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〜ばらばら殺人事件篇〜
作:九尾洲生





 次の日、日曜日。
 三本杉警察署は昼ちかくまで暇だった。それが捜査課に一通のFAXが入ると、のんびりとしていた署内がにわかに忙しくなった。若い女性の自殺に関する件で病院から通報があったのである。非番だが、わざわざ稔のために出勤していた捜査課長の桜井警部は電話を片手に手際よく指示をする。
 稔は朝からこの桜井警部に、休日の捜査課の勤務内容について個人的な研修を受けていた。だから、この時も邪魔にならないように傍らでなりゆきを見守っているだけだった。そして数人の捜査員たちが勢いよくドアから外へ出ていくと、捜査課の室内もひととおり落ち着きを取り戻してきた。稔は桜井警部から先ほどのFAXのコピーを手渡された。
 稔は桜井警部から説明を受ける。
「二十歳の誕生日に、十九歳の女性が自殺していたのが見つかったそうです」
 なぜか桜井警部は目下である稔に対し、いつもていねいな言葉を使う。小柄で髪の所々に白髪が混じる桜井警部は、五十をちょっと過ぎていた。現場でたたきあげられた捜査員だからであろうか、鋭い眼光の持ち主だ。この顔でコンビニやスーパーなんかのレジをしていたらお客さんに迷惑だろう。まさに軍人といった方がぴったりくる。姿勢正しく自制心も強く、機敏な動作をする。一方で部下に対して思いやりがあり、けっこう人気があるようだ。またそんな外見には似合わず繊細な感覚をも持ち合わせている人物でもある。花びんにいけられた花の向きをなおしたり、休み時間に捨て犬の里親募集のちらしを何度もポケットから取り出し「可哀想だけど、うちじゃあ飼えないからな」とぼやいたりする場面を稔はみかけたことがある。
 桜井警部はさらに説明をする。
「昨日の晩、一人暮しの女子大生が自宅マンションで自殺しました。ガス中毒による自殺です。ええっと、木原麻子、十九歳、音大生です。今日は彼女のちょうど二十歳の誕生日にあたるそうです。発見者は母親で、昼からの予定だった誕生パーティの準備で、実家から朝はやくに娘さんのマンションへやってきたそうです」
「ガス中毒ですか」稔は疑問に思った。都市ガスやプロパンガスで死ねるものだろうか、と。
「ええ。くわしい死因はドライアイスが溶けることによって生じた炭酸ガス、つまり二酸化炭素による中毒ですね。閉めきった室内でガスが充満して死に至っています。ドライアイスで体温を奪われて凍死するより先に、ということですね。
 それから死亡推定時刻ですが、おおよそ昨日の午後十一時前後。これは推定でして、体の冷却状態を考慮はしていますが誤差がたいへん大きいそうです。ええっと、それから午後九時ごろに木原麻子は母親に電話をしています。母親によると、彼女は非常に陽気な声で誕生パーティの準備について打ち合わせをしたそうです。これといって自殺する様子はみられず、まあ、そういうわけでして動機についてですが、家族の者はまったく身におぼえがないそうです」
「病院からの通報ですか?」
「ええ。母親がすぐ一一九番して木原麻子は救急車で運ばれたのですが、警察には連絡しなかったようで、だから病院側がわかる範囲の情報と一緒に、我々に知らせてくれたのです。警察は、自殺、他殺にかかわらず現場検証をしないといけませんからね」
 桜井警部のいうとおり何も警察は殺人事件があったときにだけ捜査しているわけではない。事故や火災そして自然災害、いずれの場合も実況検分を行い綿密な調査を重ね、再発を防ぐために真相を解明しているのだ。
「それと今回の場合、私有地で発生した自殺なので、こちら側、つまり警察から記者クラブや各種報道機関には報告しません。プライバシーや遺族への人権的配慮とかもありますし。もちろん政治家や芸能人などの有名人なら別です。それから特異なケース、たとえばいじめや過労死、つまり社会問題に起因する自殺ですね。これも公表します。ついでですが、私有地以外、それは公共の場での自殺となりますので、すべて発表しなければなりません。ビルからの飛び降りや列車への飛び込み等、一般の人も損害をこうむる可能性がありますから」
 桜井警部は続ける。
「死亡が明らかな場合、遺体を動かさず現場の保存を第一とするのですが、なんでも母親が『娘が自殺をはかりました。はやくみてください。体を温めてください』と訴えつづけたらしいのです。救急隊員は死亡を確認したものの、宣告できるのは医師だけですし、遺体を救急車に運びました。病院でも念のためいろいろと蘇生を試みたそうです。もっとも凍死ではなく炭酸ガス中毒ですから」
 桜井警部は被害者の母親に同情したのか声を落とした。
 稔は隣りに住む医学生の梅崎繁夫から聞いたことがある。低体温症の治療法はここ最近、進歩していて生きかえる可能性が格段に高くなってきたらしい。いきなり外部から暖めるのではなく、人工心肺を用いて血液でゆっくりと体の中から暖めるそうだ。 
 桜井警部は、再び明るい声でいった。
「柳原巡査部長や鑑識の者など三名をすでに向かわせてますから、松山さんもよろしかったら見にいきませんか。あなたにはなるべく我々のなまの現場を知ってもらいたいと思っています。これから先えらくなられると、ますます現場を目にする機会なんてなくなりますからね。それに今回の自殺はちょっと変わっているそうなのです」
 いわば桜井警部は稔の教育係。過去に個人的にも世話になった稔の父(現在、地方で県警本部長をしている)から『息子をよろしくお願いします』と頼まれ、稔のことを大切な預かりものだと思っているようである。

 稔はいま、人事院や警察大学校で三ヶ月ほどの初任教養を受けている。それが終了すると階級は自動的に警部補。そして三ヶ月程度の現場研修と再び警察大学校での五ヶ月ほどの研修を終えれば警部になる。
 全国に二十六万人いる警察官のなかで稔のようなキャリア組は、わずか五百人ほどしかいないエリートである。年に十数人しか採用されないキャリアは、普通の警察官とは別の職業だと思った方が理解しやすいかもしれない。警官というよりは行政官である。後方にて現場の指揮をとることはあっても、実際に現場に出て捜査権や逮捕権を行使することはまれである。つまり警察官が仕事しやすいように環境を整えたり、政策を立案したりなど、キャリアとは警察機構を管理運営する官僚である。
 正式には“第一線勤務“と呼ばれる現場研修は三ヶ月間と非常に短い。そのため最近では批判が高まり、将来的には期間の延長が決まっている。だから稔はあいている時は自主的に、この三本杉署にきて現実の警察業務を肌で感じとるようにしている。
 このようにキャリア組は全国を転々としながら昇進し、稔も就任初年度が終わるころには警部になる。とはいえ、稔にしても入った時点で(たとえ能力がなくとも)すでに出世のスピードが決まっているというのはおかしいと思っている。極論すれば、どんなに才能があって努力しても国家一種で採用されてなければ、桜井課長のように、ふつう警部止まりである。そのためキャリアである稔自身も改革の必要性を痛感しているのだ。
 比較するには不適切かもしれないが、旧日本陸軍には出世に必要な要因を順にならべた『一天二表三敬礼』という有名な言葉があった。昇進するに一番重要なのは《天》。これは天保銭の略で、陸軍大学校卒業者のみ胸につけるバッジが、天保銭に似ていたことから陸大出身者を表す。《表》は一覧表にまとめあげる能力、すなわち実務能力のこと。最後の《敬礼》は、上官への敬礼を一生懸命にする、ということだ。なにも警察だけが旧陸軍に似ているといっているわけではない。しかし皮肉なことに『一に学歴、二に才能、三にごますり』というのは現代社会でも通用しているように思われる。

「道を知っていますので」となかば強引にハンドルを握った桜井警部の運転で、目的の現場についた。街の郊外に位置する十五階建ての大きなマンションである。広い駐車場から玄関に向かうと『木原ローズナードマンション』とあった。
 稔がマンションのプレートを見ているのに気づいたのか、桜井警部は教えてくれた。
「自殺した木原麻子の父は不動産業を営んでいます。関東の各地にこのようなマンションをいくつも所有していて、このマンションもそのうちのひとつです。両親は東京都内に住んでおり、ここには大学に通うため娘の麻子さんひとりが暮らしていたそうです」
 マンションの内部へは部外者が勝手に出入りができない仕組みになっている。入口の自動ドアは内側からしか開かない。外からはカード式の鍵が必要だ。来訪者は入口にて訪問先の部屋番号を押してインターホンで住人に開けてもらうよりほかない。
 自動ドアのガラスの向こうには、このマンションの受付がみえる。たまたま管理人らしき初老の男が立っていた。ガラス越しに桜井警部は背広の胸ポケットから警察手帳を見せて、ドアを開けてもらった。
「お疲れさまです」
 管理人はあいさつを終えると受付のカウンターの下へ行き紙袋を取り出した。
「これはこのマンション三ヶ所の出入り口に置かれた監視カメラで撮影したテープです。先に来られた方にダビングして提出するように言われまして」
「そうですか、それはお手数をおかけしました」桜井警部は礼をいう。
「三台の監視カメラで撮ったビデオをそれぞれ早送りして見ました。不審な人はだれも映っていませんでしたよ。すべて顔見知りのひとです。マンションの住人と数人の来客、宅配業者や速達や書留を配達する郵便局の方たちです。きのう亡くなったオーナーのお嬢さんを訪ねたのは、実際に私も目にしたふたりだけ。いつもひいきにしている花屋さん。それから――」
 愛想の良かった管理人の顔が急に不機嫌になって
「奴ですよ」
と吐き捨てるようにいった。
「奴とは?」
「お嬢さんについてしまった悪い虫ですよ。奴がお嬢さんを自殺に追い込んだのです」

 最上階は特別仕様。このワンフロアーすべてがマンションオーナーの所有、つまり麻子の部屋である。ということで十五階は一室しかないようで、一五○○号室はエレベータを降りた正面にあった。オートロックを防ぐためドアが半開きになっている。桜井警部はチャイムを押してそのまま扉の中に入った。ひんやりとした空気に何か甘くいい匂いが漂っていた。澄んだムスクの香り。
「バラの匂いだ」
 思わず稔は口に出した。その香りに誘われて目を向けると玄関口には、それこそ足の踏み場もないくらいに花びんやバスケットが置かれてある。ぜんぶ真っ赤なバラだ。壁にまで宙釣りの花入れがあり、こぼれそうなほど赤いバラが詰め込まれていた。
「そうです。バラの香りです」
 つきあたりの長い廊下から柳原捜査員が現れた。三十歳を少し越えた、やせ型の男性。いつもは人のよさそうな笑顔をみせてよく冗談を口にするのだが、今はさすがに神妙な顔をしている。
「松山さんも来られたのですか。麻子さんのご遺体は病院から戻っています。さあ課長、どうぞ中へ」
