。注文先の会社も五月の土日はかきいれ時で繁盛しているのだろうとまったく疑問を持たなかったそうで。ちょうどそこへ私がトラックでバラの切り花を卸しに来たというわけで、二百キロものドライアイスが手に入ることになったのです。
 つい先ほども申したとおり、二酸化炭素には使い道がいろいろとあるのです。私は、安価なストーブや炭酸ガスボンベを用いますが、五月のこの時期はハウスで高温障害がでますから、ドライアイスは温度を下げるのに便利です。
 それに高額なバラの切り花販売には、ショーケースにドライアイスをいれて低温にするのです。細菌の繁殖を抑えてくれるのが大きいのです。0℃で二酸化炭素濃度が五から十パーセント、酸素濃度が一から三パーセントの時、バラは二十から三十日も長持ちするのです。
 ただ低温保存するだけでは、ふつうは0℃から一.七℃の間に調整しますが、CO2なしだと一週間から二週間程度しかもちません。
 もちろん私は一方的にもらうのは悪いと思い半額払いますといったのですが、店長はいつもお世話になっているからと、ただで譲っていただくことになりました。
 ドライアイスは雪状のものでした。それは冷たく綺麗で、本物の雪よりも雪らしく思えたほどです。普段ドライアイスの形状に目を奪われることはなかったのですが、その時はふしぎと印象に残りました。ドライアイスをバラの花びらの下に敷き詰めようと思ったのは、あの麻子さんならバラの上で眠ることがありそうだと、どこかでずっと期待している自分自身に気がつき、心底ばからしくなっていたからでしょうか。そんなことは絶対にありえない、と半ばやけになっていたのかもしれません。もうこれ以上は傷つきたくなかったのです。
 そんなわけでドライアイスを手に入れると、私はすぐバラ園にもどりました。そして何かに取りつかれたように満開のバラの花びらを摘みはじめたのです。
 パートの主婦従業員たちから、『ひくてあまたのバラなのに』と非難されました。それはそうでしょう。みなさん、私がこの赤いバラを麻子さんのために栽培していることを知っているから、しかたなしに非売品として了承してくれているのです。事実、郊外の土地付き一戸建てが少なくとも二、三軒は購入できる金額を提示してきた酔狂なバラ愛好家もいるほどです。(それにしても、みなさん、こんな私にはもったいないくらい、いい人ばかりで。その時は、私もむげに断りきれないので少量その方におすそ分けをしたのですが、従業員のみなさんのほうが率先してこれは麻子さんの赤いバラだからと説明してくれました。麻子さんが何者であるかを知らない、その愛好家も納得してくれたぐらいです。)それを私が何の説明もなく処分しているのです。もちろん私としては当初の予定どおりに行動しているので、ただ黙々と作業を続けるだけです。バラ園のみなさんは私が気が狂ったとでも思ったのではないでしょうか。そのうち誰も何もいわなくなりました。
 満開のバラは花びらを摘み、八分咲きのものは、いくつかみつくろい花束にしました。そしてそれらすべてをトラックに詰め込み、麻子さんのマンションへと向かいました。
 麻子さんは土曜日は、たいてい朝からピアノの練習をされています。そこを、いきなりバラを持ってお伺いするつもりでした。あの時以来、なんの音沙汰もなしですから、いつものように事前に電話連絡をしたら、警戒して私と会うのを拒否するかもしれません。突然の訪問なら、バラのプレゼントは前々からの約束でしたし、(私は約束をめったに破らない主義でそれは麻子さんもご存知です)、直接、目の前で見せることさえできれば、麻子さんにただ受け取るだけなら受け取ってもらえるという自信がありました。
 でも私は自分で冷静だと思っていただけで、実際は地に足がついていなかったのですね。マンションの入口に着くまでインターホンがあることを、すっかり忘れていたのです。玄関前でバラを見ることなしに門前払いされることだってあります。でも私の頭の中はまるで濃い霧がかかったようで、うまく働きません。私はインターホンを押すことができず、ただ途方にくれて立ちつくしていました。
 今思い返してみれば、置き手紙でもしてバラを置いてくればよいだけのことですが、それ以上に愕然することがあります。バラを渡すということは麻子さんと面と向かって会うことを意味します。なのに私は把握すらしていませんでした。私にはふたたび麻子さんの顔をみる度胸なぞ持ち合わせていないというのに。
 そんな私にマンションの管理人さんは気づきました。私が何かいおうとすると、先に『麻子お嬢さんはお出かけしていますよ』と教えてくれました。自宅にいるとばっかり思ったのですが、かえって好都合でした。「助かりました」と思わず口に出してしまったぐらいです。管理人さんは親切な方なので、安心して頼めます。『これ約束の品です。二十歳の誕生日の。ピアノ部屋に保存用のドライアイスと一緒にバラを敷き詰めてください。麻子さんにはわかります』とお願いしてトラックから荷を降ろしにかかりました。
 私はこれで満足でした。形式的な、自分を納得させるための儀式めいた行為です。私の理想の麻子さんが、今宵、深紅のバラの花びらに包まれながら美しく天上へと還るのです。
 しかし、そのとき偶然にも麻子さんが帰ってきたのです。よそ行き用の赤いスーツやヒールに口紅で(麻子さんは本当に赤の似合う女性なのです)身を固めていました。有名ブティックの箱や包みを抱えていることから、買い物帰りだと知りました。
 なぜでしょう、憎しみの情しかないはずなのに、たまらなく懐かしさが込みあがってきます。もう二度と会うつもりはなかったのに。会えなかった期間は、まだ一ヶ月も越えてなかったというのに。それにしてもまさか麻子さんと会えるとは思いもしませんでした。いえ、麻子さんがちょうど帰宅してきた事実をいっているのではありません。再会できた奇跡に驚いたのです。私のほうから会いに来たことを考えるとおかしなことですが、それが私の第一印象でした。私は視線を合わせられませんでした。そのくせ視界の端で麻子さんをみつめるのです。
 麻子さんは、私の姿を確認すると、ぎくっとしてから立ち止まりました。『何しに来たの! 帰って』というぐらいは言われるだろうと覚悟しました。しかし何もいいません。なんだか麻子さんもきまり悪そうにしているのが意外でした。しばらく沈黙が続きます。そこで私が口を開きました。『約束していた新品種のバラは失敗作だった。切花にすると、ほとんどのものが頭をたれておじぎをする。茎が花の重みに耐えられなくて下へと曲がってしまう』ひとりごとのようにつぶやくのがやっとでした。『花をつけたままにすると余分な養分をとられる。木を弱らせないため、花摘みした。商品にはならない。とはいえ、発色はいいし、そのまま捨てるのはしのびない。よかったら、もらってください』下手な嘘です。失敗作なら木ごと処分します。なのに、これで麻子さんを騙せると信じていました。
 管理人さんは親切な方です。気を遣ってくれます。花びらが詰まったビニール袋を私の手から無理に取り上げ『きれいな赤い花びらじゃないですか。さあさあ、麻子お嬢さんも機嫌をそこねていないで。せっかくのバラです、いただきましょう。それに茨木さんも気を落とさないでください。新品種なんてそうそうできるものではないのでしょうから』そして、マンションの中に入るよう、勧めてくれます。何かふたりの様子がおかしいと思ったのでしょう、管理人さんなりに気まずい雰囲気を振り払おうとしてくれたのでした。
 一階で管理人さんに手伝ってもらって、大量のバラとドライアイスを麻子さんの十五階まで運びました。まさか部屋にあがらせてもらえるとは思いませんでした。場の空気をよんで私は『ドライアイスをまいて保存を。それとこれは前に約束してたお祝いのお酒』といっただけです。うつむいてバラを見ていた麻子さんが『量が多くてひとりでは持っていけない』とぽつりというので、私は返事もせず中にあがり、心に思い描いていたシーンを作り出すための準備に取りかかりました。本当はもうどうでもよかったのです。でも荷物を運び込むついでだからという気分で、ピアノ部屋をバラの花びらで満たしました。麻子さんも、どこかうしろめたかったのでしょうか、うしろで黙ったまま、そのセッティングをみつめていました。
