〜ばらばら殺人事件篇〜(3/4)縦書き表示RDF


〜ばらばら殺人事件篇〜
作:九尾洲生



3 前半部


 となり街との境界線になる山のふもとに茨木バラ園はあった。繁夫が持つカーナビで所在はすぐに分かったのだが「自分の行き先ぐらい、自分で把握しとけよ」と繁夫にあきれられたのも無理はない。国道に面し、画面に映し出された面積からいって、場所を知らないほうがおかしなぐらい広大なものだった。「カーナビってすごいのね」と繁夫を褒める美樹の後ろで、稔は帰りこそ別のタクシーを拾おうと心に誓った。
 駐車場も広くて立派だった。小鳥のさえずりが耳に心地よい。園内はぐるりとバラの生垣で囲まれている。山が背後から迫っている地勢とはいえ、入口のこのあたりはまだ平らな土地になっている。そしてツルバラでつくられた見事なアーチを抜けると、そこは切り花や鉢植えバラの直売所である。茨木バラ園ではバラの栽培から販売まで、すべてをここでおこなっているようだ。直販所から、さらに入った奥は、なかでバラの栽培をしているのだろう、ゆるやかな斜面に沿って山の中腹あたりまでビニールハウスがずらりと並んでいる。その白い半透明のハウスには暖房設備が整っているためなのか、ストーブの煙突がきのこみたいに生えている。さらにその向こうには空のかなたまで、まぶしい新緑でおおわれた山々が連なりあっていた。
 日曜日でもあり、季節がら今が一番のピークなので園内はかなりの人ごみだった。幼い子供をつれた若い家族連れから老人会の集団までいろんな年齢層の人たちがいる。しかし公園のようなつくりなので、稔たちもゆったりと行き来できた。臨時に設営された、たくさんある屋外テントのそれぞれでバラが売られている。歩く人々の隙間から、“このバラは今朝、摘み取ったばかりです”とか“とびっきりのバラ『稀少種』”などと書かれたプラカードや値札が踊っているのがみえてくる。広々としたテントだが、それでもところせましとバラが展示販売されていた。色とりどりのバラの花。しかもその種類と量がとてつもなく多いのだ。
 美樹は落ち着かないようすで辺りを見まわしながらいった。
「茨木バラ園って、たくさんのバラを品種改良しているらしいとうわさには聞いたことがあったけど、わたしはそんなに興味がなかったから一度も来たことはなかった。でもこんなにすごいとは思ってもみなかった。これって全部オリジナルみたいね」
 つまりここに売られているバラは、茨木が独自に品種改良をした新品種ということだ。千紫万紅、白や黄色やピンクやオレンジやパープル。まるで七色に輝く宝石箱をあたり一面にひっくり返したみたいだ。
 さすが繁ちゃん油断もすきもあったもんじゃない。稔がふと振り返ると、いつのまに買ったのだろう、美樹と繁夫は仲良くならんでソフトクリームを食べていた。たしかに通り過ぎた売店には『バラのソフトクリーム』とかかれた旗が掲げられていた。バラの花びら入り。バラの香り成分はその花びらにこめられているという。かすかに甘く香る、ばら色のソフトクリームだ。
 しかし今は茨木を探すのが先だ。稔は物見遊山な二人を放ってあちこち回ってみるのだが、肝心の茨木がどこにいるのか、いっこうにみつかる気配がない。稔はスタッフの人に尋ねようと思った。だが皆、大勢の客に追い立てられて忙しそうであった。これでは聞いても茨木どころではあるまい。どこかに事務所か何かないのだろうか。そう思い、あらためて見渡すと遠目に三階建てのそれらしき建物がみつかった。急いでそばまで駆け寄ると、一階の開け放たれた窓から女性の職員が数人、伝票整理や何やら作業をしているのが見えた。稔は入口から入り、事務の女性にたずねた。
「お忙しいところすみません、警察のものです。茨木さんは戻られていますか?」
「はい、つい先ほど。警察の方ですか。何か?」
 女性はいぶかしげに稔をみる。
「いえ、たいしたことではありません。あの、木原麻子さんはご存知ですか」
 つとめてやわらかい声で稔はきく。
「ええ。うちのお得意様です。木原様はおキレイな方です。毎日のようにいらしゃいます。それが何か」
「麻子さんの注文は誰が受けるのでしょう?」
「木原麻子様の場合、社長が直接、受けます。携帯電話で。特別なお客様ですから」女性はどことなく思わせぶりにいう。
「その麻子さんがきのうの晩に亡くなられたのです。ご存知ですか?」
 女性はびっくりしたようで、言葉をつまらせた。
「それは……。お気の毒に……。はじめて聞きました。社長は何にもいってくれなくて。そうですか。でも変ですね。社長は落ち込んでいるようにはみえませんでした」
「麻子さんはバラの花びらを部屋いっぱいに敷き詰めて、その中で自殺したのです。そのバラがここのバラなので、一応しらべているのです」
「そうですか。社長はほんとうに心優しい人ですよ。いまどきめずらしいくらいにね。虫も殺せないほどの性格で、事実、バラの葉についている青虫をみつけてもわざわざ外に出て空き地に逃がしてあげるほどです。それにバラを栽培するビニールハウスってご存知のとおり狭い通路ですから誤って背中でバラの枝を押しつけてしまうことがよくあるんです。そんな時、社長は『痛っ!』と小さな叫び声をあげるのです。バラの痛みです。そしてご自分にも痛みが走るんだそうです。バラは社長の体の一部分になっているんですって」三十前後か、まだ若い女性事務員はちょっと動揺しているらしい。先ほどに比べて口数が多くなっている。反応をみようと軽く試したのだが、手応えがありすぎる。思わず笑顔になってしまった稔がいう。
「どうしてそんなことまで教えてくれるのです?」
「いえ、社長はこのところ少し様子がおかしいのです。社長にとってバラは御自分の命より大事なものなのに、いきなり最上級の花を廃棄してしまったり、もうバラ作りをやめるといってわたしたちを驚かせたり。そのうえ『私の持ち株を差し上げます(うちの会社、株式会社なんです)。みなさんなら、ぼくがいなくたってこのままバラ園をやっていけますよ』といいだす始末です。だから社長が疑われているのかと思ったんです。でもそれなら間違いですよ。ほんとに社長は純朴で思いやりがあるいいひとですよ」と茨木をかばうようにいう。
 逆に稔は不安になった。疑うもなにも、麻子は自殺したとしかいっていないのに。ここまであからさまにされると、茨木の逃走を助けるために時間稼ぎをしているのかもしれないと邪推したくなる。
「ところで茨木さんは今、どちらへ」稔は表情を一変させ、つめたく事務的な口調で尋ねた。
「バラ畑の、一番奥にある研究温室棟の方だと思います。社長は昼も夜もその研究棟に閉じこもってバラの面倒をみています。内線があります。お呼びいたしましょうか」
 女性はていねいな言葉遣いになった。そしてすぐに内線をかけた。しかし誰も出ない。そこであちこちと別のハウスの番号もかけたようだが、応答はあってもパートのおばさんの声ばかりで茨木はつかまらなかった。
「おかしいわね。社長は確かに戻ってこられたはずなのに。気がつかない間にまた出かけたのかしら」女性は窓に目をやった。外には軽トラや乗用車が数台見える。
「車はあるし、おかしいわね。私、ちょっと行ってきますので、申し訳ありませんが、しばらくここでお待ちください」
 女性が事務所から出ようとしたので、稔もあとを追うことにした。すると、いつから稔のうしろに居たのか、ソフトクリームを食べ終えた美樹が口をはさんだ。
「それには及びません。私たちで勝手に畑に入って茨木さんを探してもいいですか」

 アスファルトで舗装された坂道を通って、斜面に連なる南向きのビニールハウス群へと進む。ひと棟、十アール(=千平方メートル)ほどの大きなビニールハウスが道の両側に一ダース以上ならんでいる。ハウスの中ではバラが満開である。水やり、剪定、摘み取り、とたくさんの女性スタッフが作業している。それにしても五月のこの陽気ではさぞかし重労働だろう。
 美樹はうれしさのあまりスキップするように、ひとつひとつハウスをのぞき込む。母親に連れられてスーパーマーケットに来た幼稚園児の美樹が、お菓子売り場の前であちこち行き来しては品定めしている、そんな幼い頃の光景を稔はなぜか思い出した。