 柳原捜査員に連れられ、稔は桜井警部と奥へ入っていった。部屋数が一体いくらあるのか想像つかない。オーナーの娘だけにどうやら特別仕様らしい。大理石をふんだんに使用した豪華なつくりを、さらにバラが彩りをそえる。広い廊下に、ところせましと飾りつけられているため、崖に囲まれたお花畑の小道を歩いているような気分にさせられる。
 バラのすべてが赤い花びら。しかも色あざやかで色とりどり。たしかに五月はバラの季節。それにしても木原麻子という女性はよっぽどバラの花、それも赤いバラが好きなんだろうな、と稔は思った。
 長い廊下を折れ曲がったところで、柳原捜査員が亡くなった木原麻子の姉を紹介した。白いワンピースを着ていて、清楚なかすみ草を思わせるきれいな人だ。彼女が両親にかわり来客者の応対をしているらしい。柳原捜査員の説明では、麻子の姉は普段は実家で生活し、父の経営する会社でOLをしているとのことだ。
 稔たちは、麻子の姉にただ会釈だけをして先に進んだ。
 リビングルームに入る。どうやらここが一番立派な部屋らしい。暖炉までついている。三十畳以上あるだろうか、あまりに大きすぎて正確な広さが稔にはわからない。そのうえ二十畳ほどのダイニングルームが続き部屋となっている。
 パーティの客だろう。綺麗に着飾った若い男女が二十人程度いる。男性と女性の数はほぼ同数だ。部屋中央にある、暗褐色の木目が美しいマホガニーの台を囲んで立っている。
 稔はようやくバラにも目が慣れてきた。もちろんリビングだから、いちばん華やかに、床にも台にも飾り棚の上にも、たくさんの花が、とはいえ赤いバラだけだが、活けられている。
 なのに部屋全体の印象は暗く感じられた。むろん照明のせいではない。来客たちが、みな沈痛な面持ちでぼそぼそと話をしているからだろう。
 そんな光景とは裏腹に、テラスとの境界線であるガラスの扉からは、五月快晴のぬけるような青空がみえる。最高の見晴らしだ。ガラス扉はブラインドがすべて開かれて、強い陽射しが直接、部屋に入ってくる。しかしクーラーが効きすぎているのか、風邪気味の稔にはかなり寒い。
「桜井警部、檜山さんと杉田は屋上にある庭を調べています。バラ園があるのです」柳原捜査員が上半身をのりだしながら指差した。
 稔は桜井警部と共にテラスに出る。手すりまで進むと街を一望できる景観があった。壁際の白いペンキで塗られた瀟洒ならせん階段。そこを登れば、まばゆいばかりの緑に浮かぶ赤い色、満開のバラが迎えてくれた。屋上は温室まである立派なローズガーデンだ。コンクリートの上に土を敷いているのだろう。花の赤、葉の緑、空の青。ビルの谷間にある空中庭園。まるで秘密の花園に迷い込んだような錯覚におちいった。この空中庭園から、ちらちらと二人の鑑識員の紺の制服がみえる。定年まぎわのベテラン檜山と三年目のまだまだ見習い中である杉田のコンビだ。
「ちょっと待っていてください」
 桜井警部が稔にいった。桜井警部は管理人に渡された紙袋を檜山に渡す。桜井警部は二言、三言、何か口にしただけで、すぐ戻ってきた。
 三人は再びリビングに集まった。
「こちらですよ」柳原捜査員はダイニングルームに入る。そこには誰ひとりいない。ということはリビングからは見えないが、奥にまだ部屋があるということだ。
 ここはリビングより、また一段と寒い。ダイニングルームの、何畳もありそうなテーブルには、食材が山のように積まれている。それは催されるはずだったパーティのためのものだろう。その中にロゼワインがあった。
 英語ではローズワイン。フランス語でヴァン・ロゼ。ヴァンはワインの意だ。両国ともバラを意味するroseというつづりは同じだが発音が違う。でもなぜか日本では英語とフランス語がごちゃ混ぜになってロゼワインと呼ばれる。
 これはキュヴェ・ドン・ペリニヨン・ロゼ。ビンテージものらしい。一ダースほど並んでいる。こんな時に酒の種類などとるにたらないことだが、稔はバラ屋敷だけにワインもどうせロゼなのだろうと予測してしまったから、気になったのだ。
 ここから直角方向、食器棚の陰に隠れて細い通路があるようだ。柳原捜査員が消えていった。すぐ稔にも食器棚ごしに、通路と開いた扉が見えた。片開き型のダイカストハンドルのドアである。そして、身震いするくらいの冷気が流れて込んできていたのはそこだった。
 柳原捜査員に追いつこうとする稔だが、すでに角を曲がった時点で動けなくなってしまっていた。それは桜井警部も同様だった。
 三メートルほど先の開いたドアの向こう。
━━えっ、なに?
 見渡す限りの赤、赤、赤。
 いたるところが赤である。
━━血? いや、赤い洪水
 ばら、ばら、ばら。
 ばら、バラ、薔薇!
 あたり一面にバラの花びら。花びら。まるで深く降り積もった雪のように!

「ここが現場です」
 柳原捜査員の声で稔は我にかえった。稔は部屋の入口に近づく。異様な感じのする寒さだった。冷気が稔の喉を刺激する。稔は、ごほん、ごほんとせきを我慢することができなくなった。
 そのせきの音にまじって女性のシクシクという低い泣き声と鼻をすする音がきこえてくる。部屋の中央にしゃがみこむ五十歳くらい女性。おそらく木原麻子の母親であろう。そのそばでうなだれ立ち尽くす男性は麻子の父親だろう。妻をいたわるように肩に手を置いている。入り口にたたずむ稔たちに興味を示す気配はない。ふたりの悲しみの視線の先には、純白のシルクの敷き物があった。それはじかに花びらの上に敷かれていた。そしてそのやわらかそうなシルクは赤いかたまりのために大きくくぼんでいた。
━━赤いかたまり? 
 豊かな黒髪がうずもれた赤の隙間からのぞいている。稔はおもわず半歩あとずさる。それは真紅の鮮やかなドレスをまとった美しい女性だった。
 柳原捜査員が部屋に入る。稔は桜井警部と一瞬顔を見合わせたが、そのまま一緒に部屋の中に入ることにした。赤いバラのじゅうたんが神々しくて、おそるおそる花びらを踏む。
 冷たい。花びらのふんわりとした感触しかないはずなのに冷たい。その下には何かあるのか。氷か? 
「ドライアイスです。もうそのほとんどが溶けていますが」
 桜井と稔がふたりとも足元をのぞき込むようすをみて柳原捜査員がいった。
 深く降り積った雪の中を歩くように、一歩一歩ひざまで足をとられながら進む。事実、雪の上を歩いているような感覚が足の裏から伝わってくる。
 それにしてもしたたるような赤である。バラの花びらの、この素晴らしき発色。新品種だろうか。ただのバラではない。バラの品種改良技術は近年こんなにも進歩したのか、そう稔が思いめぐらすほどであった。
 床だけでなく部屋のいたるところにバラが飾られていた。壁際の四隅に配置されているものはちゃんと枝葉がついたバラだ。籐製のバスケットにはみ出そうなほど満杯に入れられて。
 花びらの発色から判断するとこの部屋にあるバラはすべて同一品種だろう。それにしても赤一色にうずもれた世界。その迫力、圧迫感といったら……。まさに絶句するばかり。コン、コンとせきを吐いている稔がいうのもなんだが、ただただ息をのむ光景である。
 スノーホワイトの壁の色。室内の上部から五月の陽射しがやさしく部屋全体を包む。天井には採光のための大きなドーム型天窓があり、太陽光を散乱させて照らす仕組みになっている。十二畳ほどの内部には家具も何もなく、ただ大きなスタンウェイ社のグランドピアノだけが置かれてあった。いや、大型のプロジェクターやステレオがあった。雪が降り積もったようにバラの花びらで覆われていた。存在感あるグランドピアノのその翼形の上部は、平らに閉じられたままテーブルがわりに使用されていた。背の高いバラを一輪挿しにした花びんとロゼのボトルが一本、載せてある。ロゼの瓶の中身はちょうどグラス一杯分ほど減っている。グラスは――美しき死体のわきに沈んでいた。ローゼンタールのシャンパンフルートだった。 
「アルコールには弱い娘でしたから。二十歳までは未成年ですからほんとはお酒なんか飲んだらいけないのですけど、むかしから何かの機会にお酒を口にすることがあって……。そんなとき麻子は、すぐ眠ってしまうのです」
 稔の視線がその視界に入ってきたのか麻子の母親がひとりごとのようにいった。そして父親のほうも誰にというふうでもなく、自分の娘をみつめながらつぶやいた。
「今日は麻子の二十歳の誕生日です。それがどうしてこんなことになってしまったのでしょう」
 しばらく立ちすくんでいた桜井警部だが、ようやくタイミングをみつけて遺体の前までいき、両手を合わせてた。稔も後に続く。
「何か思い当たることはないのですか」
桜井警部がぽつりときいた。
「それが、病院から告げられるまで私たちは何も知らなかったのですが……」と言葉をにごす。「でも、父親失格ですね。まあ、年頃の娘ですので、いろいろなことがあったのでしょう。まさか麻子が妊娠していて中絶の跡があるなんて。せめて少しぐらいは相談してくれてもいいものを」 
 麻子の父は紺のスーツを着ている。質素な服装にみえたが、腕元にはロレックスの金の腕時計をつけていた。針は十二時三十分を指している。
 稔もかるく一礼してから、心もちひざまずいて両手を合わせた。
 死んでいるようにはみえなかった。遺体の木原麻子は微笑んでいた。目のさめるような情景の中で、夢みるように眠っている。レースのついたシルクの敷き物をシーツ代わりにして。
 長いストレートの黒髪から流れ落ちる、きらびやかなルビーのイヤリング。淡いピンク色をおびてきらめく真珠の首飾り。くちびるにはきわだつ真っ赤なルージュ。そして手元には先ほどの気品ただようクリスタルシャンパングラスが転がっていた。ため息つくような美しい女性。稔は見惚れてしまった。きめ細かくつやのある肌は、ほんのりとバラ色に染まっている。それはバラの花びらの色が映っているだけではなかった。
「赤がとても似合う娘でした」父親がいう。稔はまったくの同感であった。
「しかし、なぜこれほどのバラを?」
 何気なく桜井警部がきいた。
「そうですね、みなさんからみれば、この状況はとても奇妙に思われるかもしれません。でもこのバラは、麻子には何の不思議もないのです」父親が答える。「麻子は幼い頃から本当にバラの花が好きでした。もし自殺するようなことがあれば、いえ娘が自殺することなんて絶対にありえないことなのですが、バラの花に囲まれて美しく逝こうとするはずです。刃物なんか使わず、一滴の血も残さずに。きれいに。そう、バラのようにきれいに」
 赤いバラの湖の上を優雅に浮かんでいるようにみえる麻子の死体。それをじっとみつめながら母親も口を開いた。
「おととし私の母が亡くなったとき、そのお葬式をみた娘はこう言いました。『大勢の人がお義理で出席するだけの形式ばった葬式はいや。おばあさんがかわいそう。私は自由葬がいい。バラ葬ね。献花にはバラ。とっておきのバラを添えてもらうの』と」
 そして麻子の母親はゆっくりと立ちあがり、稔と桜井警部におじぎをした。