 作業の途中で、トラックの助手席にテーブルクロスを置いていたことを思い出しました。ロゼとバラの赤をひきたてる純白の絹織物です。麻子さんはシルクの敷布として利用されていましたね。どうでもいいものですが、白地に白バラの刺繍があしらわれたシックな作品で、さすがに捨てるには忍びなかったのです。お恥かしいことに、絹のテーブルクロスは麻子さんと二人っきりで食卓に座る光景を夢みて、知人を通じわざわざ手ざし刺繍職人にお願いしたものです。世界に二つとないものを、というわけですね。笑えます。というか私はかなり危ない人間です。怖いですね。それを思い出すのが嫌でして処分したかったのです。麻子さんには忘れ物があったといい残し、取りに戻りました。
 そして急いでピアノ部屋に帰ってくると、麻子さんは白い靴下でバラの花びらの上をこっそりと歩いていました。無邪気にはしゃいでいたのです。私は不覚にも、その純真無垢な後ろ姿にみとれてしまいました。いたずらをみつかった子供のような目で麻子さんがこちらを振りかえるまで。
 私は見ぬふりをしました。この人はそんな純情な女性ではない。そういいきかせました。
 麻子さんはなぜか申し訳なさそうに、部屋の端へと寄りました。ドライアイスと花びらは、すでに敷き終わっているので、別に麻子さんがのいてくれなくてもかまわなかったのです。かえって部屋の四隅に切り花のブーケを飾るのに邪魔になります。
 ドライアイスを敷いたときは不思議と気にならなかったのですが、私はピアノ部屋を切り花で装飾する段になってから、麻子さんに不審に思われるのではないかと気になりました。パーティー会場はリビングです。ピアノ部屋を飾りたてる必要はないのです。だけど私は意地になってピアノ部屋を赤で染めました。
 麻子さんの間近でバラを並べているとき、『あの、お金は?』といわれました。つけもだいぶたまっていました。私は『代金はいりません。それにもう二度とここには来ませんから』とぶっきらぼうにいいました。麻子さんによけいな心配をさせないように、もう私と会うことはないですよと告げたのでした。認めたくなかったのですが、麻子さんの声がまたそばで聞けて、ただそれだけで身に染み入るほどうれしかったのです。だから私は花を長持ちさせるためにドアを必ず閉めてくださいといってしまいました。それは別れの儀式の仕上げのつもりでした。ドライアイスでみずみずさを保てるとか、いい加減なこともいいました。
 いま冷静に振りかえってみると、私の心の中は矛盾だらけでした。予想通り、麻子さんは約束の赤いバラをもらってくれました。ということは、私は心のどこかで赤いバラの力を信じていたのでした。告白したつぼみの時には、麻子さんから見向きもされなかった同じバラなのにです。つきつめれば、それは同時に麻子さんまで信じることになるのです。バラに惹かれる麻子さんを。私は自分で気づいてなかったのです。気づいていればこんなことしません。いえ、私が麻子さんを少しでも疑ったのがすべての原因でした。
 でもこの時点では、ピアノ部屋にあった電気カーペットのスイッチには手を触れていません。麻子さんはしまうのがおっくうだったのでしょう。プラグがコンセントに刺さったままでした。
 そろそろ帰り支度をはじめたとき麻子さんは私がしゃべりはじめたのに安心したせいか、バラを天井にも壁にも飾りたいといいだしました。
 私はついうっかり、そういうことにまで気がつく麻子さんの感性に感動してしまいました。天井につるす美しいバラを思い描いてしまったのです。つるバラで切り花専用品種にするのもいい。房咲き仕立てにするのもいいが一輪仕立てにも味がある。天井なら明るい赤が格別だろう、淡い赤にはあれとあれをかけあわせるか、などと。
 そう、これも麻子さんに教えてもらったことです。木の年輪のように、女性にも年輪があると。
 それは顔です。見た目で年齢がわかるという方法です。ふつうに立っているときと、頭を下にして逆立ちしているときの顔の各部位を比較するというのです。年齢が高いほど、顔をさかさにしたときにより垂れ下がるということです。目や鼻や口もとが、下に位置する額によるのです。もちろん、男性にも当てはまると思います。
 さかさになったら、目のつけどころをただ逆にしただけで、いくらうまく隠しても真実は見破られてしまうのです。バラも同じはずです。私の作り出すバラは、さかさにしても通用するのか、そんなふうに麻子さんに問いつめられているような気がして身震いしたのです。
 下向きに花を咲かせる珍しい品種として、『しだれもの』という枝が垂れ下がるバラもあるのですが、それは麻子さんのイメージしているものではありません。生半可なものなら、ない方がよっぽどまし。麻子さんの目はひじょうに肥えていて、めったなものでは満足しないのです。それはこの私が一番よく知っています。まちがいなくこの麻子さんの赤いバラに匹敵するものを求めているのです。床一面に咲いたバラを、今度は天井にも咲かせてよ、というのです。それでもまだ天井ならなんとかなります。私はそれほどやわなバラを作り続けてきたわけではないと自負しています。しかし問題は壁でした。麻子さんのいう部屋の壁に飾るバラは、生垣用のバラみたいなありきたりなものではないでしょう。天井よりも悩みました。垂直の崖にふさわしく咲くバラの花は恐ろしく困難なことです。《だけど私にはできるだろう、麻子さんが私を信じて見守ってくれるのなら》と思いました。
 しかしそこで私は夢からさめました。許せなかったのです。麻子さんではなく自分自身をです。そんな夢みたいなことばかり考える自分をです。
 そのしばしの幸福が、私にはとてつもなくつらいものだったのです。落差が激しすぎました。そして麻子さんをなんて図々しい女性だと思いました。無性に怒りが込み上げてきました。他の店に頼んでくださいといいました。
 そして決定的な悲劇の瞬間が訪れたのです。運悪く私の目に電気カーペットのコンセントが映ったのです。麻子さんの目の前で何のためらいもなく堂々と花びらに手を突っ込みました。そしてはめていた軍手で探し当てたスイッチを……。今でも『カチッ』という音が耳について離れません。麻子さんはなんの疑いも抱かなかったようです。私はとりかえしのつかないことをしてしまいました。自分でも何をしでかしたのかよく分かっていません。殺意からではないと思います。ひとおもいに何かをたち切ったつもりでした。想像のうえでは麻子さんの美しい死を望んでいましたが、リアルに殺す気は毛頭ありません。私が心の中だけで描いたような乙女みたいに、現実世界でバラの魅力に酔ってロゼを飲んで寝てしまうとはこれっぽっちも思ってはみなかったのです。
『それでは』
 私は帰ろうとしました。麻子さんは何もいいませんでした。私はひとめ麻子さんをみつめてから『さようなら』といいました。麻子さんは、なにもいいません。私はこれでもう思い残すことはないと、ふんぎりがつきました。麻子さんはそれでも玄関までは送ってくれました。そのせいか、ドアを出た私はたまらなくうしろめたい気分になり、すぐ麻子さんにドライアイスは危険だということを知らせようとしたのです。何事にも万が一がありますから。
 麻子さんの家のドアはオートロックのため閉まると鍵がかかります。放っておくとゆっくり自答的に閉まります。しかしドアはガチャンと乱暴になりました。その音に我にかえりました。《なにに後ろ髪をひかれているのだ。もう心残りはないはず》とマンションを去ってしまったのです」
 茨木は、ひと息ついてから一同をみまわした。
「きょう昼ごろ、警察から連絡がありました。木原さん宅へ配送したバラの関係から、事情を聞きたいといわれました。私は受話器から流れてくる音声がまるで遠い国のできごとのようで、現実のことのようには思えませんでした。
 ショックでした。私の頭の中だけで行ったうわべの殺人ではなくて、正真正銘の殺人事件が起こったようだと。ええ、麻子さんがぼくの思ったようなバラをこよなく愛する、心のうつしいひとなら、無論死にますよ。バラを目の前にして、いったい理性なんて何の役に立つというのです? でもそんなの幻想ですよ。そんな女性が現実にいるはずがありません。たかがバラの花ですよ。そう思っていました。電話の内容が信じられませんでした。悪い冗談だと思いました。私はあの時以来、バラに対し妙に醒めていたのです。
 そのように非常に混乱した状態で、私は麻子さんの眠るマンションへと向かったのです。