 アスファルトの道が、草がまばらに生える山道へと変わった。道幅も狭くなり、ここからは軽トラぐらいしか入れそうにない。そして防風林がわりのこぢんまりした雑木林を抜けると、赤レンガの倉庫小屋ひとつに板ガラスで作られた古めかしい温室が八つほど建っていた。温室の軒下には腐葉土、そして牛ふん鶏ふんなどの肥料袋や、鍬やシャベルなどの農具が立てかけてあった。温室の中は鉢植のバラが階段状の棚にぎっしりと載せてある。咲いているバラやつぼみには袋がけがされていた。どうやらここでは切り花用の花は栽培していないようである。美樹は八棟のうち、とびぬけて小さな温室の前まで来ると急に立ち止まり、きょろきょろと地面に目をやりはじめた。温室どうしに挟まれた堆肥置き場には、雨ざらしにしないため青いビニールシートがかぶせられていて、その四隅にはコンクリートブロックが重石にしてある。美樹は嬉々として駈け寄り、その青く苔むしたブロックを抱えてくると「いっぺんやってみたかったの」と、いきなり温室のガラスドアに向かって投げつけようとした。
「美樹!」
 思わず稔が声をあげると、両手がふさがっている美樹は『これをご覧なさいよ!』という感じに、あごで温室内部を指し示した。美樹の表情はきつく、歯を食いしばっている様子だから、ブロックはかなり重たそうだ。
 美樹が指す方向には階段状の鉢植え台。そしてわずかなすきまからは「炭酸ガス」と白いペンキで書かれた緑色の大きなボンベがちらちらと覗く。そのためボンベは温室中央付近に何十本とかたまって置かれているのがわかる。だが他に何があるのだろう、と稔が視線を左右にやると、さらにボンベに囲まれた中に作業着ズボンとゴム長靴の足元がかろうじて分かる程度にみえた。上半身は完全にバラの鉢やボンベに隠れてしまっているが、人が横たわっているのは間違いない。
 稔はようやく状況を理解して、いまにも投げつけようとする美樹を手で制し、温室正面のドアを開けようとした。しかし鍵は閉まっている。ドンドンとドアを乱暴に叩くが、やはり寝そべっている男は立ち上がろうとはしない。最後に稔が全体重をかけ無理やりこじ開けようとしたが、扉はまったくびくともしなかった。するとしびれをきらせた美樹が、それみなさいというような顔をしてから、持ち上げていたブロックを躊躇なくぶ厚いガラスにぶつけた。だがコンクリートブロックはボールのようにはね返り、正面ガラスに小さなひびができただけだった。それは美樹の力がないせいばかりではない。どうやら硬化ガラスのようだ。
 稔は美樹が投げたブロックを手に取り、すぐさまガラスのひび割れた部位を重点的に砕きにはいった。穴が開き、広がり、ある程度の大きさになったところで手をいれてドアの鍵を内側から開けた。稔は息を止めて中に入いる。炭酸ガスのボンベはシューという激しい音とともに二酸化炭素を吐き出していた。どうやら自殺を図ったらしい。男は茨木だった。稔は彼の名を呼ぶが返事がない。そこで強く揺らしてみた。すると茨木はまぶたを開いた。しかし目の焦点が定まっていなかった。そのうえ軽い麻痺状態らしく自力では動けないみたいだ。稔は茨木の体を揺さぶるのを遠慮した。医者でない稔には、いま彼を動かしてよいのかどうか判断できなかった。とはいえ常識的に考えて外へ出すべきだろう。それにしてもこの緊急を要する事態にいったい医者はどこにいったのかと稔が顔を上げると、繁夫は温室の外から、手当たりしだいに足元に位置する温室のガラスを割っていた。手にはどこでみつけたのか巨大な鋼鉄製のバールが握られている。軽々やっているようにみえるが、かなり硬い強化ガラスだ。繁ちゃんの力はやっぱりすごいな、と変なところに稔は感心した。不思議に音は聞こえてなかった。かなりの枚数が割れているので稔が突入する前から繁夫は頑張り続けていたはずである。
 ふりそそぐ陽射しの変化から、稔は屋根ガラスが徐々に開いているのに気づいた。美樹が温室の端にあるワイヤーを引っ張っている。温室の上下左右から、新緑の香りするさわやかな風が入ってきた。稔は茨木を外に運び出すのをやめにして、炭酸ガスのバルブを閉めることにした。茨木は意識があるようだが、仰向けに寝転んだままである。
 繁夫が駆けつけてきて脈診をはじめる。
「稔、呼吸していいぞ。換気は済んだし二酸化炭素は底にたまるからな」稔の顔をみず、茨木の瞳孔を調べながらいった。
「たいしたことはない。すぐに回復するよ」繁夫が心配している稔たちに伝えた。
 時間にして数分が過ぎただろうか。茨木は上半身を起したが、うなだれた様子で口を開こうとはしない。
「茨木さん、やっぱりあなたが麻子さんを殺したのね」と、さっぱりとした感じで美樹がいった。
 茨木は目の前のじっと一点をみつめたまま微動だにしない。
「私にはすぐ分かったわ。あなたが犯人だと。バラの花が痛いといっていた。だってドライアイスがバラの花びらに直接ふれていたから。いちばんデリケートな部分にそんなものを押し付けるなんて。とても痛々しかった。こんなまね、バラを愛する人には決してできない」
「それを分かりやすく例えるなら」美樹の話は、いつものことながら脱線する。
「服のためなら死ねる、という洋服大好きの女の子がいたとして、その子がお気に入りのシルクの純白ドレスを泥だらけの足で踏みつけるようなイメージかしらね。ううん、もっと残酷ね。スパイクのついた靴で踏みにじってドレスを引き裂いていく感じかな。いや、ちょっとちがうわね。そんな生やさしいものではないわ。歯ブラシと良く似た形のカミソリを口の中に思いっきり突っ込んで歯みがきをする、この行為のほうがはるかに近いかもしれない」
 美樹は自分でいっておきながら、場面を想像したのか、両耳を両手でおさえこんで首をちぎれんばかりに振っていた。
「できない。私にはできない。頼まれたってできない。もちろん茨木さん、あなたもね。正常な精神状態ではね」
 茨木は口を開いた。 
「無意識でやったことですが……。確かにそうですね。まさしく自虐的で破壊的な行為です。あなたがおっしゃるとおり、まともな精神状態ではありませんでした」
 かなりしっかりとした口調である。繁夫の診断どおり茨木にはどこも悪いところがない様子であった。
「それから茨木さん、あなたの警察の尋問に応じるときの、まさにドライアイスのような冷静な表情も私には逆にとれたけど。この人は確信犯だ。どうやら死を覚悟したらしい。このあと必ず自殺するだろうとね」
 これまたいつものことだが、美樹は誰も求めていないのによく解説がつけ加わる。
「どうしてわかったのかな。う〜ん、これはうまくいえない。女の直感ね。ただなんとなくそんな気がしただけ」
「すごいですね。そこまで見破るとは」
 茨木は感情をともなわない声でうなだれるようにうなずいた。
《そこまで見破っているのなら、どうして私が自殺するのをそっとしておいてくれなかったのですか》
 稔には茨木がそういっているようにしか聞こえなかった。
「ところで、この炭酸ガスボンベって普段は何に使うんですか」会話をやわらげるために繁夫がたずねた。病み上がりの人をいきなり責めないところは、さすがに医者の卵である。
「二酸化炭素がバラの成長の限定要因なのです。温室などの施設栽培は、ごらんのとおり、閉鎖された環境の中で植物を育てることになります。そのため植物がおこなう光合成によって建物内の二酸化酸素がどんどん減っていきます。そうして二酸化炭素が不足すると、当然、植物の生長も悪くなります。だから補給の意味もこめて二酸化炭素の濃度を通常よりも高くするのです。すると植物の成長は活発になり、品質も良くなります。また都合のいいことに病害虫の発生も少なくしてくれます。バクテリア繁殖防止剤としても使用されるほどですから。ドイツやオランダでは炭酸ガス施用が生育促進に効果があるので実用化されています。バラの場合なら、花の肥大が早くなり色つやが良く、茎や花弁の物理的な強度も増大して、格段に品質が向上します。
 この研究温室棟でははガスボンベを使用しますが、ストーブで灯油やプロパンガスを燃焼させる方法もあります。みなさんがここに来られる途中にあった量産用のビニールハウスがこのタイプですね。実はストーブの方がずいぶん安上がりなんです。しかし一得一失、つまり欠点があります。ストーブだと亜酸化窒素や一酸化炭素など植物の成長にとって有害な物質も生じます。それに熱を大量に放出します。夏だけでなく冬でも部分的に高温障害が起こることがあるほどです。また、とくに赤色系品種は高温だと花弁が乱れて牛の角のような形になる、ブルヘッドが発生することもあります」
 繁夫が社交辞令にきいた質問を、茨木は淡々とした口調できまじめに答えた。
「立てますか?」