「昨夜の電話も、変にはしゃいでいるようにみえました。普段と違っていました。今から思えばかなり気になるところがあります。感情を抑えきれてないようでした。それはもしかしたら、自殺を決意したことによって、もはや耐えきれなくなった苦痛から解放されたせいかもしれません。でも、それほどまでつらかったのかと思うとなんだか麻子が不憫で……」麻子の顔をみつめていた母親はおもむろにあたりを見回す。「確かにこの部屋の光景は異常かもしれません。しかしバラの花が好きなあの娘には考えられることです。というより、自殺するならこれ以外の方法は思いつかないでしょう。ほんとうにバラが好きでした。バラの好きな娘でした。バラが麻子のすべてでした」
 つま先が冷たい。稔は花びらの底がどうなっているのか気になった。ドライアイスはどういう具合に用いられているのだろう。そこでひざをついてかがみこみ、足元のバラの花びらをかきわけてみた。見た目にはかるく触れただけで傷つけてしまいそうなはかなげな花びらだが、みかけによらず丈夫である。押さえつけても手のひらにみずみずしい弾力を感じるほどだ。
「まだどこかにかたまりが残っているかもしれません。ドライアイスは素手で触るとやけどをするので気をつけてください」
 柳原捜査員が注意した。稔はあわててポケットから手袋出す。ドライアイスうんぬんの問題ではない。現場調査時における基本中の基本である。柳原捜査員はもちろん、桜井警部もいつのまにか手袋をはめていた。稔だけが着用するのを忘れていたのだ。
 ぼた雪みたいな真っ白いドライアイスが少量、深い花びらの層にまぎれていた。じゅうたんの色はグレイ。バラの花びらが冷気を保っているだけで、ドライアイスはすでに溶けてしまっている。
「この床には電気カーペットが敷かれています。スイッチが『強』に入っていました。おそらく熱でドライアイスを溶かすためでしょう。今はコンセントプラグを外しています」柳原捜査員の説明だ。
 そして麻子の母親が続けていった。
「電気カーペットなんて季節はずれですが、しまうのがたいへんで。グランドピアノを動かせばよいだけなのですが、ピアノはキャスターがついているとはいえ重いですし、その上ひとたび動かすと音が狂って調律しなければいけません。麻子は冷え性でして、靴下をはいていても冷えるというくらいでしたから冬の間はエアコンだけでは我慢できませんでした。ピアノの練習のあいだ電気カーペットをつけるのです」
 稔は花びらをきちんともとどおりに直した。敷きつめられたバラの花びらは、不思議と神聖な感じがして穴を掘ったままほっておくことができなかったのだ。
 しばらく間をおいてから柳原捜査員が桜井警部の耳元でささやいた。
「このピアノ部屋の現場検証は終えています。私は自殺の動機のことなどもありますので麻子さんの友人に二、三、事情を尋ねていたところです。誕生パーティは一時からはじまる予定なのでまだ来ていませんが、麻子さんと交際していた男性も出席するそうです。ああ、それから、麻子さんの親友なのにパーティに参加しないという音大の同級生と、この注文を受けたバラの栽培業者を電話で呼び出しています」
 黙ったままでだれも口を開かない。重たい空気だ。間がもたないのだろう、さらに柳原捜査員が続ける。
「ドライアイスはもともと商品名ですが、ご存知のとおり二酸化炭素を冷却圧縮して固体にしたものです。昇華といって、固体のドライアイスは溶けても液体にはならずに、そのまま気体の二酸化炭素に戻ります。水分をまったく出さないので、文字どおりドライなアイス、乾いた氷ということですね。そのドライアイスが個体から気体に変わるとき気化熱としてまわりから熱を奪うので、そのことを利用して冷却剤として用いるのです」
 柳原捜査員は手帳に書いてあるメモを読みながらいった。
「二酸化炭素は炭酸ガスとも呼ばれ、大気中に約〇.〇三%存在する気体です。個人差もあるのですが、約十%で呼吸が停止して死の危険が生じ、十五%以上の濃度になるとほとんどの人が死亡します。酸欠ではありません。酸素がたくさんあっても二酸化炭素の濃度によって中毒が起こります。脳神経中枢細胞に二酸化炭素が蓄積すると麻酔効果があらわれます。二酸化炭素を五%含んだ空気を三十分吸い続けると、その場から自力で脱出することが極めて困難になるほどです」
 ふたたび沈黙がつづいた。
「これはピアノのために作った部屋なのですか?」
 稔は柳原捜査員に質問したつもりだったのだが、麻子の父親が気落ちした声で答えた。 
「ええ。娘はピアニストになるのが夢で、プロを目指して音楽大学のピアノ専攻科に通っていました。この部屋はピアノ練習のためにリフォームしたものです。部屋全体が特別設計の防音ルームです。本来ならマンションの規則により夜九時にピアノをやめないといけないですが、この部屋なら二十四時間好きなときにピアノを弾くことができます。つまり、それだけ音大生にとって有利なのです。真夜中にフォルテッシモでピアノ弾けるようにと音を極限まで漏らさない構造にしました。そのため外界とはほぼ完全に遮断され、気密性がたいへん高くなりました。そのためストーブは使わないようにしていたぐらいです。エアコンで送風しながらの冷暖房という具合です。それに電気カーペットも空気を汚さないから使用できたのです。麻子も換気の必要性はじゅうぶん把握していたはずです。だから逆にこういう方法を思いついたのでしょう。それにしても。それにしても、どうしてこれほどまで悩んでいることがあるのなら私たちに話してくれなかったのでしょう。それが悔やまれてならないのです」
 一見もの静かな性格のようにみえた麻子の父親だが、やはり心の整理がついていないようだ。激しい口調でいう。
「何かの事故かもしれません。そう信じたいものです。頭では分かっていても心ではどうしようもないのです。高濃度の二酸化炭素は大変危険で、ドライアイスが二酸化炭素であると知らなかったとか」
 事実、木原麻子は自殺したとは思えない満ちたりた表情だ。そんな娘の顔をじっと見つめたまま、母親がいった。
「一体、なにがあったというのでしょう」
 桜井警部は発言する。
「当然、こちらとしましても事故の可能性がないかも含め、ドライアイスの入手経路等々、徹底的に調べるつもりです」
 事故の可能性は皆無だろう。稔は、桜井警部もそうみているはずだと思った。
「それから、ききにくいことですが……」桜井警部がたずねる。
「いいえ、構いません」父親が答える。
「遺書とか、何かそれに代わるものはなかったのですか?」
「それが、どこを探しても見当たりません」
「日記や手紙などは残っていませんでしたか?」
「まだ手紙は調べていませんが、娘は日記をつける習慣はなかったと思います。麻子の携帯電話は姉が調べましたが、それらしきものは」
 その時、「お父さん、葬儀社の方が来たわ」と麻子の姉が入ってきた。麻子の両親は「それではリビングを式場にしますので。失礼します」といって部屋を出ていった。
「急なことですが今晩がお通夜になるそうです。大安、仏滅とかの日取りの関係でして」と柳原捜査員が説明する。
「それから、検死解剖は行いません。外傷もなく不審な点もみられないことですし、年頃の娘にメスを入れることになるので家族側がやめてくれと」
 解剖ひとつをとってみても、人権に関わることなので、そのつど裁判所の許可が必要になりたいへんなのである。
「精密な血液検査の結果はまだでていませんが、簡易検査では、少量のアルコールを飲んだ痕跡があるだけで睡眠薬等の薬物は検出されていません。麻子さんの母親によると、発見当時このマンションは戸締りがきちんとされており、玄関もピアノ防音室も鍵は閉まっていて、母親が持っていた合鍵で開けたそうです。麻子さんのマンションの鍵ですが、予備のためでしょうか、ふたつ持っていて、ひとつは寝室の麻子さんのバッグの財布の中に、もうひとつは玄関下駄箱上の鍵置き場にありました。麻子さんは几帳面な性格のようで、鍵はきちんと場所をきめて置いていました。ちなみに麻子さんの所有するスクーターや車の鍵もふたつで、マンションの鍵と同様、財布の中と下駄箱上にありました。それから着衣も何ら乱れていませんし、争った跡も外傷もないことから、やはり他殺の線は考えにくいですね。それにいわゆる密室状態ですしね」
「この状況では殺人の可能性はないでしょうね」稔も相槌を打った。
 密室である。
 マンションの入口、麻子の家の玄関とピアノ防音部屋、その三つとも閉ざされていて、三重の密室状態になっている。だが稔には、このバラで満たされたピアノ部屋を麻子が密室にする必要性などないように思われた。
 あけっぴろげに自殺する人もいる。衝撃的な自殺に多く、列車飛び込みやビル飛び降りなどがそれだ。しかし現実には自分の部屋で静かに実行する方がはるかに多い。ほとんどの自殺者が、誰にも邪魔されないようにとひっそり人前から隠れて行うのである。だがその場合でも心の片すみには誰かに助けて欲しいという気持ちもあるようで、鍵はたいてい開けられているものである。
 とはいえ常識的に考えて、この事件は自殺以外にありえない。窓は天窓ひとつしかなく、ドアはリビングに通じるひとつだけ。他から出入りはできない。
「どういうわけで麻子さんは、わざわざピアノ部屋の鍵を閉めたのでしょうか?」稔は疑問を口にする。
「普段からそうしていたようですよ。ロックするとぴったりと密閉する構造だそうです。ドアを普通に閉めただけではわずかですが、まだすき間があるのです。もっともガス中毒による自殺なら新鮮な空気が入らないよう密室にしなければなりません。よくドラマなんかで戸や窓のすき間にガムテープかなにかで目張りしているでしょう? それに女性が鍵を閉めてから自殺するのはわりあいよくあることです」
 柳原捜査員が親切ていねいに答えてくれる。そして稔のために説明は続く。
 ピアノは防音効率をあげるため内側からロックすると密閉状態になるよう設計されている。それにはレバー上部にあるサムターンを回せばよいだけだ。簡単な仕組みである。そして内側から開ける際はレバーを押すだけでロックは自然に解除される。そういうわけで木原麻子はピアノ防音部屋の鍵をかける習慣が普段からあったらしい。
 母親はマンション入口のカードキー、麻子の玄関とピアノ部屋の鍵を普段から持ち歩いている。インターホンがこのピアノ部屋にも通じているので、母親が麻子を訪ねたときに合鍵を使うことはほとんどない。もちろん母親の訪問中にも麻子はピアノの練習をする。この時も防音部屋の鍵は閉まっている。母親が麻子に用があるとき声を出して呼んでもみても、中にいる麻子には外の音が聞こえないので無駄である。それでも合鍵を使うことはまれである。母親はドアをドンドンと叩いて振動を起こし、開けてほしいと伝えるのだ。
 しかし今朝は、インターホンにもでないし、ドアを何度叩いても反応がなかった。漂う冷気に麻子の母親はただならぬ気配を感じて合鍵を使用したというわけだ。
 それにしても異様な光景。バラ色の衣装とバラ色の死に化粧につつまれたその微笑には、少しの苦痛の色もうかがえなかった。