 現場へ行きました。そこには、心の中で描いたとおりの光景が広がっていました。私は夢うつつのまま、バラの洪水のなかで横たわる麻子さんの姿をみつけました。その清らかな寝顔をみて、深い後悔と慙愧の念に耐えられなくなりました。私のしたことは未必の故意になります。罪の意識に押しつぶされそうになりました。
《私はなんということをしたのだ。とりかえしのつかないことをしてしまった》
 くらくらとめまいがする極限状態の中で、自分でも次の瞬間までまったく予想もしていない現象が起こりました。なぜかこのうえなく幸せだという、恍惚の感情の波が、私の体の奥底から襲ってきました。麻子さんの死を悼むより、麻子さんの素晴らしさを賛美する気持ちの方がはるかに大きかったのです。それは衝撃があまりに強かったせいでしょうか。
《麻子さんはやっぱり、ぼくの理想どおりのひとだった。なんて美しい女性なんだ。ぼくもすぐに彼女の後を追おう。麻子さんは永遠にぼくの目標だ。もう誰にも渡さない。これでいいんだ。これでいい。世の中には、このバラやこの麻子さんのように、死すら色あせるほど尊いものがあるのだ》
 まさに予期しなかった心境の変化です。そういうわけで警察の方に事情を聞かれているときは、意外にも私にとって体の芯からふるえがきそうな至福の時間でもあったのです。
 彼女の死を望むということ、それは私自身の死を望むこと、いいえ、それ以上のことであったのです。彼女を忘れたい。たとえ、それが私の心の中の理想の女性だったにせよ、そんなことできるはずがなかったのです。あの麻子さんを忘れようとするなんて、なんという愚かなことでしょう。私が死んだとしてもとうてい無理です。
《今までどうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう》
 おかしなことに私はバラを捨てることができると思っていたのです。それは私が死んでも不可能なことです。バラが、麻子さんが、そう、バラを愛する麻子さんが私のすべてだったのです。そうです、命以上の存在です。今になってはっきりとわかります。麻子さんに幻滅することは、私が自分の命を失うよりもはるかにつらいできごとでした。麻子さんやバラを疑うとは愚か者にもほどがあります。疑うとか、信じるとか、そういったレベルでの価値判断をはるかに超えた、崇高で絶対的な存在なのです。
 だれも真相なんてわからないでしょう。人々の理解を超えたできごとですから。そう、私と麻子さんにしか共有できない、バラとふたりだけの世界です。こんな状況にまでなってしまいましたが、自殺してかりに命を失ったとしても(死はすべての終わりではありません)、私は何ひとつ失わなかったのです!」
 茨木は次に何をいえばいいのかわからないほど興奮した。
 稔は、茨木のその狂気から、ある種の天才的なものを感じとっていた。理論と同時に、それをも上回る直感まで持ち合わせているのだはないかと。直感。今回の事件も計画的というより、ただ心の中のイメージを具体化したものだろう。その悲劇は、茨木の心に描いた光景が、けっして彼のひとりよがりな空想ではなく麻子も描いていたということに起因する。つまり麻子のセンスはたぐいまれなものであり、これまた茨木のいうとおり本物だということだ。
 そして稔は、茨木の持つ、直感よりもさらに強い意志にこそ危険な香りが漂っているような気がした。例えばこれは現時点での最重要課題になるだろうが、茨木は誰が止めようと自殺を遂行するにちがいない。たとえ逮捕され懲役になろうとも、並大抵の手段ではその考えを改めるようにはみえないと判断した。

 稔は封筒から茨木に紙切れを差し出した。それはもちろん、麻子の母親から借りて受けてきたバラの水彩画と契約書である。もっとも茨木もとうに見当をつけているので、それがどうかしましたか、という顔でみつめる。
「茨木さん、まだあなたは大切な麻子さんとの約束のうち、いちばん簡単なものしか果たせていないのではないですか?」
 茨木は即座に稔のいう意味を悟ったようである。苦渋に満ちた表情を浮かべた。
 美樹が稔をほめる。
「さすが稔さん。やっぱり警察官ね。ちゃんと犯人の目星をつけていたんだ」
 稔はちょっとばかり恥かしくなった。それは大いなる誤解である。稔は正直いえば、これを機に以後お見知りおきをと思っただけである。素敵なバラを美樹にプレゼントできることになるし、それにうまくいけば、茨木に美樹の名を冠した新しいバラの品種をつくってもらえるかもしれない。いわば、その布石である。根がまじめな稔は美樹のためにこうした日々の努力を少しも惜しまないのだ。

 茨木は口を開こうとはしない。そこで美樹が思っていることを語り出す。
「真の凶器はバラの花束ね。普通の人にはどうってことのない物だけど麻子さんなら必ず死んでしまうわ。この赤いバラの花が麻子さんを死に追いやってしまった。
 もし麻子さんが私ともっと親しい友人で、おすそわけ精神があって、昨晩の電話のときにすぐ私を呼んでくれていたら。そう考えるとぞっとするわ。ごきぶりホイホイに引き寄せられたゴキブリのように、ふたり仲良く並んで、バラに包まれながら死んでいたことでしょう。
 私は白いシーツに舞い上がる、バラの花びらのベッドで眠るだけ。私ご自慢のみどりの黒髪があたりに流れる。バラの香りに包まれてバラの夢をみるでしょう。そうよ、月の光に抱かれながら、私も麻子さんと一緒に永遠の眠りにつくの」
 どういうわけか美樹はまんざらでもないようすである。
「でも、私は……。私は愛する人をこの手で殺めてしまったのです。それも一方的に」うつむいて茨木は自分の手をみつめた。その姿に稔は思わず目をそむけようとした。
 しかし美樹が茨木の手をみつめながら確固たる声でいった。
「でも、愛する人をふたたび蘇えらせるのも、その手でしょう?」
 茨木は、はっと美樹の顔を見上げた。美樹が説得を続ける。
「茨木さん、あなたは一生をかけて、麻子さんの夢をかなえないといけないわ。その約束を果たしたとき、麻子さんの名前を授けたそのバラで麻子さんと同じように死ねばいい。だけど今自殺するのだけは止めなさい。わかってないわね。私は別にキレイごとをいっているのではないの。あなたにとってそれはすぐ死ぬ方が楽でしょう。心に重荷を背負って苦しみもがきながら生きつづけるよりもね。でもそれはだめ。あなたはバラを裏切った。麻子さんを裏切った。あなたはバラと麻子さんに償いきれないほどの罪を犯したのよ。どう考えても、そんなに簡単にラクになれるはずがないじゃないの。自覚が足らないわ。もはやあなたの人生はあなたのどうにでもなるものではなくなったの! ただひたすらバラと麻子さんのための人生のなのよ。なのに麻子さんとの契約すら守れずに逝く気?」
 なるほど、そういえばよかったのか。稔が感心した。
「それに、あなたは麻子さんに裏切られたというけど、そんなことはないわ。麻子さんは直接ドライアイスがバラの花びらに触れていることに気がつかなかったとでも思っているの。みてたんでしょ? あなたがそうしているところを。麻子さんは目の前で見ていたけど見ていなかった。 もちろん、あまりの光景に我を忘れていた面もあるでしょう。
 それでもね、茨木さん以外の人がやったのなら『やめて!』と麻子さんは叫んだでしょう。
 麻子さんは何も疑わなかった。麻子さんはバラの扱いは(美樹は茨木をじっとみて、噛んで砕くようにいった。)
『茨木さん、あなたを誰よりも信じていたから』
 でも、それはあなたがいちばんよく知っていることでしょう? バラに関して麻子さんは自分よりも茨木さんの方が正しいと判断する。茨木さんのいうとおりにするわ。茨木さんなら間違いないと。それほどまでに麻子さんがあなたを信じていなければ、ドライアイスで死ぬことはなかったでしょう。
 茨木さん、あなたこそ人のいちばんまじりっけのないピュアな心を土足で踏みにじったのよ。そんな人間は簡単には死ねないの」
 茨木がおとなしくきいているのもあって、美樹はすぐ調子にのる。