 繁夫の呼びかけに、茨木は起きあがった。足元はぐらついていない。繁夫が脈をはかりなおして、「よし」とうなずく。茨木の体調はもとどおりにまで回復しているようだった。そこで稔が会話に加わる。
「しかし完全な密室でした。どうやってあなたが木原麻子さんを殺したというんです?」
 何といったらよいのかと言葉を探している茨木のかわりに、なぜだか美樹が答えた。
「ここがスイスだとして、この温室の屋根裏部屋にわらで作ったベッドがあるとするわ。稔さんならそのベッドに横になろうとする?」
「ごめんね美樹。分からない」
 あまりに唐突すぎて稔は困った。だって、ここはスイスではないし、だいいち温室には屋根裏部屋すらない。稔には何のことだかまったく意味が分からず、途方にくれた。もしこれが惚れた女性でなかったならば、とっくに公務執行妨害で強制連行していただろう。
「稔さんはそうかもしれないけど、そんなベッドに横になってしまう人たちがいるの。アルプスの少女ハイジにあこがれる女性たちのことよ。でね彼女たちなら――わらのベッドに干し草の匂いをかぎながら眠ってしまうでしょう。ハイジ好きならこんな時、誰でも理性なんかすぐにとんでしまうから。たしかに、麻子さんのように鍵を閉めるかどうかは分からないけど、ひとりっきりでハイジの世界に入ってしまうでしょうね。
 でもね、いくらアルプスの少女ハイジだからといって、これをスイスでなくサイロでやったら麻子さんと同じ目にあうわよ。牧草が枯れるときに微生物が大量に好気呼吸をするから」
「そうだね、そのとおりだよ美樹ちゃん。おれは感動した。ただ、どうでもいいことだけど、マンホールの下やサイロの底は二酸化炭素中毒というより、酸欠だな。酸素がなくなることによって引き起こされるんだ。酸素欠乏症の方が炭酸ガス中毒より後遺症が軽い分、安全かもしれない。もちろんひどければ命を失う危険はあるのだけどね」
 医学においてすこしの妥協もできない繁夫が、「念のために」とつけ加える。
 そんなものなのだろうか。稔にはよく分からなかった。もし自分ならどうだろう。ぼくなら、わらだろうがバラだろうが、そんなベッドには眠らない。だが稔は自分が惹きつけられそうなもの、そう、美樹が生まれたままの姿で白いシーツに横たわっているシーンを思い浮かべてしまった。密室に美樹とドライアイス。なるほど、美樹に興味ない人はこの罠にかからない。
「ぼくは間違いなく死ぬ。一体、ドライアイスがなんだというんだ」稔が思わず口に出してしまった。
 ワンテンポずれた返答なので、美樹も繁夫も不可解そうな顔をした。稔は、ごめん、と少し赤い顔で美樹にあやまった。そのとき茨木のところで声がした。
「たしかに私はとんでもないことをしでかしてしまいました。まさかこんなことになるなんて最初は思いもしなかったのです。皆さんには信じてもらえないかもしれませんが、私は麻子さんを実際に殺すつもりはありませんでした」
 稔はとりあえず先をうながした。
「よかったら最初から話してくれませんか」
「ええ」しばらく考えこんでから、茨木は語りはじめた。
 ところが、しかし。またしても美樹が妨害する。
「きゃあ、信じられない。ひと鉢ごとに別の品種のバラだったのね。ミニ、オールドローズ、HT、フロリバンダ……」
 植えられている鉢ごとに、花の形や種類に多少のちがいがあるにしても、稔にとってはどれも同じ赤いバラであるし、それでじゅうぶんだ。驚くに値しない。
「それにこれって貴重でほとんど手に入ることのできないバラじゃない。この手の突然変異ものは」鉢につけられたラベルをみて美樹は、ひとり勝手に叫び声をあげた。稔は黙ったままである。美樹の性格を考慮すると、時と場所をわきまえろというほうが非常識のような気がする。
「えっ、あなたにはこのバラの価値が分かるのですか。あっ、そうでした。麻子さんの花友だちの方だからですね。麻子さんの紹介で見学にくる人たちは皆さんバラにお詳しいです。そういえば麻子さんも、ここを初めて訪れたときあなたと同じように感動してくださいました。本当に感動してくれました」
 そういって茨木は遠い目をした。だが稔の視線に気づくと我に返ったのか「幻と呼ばれるオールドローズから、まれにみる最新の青に近い赤いバラまで、これほどの赤のコレクションは日本国内で他に類をみないはず、と自負しています」と解説してくれた。
「赤しかないの?」
 美樹のいうとおりだ。いままでみてきた販売所やハウスでは、白・ピンク・オレンジ・黄色とわけへだてなく花色があったのに、ここは赤だけだ。茨木は赤いバラを特別扱いしているように思える。
「ええ、この部屋は。ほかの温室には別の色のバラもおいていますけど。ここは赤いバラのなかでもさらに重要な原種を収める『赤の温室』です。もちろん赤はバラの基本色ですし、なによりも麻子さんが好きな色でしたから。そうですね、ここにある品種改良のための原木さえあれば他のハウスが全部やられても立ち直れます。経済的損失なら取り返せますが、稀少なバラは二度と手に入れることができませんから。いわば赤の温室こそがこのバラ園の中枢なのです」
 だからここを死に場所に選んだというわけか、稔は思った。
 美樹がやつぎばやに質問するが、茨木は難なく答える。
 バラを八寸鉢で栽培するのは、交配用に選び抜いた千種類以上ある赤系統の親株を管理しやすいように。毎年、品種改良のために人工受粉させて種を得ている。花にビニール袋をかけているのは他の花粉が混じらないようにするため。五月の中旬までにすべての交配を済ませている。
「バラって種ができるのですか」
 どちらかというとバラが嫌いな美樹のせいもあり、他の植物と違ってバラを身近にみる機会が少ない。稔もなんだかんだいって気になることを尋ねた。
「ミニトマトみたいなものができるんだ。種類によって、赤や黄、その他いろんな色や形があって、その実じたいが観賞に呈されるぐらいだよ」
 美樹の前だから繁夫が知ったがぶりをした。
「そのとおりです」茨木は笑顔でうなずいた。「異なる品種のバラをかけあわせて実を作ります。そしてなかの種を育てることによって新しいバラが生まれるのです。千種から二種をとりだして組み合わせるのですが、それは天文学的な数字になります。そういうわけですべての組合せを試すのは不可能ですから、カンを頼ることになります。うまくいっても良い種ができるのは一万分の一ぐらいですからたいへんな作業です。同じ親同士の子でも兄弟がそれぞれ個性を持つように、バラも交配させる親株が同じであっても一つ一つ種の性質は異なります。そこから性質のよいものを選び出すのです。もし望みどおりの花が咲けば、あとは無性生殖で増やします。つまり挿し木ですね」
 よっぽどバラのことが好きなのだろう、茨木の顔に浮かんだ笑顔は消えない。
 茨木によると、バラは世界でざっと数万種が存在し、近年、新品種開発により加速度的にその数を増やしていて、毎年、千種近くも発表されるという。
「この『R一━五八〇七三』って?」美樹がそのタグのついたバラが気になったようだ。
「Rシリーズですね。Rのすぐ横の『一』は初期型を表し、便宜上、区別するためたくさんの通し番号があります。ええ、大量生産にうつる前の原木たちですね。ああ、そちらの列は麻子さんの赤いバラの原木たちです」
 どうやらいま美樹が吟味している鉢置き棚は彼が作出した数々のバラのようである。
「Rは七色の虹のバラを意味しています。七色といっても、すべて赤色です。それぞれ、わずかに紫がかった赤、青みがかった赤、緑がかった赤という感じで、バラをみる人に虹を意識させるものです。麻子さんにいわれて、虹の光の帯をバラの花びらに替えたのです。とはいってもただ単に、私がこれまで誕生させたバラの中で、よさそうな色を適当にみつくろっただけなのですが。もちろん赤一色で虹の七色を集めて、表現するのはそれなりに難しい作業です。色の本質を見極める眼が必要とされます。
 私には虹のバラなんて思いもつきません。すべては麻子さんのおかげです。当時、高校一年生だった麻子さんが、夏の日の林間学校で夕立にあって、そのあと山の谷間にかかった虹がとってもきれいだったと教えてくれました。身振り手振りで精一杯、説明してくれるのですよ。そのとき自分でも驚いたのですが、麻子さんを通してその虹をはっきりこの目で見たような気がしたのです。まちがいありません。私にもたしかに麻子さんの虹がみえたのです」
 稔は、この茨木という男が麻子と赤いバラに関して、わずかながら常軌を逸してるところがあるように感じられた。
