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「お風呂できたから」
今週の風呂当番だった美樹は、入浴剤の香りとともにリビングルームに入ってきた。しかし、だれも風呂に入ろうとする気配はない。そのせいか美樹は突っ立ったままだ。
「ぼくはすこし風邪気味だから」
夕食を終えてから文庫本を読んでいた稔は顔を上げた。五月終わりの土曜日のけだるい夕方。外はまだ明るい。
美樹はべつに風呂に入る人を待っていたのではなかったようだ。じっとテレビを見つめている。稔が腰かけている、もう一対のソファーでは、稔のふたつ年上の姉のあずさと、まだ高校生の妹のまゆみが二人仲良く座ってテレビを見ている。稔はみんなの視線につれられて画面に顔を向けた。家族の絆を描いたホームドラマをやっているらしい。『夕食どきにテーブルを囲んでの一家団らん』のシーンが映っていた。
しばらくしてから、ふと美樹が口にした。
「今の時代、茶の間で家族が和気あいあいとおしゃべりすることなんてないでしょう?」
稔は、ぎくっとした。梓もまゆみも、しまったといった感じで美樹の顔をのぞきこんでいる。
「どうして?」
稔はすこし間をおいてから、おそるおそるたずねる。
「だって今のこの世の中、どこの家にだってテレビぐらい置いてあるはずでしょう。特に茶の間のような家族が集まるところには」
美樹はそれでも何気なさそうにいう。
「だから家族が食事どきに楽しそうに話し合うことなんてないと思うの。ゴールデンタイムはテレビに夢中で会話どころではないでしょ」
「そうだね」気を遣って稔はあいづちを打つ。
「そうかもしれないけど、やっぱりちがうのかしら」
人が同意すると、なぜか美樹は往々にしてみずから反対意見をいい出す。
「一家に一台の時代ならまだテレビのおかげで家族が集まることがあるはずよ。だけど今や、ひとりに一台の時代。かえって家に一台しかテレビのない家庭の方が珍しいくらい。もはやテレビは茶の間の必需品ですらないのかもしれない。食事さえ自分の部屋で取る人が多いそうよ。だから最近は個室でひとりテレビをみながら食べることも多いんじゃないかしら」
今度は稔も何もいわない。
美樹は淡々と続ける。
「もっともそれが悪いことだといっているわけではないの。テレビは現代社会では生活必需品。娯楽としても情報源としても、もっとも経済的だし優れていると思っているわ。そういう、なくてはならないものだから、テレビのない家庭なんてほとんどないはず。それなのにホームドラマに登場する家には決まってどの部屋にもテレビが一台も置かれていないのよ。そう、それよ。私がいいたかったことは」
勢いづいて美樹は結論づける。
「なんか皮肉じゃない? テレビのない部屋で家族が楽しそうにくつろいでいるのは、唯一テレビの中だけなのだから」
美樹が話し終えるのをなんとか待ってから、あわててあずさがテレビの前に向かった。
「ちょっとごめんなさい、美樹ちゃん。私、ピアノの練習がしたいから消してもいい? テレビの音がどうしても気になってしまうから」
「ええ、どうぞ」
と美樹が返事をする。それと同時にあずさはテレビの主電源を切り、ピアノへと足早に向かう。
妹のまゆみはおもむろにソファーから立ち上がると、場の空気を換えるかのように、出窓を押し開けた。開け放った窓からは風が椎の木の花の甘い香りを運んできて、近づく夏の季節の到来を予感させる。
「じゃあ私が先にお風呂にはいる」窓を閉じてからまゆみがいった。
稔は心配をした。しかし美樹はというと、別に深い意味はなかったのかもしれない。ただちらりと視界に入ったテレビドラマにちょっとした違和感をおぼえただけのようだ。まゆみがリビングから出ていった後、美樹は所在なさげにあたりを見回していたが、マガジンラックに入っていた花の通販カタログを手に取るとソファーに腰をかけた。稔はピアノの脇にあるテーブルで紅茶を飲むことにした。
あずさのもの憂げなピアノの音が稔の耳に心地よい。曲はヘンリー・マンシーニの『酒とばらの日々』である。ふたたび、ゆったりとした時間が流れ出した。
姉さんの選曲はあいかわらずいいな、と稔は思った。そして、ちらっと美樹の様子をうかがったが、だいじょうぶなようだった。