「信仰心なくして罪はないわ。あなたはバラを憎み、バラそのものを捨てようとしました。一時のこととはいえ大切な信仰に背いてしまったのです。単なる気の迷いとして許されるわけにはいきません。すべてはそこからはじまったのです。バラに対してあなたの犯した罪はあまりに重い。神聖なるバラを凶器にして、敬虔なバラ信者を死に追いやった。もはやこれはバラ教徒として取り返しのつかない大きな罪です。しかしあなたには天稟があります。悔恨の情があります。そして何よりも殉教者からの課題があります。これはせめてもの救いです。あがなうことができるかどうかは別として、あなたは一生をかけてその罪をつぐない続けるより他に道はありません。そうです、新たに美しいバラの命をこの世にうみ出さなければならないのです」
 裁きの女神じゃあるまいし、したり顔でいう美樹の理屈は、いつものことだが稔にはよくわからない。
 しかし茨木は神妙な表情でうなだれながらも、はっきりとした口調でいった。
「はい。わかりました。おっしゃるとおりにいたします」
――わかるのか、茨木! 稔は叫び声を上げそうになった。
 茨木は麻子のあとを追って自殺を願うことをやめたのだろう、深々と頭をさげ「自首します」ときっぱりした態度で告げた。
「えっ?」美樹が絶句した。「何で自首するの?」
 青天の霹靂といった具合で、どうしてそういう展開になるのか美樹にはわからないらしい。
 稔は美樹がまた面倒なことをいいださないうちにと、ポケットからすばやく携帯電話を取り出した。
「じゃあ、署のほうへ連絡しますので。これから一緒に出頭しましょう」
 だが稔は携帯電話を使うことができなかった。美樹が両手で押さえつけてしまったからだ。 
「ああ、そういうこと」美樹は大いに納得したらしい。「私たちのことだったら気にしないで。誰もどこにもいわないから」美樹は完全にかんちがいしている。
「いいえ、そういうわけには」茨木はいった。
「稔さんならだいじょうぶ。私たちに遠慮することはないわ。ねえ、私たち何も見てないし、何も聞いてないわよね」と笑顔で稔をみる。
「えっ?」こんどは稔が絶句する番だ。
「だから茨木さんは自首しなくていいのよ」美樹がやさしくいう。「茨木さんが人並みに懲役に服しても、それはあなたにとっても麻子さんにとってもまったく意味のないことなんだから」
 警察官である稔は凍ったままで、さすがに茨木も、なにか雲行きが怪しくなるのを感じたようだ。「お願いです。自首させてください」と少しあわてたようにいう。そばで見ている人がいれば殺人犯が警察官に自首を懇願する奇妙な風景として映るだろう。
「どうしてそんなに自首したいのか、私にはよく分からないけど。あなた、バラ好きかもしれないけど警察マニアではないでしょう? まあ別に警察マニアだったとしてもいいのだけれど。茨木さん、あなたは残りの人生すべてを麻子さんと再びめぐり逢うためだけに捧げなければならないのよ。なのに、なぜそんなに刑務所へ行きたいなんていうの?」
 それでも美樹の声はまだ穏やかだ。
 稔も繁夫もこれまでの経験から、ただ静かに嵐が過ぎ去るのを待つのが賢明だと知っている。
「ええ。私の残りの人生は麻子さんが夢みたバラを実現するのに費やします。その覚悟です。だから私は自首して、一刻もはやくバラ作りに専念したいのです」
 茨木の弁は、いちいちごもっともだ。はからずも人を殺めてしまったが、その心がけは善良な一市民であることを証明している。稔個人としては盛大な拍手を送りたい。
「だったら、すぐにとりかかりましょう。自首している暇なんてないわ。死んだ麻子さんも、もし生きていたら、自首する時間があったらさっさとバラを作って、というにきまっているわ。それに茨木さんだって、麻子さんの死の真相を秘密にして胸に秘めた方が、あなたがいうところの二人だけの世界だし、一層やる気が起きるのではないかしら」
 まったくめちゃくちゃな理論である。誰も反論する気にならない。美樹は続ける。
「裁判官に反省したふりし、機械的に刑期を務めるより、本心からわびてバラ作りをした方がましでしょ。ましてやあなたは麻子さんのバラを求めるという真の刑期を務めるのだから。茨木さん。あなたが刑務所に入ったって麻子さんはかえってこないのよ。この温室の中じゃないと」
「私は罰を受けなければならないのです」
 茨木は哀願するように、再度、自首を願い出た。
「自首と罰に何の関係ないでしょ」美樹は目を丸くする。「罪は罪、罰は罰。罪と罰とのあいだにはなんの因果関係もないわ。しいていえば罰は罪を感じる人におちる。自分は罰を受けても当然だと思い込んでしまう、心やさしい人々に。
 だからさっきから何度もいっているでしょう、あなたの犯した罪はバラでしかあがなえないと。人が罪から救われるのは律法によってではなく信仰によってのみ。刑期が終わったとしても社会的な罪から解放されるだけで、死んだ麻子さんに対しては何の解決にもならない。
 それに茨木さん、あなた自分のことだけじゃなくて、麻子さんのご両親のことも考えてご覧なさい。麻子さんが自殺したのなら、理由があるから、まだなんとか理解ができる。娘さんが亡くなった事実にあきらめなんてつかないけど、ある意味あきらめがつく。でもね、あなたが殺したことになったら、それは納得できない。バラを裏切ったあなたが殺されるのならともかく何の罪もない麻子さんが殺される理由はどこにもない。どう考えても麻子さんのご両親には納得できない」
 いいようのない不安にかられたようで、美樹のはなしを茨木がさえぎった。
「しかし、麻子さんは自殺ではありません。それになんだか私の罪を麻子さんがかぶるようなものです」
「それは私の言い方が悪かったわ。確かに茨木さんのおっしゃるとおり、いつも犠牲になるのは、純真無垢な、いわれなき人たちばかり」
 素直に譲歩する美樹が稔には不気味だった。美樹はそんな殊勝な女性ではない。案の定、ただでは起き上がらなかった。
「あの男が殺したことにして、茨木さんが麻子さんのバラを作出すれば、ご両親も本当に気持ちよく娘さんの弔いができるのにね。これで麻子さんの恋人だと自称する男も刑務所で罪をつぐなうことができるし、茨木さん、グッドアイディアよ。みんな丸くおさまるわ。これであの赤いバラが咲く。麻子さんが逢いに来るのよ」
 美樹はうれしくて身も心も弾んでいるようだ。
「麻子さんの恋人に?」茨木は美樹についていけない。
「そうよ、麻子さんの恋人に罪をかぶせましょう。恋人というより正確には不倫相手。茨木さんがみぬいたとおり、どうしようもない男よ。その男が合鍵をもっていたというらしいの。
 麻子さんのご両親に『人間の記憶ほど当てにならないものはありません。よく思い出してください。大事なことなんです』と誘導尋問すれば、喜んであの男を陥れる擬装工作に協力してくれるはずよ。
 そのうえ警察の現場検証なんて至っていいかげんだから、なんだかんだいったって好きなように捏造できる。何なら《あの男に殺されるかもしれない》という麻子さん直筆のメモぐらい発見できるわよ。(そんなことはないと稔は反論したかったが、今の美樹には何をいっても無駄である)。
 心配いらないわ。それどころか警察はノルマ達成のためには犯人そのものをでっちあげることもよくあるんだから。凶悪事件の時効直前における犯人の即席逮捕はいい典型例ね。(いうまでもないことだが、そんなこと皆無である。稔は、それにしても美樹のいいようはひどすぎると思った)。
 状況はそろっている。逆にそろいすぎているぐらい。状況証拠がそろえれば、物的証拠だって勝手についてくるんだから。先入観さえあれば、人間はなんでもそのとおりにみえてくる。あとづけ。証拠や意味付けなんて、いつだって。(そんなことはない、と稔は美樹に対して思うことすら、めんどくさくなったのでやめてしまった)。
 信用は警察の方が、そして茨木さん、あなたの方が、あの男よりもあるのだから。みんなそういう方向づけで、そういう目でみてくれる。裁判長だって年頃の娘さんがいるって人、多いわ」
 神に誓っていうが、美樹は本気でそう思っているのではない。はめを外しているだけだ。そう稔は信じたい。
 それにしても警察はそんなものではない。うやむやにできない。稔は声に出して「警察は誇り高き職業である」と悲しく抵抗した。なのに美樹は追撃の手をゆるめてくれない。
「そのとおりよ稔さん。だから稔さんにお願い。まずは警察お家芸の別件逮捕をね。麻薬が入った小さなビニール袋を背広の内ポケットにしのばせて、逮捕状片手にあの男の家宅調査に入るの。『お前は麻薬を所持していたな』とかいって、テレビの上でこっそりと拾うふりしてポケットから麻薬袋を取り出す。これを稔さんにやってもらうわ」