「なぜ、麻子さんはこんな華やかなドレスを選んだのでしょうか?」パーティ用の衣装なのか、これから死のうとする人間がこんな人目をひく晴着を身にまとうのが稔には理解できなかった。
「自殺する女性は、ふつう身支度をするものですよ」
 柳原捜査員は親切に教えてくれる。
「家庭内における事故で年間一万人以上の死者がでます。とりわけ多いのが高齢者が浴室で亡くなられるというケースです。でもまあ、一般家庭において二酸化炭素による事故で亡くなられる人はいないでしょうね。ドライアイスを扱う業者が、まれにではありますが、過失により二酸化炭素中毒に陥る事例は報告されています。だから事故の可能性もまったく否定されるわけではありません。しかしこの冷たいドライアイスの上に寝ているという状況から考えても自殺だと判断されます。二酸化炭素は空気より重く、床上三十センチ付近にまず充満することになります」
 犬や猫ならその位置に鼻がある。しかし人間の場合、すでにかなりの量のバラが敷きつめてあるので、しゃがむどころか横にならないと無理である。
「一酸化炭素はともかくドライアイスでは即効性がありません。まして被害者にすぐ気づかれてしまいますから、殺しの可能性は考えられにくいですね」
 引きつけられるような木原麻子の安らかな寝顔。自殺の苦悩をつきぬけて歓喜にいたったかのようである。稔はどうしても目を離せられない。
「なぜか自殺じゃないように思えるのですが」
 稔は何か腑に落ちない。
「殺人ならこれほど派手にはしない」そう真剣につぶやいたのは桜井警部だ。照れくさかったのか、すぐに弁解した。「いえ、長年培ってきた捜査員としてのカンが他殺を否定するのです」
「怨恨や保険金などの動機は基本ですから最初に調べました。しかし被害者が死ぬことで利益を受ける人物がまったくみあたりません」柳原捜査員がつけ加えた。
 桜井警部がやさしく稔にいった。
「自殺と他殺にはそれぞれ異なる独特の匂い、というものがあります。事故と自殺の区別がつかないというようなことは多いのですが――たとえば車ごと海に突っ込んで死亡するとかですね――自殺と他殺の区別がつかない事件は案外ないものです。自殺に偽装した殺人というのは理論上は考えられますが現実にはほとんどありません。年に千数百件発生する殺人事件も、かっとなって殺してしまったというのがそのほとんどで、計画的な殺人はずっと数が少なくなります。二十年にわたって捜査ひとすじにやっていますが、私が担当した事件では一度も自殺か他殺か最後まで判断できなかった事例には出会ったことはありません。万にひとつぐらいの割合じゃないでしょうか。もっとも毎年全国で三万人以上の自殺者がいますから、皆無だとはいいきれないのですが」
 それから、実際の事件に慣れてない者は誰でも最初は深く読みすぎるものですよ、とつけ加えた。
 最後に柳原捜査員が結論づけた。
「よくある男女の痴情のもつれによる自殺ですね。中絶した後でもありますし、心身ともにボロボロだったのでしょう」
 そのときピアノ部屋に、鑑識課の檜山と杉田が入ってきた。
「ひととおり作業を終えましたので、用がなければこれから署の方に戻ります」
 桜井警部は腕時計をみた。稔ものぞき込む。午後一時になっていた。本来ならパーティがはじまる時刻だ。檜山と杉田は帰署し、稔たちはリビングに行くことになった。

 新たに加わったパーティの客たちはひとりひとり個別に、柳原捜査員と桜井警部から、麻子とのかかわりや自殺前の彼女の様子などを形式的に質問を受けることになった。しかし来客たちの口をついて出てくる言葉は「まさか麻子が自殺するなんて」とか「原因はわかりません」などありきたりなものばかりだ。もっともリビングで稔の目を引いたのはそんな尋問のようすではなかった。バラの数が増えていることだ。今度は天井にもバラの花をつるしている。数人の女性たちが部屋全体をバラで装飾しているのだ。皆、『真柴バラ店』の背文字がプリントされた黄色いトレーナーを着ていた。彼女たちは、まず壁を青いビニールシートで覆う。そのあとで『オアシス』と商品名で呼ばれる方が多い吸水スポンジをL字金具で固定し、バラの枝をさす。脚立を用いて天井や壁の高部にもバラの花を取り付ける。手ぎわのよい作業で、濃い緑色の吸水性スポンジが真っ赤なバラの花でうまっていく。
《花好きの美樹のために、ぼくがこんなふうに部屋をきれいな花で飾ってあげたら喜んでくれるだろう》
 普通の人なら、お通夜の会場にバラは似合わないだろうと気になるところであるが、稔が思うことといえばこの程度である。
 稔があまりにも熱心に真柴バラ店の作業をみていたためか、葬儀社の社員と納棺や枕飾りの相談をしていた麻子の父が稔にはなしかける。
「昨日の八時すぎに麻子が注文していたようです。今朝、真柴バラ店の人がマンションに届けに来たのですが、娘が出てこないので引き上げたそうです。それから何度も電話をしてくれたそうで。私は病院から帰った後に受話器をとったのです。とりあえず妻と相談したあと、麻子の希望どおりバラの花に囲まれた葬式を、ということで、あらためて真柴バラ店にお願いしたというわけです」
「しかしピアノ部屋にあったバラは、この『真柴バラ店』ではなく『茨木バラ園』のものです。茨木バラ園は、先程呼び出したのですが、こちらとは反対側の街はずれにあるバラ園ですから、もう少し時間がかかると思います」尋問途中の柳原捜査員もわざわざ稔のそばまできて気をつかってくれる。
 これから自殺をする人が自殺後に届くバラの追加注文をするのかな、稔は思った。
 玄関の方から、稔がよく知る男の声が聞こえてきた。稔はいやな予感がして、その大きな声のする方へ向かった。
「ええ、男女同伴です。パーティですからね。国際社会ではそれがマナーです。常識です。紳士淑女がとうぜん身につけてなければならないコモンセンスです。彼女は正確にいうとおれのフィアンセなんです。じつは小さい頃から親同士が決めた仲なんですよ。美樹ちゃんのお父さんからは『大きくなったら娘を嫁にもらってくれ』と何度も頼まれたものです」
 梅崎繁夫だ。稔のお隣りで幼なじみの医学生である。繁夫は玄関へ応対に出た麻子の姉にあいさつと自己紹介をしていた。そして、やはり美樹がいた。
「繁ちゃん、そのへたな男女同伴の芝居はやめてくれないかな。そんな稚拙な演技、そこいらの幼稚園のおゆうぎ会でも通用しないよ」
「おや、稔じゃないか」
 繁夫は意表をつかれたのか、稔のぶしつけな発言にも反論してこない。一方、美樹は稔に気づかない。すでにもう最初のトラップに引っかかっている。玄関先のバラの花にくぎづけにされているのだ。
「ぼくも美樹の父さんから事あるごとに『将来は娘と結婚してくれ』といわれた。でもね、繁ちゃん、今はこんなくだらない言い争いをしている場合じゃないんだ」
 さきほどの繁夫の言葉には半分真実があるから聞き流せない。それで稔も負けずに権利を主張しておくのだ。
「すてきね」
 唐突に美樹がいった。稔はびっくりした。繁夫も同様だ。しかし美樹はバラをみつめたままである。
「なんて色彩に富んだバラなのかしら。色とりどり、といってもすべて赤色なのだけど、たくさんの品種が混じっているのね、濃淡鮮深、みごとな赤のグラデーションを奏でいているわ。まるで赤にはすべての色が含まれているといいたげな色づかい。それにしてもこのバラの、単色にして七彩の赤。あまりにカラフルでため息でるわ。私の生半可な腕では、たとえどんなにたくさんの花の色を用いてもかなわない。赤だけでこれほど多彩な花景色を表現できるなんて、ほんとに高等なフラワーアレンジメント技術の持ち主ね。さすがは麻子さん、赤一色でことたりると豪語するだけのことはあるわ」
 そういえば稔ははじめに玄関の赤いバラをみて、一瞬ちらりと新品の二十四色、水彩絵の具が脳裏をかすめたのだった。新しい絵の具がうれしくて全色、パレットに取り出した――それは子供のころの新鮮でさわやかな記憶。だけど赤いバラと二十四色絵の具の連想が、なにか無意識に矛盾していると思ったのだろう、稔は意識して追求しようとはしなかった。でも美樹の大げさなひとりごとを耳にして、ようやくその理由がわかったような気がした。
 超一流の写真家が撮影すれば白黒写真でさえ、それを見た人に強烈な色彩を喚起できるという。トマトの赤を表現するにしても、プロはモノクロでアマチュアのカラー写真に勝つ。表面的な写真の色合いではなく、受け手側の脳内にトマトの赤をイメージさせ、訴えかけるといった点で。
「ここまで玄妙を極めた、いっけん無造作に活けているようにみえて、その実、無造作に活けているというのは驚愕に値するわね。えっ? なんかおかしい」しゃがみこんでいる美樹は大きくうしろに腰を引く。「これって、どうみてもただデタラメに活けているだけじゃないの。あまりのど素人ぶりに、かえって斬新な活け方だと勘違いしてしまった。さすがの私も裏をかかれたじゃない」美樹は心底あきれたようすをみせる。
「いいえ、そんなことはない。この私が駄作とみまがうはずがない。この赤いバラの活け方は天下一品にしかみえない。なぜなの、どうしてなのかしら」ふたたび美樹は真剣なまなざしになった。
 美樹は赤バラのまぢかまでにじり寄り、一心不乱に一本一本、品定めしている。美樹はまだ稔の登場に気づいてない。
「それとも、まさか――こんなことってありえる? 何、これ、この赤いバラは。ただのバラではないわ。すごいのはアレンジメントではない。この赤いバラそのものよ」
 麻子の姉はずっとあっけにとられたままだ。残念だけど稔はそろそろ美樹の一人芝居も潮時だと思った。
「ねぇ、美樹、ちょっと。ねえ美樹!」
 美樹はバラに夢中で稔の方を見ようともしない。
「なに? 稔さん。稔さんはちょっと黙ってて。私は忙しいの。って? 稔さん?」
 まるでいたずらをしていた子犬が飼主に見つかったときのように、美樹はぎくっとしてかたまってしまった。しばらくして美樹はおもむろに顔だけで振り向いた。そして目視にて稔の姿を認めたのだろう、美樹はあわててからだ全体をこちらに向きかえした。
「どうして稔さんがここにいるの」
美樹は稔がここにいるとは思いもよらなかったらしく、ひどく驚いた様子をみせた。
「美樹、そして繁ちゃん、じつはここで事件があったんだ」
 幼い頃からの習慣だが、この偉丈夫でいかつい男を“ちゃん”づけできる者は数少ない。
「事件って?」美樹は心配そうな顔をする。
「それより、美樹がきのう話していたパーティとは、木原麻子さんの誕生会のことだったのかい?」
 美樹はどういうわけか、あわてとまどいながら答える。