「麻子さんはそれ以降もたびたび、バラの色も虹みたいに七種類があればいいのにと私に訴えかけてくるのです。赤くなければバラじゃないと信じるあの麻子さんがですよ。だから私は何としてもその願いをかなえて差しあげようと思ったのです。
 R一が完成して麻子さんは私の予想以上に喜んでくれました。しかし麻子さんの美的感覚は、私なんかと比べて、非常にするどいのです。ひと月もしないうちに「虹のさかいめはもっと微妙でしょう?」とお叱りをいただきました。初期型であるR一は、帯状を形成するバラがビビッドカラーですので、くっきりと色の境が出てしまいます。もちろんそれはそれで美しいのですが、しかし、虹というものは全体的に色がはっきりとしていないことが多く、また何色みえるかは個人差もあります。アメリカでは虹は六色ですしね。それで次の年はそれ専用の品種も取りそろえ、パステルカラーでまとめてみました。明るい色調で、かつ色彩のあいまいさを強調したのです。それが自信作のR二型です」
 茨木は花を咲かせるR二シリーズのバラの鉢の前に立った。いい意味で花びらの色のくすみ具合が、稔にして鮮やかな虹の光を思わせる。
「これをめちゃくちゃに活けると、あの玄関でみた色とりどりのバラになるのね」美樹がうっとりしたようすでため息をついた。
「おっしゃるとおり麻子さんは奔放な活け方をされますけど」茨木がめずらしく抗議した。「あの玄関のバラはR三型です。じつをいえば私も最初はあなたと同じように誤解してしまいました。まさしくR二シリーズの虹のバラは特徴を生かすためにきちんと色別に並べなければなりません。最低でも同色系統はひとつにまとめないと。でも麻子さんは私なんかより遥かに先をみていたのです。『虹の美しさって、私が思うには、それぞれの光の粒が散乱していって今にも消えそうになるところよ』と。
 麻子さんに指摘されて、私はまるで後頭部を鈍器で殴られたように感じました。本当の虹らしさとは色の粒子が崩壊して消滅する、まさにその瞬間にあったのです。もしかしたら虹もバラもその美しさが永遠でないから素晴らしいのかもしれません。それにしてもさすがは麻子さんです。ここにきてやっと麻子さんがみていた景色を私もみることができたのでした。でも不思議ですよね。ふたりして同じ虹をみてたというのに、違った一瞬をみていたのですから」
 茨木は完全にいっている。
「同じ虹をみてた? いや、あんたはみてないだろ」
 稔のとなりにいた繁夫はつぶやいた。稔も激しく同意したいところだが、しかし相手はかなり危ない男である。稔は本能的に、茨木に対して無用な刺激をするべきではないと警戒しはじめていた。
 幸い、茨木の耳には届いていなかった。もっとも聞こえたところで茨木は何も気にはしないだろう。
「そこで虹のかけらが、最後の光を放って散らばっていくさまを描くように改良しました。一本一本、微妙に異なる色の花を咲かせるようにしたのです。ひとつひとつの花が、一枚一枚の花びらでさえ、それぞれ違う発色をする新しい品種です。私の想いが、いえ麻子さんの願いが天に通じたのでしょう。傑作といってもいいほどのできばえです。いうまでもなくこのバラはランダムに配列してこそ、その真価を発揮します。それがR三シリーズ、つまり現時点での最終形です」
 意気揚揚とする茨木に美樹が「すてき!」と盛大な拍手と絶賛を送る。しかし稔は茨木の子供だましみたいな遊戯にはそろそろ付き合ってられなくなっていた。まったく何様のつもりだろう。殺人犯のくせに。美樹の気を惹こうとするなんて。
「そういえば白の温室にあると思います」茨木が、もう一度みたいとリクエストする美樹にこたえる。「R四研究の資料用にと、けさ百合子さんが、いえ、Rの栽培担当者がわざわざ歴代のRシリーズを切り花にして持ってきてくれたのです。申し訳なくも、無気力な私をやる気にさせるために」
 美樹のひと声で一同 は白の温室へと向かうことになりそうだ。それを阻止すべく稔は奥の手を使うはずだった。しかし悲しいことに肝心のバラの絵が描かれたケント紙が手元にな い。どこに置いたのだろう。必死に温室内を見回すがみつからない。今はあきらめて茨木たちを追いかけようとしたとき、美樹が落ちていた茶封筒を正面ドア付 近で拾っているのがみえた。温室の扉を破る際、とっさにわきへのけておいたのだろう。茶封筒といってもA三サイズである。ケント紙を汚さぬよう、繁夫の車 の後部座席にたまたま放置されていたクラフト封筒を、これ幸いと勝手に拝借したものだ。
 白の温室はとなりの温室になる。バラの花は真綿色から初雪色まで白一色に染まっている。これほどまで色とりどりの白が集結するさまは圧巻としかいいようがない。サマーブラックからウインターグリーン、スターレッドからムーンブルーまで、と勝手に稔が色名を創作したいぐらいだ。つまりブラックとかブルーとか、とにかくその名にホワイトをつけたくないほど筆舌尽くしがたい白ばかりなのである。鉢置き台に整然と並ぶバラたちの、わずかな色加減やその繊細にして多彩 な花肌にただただ見惚れるばかりである。茨木の言語を絶するバラに色彩感覚が研ぎ澄まされてきたようだ。稔も過敏になっている。
 科学者というべきか芸術家というべきか。茨木はバラの育種家という範疇には収まりきれない。桁が二桁も三桁もちがう。いや、茨木は神だ。バラ好きたちはここを聖地として巡礼しだすにちがいない。
 入り口で立ち止まったまま動こうとはしない稔たちに茨木は微笑みかける。
「あなた方にもみえるでしょうか? 白はすべての色を含みます。バラは白が基本なのです。ごまかしがききません。もし麻子さんと出会わなかったら私は今でもバラとは白色だと答えたでしょう。本来ならここがバラ園の本体なのです」
 たしかにここは赤の温室の優に五倍近くの広さを誇っている。ここ一帯の研究温室群では最大規模だろう。その作りも寝室や書斎やトイレまで完備していて豪華である。
「すごいなぁ。まさに秘密基地ですね。オレ、こういうのあこがれます」
 そう感心する繁夫はすっかり信者である。もっとも稔でさえバラ信者の一歩手前にまで踏み込んでしまっている。少なくとも今、「花の王様は?」ときかれたら「それはバラにきまっている」と即答するだろう。
 先を促す茨木に、しかたなく美樹も稔も繁夫も前へと進む。白の温室、中央通路を途中ふさぐような形で青いポリバケツがぎっしりとつまっていた。もちろん鮮やかな赤いバラを満開にさせて。しかもR一からR三まで順に綺麗に配色されていた。
 さすがの光景に、繁夫でさえ「おおっ」と声をあげている。よほど感動しているのだろう、美樹はさっきから黙ったままだ。稔も不覚にも「これは見事です」と褒め称えてしまった。麻子のマンションで見ているはずなのに、もはや虹そのものにしかみえなかった。茨木のはなしのせいで先入観にとらわれれてしまったからだろう。まさしく雨上がりの空に架かる七色の虹が地上に舞い降りたのだ。
「百合子さんが、彼女は販売用の虹のバラを栽培してくださっている方ですが、『これを励みにしてください』といっていましたから、プリサーブドフラワーにでもするつもりなのでしょう」きらびやかなバラに茨木は顔を曇らせる。そして気を紛らわせるつもりだろう、花びらに霧吹きで水を与えはじめた。「Rシリーズはひとまず一段落ついた状態です。だから次は時間をかけて第四ステージであるR四にとりかかる予定でした。赤からではなく今一度、白から作出するつもりでいたのです。白から余分な色を削り落として赤を浮かび上がらせるのです。ええ、麻子さんさえいてくれたら、私はもっと画期的な虹を咲かせるでしょうね。七色にまばゆく赤い花々をこの手で愛する人に捧げられるのなら」
 暗くなった雰囲気を払拭するかのように美樹が明るい声で言った。
「海外ではバラの新品種開発はおもに大企業でおこなわれるわ。それにしても茨木さん、よく個人でここまでやれるわね」
 美樹が崇拝のまなざしでみつめるのを稔が見逃すはずはない。茨木は敵だ。美樹をバラで釣ろうとしている。元気を取り戻しつつある茨木に、稔はできるだけ皮肉っぽくいった。
「茨木さん、あなたは本当にバラがお好きなようですね。でも今はそんなことをしている場合ではないのではないのですか」
 美樹が茨木を賞賛しているのがたまらなく癪にさわるのだ。
「すみません。つい、調子に乗って見せびらかせてしまいました」
 茨木はいっぺんにしょげ返った。美樹が抱える麻子の植物画をわざわざみせつけなくてもすんだほどだ。