それからしばらくたった時、美樹の携帯の着メロが鳴った。その音楽は『花の子ルンルン』とかいう昔のアニメの主題歌である。稔たちが生まれる前に放送は終了しているので、美樹はじかに番組を見たことはないはずだ。しかしなぜか彼女はその曲を知っていて毎回カラオケで歌っている。いわゆる、“おはこ”というやつである。あいかわらず美樹の好みの曲は変だ。
「はい、花村です」
傍らに置いていたハンドバッグの中から携帯電話を探し出すと、美樹は廊下へ出ていった。あずさがピアノを止め、安堵の表情を浮かべて稔の方を向いた。
「なんでもなかったようね。私たち少し気をまわしすぎたのかしら」
稔たちが神経質になるのには理由がある。実は、ひとりっ子だった美樹には家族がいないのだ。つまり両親を既に亡くしているのである。
花村美樹は十三歳の時に両親を失った。彼女の父は稔の父と同期の警察官だった。ふたりは共に国家一種採用のキャリア組で、お互い妙に気が合った。今から十年前のこと、警視庁で警備関係の部署に就いていた美樹の父親は、あるテロ組織が関与する事件で妻を巻き添えにされたうえ、自身も殉職を遂げた。そうして美樹がひとり残された。稔の父は「もしものことがあったら娘のことはよろしく頼む」という親友との約束を守り、まだ危険の残る美樹を身辺警護も兼ねて引き取った。それと松山家には美樹と同い年の稔、ふたつ違いの姉のあずさや六歳離れた妹のまゆみもいて、少しは淋しさがまぎれるのではないかという思いもあって。
そして現在、花村美樹はれっきとした松山家の一員である。とはいえ庭で飼われている犬のゴウでさえ家族とみなされているから、それほどありがたいことではない。美樹はとうにひとり暮らしもできる年齢だが、やはりこの家が居心地いいようだ。美樹は稔たちを家族として必要としているのだろう。もちろん稔たちにとっても美樹はかけがえのない存在である。だから松山家ではみな、このまま稔と美樹が結婚して本当の家族となってほしいと願っている。
そんな美樹も今春ぶじ大学を卒業し、理学部生物学科の研究室に通う大学院一年生だ。そこで植物学者をめざしている。それは小さい頃の「お花屋さんになりたい」という夢を今でもひきずっているらしい。
ところで松山家の庭には三坪ほど温室が、裏山には一反(=10a=約300坪)ほどの花壇がある。どちらも美樹のためのもの。もっとも花壇とはいっても傾斜はあるし地目も山林だ。クヌギやコナラの雑木林を造成すれば、もっと大きな花壇ができるのだけど、今のままでも充分な面積だろう。一反とは、美樹がひとりできちんと面倒をみるのには、平日なら朝と夕方の数時間、休日ならほとんど一日手入れしなければ維持できない広さである。いうまでもないことだが、稔もしばしば肉体労働にかり出されている。おかげで花壇はいつもたくさんの草花であふれかえる状態である。最近はインターネットやメールで海外の園芸家とも親しくなり種や球根などを交換しあって、美樹によると極めて珍しい品種もあるそうだ。小さな温室と林の中の花壇は美樹のお気に入り。彼女は花を育てることが好きなのだ。
あずさが再びピアノを弾きはじめた。美樹は電話を終えたようだ。廊下から急ぎ足でリビングルームに戻ってきた。
「稔さん、体がつらいようなら、お隣りにいって看てもらったら?」
季節はずれの風邪のために、ときおり稔がせきをしているのに美樹は気づいてくれていたのだ。
お隣りというのは、梅崎という医者の家である。梅崎家は代々、医者の家系。その中に幼なじみで医学生の繁夫がいる。稔にとって繁夫はひとつ年上の兄みたいなもの。だから遠慮はまったくいらない。
「だいじょうぶだよ。全然たいしたことないんだ。でも心配してくれてありがとう」
稔は美樹の気をひいたのがうれしく、ついつい弾んだ声になる。
「毎年この時期になると風邪になるから慣れているんだ」
夏が好きなくせに稔は、ちいさい頃から初夏に決まって風邪をひく。ひどい症状にはなったことがないが、せきだけが長く続く。この頃の陽気はちょっとだけ蒸し暑くて、なんだか身体ごとぬるま湯に浸かっているような気分が稔にはする。だからかえって湯冷めをするのだ。
「熱はないの?」
「うん、ない」
「それならいいけど」
そして美樹はしばらく考えるようなしぐさをしてからいった。
「ねえ、稔さん。あしたお昼ごろ暇かしら?」
「え? あしたかい。ごめん。あすは朝から日曜出勤なんだ。まったく、おととい夜勤をしたばっかりだというのに」