「そうよ。男女同伴っていわれて、やっぱりどうしても行きたくなって、一人で行こうかなと思ったけど、麻子さんの性格では男性がいないと無理だとわかっていたから、それで『犬のゴウもいちおうオスだから男性よね』と思って連れていこうとしたら、たまたま垣根ごしに繁夫さんが車を洗っているのがみえて、『美樹ちゃん、これから犬のお散歩?』って挨拶されたから、『いいえ男女同伴のパーティに参加するんです』とこたえたら、『医学的に犬は男性と認められない可能性が高い』と親切にも教えてくれたの。とはいえ私が『一般的にペットは家族の一員であると認知されているし、犬は素敵なパートナーというタイトルのテレビ番組もみたことあるし、社会の見解と医学的常識は必ずしも一致しないのでは』と質問したら、『たしかに美樹ちゃんのいうとおりだ。これまで犬は男性ではないと啓蒙してこなかった医学界全体に責任がある。末席を汚すオレが代わって深く謝りたい。そうだ、おわびといってはなんだけど、車を乾かすついでに送っていってあげる』という結論になって……。稔さんには悪いと思ったけど、繁夫さんも再来月だったかしら、夏季特別講習にアメリカからやってくる客員教授のパーティに誘れていて、パーティ作法を実地で実習するチャンスだと感謝されて、そういえば繁夫さんも生物学的に男性だったと思い出して、お願いすることにして、それで」
 稔だけならいくらでも話を聞くところだが、不思議顔に美樹をみつめる麻子の姉の視線がつらい。
「いや、それはいいんだけど……。実はね、美樹。そのぅ、麻子さんはきのうの深夜に亡くなられたんだ」
「えっ、どうして」美樹は目をまるくする。
「自殺したらしい」
「自殺?」美樹は言葉につまった。「信じられないわ。だって彼女、電話ではあんなに元気に話していたのに」
「だけどこの状況では、つまり密室だったんだけど、自殺の可能性が高いんだ」
 その時、玄関口のインターホンが鳴った。
「はい」麻子の姉が出る。
『おーい麻子、オレだ、開けてくれ。マンションのカードキーがどこかへいってしまった。ドアを叩いてもあの管理人ジジイは開けてくれそうにない、いやもういい。中から人がでてくるようだ』
 インターホンから野太い声は切れた。稔と麻子の姉は顔を見合わせた。
「麻子さんの交際相手のようですね。一度リビングにもどりましょうか」稔はいった。 
 リビングに戻る稔は途中、何度も美樹の腕をひっぱる。麻子の姉もいるというのにバラばかりに夢中なのは非礼である。それなのに美樹はうわごとまでいっている「すごすぎる。これはすごすぎるわ。全部、新品種のようね。このバラを作った人は確信犯にまちがいない。バラは赤がすべてだといっている。他の色は必要ないと」
 しまいには前を向いて進めなくなった美樹を思いっきりひきずっていく羽目になった。
 リビングで稔はとりあえず、ふたりを桜井警部に紹介することにした。麻子の姉は両親に例の男がやってくることを告げているらしい。麻子の父親の顔が心持ちこわばっているようにみえる。
「ぼくの家で同居している花村美樹と、こちらは友人の梅崎繁夫です」
 美樹と繁夫は桜井警部におじぎをする。
「それから警部、麻子さんの交際相手らしき人物がマンションの下まで来ています。もうそろそろでここへ上がって来るでしょう」
「花村さんって、あの花村さん」
 桜井警部も稔の父が美樹を引き取ったというはなしを知っているのだろう。
「ええ。あの花村の娘です」美樹はソファー横のバラに気をとられているのでそっけなく答える。稔は「美樹」と軽く注意する。
「木原麻子さんから昨日の晩に電話があって。はい、たしか七時をいくらか過ぎていたと思います。『すごいバラが手に入ったからぜひ見にきて』とうれしそうに。少し興奮していましたけど、これから自殺するような感じではありませんでした」美樹は最低限度の説明しかしない。
「麻子さんは親しい友達には何週間も前から誕生パーティのお誘いをしていたらしいのです。しかし半分ちかくの人には、花村さんと同じで昨晩にいきなり『バラがあるから来て』ということです」
 桜井警部が会話をしているとき、その男は突然リビングに入ってきた。
「やけに人が多いな」
 稔や来客たちを押しのけて歩き、憎たらしいほど図太い態度であたりをみまわす。どすのきいた低い声。三十代なかばだろうか、バラの花束をもって現れた男は、海外有名ブランドの白いスーツにちゃらちゃらと不快な音をさせるプラチナのネックレスをネクタイがわりにつけていた。まだ夏が始まったばかりだというのに肌が日焼けのせいで真っ黒で、そのために顔の表情がよくわからないくらいである。髪はムースでわざとぼさぼさにしていて、手首に巻かれた金ピカのブレスレットもけばけばしく光っている。なかなかの男前だが、癖のある表情やしぐさからは同性に対しては鼻持ちならないといった印象しか与えない。この、人を見下した目の動きは何なのだろうと稔は思った。くちゃくちゃとガムをかんでいるにしても、どうしてこんな口のひらき方をするのか、稔には不思議でならなかった。
 稔はすぐに、この男には興味をなくした。無意味に虚勢を張っているだけである。それでも最初は、もしかしたらつきぬけた人物ではないのかと注意はしたのだ。美樹が絶賛するバラを披露したほどの審美眼の持ち主、木原麻子の恋人だというのだから。このような威圧感を与える外見や動作がもしも演技であったのならば、麻子は自殺ではない、こいつが犯人だ、と稔は看破したであろう。が、たいした中身の持ち主でもなさそうだ。この男が麻子を殺すのならもっと直接的な行動にでる。稔は瞬時にそう結論づけた。
「警察の者です」柳原捜査員が聞き込みをはじめる。
 麻子が自殺したことを告げられて、男はすこしだけ神妙になったかのようにみえた。しかし「吸いつくような肌の、感度がいい女だったのにな」と感慨深げにもらす程度の神妙さである。この厳かな雰囲気にはあまりにもふさわしくない言動が続く。美樹はバラにしか関心を持っていないようだが、それでも聞き耳はたてている。繁夫はさっきから顔をしかめたままだ。
 男はよく週末に麻雀をするそうである。きのうも深夜から雀荘通いで、いつものメンツである会社の取引先の人たちと徹夜で麻雀をしていたらしい。朝早くに帰宅して、少し仮眠を取るつもりが、いままで寝てしまっていた。それでもバラにはうるさい彼女のために、少し遠くのフラワーショップであわててバラを買っていたら遅くなった、ということである。「気が強そうにみえて、麻子は意外とデリケートだったからな」と寝ぼけた物言いが場ちがいである。なんだか他人ごとのようでもある。好意的にみれば、あまりに衝撃が多すぎてどう対処したらいいのか分からないといった状態だといえなくもない。
「麻子には前もっていっておいたんだ。二十歳の誕生パーティには参加できない。この日曜日は、たまの家族サービスをするつもりでいたからな。麻子もしぶしぶ承知したんだ。それなのに、きのうの夕方、携帯電話で薄情者となじられ、あのバラ屋でさえ、約束の注文を守ったのにとかなんとか。うるさいから雀荘を途中ぬけだし、とりあえず麻子のいうバラを部屋まで見に行ったけどな。そうだな、夜九時半過ぎぐらいかな。そう、ピアノがある部屋だ」
 家族サービス――稔は聞き逃さなかった。男には妻子がいるのだろうか。それならば麻子は不倫していたことになる。
 男はこのマンションで何度も寝泊りをしたことがあり、合い鍵も持っているが、昨日までのここ一週間はふたりの間に多少のごたごたもあって、麻子のもとを訪ねていない。今日のパーティにも来るつもりはなかったが、あまりに麻子が怒るし、バラパーティにこなかったらほんとうに別れるというからしかたなしにやって来たんだとか。男の弁では、きのうも久しぶりだったし、こんないい女を手放すのはおしいので無理して都合つけたそうだ。
「麻子に最後に会った人物ですね、といわれてもなぁ。麻子がどうだったかは分からない。いつもどおりさ。自殺なんだろ? オレは用をすませただけだから、一時間くらいで雀荘へ戻ったけどな。用? 用といえば用だよ。男と女がやることといえばひとつだろ」
 稔は心底あきれはてて、こんな男とつきあう麻子までが、とるにたらない人物のように思えてきた。死者にむち打つようで気が引けるが、麻子は極めてすぐれた外見とは逆比例して、中身は相当お粗末だったのではないか、そう疑いたくなるということだ。
 柳原捜査員は慣れたものである。警察はその職業がら暴力団を相手にすることも多い。だからだろうか、柳原捜査員はいとも簡単にこの男をあしらう。稔は自分と価値観を著しく異にする連中を向こうにまわすのは苦手だと思った。
「事故? それはないな。麻子はバラ関係にはよう、異様に詳しかったぞ。異常がつくほどだ。まさにビョーキだよ、ビョーキ。切り口をガスコンロで焼いたり、水の中でさらに茎を切ったり。漂白剤を殺菌するため使ったり、肥料代わりに砂糖を入れたり。ふつうそこまでするか。花の数が多いからオレもよく手伝わされたよ。そういや、ドライアイスは花を長持ちさせる、というのは聞いたことがあるぞ。なんでも気温で花持ちが変わるとか。酸素が多いと呼吸が活発になり傷むのがはやいとか、ドライアイスは冷たくて二酸化炭素だから呼吸を抑えるとかね。まったく耳にタコができるくらい麻子にきかされていたからな」辟易したようすで男はいった。
「なあ、もうオレ帰っていいかな? 遅くなったけど、これから家族サービスでもしようと思ってさあ。あいつら、どこかへ連れていけってうるさいんだわ」
「いえ、もうちょっとだけお聞きしたいことがあ……」柳原捜査員がいい終わらないうちに、かたわらでじっと、なりゆきを注視していた麻子の父親が男にせめよった。
「お前はいったい娘に何をしたんだ。麻子はどんな気持ちで自殺したのかわかっているのか!」
 その横で母親もすごい形相で男をにらみつけている。
「まあ、まあ、そこのおふたりさん。すこしは冷静になってくださいよ」男には少しもわるびれる様子はなかった。
「お前が私の娘を殺したんだ」父親がいいきる。
「なにをいうんですか、人聞きが悪い。オレが麻子に何をしたというんです。オレは麻子に多少の快楽を与えただけ。そして麻子も楽しんだ。ただそれだけ。まったく、それこそお互い様というものですよ」男は反省のかけらもなくいってのける。
「きさま、麻子を。よくも娘を」 麻子の父親はこぶしを握りしめたまま、ただただ絶句するのみ。
「それにオレのことも考えてくださいよぉ。勝手に自殺なんかされてオレだって気分悪いし、世間体も悪いし、ほんと、迷惑しているんですよ。オレに隠れてこんな卑怯な手を使われたらこちらだってたまったもんじゃありません。まったく、オレの社会的な体裁というものはどうなるんです。いいたいことがあるのなら麻子もハッキリ面と向かってオレにいえばいいんだ」男は調子に乗って逆に文句をいいだすしまつだ。
「黙れ!」
 とうとう麻子の父親の堪忍袋の緒がきれたようだ。よくここまで我慢できたものだと稔は感心する。
「おやおや、どうしたんですか? いきなり」
 やれやれと大げさなしぐさ、そして妙に落ち着き払った態度が余計、男のふてぶてしさを演出してしまう。
「帰れ。いいから、帰ってくれ」激昂した麻子の父親が男を玄関へと追い払う。