「ぼくは……麻薬は……」稔は口がまともにきけなかった。
「稔さんは警察官なのだし、信用が、権力がある。だいじょうぶって。麻薬じゃなくて薄力粉でいいでしょ? 目的は別件逮捕なのだから」
 稔はぞっと恐怖を感じた。美樹に対してではなく自分自身にである。いざとなったらそうしてしまう自分がいるからだ。
 美樹にとっての恋の定義は単純だ。好いた惚れたで死ねる人。つまり愛する人のために死ねるかどうか。チープで軽佻浮薄な恋愛は許せないが、命のやり取りをするディープな恋愛を美樹は嫌いではない。それどころか美樹はうっとりするほど好きだ。だから稔もこの程度で尻込みしているようではいけない。
 異性にかぎらなければ、それはそのまま美樹にとって愛の定義にもなる。親子愛、隣人愛、博愛、祖国愛……etc。
「ああいうタイプほど罪を認めないかもしれないわね。あくまでもしらをきるおそれがある(当然だろう。彼はやってないのだから)。だけど証拠だってちゃんとそろっていることだし(証拠、そろっているのか! 美樹をよく知る稔だけに、ここまで妄想が進展してくるとさすがに感心するよりほかない)。もはや裁判官の心証が悪くなるだけなのに。いくら否認しようが、実際、麻子さんを妊娠させて子供までおろさせているのだから、たいしたヒニンにはならないけどね。
 犯人の弱点は策におぼれたこと。まったく愚かな犯人ね。自殺に見せかけるために密室にしてしまった。なぜ、密室にする必要があるの? 逆にあやしい。どんな家だって、手をほどこせば何かしら密室状態にできる。しかし完璧な密室なんて、そこで秘密会議をするわけじゃないし」
 美樹の暴走ぶりで、茨木は訝りの表情を通り越して、うんざりした顔になった。
「お気持ちはうれしいのですが……。すべては私のしたことです」
「わかってるわ。たしかに茨木さんがお膳立てをしたのかもしれない。でもあなたが直接麻子さんにお酒を飲ませたわけではないでしょう。あなたは利用されただけ。すべてはあのいまいましい男に仕組まれていたことなのよ。事実、事件の発端もあの男の自作自演だったのだから。真犯人は茨木さんではないわ。ドラマによくあるどんでん返しじゃない。だってこっちには物的証拠まであるのよ」
 茨木同様に、もちろん稔だってそんな美樹についていけない。だけどその隙に繁夫が「茨木さん、一時のこととはいえ疑ってしまって申しわけない」と謝罪をしはじめた。
「茨木さんの告白をきいて、もしかしたらと思ってしまいましたよ。危ない、危ない、おれもまんまとあの男にだまされるところだった。なにしろ証拠まであがっているのですから。茨木さんも濡れ衣まで着せられて、たいへんなところでしたね。それにしても。まったくふてい奴だ。ねえ、美樹ちゃん」
「そうよ繁夫さん。最低な男でしょう?」
 美樹はうれしそうに答える。
 繁夫は美樹のはなしについていけれるようである。ひとり稔は寂しさを味わうことになった。如何せん、あまりに茨木の生み出すバラが素晴らしいので、美樹の理性もとことんまでタガがはずれている。あえて美樹側の視点に立てば、それほどまでに茨木のバラは素晴らしかったのだ。バラの概念を根底から覆す、とてつもない植物だったのだ。
「あの男が殺したにちがいない。ぼくもそう思えてきた」
 稔はやっとのことでつぶやき声を絞り出した。状況的不利をみて稔もおくればせながら、美樹の陣営につくことにしたのである。されど虚しくも美樹に《何を今ごろになってそんな当たり前のことをいうの》といった顔であきれられただけだった。
 警察官である稔が美樹に味方したせいもあったのだろう、茨木が声高にいった。
「みなさん、ふざけているのですか。もういいかげんにしてください」
 さすがに忍耐強い茨木もいらだってきている。稔は怯えたように背筋を伸ばし「すみません」と謝った。だが、その茨木には申しわけないが、美樹はいつだってまじめなのだ。
 茨木に対し多少は尊敬の念を持っていた美樹ではある。稔からみれば美樹はこれでもかなり遠慮がちだった。しかし茨木の一連の発言に煮え切らないものを感じたにちがいない。
 美樹は態度を豹変させた。
「ふざけているのはそっちでしょう!」
 堪忍袋の緒が切れたのだ。茨木はそんな理不尽な美樹に度肝を抜かれた
「あなた馬鹿じゃないの。それともやる気がないの?」
 美樹は見下した目つきで茨木をみた。
「『バラのためなら親兄弟も殺す。女房子供も路頭に迷って飢え死にさ。そんなオレもいずれは野垂れ死に決定!』
 これはバラを作る人間の最低限の心がけよ! 縁日でピンク色のペンキ塗ってるひよこ売りだって、それぐらいの信念もって商売しているというのに。小学生が図工の時間、折り紙で赤いバラを工作するよういわれたんじゃないのよ。同業者に土下座して謝んなさい。
 バラのためだったら、なんでも迷わず切り捨てるの。まったく甘えないでよ。そりゃあ天才というものは一種の畸形なのだから、正常な判断やまともな思考が人並みにはできないことぐらい私は百も承知よ。でも、あなたのふざけた態度は許せない。いいえ、私なんかはどうでもいい。第一こんなんじゃあ、あの赤いバラに失礼じゃない!
 それなのにあなたっていう人は。ぜんぜん覚悟というものができていない。お話にならない。
『何の罪もない、いたいけな人達がオレのせいで何人も死んじまった。だが関係ないぜ。その屍はぜんぶバラ作りの肥やしなのさ。ああ、この赤いバラか。これは美しい女性から飛び散った赤い血で染まったバラさ。そう、その昔オレが心から愛するひとをこの手で殺めてしまったときのな。まあよくあるはなしさ』
 これぐらいの心意気がなければ、あなたが作るバラなんて、とりあえずバラの花かな?(ここだけは可愛らしく小首をかしげながら美樹はいった)という薄っぺらなものしか育たない。到底、あの麻子さんのお眼鏡にかなうバラなんて作れない。
 せっかく、それだけの才能があるのに。茨木さん、あなたにだって万事を超越する気高い使命に感づいているはず。麻子さんを死なせたことを誰にも告げようとはしなかったでしょ?。自殺をするのは両親にお詫びをしてからでも、麻子さんの霊前に線香を一本あげてからでも遅くはなかったわ。もっともそんな行為、バラの前には無意味なことだけど。だからこそ、なにを今さら罰を受ける必要があるの? 自首なんて心底くだらない寄り道だわ。こんなささいな社会的慣習に気をとられるなんて、それこそ罪よ。最上のバラを生み出せるあなたらしくない。まちがっている。絶対にまちがっている」
 美樹は体をふり絞って訴えかける。
 いうまでもないことだが、まちがっているのは、まちがいなく美樹の方である。だが茨木はこれで少なくとも美樹が真剣だということに気づくだろう。そう思って稔は振り返ると、茨木はそれどころの状態ではなかった。いきなり致命傷だった。がっくりと肩を落とし、しょげかえっている。完全に急所を突かれていた。
 ぐずぐずしている間に、もはや一刻の猶予も許されない状況まで陥ってしまった。いやしくも稔は警察官である。その最大の職務は秩序維持だ。殺意はなかったと主張はするが、法に照らして重大な過失を犯した茨木を裁判なしで野放しにしておくことはできない。稔は絶望的ではあるが責務を全うするため勇気を出した。
「美樹、それはちがうよ。茨木さんも困っているじゃないか。彼の望みどおりにしようよ。別に美樹の考え方を否定するわけではないのだけど人それぞれだと思う。たしかにぼくだって自首は無駄に違いないと思っている。でも一方では、自首をしたいという茨木さんの臆病さ、心の弱さ、それに思いやりの深さが、このような素敵なバラを生み出してきたんじゃないのかな、とも思うんだ」
 稔は自分もつらくてたまらないのだという演技をした。ある意味、本当につらくてたまらなかった。わきにいる繁夫は勝ち誇ったようにうすら笑いを浮かべる。稔はうなだれている茨木に向かって力強くいった。
「茨木さん、自首しましょう」
 美樹が「何よ、この裏切り者!」と激しい形相でにらみつける。稔は深く傷ついたが、それでも表面上は意に介さない素振りをみせた。今こそ警察官としての真価が問われているのだ。