なぜ警察は年中無休二十四時間営業なのだろう、そう心の中でぼやきながら稔はいった。
「ところで美樹、あしたは何があるの?」
「いいえ、それほどたいしたことではないの」
態度にこそ現れなかったが、心なしか声はがっかりしているようにきこえた。美樹は稔のティーカップが空になっているのに気づいて、紅茶のおかわりをするために流し台に向かった。稔はその後ろ姿をみつめる。美樹は百七十センチと長身だが、脚や体の線が細くてきれいなせいか、たいへん華奢にみえる。おもいっきり抱きしめたら折れてしまいそうだな、と稔は思った。こんなことを考えるのは椎の木の花の香りのせいかもしれない。
窓ぎわのやわらかな風がやさしくレースのカーテンをなびかせている。まゆみがすこし開けたままにしていたようだ。
「さっきの電話、ちょっとした知人からでね」
美樹は自分が飲む紅茶も用意してテーブルに座った。
「そんなに親しい間柄ではないけど、バラパーティーに誘われたの。『すごいバラの花が手に入ったから見に来ない!』ってかなり興奮していて。彼女たいへんなバラ好きで。まあ、それで知り合ったのだけど」
「それで?」稔が先を促す。
「それで明日の午後一時に彼女のマンションに行くことになって。でもその娘、お金持ちなんだけどちょっと変わっていて。『パーティだから男性同伴でね』と言われたの。どうやら出席者はみんなカップルで来るし、外国ではそれが当たり前らしいの」
そりゃあ外国ではそうかもしれないけどここは日本じゃないか、と稔はつぶやいた。それにしても美樹はなんだか困っている感じ。幼い頃から筋金入りの花マニアの美樹のことである。よほどバラを見に行きたいのだろう。
「でも美樹、あんまりバラは好きじゃなかったのではなかったっけ」
ふと稔は疑問に思った。美樹がトゲのある植物は嫌いだと知っていたからだ。美樹は昔から、バラよりも、ぼたんが好き。ひまわりが好き。
「そうね。ちょっと興味があって。でもこれは特別。だってバラパーティなのよ。いにしえの貴族たちが部屋中をバラで満たしたように」
稔はつい口がすべってしまった。
「分かった。それならぼくはあした休みをとるよ。日曜出勤といったって、仕事ではなく自主研修なんだ」
美樹にとって花や植物が特別な存在であるように、稔にとって美樹は特別な存在なのだ。
すると美樹は、何を言っているの、というふうに本気で怒った顔をしてから、
「ふざけないで。私をからかっているの? だって稔さん、あなたは今年、警察官になったばかりなのよ。まだ二ヶ月もたってないじゃない。そんなことでは捜査員はつとまらないでしょう?」
美樹は警察官を尊敬している。たいへん崇高な職業だと思い込んでいる。そうじゃなきゃ、いくら父と同じ仕事だからといって封建時代じゃあるまいし、誰が好き好んで警察官なんかになるものか。これが稔の本音である。
「いや、ちがうよ。そんなつもりで言ったのではない」稔はあわてた。「美樹にとってバラパーティはとても大事なものだろう。そう、ぼくにはそれがよく理解できるから、うん、痛いほど分かるから、むげに断ることはできないよ」
稔は言っているうちに、だんだん調子がもどってきた。
「世間では、きつい、汚い、危険の三K職種の代表のように思っている人もいるが、ぼくはこの仕事に誇りを持っている。天職とさえ思っているほどだ。たとえ親の死に、いや、ごめん、たとえどんなことがあろうとぼくは仕事の方をとる。それが真の警察官というものだ。でも、そのせいでつめたく感じることもあるかもしれない。だからせめて美樹の気持ちだけは傷つけたくなかったんだ。それに、休みを取るといったのだって、きっとぼくのつらい心中を察して、美樹の方から遠慮してくれると信じていたんだ」
彼はついでに一部、嘘もつけ加えておいた。
「ごめんなさい。私、分からなくて」
美樹は申し訳なさそうにうつむきながら、それでも尊敬のまなざしを稔に向けた。
「私はパーティ参加が目的ではないから、男性同伴でなくても、ちらっとぐらいはバラパーティの様子を見せてくれると思うわ。なんだかんだいったって、彼女の方もみせびらかしたいのだと思うし。だから稔さんは気にしないで。お仕事がんばってね」
稔は美樹のやさしい心づかいがうれしかった。そして安心した。美樹は他の男性と行くつもりはないらしい。
それにしても、せっかく美樹の方から誘ってくれたというのに。警察なんかつぶれてしまえ。稔は心の底からそう呪った。 |