――これでは無理だな。どこか、喫茶店でいいから、柳原君、頼む――と桜井警部が目で合図した。会話になっていなかったが、稔にも読み取れた。柳原捜査員が男のあとを追ってリビングを出ていった。
 柳原捜査員とちょうど入れ替わるかように、二人の人物がリビングに入ってきた。ひとりは稔がマンション入口で会った初老で白髪まじりの管理人。もうひとりは麻子と同じ年齢ぐらいだが、どこか幼さを感じさせる色白のおとなしそうな女の子だった。
 麻子の両親は憤りが収まらないようである。目の前に二人が何かいいたげそうに立っているというのに、「あいつが、あの男が娘を殺したのです」と桜井警部に訴えかけているぐらいだ。
 警部が黙っているので、麻子の母親が続けていった。「あの男は合鍵を持っています。あの男が麻子を殺したのです」
「それは推測でしょう。証拠がありません。それに原因のドライアイスを用意したのは茨木バラ園です」しかたなく桜井警部も口を開いた。
「それはそうかもしれませんが……。いえ、あの男はその場でドライアイスを使おうと思いついたにちがいありません。それにドライアイスが二酸化炭素だといっていました」麻子の母親はしかし引き下がらない。
「男はドライアイスの量を把握していたでしょうか。バラの下に敷かれてあったのですよ。どのくらいドライアイスがあるのか知ろうとすれば、麻子さんに不審がられます」
「そのためにアルコールで麻子を眠らせたのです。そうにきまっています」
「無理に飲ませようとした形跡はありません。グラスはひとつだけでした。男が麻子さんだけに飲ませるのは難しいと思います。つまり、ひとりの時に飲んだと考えるのが妥当でしょう。それから、ここがいちばん大事な点なのですが、殺意というものは悟られるものです。親しい間柄なら、なおさら……」
「麻子がたまたま飲んだのでしょう」
「仮にそうだとしましょう。アルコールで眠らせてから電気カーペットの電源をつけたとしても、かなりの冷気です。もし麻子さんが無事でしたら、殺人未遂で訴えられる可能性があります。アルコールは少量でした。花の下にあれほど大量のドライアイスが敷かれてあることも自分で運んでこないかぎり絶対に予測できません。第一、自殺を偽装しようとする犯人はこんな不確実で目立つ方法をとりたがらないものです」
 桜井警部はさすがに要所をきちんと押さえて説明する。
「でも……」麻子の母親は口をつぐんだ。あとは鼻をすする音しかきこえない。
 すると突然、麻子の父親が叫んだ。
「あの男が麻子を殺したのです」
 少し声の調子を落としてから麻子の父親はいう。
「たしかに直接、麻子の命を奪ったのはやつではないのかもしれません。しかし心理的に麻子を殺したのは明らかにあの男です。ナイフで刺して殺すか、言葉のナイフで刺して自殺に追い込むか。それは単に殺害手段が目に見えるか見えないかの違いでしかありません。考えようによっては、人に殺されるより、絶望して自ら死を選ばされる方がつらいことなのかもしれません。法律がおかしい。人の肉体を傷つけさえしなければ、いくら人の心を傷つけても罰せられることはないということですね。具体的に目で見えないからって、いや目で見えないからこそ大切なものがある。自殺するほど思い詰めて、そこまで娘の心を踏みつけておいてあの男は無罪なのですか」
 麻子の父親は、想いが溢れて言葉足らずといった感がある。それでもその言葉は一面の真実をついている。そう稔は思った。
「残念ながら、脅迫や嫌がらせがないかぎり、男女関係に警察は介入できないのです」桜井警部は申し訳なさそうにいった。「といいましても麻子さんの自殺の動機に何らかの関与があることはたしかです。ええ、一応あの男の家族を含めて事情聴取をおこないましょう」
 この事件に関して男の家族に話をきいても、別段、得るところはなにもないであろう。それは桜井警部ができる範囲での、あの男に対する精一杯の制裁のつもりだと稔は考えた。
「本当に申し訳ございません」なぜか管理人があいだに割って入り麻子の両親に謝る。「お嬢さんに悪い虫がついてしまったのは管理人である私の責任であります。もっともお嬢さんはあの男に関しては、私のいいつけなどひとこともききいれてくれませんでした。このマンションに入るなと命じても、あの男は『なんだこのジジイは』とかえって意地になるタイプでした。管理人として麻子さんの自由を束縛する権利はありませんでした。結局いつもお嬢さんが中へ入れてしまいました。それでもふたりの仲はそんなによかったわけではありません。昨日だって、いいあらそいは一階のエントランスでした。毎度のことでしたから。――まだこのままの関係を、愛人を続けてくれ。麻子お嬢さんほどの美しい女性はそうざらにはいない。妻はしょせん金目当ての結婚だから、と男がいっているのをこの耳でききました」
 管理人のそばにいる若い女性が待ちきれないのか両手を振りながら「管理人さんはいいひとです。私が殺したようなものです。私が悪いんです。今だって、あの男がいるからとわざわざ私に付き添ってくれたんです。私、マンションの入口であの男に気づいて入れなかったのです」と息つぎせずに早口でいう。「私、麻子さんによけいなことをいってしまったから。麻子さんのほかにも、あのひと、かなりの数の若い女性を孕ませて中絶させていたんです。麻子さんに、あのひとにもてあそばれているのよ、と忠告したばっかりに……」
 この女性は、おそらく麻子の親友だったというバイオリン科の音大生だろう。
 たどたどしい彼女の説明をまとめるとこうである。
 麻子は音楽大学に入学してすぐの合コンでその男と知り合った。とはいっても男は参加者ではなく偶然その場に居たらしい。女性には優しくよくもてるそうだ。男には他にも複数の恋人がいて、麻子もそのことを知っていて悩んでいたらしい。もっとも、どの女性にも“オレが本当に好きなのはお前だけだ”とささやき信じてもらっているとのことである。
 男は三十代後半の実業家。繁華街でバーの経営もしていて、自分の店を見回っているときに合コン途中の麻子を見初めたというわけだ。押しの強さと鈍感さとでのしあがった人物のようだ。男の妻は大学時代の同級生で、かなりの資産家の娘という。
 麻子の不倫相手の男性は、よりによって麻子の女友だち数人を同時に手をつけていた。若い女の子が何よりも好きな男だった。
 バイオリン専攻科の地味で真面目そうな麻子の友人も、ひかえめな印象を与える美人である。「麻子さんから彼を紹介されて。彼の方からいいよってきて。私はもてあそばれたんです。あの男は避妊具つけるのが嫌いで。そのせいで私も中絶したことあるのです。麻子さんが堕ろす、半年以上も前に。自信にあふれていたから頼れる人かなと思ったのですが、でもまちがいでした」 
 麻子さんクラスの上等な美女を次から次へと手玉にとるそうなのだから、そりゃ、たいへんな自信家であるだろう。稔は思った。
「彼をよく知っているという男性から『やつに関わらない方がいい。女を食えるところまで食っていく。やつにとって恋愛など、数だけを競うゲーム感覚のお遊びさ』と注意を受けました。自分でもうすうすは気づいていたのです。だけどどうしようもなくて」
 先月、麻子もおなかの中の子を堕ろしたと知ったそうだ。それで自分のことも含め、男の正体を教えた。『いずれは麻子さんも捨てられるはず』そういってしまったばかりに、悲観して自殺したのではないかとバイオリン科の女の子は嘆いていた。
 稔たちのまわりでは、先程から葬儀社の人たちがせわしなく働いていた。マホガニーに居並ぶ来客たちの前には、出されるはずであったパーティの食事代わりに仕出し料理が用意されていた。
 桜井警部と稔も昼食によばれたが、残る任務は茨木バラ園にバラとドライアイスの経緯をきくだけなので、遠慮した。
 ふと稔が気づくと、美樹の姿がみえなくなってしまっていた。バラに誘われてどこかへいってしまったらしい。稔は繁夫にきいてみたが「いや、おれはさっきまでここで繰り広げられてた尋常でないやりとりに、ついつい気をとられてしまって」と頼りない。「稔こそ、なぜ見張っていなかったんだ。バラの花のせいで、きっと美樹ちゃん、あちこち現場を荒らしまわっているよ」と逆に反撃された。「えっ? いや、ぼくは仕事で来てるんだよ。尋問中だったんだ」稔はごまかした。
 やはり繁夫のいったとおりだった。すぐに美樹はみつかった。そこはバラのメイン会場であるピアノ防音部屋だった。あっけにとられているのだろう、美樹はその麻子の眠る部屋の片隅で立ちすくんでいた。
 すでに現場検証も終えているので、麻子の親しい友人も部屋の中に何人かみえる。もっとも彼らは悲しみのあいさつをするために遺族の了解をとっているのだ。
 降り積もるバラのやわらかな感触をたしかめるかように、美樹はつま先立ちにそっと花びらを踏んでいく。ときおり麻子をみつめる美樹の表情は、こころなしかうっとりしているようにみえた。稔はしかたなしにそんな美樹をただ見守る。美樹はかがみこんで、両手いっぱいのバラの花びらをすくいあげては、ひとりひそやかに微笑む。稔は、手がドライアイスに触れてはたいへんと、さりげなく美樹に手袋を貸す。しかしその反面、桜井警部にみられてはと気が気でなく、リビングとピアノ部屋を行ったり来たりしはじめた。繁夫は繁夫で仕出し料理をすでに二人分たいらげていて、今は三人前に挑戦中だった。

 リビングで麻子の姉が三十歳くらいの男性を連れてきていた。まっさきに麻子の家族にあいさつしているところをみると木原家と顔見知りの人らしい。ひどく気落ちしている。
「呼び出されました、バラの栽培業者の茨木です」作業着姿の背が高い男は桜井警部にいった。
 桜井警部に現場を見せてくださいと告げると、茨木はそのままピアノ防音部屋へ足早に向かった。あわてて桜井警部と稔はあとについていく。ピアノ部屋では美樹が不謹慎にもバラを前にしてはしゃいでいた。やめさせるだけ無駄だとわかっている稔が、それでも突いて美樹を注意する。幸い桜井警部はとがめなかった。遅れてやってきた麻子の両親も美樹を一瞬けげんそうな顔でみただけだった。美樹は周囲の視線を気にするようすもなく、そのまま我を忘れてバラの花びらいじりを再開した。
 稔の目の前で立ち止まっていた茨木バラ園の茨木だが、バラに囲まれた麻子しか目に入らないらしい。ついその真剣なまなざしに惹きつけられて稔が脇から顔をのぞくと、茨木は麻子その一点を凝視している。はた目にも気の毒なほどに茨木の顔色は青ざめていて、かなりの衝撃を受けているようだった。しかしながら、かすかに顔の表面にもれてくる表情を、それは瞳の奥底から生じていたのだが、稔はみのがさなかった。それは深い悲しみではなく、ふるえるほどの歓喜ではないのか。おかしなことだが稔は直感的にそう思った。
 けれども茨木はすぐに落ち着きを取り戻したのか、穏やかな声で言った。
「なにか、水をもらえませんか?」
 麻子の姉が、台所から水の入ったコップを持ってきた。茨木はひと息で飲みほした。
「木原麻子さんは本当にバラの好きな方で、うちのバラ園をたいへんひいきにしてくださり、お得意様でした」