「今回の事件は、私のひとりよがりが引き起こしたものです。私が木原麻子さんを殺したのです。なぜ彼女を殺してしまったのか、どう説明すれば分かってもらえるでしょうか。いえ、どうやっても他人には理解してもらえないのかもしれません。そうですね。私の生い立ちから話せばいいのでしょうか。長くなるのですが」
 そう前置きしてから茨木は語りはじめた。
「私の母はバラが好きで庭中にバラを植えていました。家の垣にも壁にもスプレー咲きのつるバラをはわせていたほどです。そんなわけで物心つく前から毎日バラの世話をするのが私と母の日課でした。だから私がバラを好きになるのも当然のなりゆきというものです。小学校にあがるまでには、バラの花粉をかけあわせて新しい品種を作ることを自然に覚え、バラの育種が趣味となりました。私の作品は自分でいうのもなんです が、大学に入る頃になると、熱狂的なバラ愛好家たちに広く知られるくらいになりました。そうしてバラ愛好会の、なかでも資産家の人たちが融資をしてくれ るというので、私は大学を卒業してすぐにバラ園をはじめたのです。ちょうど十年ぐらい前のことです。南向きの風通しのよい斜面で、四季を通して温暖なこの 地を選びました。
 金持ちの道楽なのでしょう、無利子という破格の融資だったのです。もったいなくも私のバラの育種家としての才能に投資をしてくれたのです。すぐに株式会社にしました。株式会社化は、支援者たちに強く勧められました。税制上、有利ですし、大きな設備投資もできます。最初は出資者たちにそのまま株主になってもらっていたのですが、株主の皆さんは利益なんてこれっぽっちも求めていなかったのです。バラ園の経営がひととおり軌道に乗り、借りていた資金をすべて返済し終えると株は無償で私にゆずり渡されました。あとは自分の好きにしなさいという意思表示です。ありがたいことです。支援者たちは私が新しい品種さえ作っていれば満足してくれました。まだ誰もみたことがないバラをこの世に誕生させるのが、つまり私の使命です。私に恩返しできるのはそれくらいです。
 本当のことをいえば、私はバラの販売どころか売り物にするバラを育てるのでさえ苦手なのです。魚を大量にとる漁師と狙った魚だけを捕獲する釣り師とのちがいでしょうか。作出した品種を大量に栽培するのは、私ではなく社員の皆さんです。そして近所のバラ好きの主婦の方々にもパートさんとしてお願いしています。バラの栽培方法は私でも教えることができますから。それにしても彼女たちはすばらしい栽培家です。てきぱきと効率良く作業するので、その点に関しては私より上手なくらいです。
 宣伝はほとんどしませんでしたが、バラ愛好家以外の人にも口コミで広がっていきました。私の作り出すバラはしだいに一般の方にも高く評価されるようになりました。
 そんななか、木原麻子さんとはじめて出会った時の衝撃は今でも忘れることはできません。もう、五年ほどまえになるでしょうか、今日のようによく晴れた五月の日曜日のことでした。うちの評判をきいて、遠くの町からわざわざ電車に乗って買いに来てくれたのです。まだ真新しいセーラー服に初々しく身を包んだ高校生でした。とてもいとおしそうにバラの花びらを眺めるのです。全身全霊を込めて。その横顔のうつくしいこと。こちらがみとれてしまいました。バラ以外のもので私が心を奪われるなんてはじめてのことです。いえ、彼女はバラ以上の存在でした。彼女を恋人にできるのならバラなんかすべて手放していいと思うほどでした。それほどでした。そのうえ麻子さんはバラに対しするどい審美眼の持ち主で(それはみなさんもご存知ですね)、うわさ以上のバラだと褒めてくださったのです。この私のバラをです。その日にご注文も頂きました。それも持ちきれないほどたくさん! 私が車で配達しました。バラ園が閉園するまでいた麻子さんをご自宅まで送ったのです。
 遠方からなのに、その後もたびたび訪れてくれるようになりました。麻子さんは赤い色が好きで、赤いバラばかり買っていかれました。わたしはどの色のバラも好きだったのですが、そのうち赤いバラをいちばん好むようになりました。さかんに赤系統のバラを作り出そうとしました。
 それからあっという間に三年が過ぎ、麻子さんはこの町にピアノ専攻科の音大生としてやって来ました。そして毎日のように私のバラ園に通ってくれるようになりました。私にとっては夢のような日々です。それに自宅であるマンションにも週に一度は伺わせてもらいました。テラスの上に空中庭園があってバラの面倒をみるためです。そのバラもすべて私のところで購入して頂いたものです」
 美樹が目で「どうしてテラスの上に庭園があることを教えてくれなかったの」と稔をにらみつける。その視線につられて茨木は、美樹が胸に当てている茶封筒に目をやった。
「そうですね。『茨木さん、この絵のような品種を作れる?』と麻子さんはたびたびバラのデザイン画を持ってこられました。種々の花びらの葉の色かたち。オーソドックスなものや斬新なもの。時には匂いまで指定して。幼い時からきれいなバラの花を空想してスケッチブックに描くのが好きだったそうです。よく少女マンガなどの背景にバラの花が大きく載っていたりするでしょう。麻子さんは、そういうことがきっかけでバラの絵を描くことになったようです」
 封筒の中に麻子の絵が入っていることぐらい茨木にはとっくにお見通しらしい。
「麻子さんとはバラについて真剣に議論することもありました。バラに関しては真摯なふたりですからそれは激しいものです。私だって一歩も退けません。そう いえばRシリーズにしても勢い余って『虹色のバラなんてやはり邪道です。バラそのものをイメージさせなければ嘘です。真のバラとは完全無欠の赤いバラで す』とえらそうにいってしまいました。麻子さんも私の剣幕に押されたのか『そのとおりね』とうなずいてはくれましたけど。あははは、そんなことに一生懸命 だったあの頃が本当に幸せでした。私はなぜかふたりの輝かしい未来を信じていたのでした。本当にどうしようもない馬鹿ですよね。そのスケッチだって……。 捜査員さん、それはあの三枚のスケッチ画でしょう? 麻子さんの特にお気に入りの絵です。彼女の宝物です。一枚目の絵は麻子さんが中学生のときに描いたものだ そうで、出逢ってからちょうど一年が経ったとき、そうです四年前です、麻子さんが十六歳になった日です、私が二十歳の誕生日までにプレゼントとして完成さ せると約束したのです。麻子さんは飛びあがるほど喜びました。『本当にできるの? それじゃあ約束よ。口では何とでもいえるから』と裏に契約を誓うサイン までさせられたのです」
 稔は絵を封筒から出してはいない。美樹が抱えている。茨木も遠くを見るような目つきをしたままだ。
「前にもいいましたが、麻子さんは私なんかより遥か先をみてるのです。三年前の二枚目のバラのとき私は麻子さんに説明しました。『これは十年ではとてもむりです。ですが、余裕をもたせて二十年もあれば完成できると思います。遺伝子組みかえ技術などのバイオテクノロジーで飛躍的に品種改良法が進歩することも見込めます』白旗を掲げたくなるくらい究極のデザイン画でした。私でなければこうも簡単には請け負えないだろうと自負しています。だけどこれでおしまいではありません。最後の一枚は、これは今年の三月ですが、私は麻子さんの前ではじめて弱音を漏らしました。この世のものではない絵でしたから。『私が一生をかけても生み出せないかもしれません。でも麻子さんが望むのなら、あなたがこの目でみたいというのなら、この命に代えても、いつかきっと咲かせてみせましょう』
 麻子さんは飛びあがって喜びました。
 さすがに契約書まで書かされたのはその三枚のバラだけでした。逆にいえばそれだけのバラだったのです。麻子さんはいつもきまって『参考にして。そのバラの絵をあげるわ』というのですが、私はあまりに興奮していたのでしょう、最後のバラのときには『そんなものは気休めにもなりません。紙に描いた絵がなくても、麻子さんの描く赤いバラはいつだって私にはみえます』と口をすべらせてしまいました。『そうね、私のバラの絵は必要ないわね』と麻子さんはいいました。
 もっとも麻子さんのバラの絵はプロ顔負けです。三枚目に至っては本人が渾身のできばえというだけあって至高の芸術作品です。だけど私が手元に置いても、よけいにバラの色彩は離れていくだけです。つかまえることはできません。実際のバラ作りでも私の現実のバラは近づけば近づくほど理想のバラからどんどん離れていくのです。おかしなことですが腕が上がれば上がるほど最高のバラは加速度を増して私から逃げて去っていくのです。