「美樹の方こそ、自首する、しないという、どうでもいいことにこだわりすぎているよ。ぼくはそんなつまらない枝葉末節にはとらわれない。茨木さんの好きなようにさせる。それがバラ作りのためには最善なんだ。二流や三流の人ではないんだよ。ぼくたちの及びのつかない理由だってあるのかもしれない。茨木さんの希望を優先するのは当たり前だ。その道の一流なのだから。美樹。天才に意見してはならない。自首どうこういうより、これこそぼくらが今いちばん忘れてはならないことのような気がするけど」
 頭のよすぎるタイプは往々にしてどこか抜けたところがある。それは美樹にもあてはまった。そこを攻めるしかない。かぎりなく細いピアノ線だが、警察官であり続けるために渡るしかない。
 美樹は茨木の才能を認めている。バラに関して不世出の大天才だと信じている。そこをついて美樹の論理を自己矛盾に導き出せばいい。稔はここまで我慢したかいがあったと思った。それまでの美樹には、立ち位置を美樹の側に置いたままでは、稔がつけいる隙がなかったのだ。
「そりゃあ常人では自首している場合でないと思うのが当然だけど、たぶんそれは浅はかだ。茨木さんは日常の、いや人生のすべてをバラに捧げている人だよ。一切の妥協を許さない天才が、なぜこれほどまでに自首にこだわるのか、その真意をくみ取らなければいけない。辞書や図鑑で手軽に調べられる、ごく一般的な抽象概念であるバラではないんだ。現実世界の遙か向こうに、それこそ何かの拍子でかすかに見える程度の、決して手に届くことができそうにない究極のバラだ。そんなバラを見据えているのが茨木さんなんだよ」
 美樹は不思議と反論してこない。稔の訴えはその論旨おいて、アリどころかゾウの大きさほどの穴がいくつもあいた堤防のようである。その決壊を防ぐことはまるで針の穴にラクダを通すような困難が伴う。しかし不幸中の幸いというのか、その論点がバラにかけて容易にラクダを通せる茨木だけに、かえって信憑性を与え説得力が増したようだ。
「それに美樹はいったい何を急いでいるの。人が長期的な展望を持つための一番の近道は花を育てることだと、いつか美樹はいってたよね。植物の世話をするのは恐ろしく気の長い作業だ。手間はかかるし気は抜けないし結果はすぐにはでてこない。ときには大きく成長させるために、せっかく伸びた枝葉をさっぱり切り落とすことさえある。だからこそ焦りは禁物。急がば回れという言葉だってある。目先のことにとらわれて、それこそバラ作りに悪影響がでたらどうするんだ。ぼくは自首なんかよりもそっちの方を心配する。すべてはバラのためで、……」
「すべてはバラのため」美樹は稔の言葉を深くかみしめ、くり返した。
「そうだよ。すべてはバラのため。茨木さんの意思こそ尊重しなければ。いいバラを栽培したいなら、茨木さんの指示を無視することは愚かだ。それは美樹がいちばんよく知っていることじゃないか。その茨木さんが自首をしたいといっているんだ。バラ作りにおいて彼を超える人ならともかく、ぼくたち誰も茨木さんの行動を止める権利なんてないんだよ。
 それから美樹、茨木さんは自首どころか自殺まで決行しようとしてた人だ。なんとか自殺を思いとどまらせただけでもお手柄じゃないか。
 自首とは冷却期間だ。けっして悪くはない。いったんバラから離れて頭を冷やすのもいい。激情に身をまかせるより、よっぽどいい発想が浮かぶかもしれない。検察官が証拠不十分で起訴しない可能性もあるし、裁判になったって執行猶予がつくかもしれない。そもそもぼくは懲役刑による刑務所暮らしだって悪くないと考えているんだ」繁夫のしてやられたという表情が目に入り、稔はここちよい。「なぜなら人生に、いやバラ作りに無駄なことなんて、なにひとつないのだから」
 五月の爽やかな風が吹きぬける。美樹の長い髪とスカートをなびかせ、稔のほほをくすぐる。
「茨木さん、どうしても自首したいの?」
 美樹は、力なく、それでいてやさしくきいた。
「ええ。美樹さん、あなたのおっしゃることも十二分にわかっているつもりです。ですが私には区切りが必要なのです」茨木の真摯な姿が美樹の胸を打ったようだ。
「そうね、じゃあ自首でがまんするわ」
 あきらめたように美樹はいった。
 もっともなぜ美樹にがまんしてもらわないといけないのかは稔だけでなく茨木にとっても謎であろう。
「ほんとうに自首するの? そりゃあ刑期を終えれば法的には罪をつぐなったことになるけれど。やっぱりそのほうが精神的に楽なの?」
 茨木は何もいわず、ただ哀しく笑った。美樹はなんだか残念そうである。茨木より美樹が覚悟できていない。
「世間の、取るに足らない慣習でさえ無下にはしない。それもひとつの道なのかもね」
 美樹は無理に自分を納得させようとしている。
「バラは育てる人の心を敏感にに受けとめてくれる。だから茨木さんがどんな人なのかを丁寧に教えてくれるわ。麻子さんは何故それが分からなかったのか不思議に思うほどよ。比類なきバラを見抜く目の持ち主だというのに」
 以前、稔は美樹からきかされたことがある。バラは同じ品種でも栽培する人によって咲かせる花の質が違ってくる。それはひとえに毎日の手入れの仕方が異なるため。バラの育て方は思ったより簡単で、初心者でも、ただ咲かせるだけなら、容易である。
「それにしても毎日、自分の骨身を削り、血を吸わせてバラを育ててきたのでしょう? ほんと世間知らずね」こんどは愛情のこもった声で美樹がいう。「正直者は馬鹿をみる。人のいいひとは、生きられない。この社会はこのバラの温室のような、やさしいぬくもりのある世界ではない。るか殺られるか。悪い奴ほど生き延びるのが現実なのに。しょうがないわね。あなたのバラがあなたの人柄をあらわしている。茨木さんのように自殺を図るくらいの強い意志と繊細な感受性がないと、こんな素晴らしいバラは作れないのかもしれない。自首をするのも、やむをえないわね。たしかに茨木さんのバラ作りには悪影響を及ぼしそうだし」
 美樹はすっかりあきらめ顔だ。
「ところで、ここのバラの世話はどうするの?」
「そうですね。このバラ園の出資者の方々に頼んで、だれか育種の専門家を紹介してもらいます」
「バラの栽培ってデリケートなんでしょ。だいじょうぶ?」
「維持管理するだけなら。バラは丈夫な植物ですから」
 そういいながらも茨木は不安が残るようだ。少し考えてからいった。
「いえ、ただどうしても美しさ追求のために栽培のしやすさを犠牲にしていますから。誤解を恐れず極端ないい方をすると、美しくはないが放任栽培で花が咲くバラより、いくら難しくても綺麗なバラが、私たちにとっては優れたバラなのです。美しければそれでいいのです。もちろん病害虫や病気に強く、両方を兼ね備えることがいちばんよいのですが。でも案外、健康と美というものは兼備することも多く、必ずしも反発しあうものではありません。ちなみにこの虹色のバラも麻子さんの二十歳のバラも、コツさえつかめれば育てるのは意外に簡単なんですよ」
 稔は気を利かせた。
「電話連絡もなんですし、三本杉署に直接いきましょう。茨木さんも色々と身支度が必要でしょう。準備ができたら知らせてください」
 猛反対されても自首しようとした茨木である。美樹さえ邪魔しなければ逃げる心配は無用だ。
「これはありがたい。感謝いたします」茨木は深々と稔に頭をさげる。
 なのに「もったいない。もったいないわ、自首なんか。ねえ、やめない?」と美樹の往生際はいつだって悪い。
 茨木は笑うばかりで、答えない。温室の端に備え付けてある電話へと向かう。バラ園の事務員にかけているのだろう、麻子さんを殺した、警察に出頭する、と前置きしたあと、これからのことをこまごまと指示している。
「状況証拠ばかりだけど、最低でも過失致死にはなるわね。殺意が論点ね。罪の重さに耐えかねて自殺しようとしたこと、前科がないこととかで、なんとか執行猶予がついて実刑を免れればねぇ」美樹はため息をつく。
「今回は悪い目ばかり出たのだけど、茨木さんはもともと運がいい人よ。それは育種家の大切な条件のひとつ。これほどのツキを持つ人なら、素晴らしいバラを次々と生み出していくことでしょう。そしてきっと、また麻子さんに逢うことができるわ。『周囲の者たちの迫害の中、いばらの冠を頭に、愛する人を殺した十字架を背に、苦難の道を黙々と歩きつづける。すべては赤いバラとして麻子さんを再びこの世に復活させるために』うん、悪くないわね」
 美樹も自首を認めが、それはまさしく、いばらの道。稔もそう思う。はじめは自殺のことしか頭になかった茨木だが、美樹によって生きなくては、そしてバラを完成させなければ、と悟った。しかしそれはすべてを投げだし安易に死を選ぶことよりも苦しい。だから自殺を思いとどまってくれたのだ。