 美樹が興味をもったらしく、しゃがんだまま、茨木の顔を見るため振り返る。稔は美樹の性格を熟知している。美樹は単にこのバラがどこに行けば手に入るのか気になっただけだ。
「麻子さんは、よくバラを買いに来ていたのですか」桜井警部がたずねる。
「ほとんど毎日のようにバラ園に来てくださいました。でも実際に花を購入されるのは週に一度くらいです。しかしここ最近はお見えにはなられていませんでした。このバラの花ですが、二十歳の誕生日にパーティをするからと大量注文がありまして。五月はシーズンですので良いバラをと、早めに予約されました。ええ、かれこれ半年ぐらい前のことです。バラを床に敷きつめるバラパーティーをするということで」茨木はよどみなくすらすらと答える。さっきの動揺がうそみたいだ。「きのう配達にうかがった時刻は午後六時すぎでしょうか。そのとき麻子さんはまだ赤いドレスは着ていませんでした。作業には一時間もかかっていないと思います。ドライアイスですか? 一昨日、いやもっと前だったか、四、五日前になって頼まれたものです。このところ気温が高かったし、ドライアイスで花が長持ちするから、なるほどと思いました。量は麻子さんにいわれたとおり二百キロほどお持ちしました。二十キロ入りの袋、十個分です。はい。麻子さんの方で二百キロという数字を指定されました。いえ、花びらの方は床を埋め尽くせるように、できるだけ多くとのことです。バラのほうですか。正確な数はわかりません。大きな業務用ビニール袋にどれだけでしょう。呼吸を抑えるため炭酸ガスでふくらませた花びらの袋を、私のトラックで運べるだけ運んだものですから。このマンションの裏には業務や引っ越時に使用される大型エレベーターがあります。二度で運べました。麻子さんも手伝ってくれました。管理人さんも親切な方で、一階で手を貸してくれましたね。引越しのときにタンスや冷蔵庫を載せる、それ専用の台車があるのです。一度目はドライアイスとバラを入れた籐のバスケット、枝つきバラのブーケの束、私と麻子さん。二度目はバラの花びらと私のみ。かなり面積のあるエレベーターですが、それでも満杯になるほどビニール袋を押し込みました。
 麻子さんがこの部屋にドライアイスを敷いてください、といわれたので部屋まであがりました。ええ、普段から時々バラの世話のためにおじゃますることがあります。あの屋上のバラ園にです。それにしてもまさか、こんなことをされるとは予想もできませんでした。パーティはリビングでする予定なのでしょうが、こちらの部屋の方が保存や貯蔵するのに便利だからと麻子さんにいわれて、ピアノ部屋に運びました。
 それから私が帰る直前のことですが、急に麻子さんが思いついたらしく、天井や壁をバラで埋めるよう追加のバラを注文されました。しかし私はお客様のご要望されるような、品質のよいバラなどすぐには用意できるはずもありません。最上級の品のいいバラは予約がつまっています。少なくとも半年前にいってくれませんとこちらも困ります。麻子さんは他の店に頼むといっていました。麻子さんは気分を害したのかもしれませんが、私はそうではありません。麻子さんのアイディアはいつだって素晴らしいものでした。この時だってそうです。ふつうは上からのぞき込んで鑑賞するバラを、下から見上げた時に美しくみせろというのですから。意表をつかれました。私は今までバラの何をみていたのだろうかと。かたちだけバラを天井につるしてみても、麻子さんは決して満足してくれないでしょう。そのためにはもちろんそれなりのあたらしい品種が必要です。花びらも茎も葉も垂れ下がるわけですし、しだれ具合も自然な方向にさからいます。文字どおり百八十度の発想の転換が必要とされました。それでも私ならよろこんでそのバラを、時間さえあれば、いや麻子さんが望むのであれば、いくらでもを作り出すつもりでいました」そう語って茨木は麻子をみつめたまま、寂しそうに笑った。
「ドライアイスはどこで入手されたのですか」桜井警部が訊く。
「ドライアイスは電話帳で調べれば誰でも簡単に、しかも大量に手に入れることができます。私も普段から使っています。バラ園では花の栽培だけでなく販売もしていますので。切り花の販売展示用ガラスケースの中には常時ドライアイスを使用しているのです。水切りした花をある期間、低温保存すると花持ちが格段によくなります。色つややみずみずしさを保てるのです。もちろんドライアイスは密閉した空間ではガス中毒をおこす可能性があることは知っていたのですが、そういう事故が起きたことは今まで聞いたことがありませんし、麻子さんに注意するのを忘れていました。そこまで頭が回りませんでした。これほどの花の量を前にしてそれどころではありませんでしたから。持ってきた私でさえ、いざ飾ってみると圧倒されてしまって。もっとも十二畳ほどのこのピアノ部屋は密閉度も高く、それに二百キロものドライアイスを敷き詰めたのですから、きわめて危険だと気づくべきでした。ほんとうに申し訳ありません。少量ですぐ致死量になる一酸化炭素と違い、二酸化炭素はそれほど気をつけなくても大丈夫なものなので。それにこれほど大量のバラですから、ドライアイスもこれくらい必要なのかなと単純に思いました。今から考えると異常ですが、その時は別段おかしくもなんとも思いませんでした。なにしろこの光景です。極度の興奮状態で、バラを見慣れた私ですら内心ぞくぞくしたほどでしたから。いま気がついたのですが、冷気の関係でピアノ自体にもあまりいい影響を与えませんね。バラパーティ。こういうぜいたくは自分にはまったく考えも及びませんでした」
「シルクの敷布はあなたが? 四隅にバラの刺繍がほどこされてありますが」
「敷布とは?」茨木は顔を上げて何のことかときき返す。桜井警部は麻子とバラの間からこぼれ見える白い布を指で示した。
「ああ、テーブルクロスのことですね。私からのプレゼントです。純白のシルクは、バラの赤を引き立てるためのものでして。それからこのグランドピアノに載ってるロゼは私のサービス品です。たまたま手に入ったのですが、私はそんなにお酒が好きではないですし、麻子さんが喜ぶと思いまして。以前、アルコールには弱い麻子さんですが、意外とお酒は好きだそうでして、以前、『赤ワインが好き。ロゼは嫌い』といわれたので『それはおいしいロゼに出会ったことがないからですよ。ロゼワインの素晴らしさは、なんといってもその色の鮮やかさ。名に冠されたバラ色を意味するフランス語の『ロゼ』は伊達ではありません。さらに飲んでみればわかる赤と白のどちらの味も兼ね備えたバランスのよさ。つまりロゼこそワインそのものなのです』と抗議したこともありました」まるで麻子に向かって微笑みかけるかのように語る。
「麻子さんのことをよくご存知のようですが、茨木さん、あなたは今回の事件に事故の可能性があると思われますか」桜井警部が形式的に尋ねる。
「いいえ。こうなることは予測されたことです。事故ではありません」きっぱりと茨木はいう。
「では、自殺の動機に何か心当たりがあるということですね」
 あのような男と付き合っているのを知っているのなら、そんな予感にとらわれるだろう。稔は茨木に理解を示す。しかし茨木の返答は予想もしないものだった。
「え? 事故や自殺なんかじゃありませんよ。しいていうなら殉職、いや殉教ですね」
 茨木の自信に満ちたその言動に、桜井警部も唖然としてなにもいえなかった。茨木はゆっくり膝を折って、うつむき加減で麻子の顔をみつめた。そして
「麻子さんはバラに殉じたのです。何よりバラを愛した人ですから」 このうえもなくしみじみとつぶやいた。
 この茨木という人物はいったい何をいいたいんだ。稔は理解に苦しむ。
 麻子に顔をちかよせた茨木は、だがみた目には無表情だった。そしてまるでお経を唱えるように、ゆっくりひとりごとをいい出した。
「O2は一モル、十六かける二の三十二グラム。CO2の一モルは三十二に十二を足して四十四グラム。気体の体積一モルは種類にかかわらず、標準状態すなわち0℃・一気圧の時、二十二・四リットル。よって一モルのドライアイス四十四グラムが昇華すると二十二・四リットルのCO2が生じる。二酸化炭素の致死量はたしかその濃度が十パーセント以上のとき。ということは一モルのドライアイスを溶かすなら、二百二十四リットルより広い空間が必要だということになる。お風呂の浴槽の大きさがだいたい二百リットルほどだから、水を抜いた浴槽に体を入れて蓋すれば、たった四十四グラムのドライアイスで死ねるということか。
 この部屋の場合、十二畳ほどの空間。しかしこの際、天井の高さはそれほど関係がない。空気より比重が大きい二酸化炭素は底からたまるからだ。もちろん部屋には対流も起きるだろうが無視してよい。ドライアイスによる冷却のため、床付近の温度がかなり低くなる。つまり冷たい空気は重く、上にあがらないのだ。しかも密閉されて風のない部屋では空気は動きようがない。それどころか周囲のバラの花びらのせいで空気の循環がことさら邪魔されているというのに、体の重みで鼻の位置がこうも沈んでいては」
 茨木だって馬鹿ではあるまい。これくらいのこと計算せずとも、常識的に危険な量のドライアイスだと誰にだって分かる。茨木は自分にいいきかせるように、そして心を落ち着かせるために、わざと声にだしていっているのだろう。とはいうものの、しかしなぜ、このような異様な雰囲気の中でこれほどまで冷静に分析できるのだろう。稔は疑問に思う。これなら過失致死にとられてもしかたないぞ。ほんとうに昨夜バラを配達したとき、ドライアイスが危険だと気づかなかったのだろうか。
 稔は、無論その内容を聞きのがしていなかった。この男、普通ではない! 正直こんなところで「気体分子のモル計算」におめにかかれるとは思わなかった。よくわからないのだが農家は経験から直感的に判断する人が多のではないか。しかしこの茨木はまっ先に理論からはいる。しかもよどみなく、理路整然と順序立てる。茨木は相当の教養ある人物だ。稔は思う。茨木は自分と同じか、それ以上の知性の持ち主ではないかと。どちらにせよ同種の人間にちがいない。そうだとすれば茨木の行動は稔にとってわかりやすい。理論と実践とがうまくかみ合っているはずだから。
《自分ならどうだろう。自分なら何かの偽装、カムフラージュだ。しかし何をカムフラージュする必要がある? しかも何のために?》 
 茨木は計算に集中しているようすはとうぜんのごとくみられず、証拠隠滅のための不審な動きをする気配もなく、ただ麻子しか眼中にないようで、その美しい最後の晴れ姿を網膜に焼き付けているようにしかみえなかった。稔は必死で茨木の視線の意味するところを読み取ろうとした。
《なにを知られると困るというのだ。この場でなにを隠す必要があるのだろう? いやそれとも時間かせぎなのか》
――まさか。
 稔は体に震えを覚えた。