 失礼な物言いで麻子さんの心を深く傷つけたのではないかと我に返りました。何しろ麻子さんが子供の頃からその胸にあたためて、やっと他人と共有できるくらいに描けたという大作です。しかし杞憂でした。麻子さんはすべてを理解していたのです。私のことを。『私にもよくあるわ。茨木さんにもらったバラを、ゆうべに満足してみつめて、そして夢見ごごちに眠って。でもね、あしたにバラをみるといつも必ずがっかりするの。昨夜のバラは、それは私の心の中に残っている幻影のバラだけど、もっともっと美しかった。だけど自分の都合のいいように、いつのまにか記憶は変わってしまうのね。茨木さんのバラが素晴らしければ、それだけひどく幻滅するのよ。いいバラが手に入れば手に入るほど、私のバラはぜいたくになってしまって、現実のバラからはますます遠ざかってしまう。それも これもみんな茨木さんのせいね』とうれしそうに笑っうのです。その顔に私はハッとしました。麻子さんこそが私が追い求めているバラそのものではないかと。もう手遅れでした。麻子さんのことを一方的に愛している自分自身に気づかされたのです」
 そして茨木は静かな口調に戻った。
「いつしか私は自分の想いを麻子さんに伝えようと思うようになりました。だけどそのことで麻子さんが負担に思うかもしれない。それが心配でした」
 温室の外では午後の陽射しはやわらかく、おだやかに遠く山の木々を緑色に照らす。熱気がこもらないようにと白の温室は風通し良く開け放たれていて、小鳥たちのさえずりは軽快な音楽として稔の耳元に届いてくる。ガラス窓からは爽やかな五月の風が夏草の匂いをのせて吹きぬける。そしてバラの甘い香りが鼻をくすぐる。
「いまではバラは温室で一年中、花を咲かせることができます。とはいえ、やはりこの季節が旬ですね。また年ごとに、花の咲き具合や色つや香りが微妙に異なります。気候の影響もあって出来不出来が生じるのです。それなのに。今年のバラのできばえは運悪く最高でした。そのうえ悪いことは重なるものです。私の生み出した会心のバラが当初の計画より三年もはやく大量生産体制に入っていました。約束の二十歳のバラはたった一輪でもじゅうぶんなのにです。麻子さんが十六歳の時に約束したバラは、まさに神がかりといってもいいほどで、私の直感に種々の偶然が加わり一年も経たずして完成してしまいました。さらに台木に使用するノイバラも、あいにくなことに、もう何年も前から素晴らしい改良種が作出済みです。だから本当に間が悪いのですが、その前年に新設したハウス群では、優れたノイバラ台木がいつでも準備OKと待ちかまえていました。従業員の理解と協力もあって、麻子さんのバラだけにハウス一棟を融通をすることができ、あっという間に接ぎ木作業が終了したのです。さらに、その後の生育も予想をはるかに上回る驚異的なものでした。麻子さんの二十歳の誕生日はすごいことになりそうです。こんな具合でして、二十歳のバラ開発はすさまじいスピードでとんとん拍子に進んでいったのです。麻子さんの二十歳のバラはまさに才色兼備でした。つまり花の美しさと気品、丈夫さと繁殖力の旺盛さ、そのすべてを兼ね備えた最高品種です。そうです、みなさんもマンションでご覧になった、そして麻子さんを包み込んだあのバラです。新種登録も済ませました。『アサコ・トウェンティ』と命名したのです。名はあえて単純なものにしました。その方がこのバラには釣り合いがとれます。安易なものでちょうどいいのです。これはアサコシリーズの序章にしかすぎません。麻子さんとの約束や使命を果たすためにも、これから続々と麻子の名を冠したシンプルな新品種名を発表するつもりでした。そうしないと私は一生かけても三枚目の約束のバラにたどり着けそうにありません。『アサコ』とだけ名付けるにふさわしい究極のバラに。
 その荷は重すぎますが、しかし私は有頂天だったのです。私でないと麻子さんの願いは叶えられないはずだと思いました。はじまりのバラであるアサコ・トウェンティは大成功を収め、そのすべてが順風満帆でした。いえ、すぎるぐらいです。しかし私はこれらの幸運をふたりが結ばれる運命にあるからだと信じて疑いませんでした。まさに独りよがりな妄想です。おぞましいですよね。救いようがありません。
 誰でもバラを育てていると、『寒い』とか『のどが乾いた』とかいう声を聴くことができるはずです。真心こめて世話をすると必ず言葉を返してくれます。この二十歳のバラ、アサコ・トウェンティも『ふたりはきっと幸せになれる』と祝福してくれます。その喜びあふれるささやきは、それはもう心地のよいものです。頭がおかしいのは自覚しているつもりです。でもこの種の妄想は、他人に迷惑を及ぼさないかぎり、新しいバラ作りには必要なものです。現実には存在しない幻想をはっきり実体として感じ取らなければ、新しいものなど生み出せないからです。私のひどい妄想がなければ、このトウェンティも存在していませんでした。
 つまり今回は、この妄想が悪く働きました。そして決定づけたのは私の悪趣味です。麻子さんをびっくりさせようと、その約束の赤いバラは秘密裏に栽培を進めていたのです。麻子さんは一般販売用の量産バラハウスには興味を示しません。しかも私は社員、パート員を問わず全従業員に、指定した禁止区域に麻子さんが立ち入らないよう監視をお願いしました。そればかりかこの四月のはじめに、わざわざワンランクもツーランクも質が落ちる試作品の数々を、適当に早咲きさせて、数ダースほどみつくろい、一本ずつ、どれがいいですか、と約束の二十歳の誕生日に渡すつもりの新品種だと偽って麻子さんにみせていたのです。なのに麻子さんはそれらすべてを素晴らしいといって感動してくれました。もっとも麻子さんは、私の生み出したバラはどれでも誉めてくださいますが、そればかりではありません。たしかに試作品というにはもったいない赤いバラたちです。とくに麻子さんが選んだ一本は、アサコ・トウェンティをとなりに並べさえしなければ、世界の一流品種と比べても何ら遜色なかったのです。だから麻子さんは二十歳の赤いバラがこうまで完璧で、しかも大量にプレゼントされるなんて夢にも思えなかったことでしょう。
 そして、トウェンティ――麻子さんのためだけの赤いバラ――がビニールハウス一面につぼみをつけはじめたとき、そこを舞台に私は好きだと告げようと心に決めました」
 茨木がどうして麻子を殺してしまったのか、事件の発端はここにあるようだ。それにしても順調な出だしに心を踊らせた茨木を思えば稔もなんだか胸がせつなくなる。
「私はひとり、かなわぬ恋に憂き身をやつしていればよかったのです。
 麻子さんの二十の誕生日を一ヶ月後にひかえた四月の終わりのことでした。新しい赤いバラが用意できたことで、私はこれ以上ないほどに昂揚しています。まわりは何ひとつみえていませんでした。アサコ・トウェンティは私のこれまでの人生における最高の作品でしたから、そのとき私はなにを思ったのか、よせばいいのに、意を決してこの気持ちを告白することにしたのです」茨木は逡巡する。口を開こうとするが言葉は何も出てこない。
 それで美樹は「ううん」と茨木をいたわるように首を横に振る。「それはあなたのいいところだわ。愛するものに迷わず突き進んでいく、茨木さんのその実行力が数々のバラを生み出したのよ。ただ心の中で思い描くだけなら、バラたちはこの世に存在してないはず」
 茨木は悲しく笑った。
「実はその日は私の三十三回目の誕生日でした。もっとも麻子さんはそんなことはご存じないでしょう。でも、つぼみ満開のバラがお膳立てしてくれていると思ったのです。麻子さんの記念すべき二十歳の誕生日にはぜひ二人だけで祝いたいと夢見てたのです。笑えますよね。私も恥ずかしくて死んでしまいたいです。
 結果はいうまでもありません。あっけないものでした。ご想像の通りです。彼女は気を悪くしたのか、不快そうな顔をして、ぷいっと何もいわずに出て行きました。予想に反して、先端をわずかに染める赤いつぼみたちも何の効果もなかったのです。今まで案内されたことがない一般用ハウスに連れて行かれ、しかも異様に興奮していた私に警戒していたのでしょうか。麻子さんはひとことも口をきいてはくれなかったのです。それにしても私は心根が卑しいですね。自分に魅力がないばかりにバラで麻子さんを惑わそうとしていたのですから。