 そして美樹の「麻子さんに再び逢う」という言葉。それは『赤いバラとして復活させる』ということだ。ならば稔も得心がいく。自首して社会的な義務を果たすよりも、まずは被害者の救済を優先させるのが筋である。美樹はそういいたかったのだ。
 バラとしてよみがえる。
 最高のバラは加速度を増して逃げていくといった茨木。彼は死ぬまでに麻子さんと逢えるのだろうか。稔には分からない。何となく最後まで報われることがないような気もする。
 茨木は電話を終え、今度は集計用紙を片手にバラの鉢をひとつひとつチェックしている。特別な配慮が必要な木については、注意事項を記していているようだ。
 稔には他人事には思えない。贖罪のためのバラ作り。女性を本気で愛するとはどういうことなのだろう。愛したら悲しい運命。麻子も赤いバラも茨木にとって幸せの象徴なのか。自分なら耐えられるのか。稔はじっと美樹をみる。バラの鉢に断りもなくホースで水やりして喜んでいる美樹を。
 昇華した究極の愛か、単なる不毛な愛か。稔には分からなかった。たが少なくともそれはひとつの純粋な、いや純粋すぎる愛の形であると思った。どうやら愛とは不滅の存在であり肉体や生死を超越するようであると。
 稔はまぶたを閉じた。そこへ白昼夢のように光景が飛び込んできた。
━━真夜中。霧と闇。温室だけが満月のため浮かび上がる。
 深緑の葉に囲まれて、たたずむ一人の男の背中に月光が射しこんでいる。一心になにかをみつめているようだ。よくみると男の目の前には、すらりと咲く一輪の赤いバラ。きらきらとまばゆく輝く。色づいた花びらに情愛の炎がみえる。赤い。目に染み入るほど……。
 男は赤く照らされて、そっと満足げにほほえみかける。すると甘い香りに彩られた花びらが、やさしく風に揺れた。━━
 麻子はこの世に再びよみがえる。茨木は麻子と時を超えめぐり逢うのだ。稔はバラを、そして茨木を信じてみようという気になった。
「麻子さんは必ずや逢いに来る」
 稔は誰にいうともなしにひとりつぶやいた。茨木の赤いバラ作りを支えてきた麻子はいまや永遠のものとなったのだ。
 稔の、その肩を繁夫がつつく。
「おい稔、あんな男をほっといていいのか。やばいぞ。さっさと警察に連れていけよ」
「まったくだ」稔も同意した。
 いつの間にやら茨木と美樹は仲睦まじくバラ談義に花を咲かせている。美樹が「ボタンのようなピンク色のバラを作って。たとえば椿椿山の書画にでもでてきそうな。質素で、それでいて豪華で、清らかで色っぽいものを」とお願いしているらしい。美樹は赤よりピンクが好き。そしてバラよりボタンが好き。
 さらに美樹は注文をつける。「ボタンそのもののバラよ」と。
 それならボタンでいいじゃないか。ボタンならボタンそのものだ。いや、それ以前に茨木はこれから警察に連れていかれる身の上だ。半ばあきれながら稔は美樹をさえぎろうとすると、「なるほど、そうきましたか」と茨木は熱心にうなずいた。稔はどこがなるほどなんだ、と一瞬ひるんでしまう。
「バラでボタンを表現する。ご存知の通り、それはボタンを用いるのと比べ、圧倒的に不利です。どうしてもバラにはボタンほどの柔らかさはありません。あの巨大な花を咲かせることができません」
 稔はどこか滑稽に思えた。生真面目な茨木が気の毒にみえる。しかし美樹は黙って茨木をみつめたままだ。そんな美樹の熱意に負けたのだろうか、熟慮した末に茨木はいった。
「もちろん策がひとつもないわけではありません。人はそもそも何をみてボタンをボタンだと感じるのでしょうか。何がバラで何がボタンか。その違いとは。
 いいえ真実は逆で、能力さえあれば、バラだからこそ、ボタンよりもボタンらしく見せることが可能なのかもしれません。バラでボタンを想起させる。欠点があるからこそ、その部分を見る人に補わせる。その観念をいかに喚起させるか。観る者により一層あざやかなボタンを」
 美樹は笑っている。稔は笑えない。茨木は続ける。
「絵画だってそうでしょう? 時に人は自然の風景より、キャンバスに描かれた一枚の絵の方に自然の美を感じることがあります。また美人は絵画の中にだけ存在できるという人もいます。私はそんな絵が傑作だと思っています。なにより画家だって自然の風景そのままがいちばんいいと思ったら、その時点で終わりになります。模写して満足するのが関の山です。本物こそが完全無欠なのですから。おやおやまた笑いましたね。まったく自惚れが強く独善的で、愚か者でなければバラなんて作れません」
 茨木はとつぜん真剣な顔になった。
「完全無欠の本物が敗北する……。やはり美樹さんも気づかれていたのですか。麻子さんの、あの赤いバラのことです。そうです。完璧な赤は、もはや弱点でしかありません。それどころか、その赤一点のために麻子さんのバラは画竜点睛を欠いてしまうのです」茨木はそのまましばらくのあいだ思案げに沈黙した。
 そして何か思い当たることがあったのだろう、はっと我に返ったように美樹をみつめた。「ボタンよりもボタンらしいバラ。本物の赤を超越する赤。ひょっとして私にヒントをくれるために……。あなたはいったい何者なんです」
 茨木の顔が真剣になる。美樹をみる目つきにも変化が現れる。
「それは買いかぶりというものです。美樹はただボタンのようなピンク色のバラを作ってもらいたいだけです」
 稔はよこやりを入れた。稔しか知りえない美樹の一面を、茨木がのぞきみようとしているのが許せなかったのだ。本心は『この死にぞこないめが。今度こそ本当にトドメをさすぞ』だったが、美樹に免じてこらえたのだ。
「まあ、それがいちばん真実に近いのかもしれないわね」美樹がさらりといった。
「すいません」茨木が謝る。相手の方が悪くても自分のせい、と責める性格は、どうやら本当らしい。
 そして茨木はすぐさま何事もなかったようにバラの最終チェックを再開しはじめた。
 美樹は水撒きにあきたのか、稔と繁夫に「茨木さんの邪魔してばかりで悪いから、他の温室に探検に行ってくるけど」とひとり出て行った。
「美樹についていくとばかり思っていたのに、繁ちゃんは一体、どうしたの?」と稔が振り向くと、殺気だった繁夫がシャベルをふり上げていた。
 繁夫は温室よりも茨木自身に興味があるようだ。だから美樹と一緒に行かなかったのである。
「あの男、何だかやばいぞ。おれにはよく分かる。普通じゃない。顔つきが、ほら、さっきまでとはぜんぜん違う」繁夫が稔に注意をうながす。
 さてはる気だな、稔は期待を込めて視線をシャベルに注いだ。暇つぶしに繁夫との漫才に付き合うのも悪くはない。緊張した神経をほぐすのにも効果的でもある。
 だが繁夫はさすがに恥じたらしく足元にそのシャベルを放り投げた。内科医をめざす繁夫である。頭蓋骨陥没による物理的な死を狙ったのが、そのポリシーに反し面目ないのだ。稔はそう解釈した。
 シャベルの音は意外と響くもので、振り返った茨木は、稔たちにほほえみ投げかける。稔と繁夫は苦笑いを浮かべながら二人そろって会釈をした。
 ふたたび作業へと戻る様子をみて、
「ねえ、繁ちゃん。農薬にはガス中毒に効くものがあるの?」と稔はそれとなく煽った。これで裁判になった場合、稔は繁夫が医療行為をしているとばかり思っていたと、しらを切ることができる。
「なるほど。ガス中毒に効くものか。たしかに盲点だ。さすが稔、頭がいいな。そういえば呼吸生理学で学んだぞ。塩酸ロベリアだ。十グラムも打てば確実に死ぬだろう」
「塩酸ロベリア?」稔は反射的にいった。繁夫は完全に勘違いをしている。何でもいいから農薬でれという意味だったのに。第一そんな薬が農薬にあるわけないだろう。
「塩酸ロベリン0・0一グラムを筋肉注射するんだ。ロベリンはロベリア草から抽出されるアルカロイドの一種。呼吸中枢に作用して、呼吸を強くする興奮薬。
 炭酸ガス中毒に対して効果があるだけではない。一酸化炭素、モルヒネや麻酔時による呼吸麻痺等々、呼吸に関するものなら、なんでもOKな万能緊急治療薬だ。
 おれはまだ医師免許を持っていないから医療行為は禁じられているが、応急処置のミスとして善意の結果、残念ながらこうなってしまった。だから執行猶予にはなるはずさ。検事に殺意を立証されないからな。すなわち完全犯罪だ。医者めざしててよかったよ」
 温室の隅には白いペンキで塗られた五段のスチール棚が置かれてある『毒物・劇物』の朱色の文字。農薬だ。厳重に管理していなければならないが、温室全体で戸締りできるので、棚自体には鍵がかかっていなかった。
「ケミカルに。メディカルに」とつぶやきながら繁夫がビンを調べはじめた。薬品や病原菌を使って内科的に殺すこと、そう、これが繁夫本来のり方だ。
 しかし繁夫は化学式やIUPAC名は知っていても、農薬の商品名までは分からなかった。
 繁夫はすごすごと稔のもとにかえってきた。
「茨木め。一流の栽培家なら農薬の成分表示ぐらいしておけ」
「それぐらい頭に入っているんじゃない?」
 繁夫は返事をせず、かわりに落ちていたシャベルを握りなおす。
「内科医(physician)を目指しているんだ。物理的(physical)に殺してもオレの美学には反しない」
 人間はとかく目先のことしかみえない。そのためもっと大事なものを見失ってしまうものさ。稔は冷たい視線でみていた。医者とは人の命を奪うのではなく救う人のことだと思い出すのにまだ数分はかかるだろう。
 もっともそういう稔自身、人のことをいえた義理ではない。警察官とは繁夫のような凶悪犯から茨木を守るのが職務であることをすっかり忘れていた。それどころか殺人までそそのかしていた。
「社長!」
 大勢の老若の女性たちが温室の前に現れた。茨木バラ園の従業員一同が仕事をほったらかしにしてやって来たようだ。
「命拾いしたな、茨木」稔はつぶやいた。
「なるほど、美樹ちゃんのいうとおり運のいい男だ」 繁夫もつぶやいた。二人の漫才は終了である。
 従業員たちは黙っている。それは、いいたいことがたくさんありすぎて逆に何もいえないからだろう。
「みなさんでやっていければそれがいいのですが。私のせいで……。このバラ園も存続できるかどうか……。バラ園の名前を変えただけで、社会的に許されるかは。本当にご迷惑をおかけしました。申しわけありません」茨木の表情は険しかった。
「社長、明後日に予定していた三番ビニールハウスの新品種移植はどうしましょう? このままでは枯れてしまいます」
 途方にくれる作業着姿の中年女性の声を皮切りに、「五月明けのバラのお礼肥の施肥量は当初のままでいいのですか?」「D区画のバラは?」「展示品の切り花の処分は?」と堰を切ったようにたくさんの声が溢れだした。
 社長が社長なら従業員も従業員だ。この状況に及んでバラのことしか頭にないようである。稔はあきれるのを通り越して感心した。茨木はひとつひとつていねいに答えていたが、稔の姿を確認すると「あとのことはよろしくお願いします」と静かにいい残し、稔の方へ歩み寄った。そして手錠してくださいというふうに両手を差し出し「刑事さん、どうもお待たせしました」と告げた。
 そもそも稔は研修中だし、手錠など持っていない。それに茨木なら逃げる心配もない。
「申し送り、たいへんそうですね。もう少しだけ時間を差し上げます。ぼくたちはバラ園入口の駐車場で待っていますから」
 そして繁夫を引き連れ、その場をあとにした。
「何から何まですみません」茨木の声が後ろから聞こえた。
 
 美樹探しは繁夫に任せて、約束どおり稔は駐車場で待つことにした。もと来た道をふもとまで降りる。ビニールハウスを過ぎたころ、斜面の下から若い男がこちらへとやってくるのがみえてきた。この陽気に背広なんかを羽織っている。竹島丈志である。稔の家の左隣に住む新聞記者で長身細身の美丈夫だ。丈志は稔の姿をみとめると息をきらしながら一気に駆け上がってきた。
「稔君。どうしてここに」
たけちゃんこそ、どうして」稔が質問に質問で返す。
「ある事件を追っていてね。ここがバラの受注先なんだ。そこで茨木社長にお会いしたいと来てみたら、バラ販売が急遽、中止になっていて……。駐車場はお客さんたちで大混乱だったよ。『新聞社の者です』と入口にいた警備員さんに無理いって入れさせてもらったのはいいけれど、事務所には誰もいないし、店員さんたちも皆どこかに消えてしまってるし……。それで困ってあちこちを探しまわっているわけさ」
 丈志の表情は、困っているという、その言葉とは裏腹に《これは何かあるな》とうれしそうに輝いていた。
「で、追っているのは何の事件?」稔がとぼける。
「知り合いの病院関係者からちょっとしたリークがあってね。あわててタクシー拾って病院とマンションへ取材にいったんだ。なにも新聞記者は警察が公表するものばかりを記事にしているわけではないからね。プライバシーが問題なら、住所や氏名を伏せればいい。
 ところで実地研修か、なにかかい、その事件で稔君も来たのだろう? 部屋いっぱいのバラの花びらだって? 本音をいえばその写真がのどから手がでるほど欲しかったのだけど。おや、繁夫君じゃないか」
「そこまで知っているのなら、もう十分だよ、丈ちゃん。犯罪捜査権は司法警察職員と捜査機関にしかないんだし、一介の新聞記者は一国民として知る権利があるだけだよ」
 そういって稔は目で合図した繁夫とふたり、丈志の両脇を抱え斜面を下り方向に引きずった。もっともその行為は「この先にはいったい何があるんだい」と丈志を喜ばせるだけだった。
 繁夫に遅れること数分、美樹も稔たちのもとにやって来た。なんだかとてもごきげんである。胸元には、抱えられないほどのバラの花束がピンク色に咲き誇っていた。《二十kg入り菜種油粕》と印刷された茶色いクラフト紙で包んである。このどさくさにまぎれて美樹は気に入ったバラをとことんまで摘んでいたのだ。
「あら丈志さんじゃないの。それより稔さん、茨木さんには《自首は気が向いたときでいいから》といっておいたわ。だから私たちはこのまま帰りましょう」
 美樹の往生際の悪さには感服するばかりである。もっとも稔はひとりでも駐車場で待つつもりである。
「繁夫君だけでなく美樹さんまでこちらに? ええ、ぼくも帰るところだったんです。ぜひ一緒に帰りましょう」
 警察官が止めようが取材を強行していた、丈志がいった。
「丈ちゃんご自慢の記者魂とやらはどうしたの?」
 あきれて稔が腕を離すと、
「困ったな。どうやらここ来る途中に落としてしまったらしい」と、ご丁寧にもポケットに財布を探すような仕草を一通りしてみせたあと「実はこのバラ園のことはひと通り調べがすんでいるんだ。とりあえず記者は足で稼がなくてはと思っただけだからね。ところで、自首は気が向いたときでいいって、稔君こそ、刑事魂は?」 
「そんなもの、最初から持ち合わせてないよ」稔はきっぱりと断言する。「刑事は俗称だよ。雅称を好むぼくの辞書にはないね」
 刑事とは法令上の民事に対する言葉であり、そんな階級も職名も存在しないのだ。
 美樹がいう。
「お願いよ丈志さん。いまは茨木さんをそっとしておいてあげて」
「もちろんです。茨木さんにご迷惑をかけるつもりはありません。最初から取材は美樹さんから、と思っていました」
「よくも、まあ、いけしゃあしゃあと」
 雅な言葉を好むはずの稔が下品にいう。
「美樹さんは既にご存じでしょうが、茨木さんが国際バラコンテストに出品していたアサコトウェンティという品種がゴールデンローズ賞候補になっているらしく、社の資料部にみごとな赤いバラの写真があったです。だから是非お会いしたいと来たんですよ」
「ええ」美樹がうなずく。
「美樹さんの好きなピンクではなく、赤ですけどね。でも素晴らしい赤なんです。世界最高峰の赤いバラですから、バラ嫌いな美樹さんでももらってくれるのではないかと思いまして。何とかして手に入れたい。育種家の茨木さんとも、これを機にお知り合いになりたいと考えた次第でして……」
 口は災いの元、丈志はしどろもどろになる。
「それは新聞記者の地位を利用する、公私混同という最低な行為だね」さっきまでの自分は棚に上げ、稔はいった。
「いや、ちがう。何か事件の新しい切り口が得られるかもしれないと」
 美樹の前で激しく動揺する竹島丈志もこの程度の男である。


※参考文献  犬の洞窟
http://www.turismoregionecampania.it/allegati/filiere/gi/Generale05_gi.pdf
(アニャーノの町の由来と犬の洞窟の話がある)













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