《そうか、そうにちがいない! 驚くべきことに、茨木は麻子をみつめるただそれだけのために時間をかせいでいるのだ! この男、麻子に惚れている。それも心から愛している!》
 茨木は稔の強烈な視線に気づいたようだ。稔に顔を向け弁解する。
「取り乱してすみません。いいえ、どちらにせよ気がつけなかった私の責任です。しかしいくらなんでもこの部屋で眠られるなんて」
 そういう茨木はいたって冷静で、その言葉とは裏腹で取り乱したようすは微塵にもみられなかった。彼はピアノ防音部屋の入口までおもむろに歩き、今度は桜井警部の方を振り返って頭を下げた。
「今の季節はバラ販売のピークで、かきいれどきなのです。私はすぐにバラ園に戻らなければなりません。申し訳ありませんが、他のお客さんに迷惑がかかりますのでこれで失礼いたします。今日中になんとか仕事のめどをつけて、三本杉警察署でしたね、明日の麻子さんの葬儀が終わりしだい、調書などもあるでしょうからこちらからお伺いにあがります」
 桜井警部がさえぎる間もなく、彼は堂々とはしてはいるが、それでも逃げるようにして帰っていった。
 いますぐ茨木を追いかけるべきかどうか稔が迷っていると、ちょうどそこへ葬儀社の人たちが棺を持って入ってきた。麻子の叔父や叔母など親戚の人もかけつけてきたらしい。ふいにピアノ部屋は慌しくなった。そして遺体を棺に納めるため、麻子の父や叔父たち親族が、麻子をシルクのシーツごと持ち上げる。白いシーツの上で赤い花びらにまぎれ込んでいたのだろう、
白い紙が何枚か、ひらひらと舞い落ちた。
 まさか遺書では、と麻子の母が拾い上げたが、ちがっていた。そばにいた稔がのぞくと、白いケント紙にバラの水彩画が描かれていた。裏返すと手書きの誓約書になっていた。それは茨木と麻子の間で結ばれたもののようである。稔もそのあたりのバラの花びらをかきわけて探し出す。全部で三枚あった。バラにはすべて『asako』とサインがされている。裏書きされた誓約書にはケント紙に描かれたバラを実現させると誓う茨木の署名があった。水彩画はなかなかどうして、どれも玄人はだしで、それは見事なものであった。稔はその中のひとつに目がいった。それはあえていえばこの絵の中でいちばん俗物的で下手と思われる真っ赤なバラなのだが、これこそこの部屋に敷き詰められている赤いバラにそっくりだったのだ。事実、裏面の契約書にも二十歳の誕生日までに完成させるとあった。
 麻子の母はその紙をひととおり周囲の者にまわした後、大切そうにそのまま麻子が待つ棺へ入れようとした。
「すいません。少し調べたいことがあります。これをしばらくの間お借りしてもいいでしょうか? もちろん明日の朝までには、いや今晩にはお返しします」
 桜井警部が戸惑う顔をよそに稔が母親に許可を求める。
 麻子の母親は「ええ、どうぞ」と快く承諾してくれた。ついでに稔はグランドピアノの上の花びんから参考のためにとバラを一輪引き抜いて、そっと背広の内ポケットに挿し込んだ。まさか美樹がここに来るとは思っていなかったので、今となっては意味がなくなったが、稔は不謹慎にもこのチャンスをずっと狙っていたのだ。それはこのバラの花束を美樹の誕生日のプレゼントに送ることだった。この素晴らしく赤いバラを見ればバラ嫌いの美樹でも喜んでくれるだろうと。だが稔はバラの品種名に詳しくはなかった。そのためにもサンプルを茨木に提示しなければいけない。もっとも稔もようやくこのピアノ部屋にあるバラは枝つきバラも花びらだけのバラもまったくの同一品種で、ここにはバラは一種類しかないことが分かっていたのだが。
 そのまま棺を担架がわりにして麻子はリビングに運ばれていった。棺のふたはまだされていない。そしてグランドピアノも分解してリビングへ運ぶらしい。そのため親族以外にも繁夫や来客の男性たちが手伝いにやってくる。人手はじゅうぶんに足りていたし、力仕事は繁夫の仕事である。ケント紙を汚さないようにするためにも稔は傍観することに決めた。女性たちも美樹を筆頭に花びらをビニール袋につめてリビングの床に敷いていく。みるみるうちにピアノ部屋にはめぼしいものがなくなっていった。
 警察の仕事としてはもうここには用がなくなった。桜井警部は律儀にも、麻子の両親にひとことかけてからこの場を去ろうとタイミングをはかっている。だが、なかなかそのきっかけがつかめない。
 ピアノ部屋にはもう誰もいない。バラもピアノも取り除かれた。リビングではバラの花葬が着々と準備されていた。花で埋まっていく。眠る麻子は好きなバラとピアノに囲まれている。ピアノ部屋と異なるのは、床だけでなく壁にも天井にも赤いバラで覆われていることである。濃い緑色のオアシスが葉っぱの緑に置き換わっている。素敵な威圧感があり、通るたびに高い天井から咲いたバラの花が頭をかすめそうだ。
「写真、引き伸ばしてまいりました」
 葬儀社のひとりがリビングに入ってくる。これで遺影が用意された。昨年、麻子が十九歳の誕生パーティの時に撮影されたのであろう。真っ白なドレスに両手いっぱい、真っ赤なバラの花束を抱えている。赤が似合うときいている麻子だが、なかなかどうして白一色も悪くはない。いや、様になっているとかいうレベルではなく見惚れるほどだ。その微笑みの前には特製のバースデーケーキが映っていて、九本の小さなローソクが一本の大きいろうそくを取り囲むように立っている。
 一同が麻子のまわりに集まる。
「こんなことになって、麻子はつらかったでしょうが、でも麻子のこの表情をみてやってください。本当にうれしそうに……。こんなに笑って……」
 麻子の母親は涙ながらに笑ってみせて、そして娘をみつめた。
 「最後にこれだけのバラに囲まれて。それが私たちにとってせめてもの救いです」
 そう、父親がつけ加えた。
 リビングにて棺のふたを閉め、そこに居あわせた全員で合掌し、それが納棺の儀となった。

 桜井警部につづいて麻子の両親に「それではおいとまさせていただきます」とあいさつをした稔に、美樹が耳元でささやく。ほとんど無音で聞き取りにくい。
『あのバラの花がキョウキね』
――キョウキ?
 狂気、狂喜。稔は“キョウキ”にどの漢字を当てはめればよいのかわからなかった。
 稔が何もいえずにリビングから去ろうとするので美樹がもう一度いった。
『凶器はバラね』
 凶器はドライアイスである。稔はそう思った。
『私は今までバラを甘く見ていた。麻子さんの赤いバラをみるまでは、わかったつもりになっていた。何ひとつ私はバラについてわかっていなかったというのに。でも、この赤は一体なんなの? 魔性の結晶、漆黒の赤。心の中だけでしか存在できないはずの純色の赤だわ。まったく、この赤の色あいはいわくいいがたしね。とてもまともな言葉では形容できない。あまりに圧倒されて、バラを超えたバラという陳腐な言葉ぐらいしかでてこない。
 だけど……。ただ、完璧すぎる。イメージとしての硬さ、それが残像として残ってしまう。それは否めない。ほんのわずかでいいから、適度なずれ、ゆらぎが欲しい。もちろん、その微妙なさじ加減は相当に難しいのことなのだと素人の私でもじゅうぶんに理解はしているつもりだけど。それにしても常識をはるかに超越するバラね。そんな残酷な要求をついつい軽く口にしてみたくなってしまうわ。
 それに比べてこの真柴バラ店のバラの方は……。私も店名をこのところよく耳にはするのだけど。事実、極上のバラしか扱わないことで有名なのだけど、こちらのバラはオーソドックスな赤いバラね。教科書通りの健康的なバラの花。もちろん最高品質のバラだと思うわ。しかし、あの麻子さんと眠るバラをみてしまったあとでは、あまりにも安っぽくてぎこちない。まるでプラスチックか何かのへたな作り物にみえてしまうわ。麻子さんの赤いバラを一度でも見てしまったらほんと不幸ね。もう普通のバラではとうてい満足できない』
 不幸だとささやく美樹の瞳は、しかし幸福そうに輝いていた。

 美樹たちとマンションを出て駐車場に戻るとき、桜井警部の携帯電話が鳴った。住宅地で火災が発生したようだ。警察には休みはないが、どいうわけか事件・事故にも休みがない。
 桜井警部が稔にいった。
「松山さん、ほとんど鎮火していますが、これから検証にいきませんか」
「あの、すいません。実は茨木バラ園に行きたいのです。ケント紙に描かれていたバラと、そこでのドライアイスの使用状況について今一度しらべてみたいと思いますので」
「ええ、いいですよ。それではいったん私と署に戻るとしますか。そして誰か手のあいている者を一緒に行かせましょう」
「いいえ、桜井課長は火災現場に直行されてください。みなさん、お忙しいし、これはひとりでやらせてください。いえ、タクシーで行きますので」
 わかりました。何事も経験ですからと、桜井警部はひとり車に乗りこみ新たな現場へと向かった。
「稔さん、私も連れてって」
 ありがたいことに美樹は待っていてくれた。美樹はすでに麻子のピアノ部屋にいるときから、稔が茨木バラ園にいくつもりだったことを察していたようだ。
「うん、じゃあ一緒にいこう」稔は喜んで承知した。天気もいいことだし、思いがけずふたりっきりのデートになりそうだ。うきうきした気分で稔はタクシーを探そうとした。
 しかし、さっきからふたりの後ろを変なおじさんが運転する車がつけてくる。その邪魔なおじさんは窓から首を出し「車で行く方が便利だろ」となぜか稔に声をかけてきた。
「はあ? ぼくには繁ちゃんのいっている意味が全然わからない。遊びじゃないんだ。仕事で行くんだ。美樹はバラに詳しいアドバイザーとして来てもらうだけなんだよ」
 繁夫が反論する前に美樹がいった。
「稔さん、事態は一刻を争うのだし、万一の場合にはお医者様が必要よ」
 繁ちゃんは医者ではない。ただの学生だ。そういおうとしたのだが、美樹はすでに繁夫の車に向かっていた。繁夫はすぐさま助手席のドアを開く。
「では参るとしますか、美樹ちゃん。ああ、そうそう、そこの人。タクシーはあの小道を左に向かって進めば大通りに出るから、そこで拾ったほうが早いんじゃないかな」
 指でさし示しながら繁夫が親切にも稔に道を教えてくれた。
 しかたなく稔はすなおに頭を下げてお願いした。
「すいません。ついでにぼくも茨木バラ園まで連れていってください」
「はあ? ぼくには稔のいっている意味が全然わからない。タクシーじゃないんだ。ぼくの車なんだ。美樹ちゃんはバラ園への道に詳しいアドバイザーとして乗ってもらうだけなんだよ」
 わざわざ『ぼく』なんて口まねしなくてもいいのに。だが自業自得だ。稔はあきらめてひとりタクシーで行くことにした。
「いっておくけど繁夫さん、私は茨木バラ園がどこにあるのか知らないわ。それに稔さん、何をしているの。はやく、はやく」
 助手席の美樹が開けた窓ごしからせかす。
 しかたがない。口の悪い運転手が乗ったタクシーを美樹とふたりで拾ってしまったと考えることにして、稔は後部座席へ乗りこんだ。












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