 その日から麻子さんはバラ園に姿を見せなくなりました。来づらくなるのも当然ですね。私はただただ木原麻子さんにいやな思いをさせてしまって申しわけないと思いました。夜も眠れないほど悔やみました。いつものことですが、何であんなことをいってしまったんだと、後々までくよくよといつまでも悩みます。ビデオを繰り返し再生するように。それもスローで。相手を不愉快にさせるのは本当にいやなのです。人に対してものすごく気を使います。どちらかというと人を責めるより、自分を責める方です。彼女は純粋にバラが好きだったというのに、私が俗物的な感情を持ち出してしまったがために、もうこのお気に入りのバラたちと会えなくなってしまったのですから。私は自分より彼女のことを心配しました。
 次の日曜日の午後のことです。ビニールハウスでもの想いにふけりながら例の赤いバラを手入れしていると、麻子さんは男の人を連れてやってきました。彼女に恋人がいるとは知りませんでした。もっとも私の告白はなかったことにしてもらえば互いに気持ち良くバラ友達を続けられます。そう思って笑顔で迎えようとしたのですが、男は会うなりいきなり『このオレに挑戦する気か!』とか『お前、覚悟しろよ。オレには怖いものが何もないのだからな』とか怒鳴りながら凄んできました。肩をいからせてどしどしと足を踏み鳴らして。オシャレな麻子さんに私みたいなみすぼらしい男がいい寄ったことで、男はいたくプライドを傷つけられたのでしょう。私は誠心誠意、頭を下げて謝りました。
『挑戦だなんてとんでもありません。あなたのような方に私がかなうはずもありません』
 私は相手の気を静めようとしました。別に卑屈になっているのではなく、失礼なことをしたのは私のほうですから。なのに男は容赦しませんでした。たたみかけるように『お前、三十を越えているのだろう。いい年して恥かしくないのか、いいかげん身をわきまえろ』と胸ぐらをつかまれました。私はこの種の人間に下手に出たことは逆効果だと気づきました。
 まさしく本能的な防衛行動なのでしょう。自分のなわばりを侵されたと感じて不愉快な気分になるのは分かります。しかし力の優劣でむりやり上下関係を決めるのは間違っています。人間って動物なんだと妙に実感したくらい悲しいできごとでした。相手を支配する。確かにオスとして優秀ですね。私は劣位オスというわけです。私は相手の男性を立てたつもりです。私は麻子さんに恋人がいること自体知らなかったのですから。知っていたら、好きだなんていいはしません。それにしてもこんな威嚇で人間関係がよりよい方向へいくとはとても思いませんでした。
 視界に麻子さんが映りました。恋人が自分のためにここまでがんばって戦っているということなんでしょう。満足そうに彼のうしろで、なりゆきを見守っていした。またそれが妙に悲しかったのです。
『バラに興味を持つ男は女の腐った奴だから気持ち悪い。吐き気がする。そんなおかまがつくったこのバラも気持ち悪いな』と、ほころんだばかりのつぼみに男はつばを吐きつけました。私は自分の顔を汚物で踏みにじられた感じがしました。
《つばを吐くのならこの私にしろ、バラには何も罪はない》
 でも怒りに震えすぎて、口にはできませんでした。
『それにしてもうす汚れたバラだな。このど百姓が、食えもしないくだらないバラなんかつくりやがって。イモつくれ。お前にはイモがお似合いだ。牛のくそとか生ゴミとかが肥料になるんだったな。女にバラの花がきれいとかいわれたぐらいで、うぬぼれやがって。この勘違い野郎が』男は自分の拳を誇示しているのです。『オレを怒らせるな。こんなバラ引っこ抜いてやるぞ』
 もちろん謝ったから、それですべてが許されるとは思っていません。それにしたって私たちは動物ではないのです。人として最低限の礼をもってくれてもいいと思います。たしかに私が原因でこうなったのですから、できるかぎり丁寧に謝罪したつもりなのですが。しかし、ものにはいいようがあります。言霊というのでしょうか。言葉には魂があります。バラはきれいな言葉をかけると美しくなります。汚い言葉で、汚い汚物をバラに投げかける。それは私には許しがたい行為です。
『クソが。こんなバラ、すべて引っこ抜くぞ。オレを怒らせると怖いぞ』まるでやくざです。麻子さんの赤いバラが悲鳴をあげています。それなのに、木原麻子は彼の背中で、非常にうれしそうな顔でこちらを窺っているのです。
 私は非常に気を使うタイプです。相手の立場を慮り、自分のことだけを考えるタイプではないのです。相手のほうが気疲れするぐらい、気を遣うのです。知らないうちに何気ない言葉で傷つけたのではないのか、私に何か重大な落ち度があったのではないかとこの時も考えたのですが、男にここまでされるおぼえはありませんでした。
 それにしても想像を絶することばかりが続きます。私が必死に怒りを抑えているところに、本当に引っこ抜こうとしたのですよ、あの男は。素手で。バラには棘があることを知らなかったのでしょう。『痛てえな、このクソが』と怯えるトウェンティに何度も悪態をつきながら、今度は靴の裏で枝を折りにかかったのです。もっとも棘を怖がっていたせいか踏み込むことはできず、枝がしなるだけでした。それでも葉は痛みます。我慢の限界を超えました。私が反射的に男を突き倒そうとしましたが、それより先に男はバラを蹴るのをやめていました。
 しかし男の思いもよらない行為は終わりを告げません。バラを思うように傷つけられない腹いせでしょうね、こともあろうに男はその場で放尿をはじめたのです。しばらくの間、私には何が起きたのか分かりませんでした。正気に戻ってとっさに私がいったことといえば『トイレは向こうにある』という間抜けな言葉です。男は『肥料だ。ありがたく思え』とこれ見よがしにバラに向かって汚水を振りまくのです。人尿は肥料として直接施すときつすぎて根も葉も傷みます。やはり発酵させる必要があります。もちろんそんな悠長なことをいっている場面ではありません。
 神聖なるもの。バラに対する冒涜です。
 私はかっとなり、どうしようもない衝動にかられ、体中の血が一気に逆流しました。一瞬、自分でも信じられない心境の変化がおとずれたのです。狂気の五秒間とでもいいましょうか。殺人を犯す者の心理をとうてい理解できなかった私ですが、生まれて初めて殺意というものが分かったのです。
 ナイフを手にしていたら迷わずその男を刺したことでしょう。実際、ナイフか何か、凶器は落ちてないかと探したぐらいですから。
 やっとの思いで堪えました。しかし男の激しい罵声、そして恫喝は続きます。
 制御のできないほどの、殺意で覆われた狂気の五秒間が過ぎると、私はなんだか、だんだん情けなくなってきました。
《どうしてこの程度の男に、私のバラが痛めつけられなければならないのだろう。私の命よりも大切なバラを。麻子さんも麻子さんだ。よりによってこんな男と付き合っているなんて》
 木原麻子の程度も推して知るべしです。
《自分はなんて女性を見る目がないのだろう。それにしてもなんてくだらない連中だ》
 さらには男やその男と付き合っている女性などよりも、自分自身にものすごく腹が立ってきました。
 私は馬鹿ではありません。それも小一時間も、低レベルな威嚇を続けられたらたまりません。相手に脅威を与えないように、丁寧な言葉遣いをするよう教育されてきた人間です。私はどんなに腹が立ったとしてもその男のような乱暴な口はきけません。『私はそういう人間ではありません』と幾度ともなくいいました。その男の思っているような、そしてなにより、その男そのもののような人間ではないという意味です。
 東大出身者は、ついつい世の中のすべての人が東大出であるように錯覚し、誰もが自分と同じレベルで物事を考えると思ってしまいます。それと同じで、麻子の恋人である男は世界には自分のような男ばかりだと思っているのです」茨木は稔の目をみた。「捜査員さん、あなたキャリアでしょう。一流大学の出身でしょう? 世間知らずで、いかにも東大卒って感じです。いえ、私も温室育ちです。きれいごとの世界に長く住んでいるので、理にかなった道徳や論理には頭が下がりますが、理不尽な威圧や暴力には屈っすることができないのです。
 それでも男は『オレの女に近づいたら承知しないぞ』と執拗に脅しをつづけます。ののしられるだけならまだいいのです。《何だ、このいきものは》と不思議な顔でみつめればいいだけのことです。しかしバラに危害を与えるのならばべつです。男は私が相手をしなくなると、今度は足先でつぼみをはじきだしました。まるで血を吹き出すかのように、つぼみはポキリと折れていきます。『やめろ!』と叫びながら私は男の両肩を引っ張り、そして前に立ちふさがりました。
『おお、やめてやる。こんなバラ、スコップで掘り起こして、ぐちゃぐちゃにしてやる』
 男はなおも、わめき散らします。通路脇に突き刺しているのが見えたのでしょう。もっとも男がシャベルに触れていたら、その時点で私はその首をへし折っていたでしょう。農業する者は腕力だけはあるのです。毎日肉体労働で鍛えているようなものですから。男の腹は少したるんでいるようにみえました。そのうえ身長差もあります。それにすでにその時には私のベルトには剪定用のハサミをぶら下げていたことも思い出していましたから。いざ力のぶつかりあいになれば私が勝つでしょう。いえ別に負けたっていいのです。私にはもうこれ以上バラを見殺しにすることはできませんでした。
 私が殺気だっていることにようやく男も気がついたのでしょう、男の様子ががらりと一変しました。よく恥ずかしくないなと思うぐらいの態度の変わりようです。バラをいたぶるのをやめ、私に同情しはじめたのです。身の危険を感じたから、私の気を和らげようとしているのはたしかです。自己保身以外のなにものでもありません。ようやく男が私を殴らず、バラを傷めつけていた理由がわかりました。バラは抵抗しません。弱いものいじめなのです。つまり私の返り討ちを恐れていたのでした。あまりにその男が軽薄でこちらが泣きたくなるほどです。世間では私はこんな男よりも劣位なのかと嘆きました。
『まあ、君の気持ちが分からんではないがな。その年になって女性との付き合い方も知らないのは困ったものだ。まずオレのように服装や髪型、それに女性に対する態度には気を使うことだ。そして、バラみたいな女の趣味はやめることだ』
 この自信は一体どこからやってくるのでしょう。えらそうに忠告までしてくれます。まさに紳士づらです。単なる自己満足。いい人のふりをしているだけ。 
 もっとも女性にいきなり好きだというべきではないですね。そりゃ女性と付き合ったことなどありません。三十歳をとうに過ぎていますが、これまでバラがすべての人生を送ってきたものですから。まず食事とかから誘うべきですよね。確かにその男のいうことは当たっています。
 それにしても男は『オレは君のために本気なって怒ったまでだ』とまでのたまいます。まったく笑えない冗談です。私のために本気になってくれているって? 男は何がいいたいのでしょう。ビョーキでしょうか。
 感情的に怒っておいて、お前のために自分は怒ってやっているんだ、と意識裏に自己を肯定し、その上、フォローというのですか、なぐさめの言葉をかけるという、安っぽいドラマか何かで覚えた陳腐な行動パターンでしょう。それは本能行動だから、もしかしたら動物レベルのメス、いや女性ならばひっかかるのかもしれません。彼女たちは人間ではなく、本質を何も見抜けないのですから仕方ありません。しかし私はそういうのがいやなのです。見え透いてしまいます。自分自身に催眠術がかかっているのに気がつかない人。そして自分の優位を無意味に誇る人。そして美を、人間の崇高なものを平気で土足で踏みにじる人。まさに人間の皮をかぶったケモノ。そんなものは高貴なバラに近づくだけで不敬なのです。
 それは麻子さんに対しても同じでした。愚かにも《彼、私を守ってくれている。私のために本気になってくれている》とその目は語っていました。バラがこんな目にあっているというのにこの男さえいれば、バラなど麻子さんにはどうだってよかったのです。
 帰り際に男は『今回だけは許してやる。また何かあったらこのバラ園まで押しかけて、今度こそは全部めちゃめちゃにしてやるからな』と捨てゼリフを残し、麻子さんと一緒に去っていきました」
 ひと呼吸してから茨木はつづけた。
「麻子さんの恋人である男性にふみ荒らされたバラ。私はその場でただ何時間も立ち尽くすばかりでした。その日から、私は麻子さんを忘れようと努力をしました。女性を見る目を持っておらず、そのうえ女性に対しありもしない幻想を持ちつづけていたのだと思いしらされました。もう何もする気にもなりません。そしてきっぱりバラ作りをやめようと思いました。私の心の中の麻子さんはバラのような美しいひとでしたから、どうしてもバラに彼女の姿を映してしまって。つらいのです。耐えられないのです。会社はすべてバラ園の従業員たちに譲るつもりでした。私は二、三の新品種の花の特許料だけで、ぜいたくしなければ食べていけます。バラ作りはやめよう。どこかでアルバイトでもして暮らそうと」
 茨木は自己批判的な性格のようだ。そう稔は判断した。本人のいうとおり相手が悪くても自分が悪いと反省する人物であるのかもしれない。それは、ものいわぬ植物を相手にする者にとって必須な要素なのであろう。
「オレについて来いというタイプで男らしく思った。強引さを男らしさに。麻子さんはそう受け取ったのかもしれない」美樹がぽつりといった。「美人な女性は不細工で強引な男に意外ともろいものよ。なりふりかまわずひざまづいて口説いてきて。それにやくざな男でしょう? 押したりひいたり相手を見て行動するから。強いものにはこびへつらい、弱いものはいたぶる。もちろん女性の側にも問題があるわ。押しの強さを愛情の強さだと思っている。でもね、思いやりある人、愛情のある人は自分の気持ちを押し付けない。私は茨木さんの方がずっとあんな男よりも麻子さんに愛情があったと思う」
 男は強引だったかもしれないが、不細工ではなかった。稔は思った。それにしても美樹は茨木に好意的すぎる。
「さっき理性を失うほどの殺意は消えたといっていたのではなかったのですか。麻子さんを殺す必要がどこにあるのでしょう」
 茨木の説明では失恋と今回の事件との関連性がいまひとつハッキリとしない。動機はすべて出そろったと考える稔は結論を急ぎたい。
「ええ、完全に醒めていました。冷静でした」
 茨木がこたえているのに、美樹がいきなりよこやりを入れる。
「だから茨木さんは麻子さんを殺す気はなかったといっているでしょう。まったく何を聞いていたのよ、稔さん。世俗を超越した気高い事件なの。型にはめてはいけないわ。第一、稔さんが最初からというから茨木さんはていねいに話してくれてるんじゃない。じゃましないで。バラ好きにとっては、これからが佳境に入るところなのよ」
 いつから美樹はバラ好きになったのかは疑問が残るが、稔は茨木に向かって素直に謝った。
「いえ、私が悪いのです。誰にもわかり得ない話なのです。ですが、くだらない私怨で麻子さんを殺害したのではありません。いえ、恨みでかっとなって殺したのです。分からない。そもそも私はなぜ麻子さんを殺してしまったのでしょう」彼自身、まだ事件の整理がついていないようだ。それでも礼儀正しい茨木らしく、稔たちのことを冷静に気遣う。「それにしても申し訳ありませんでした、捜査員さん、お時間、あまりないのでしょう?」
 美樹が勝手に代返をする。
「いえいえ茨木さん、時間は捨てるほどあります。明日の朝までだっていいわ。語り明かしましょう。月曜日には学校があるけれど、でもなんでしたら、私は休んでもかまわないわ。ね、稔さん。繁夫さんもそうでしょう?」
 稔も繁夫もしかたなしにうなずいて同意する。茨木は「何もそこまでは」と苦笑した。
「ですから、できるだけ詳しく教えてください」稔は付け加えた。美樹がここまで肩入れするのなら常人には理解しがたいものなのだろう。本腰を入れて聴くに値するということだ。「表層ではなく、深い深層から。茨木さんの、その思想を。警察の者としてではなく、ひとりの人間として、私も知りたいと思います」
 茨木は心中にあることを独り言のように語った。


3の前半部と後半部の間で原稿用紙十数枚分の文章が私のミスでなくなっています。パソコン内部を探したのですが、うっかり削除してしまったようです。

そういうわけで書き直すまでしばらく時間を下さい。

茨木が自分の思想を語る場面がごっぞり抜け落ちているのですが物語の進行上には問題ありません。3の後半部、美樹のセリフで「縁日でのカラーひよこのはなし」が唐突に出てきますが、この部分で既に登場しているのです。

文章の前後がおかしくはなっていますが、飛ばして読んでくださって結構です。申し訳ございません。











ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう