さくら
この気持ちを、色にするなら、さくら色。
淡く、微かに頬を染めたような、優しいピンク色。
……そんな気持ちは欲しくない。
彼に対して、そんな淡い色は欲しくない。
必要なのは、
そう、
くろ。
黒だ。
何色にも染まらず、確かな存在。
澄み渡る、冷めた存在。
そんな黒だ。
第一印象は最高に良かった。
「初めまして。兵藤一です。どうぞよろしく」
それは9月の頭。
夏休みを終え、学校が再開された一日目の全校集会。
産休に入った数学教員の代わり、臨時教員として彼は壇上で挨拶をした。
花の女子高。
臨時教員の色男ぶりに、生徒は皆、歓声をあげた。
兵藤一は背が高く、どちらかと言えば細身。鼻は筋が通り、肌は焼け過ぎず白過ぎず。最近では珍しい黒い髪は、むしろ彼の艶やかさを増幅させているようだった。
美丈夫とは彼のような人を言うのかと、半分見惚れながら感心した。
兵藤一は、とても色っぽかった。
第二印象は、最強に最悪だった。
成績も品行も、どちらも目立ちはしない私は、普段なら教師に呼び止められ、用事を言い付けられるという事はない。
この時は、本当に運がなかったのだ。
「お。丁度良かった。橋本、これ、図書室に返しに行ってくれないか?」
呼び止めたのは担任の宮原先生。
彼は、私が図書委員であることを知っている。
「分かりました」
私は素直に承知し、先生から数冊の本を受け取った。
授業も終わった放課後。図書室には当番の図書委員が一人いることだろう。
しかし、校舎とは別に建てられた古く小さな洋館風の図書室は、普段から利用者が少なく、それを知る図書委員の面々は当番をサボるのが常だった。
だから、誰もいないだろうと思いながら図書室に入る。
その瞬間、異様な光景が目に入った。
「あっ…あっ…やだっ、そこ……あ、ぅん…」
「やだ?こんなにしといて…?」
半裸の女生徒。
それを後ろから抱きすくめ、いやらしく口を歪めて笑う兵藤一。
そんな経験がない私でも、今、彼らが何をしているのか即座に分かった。
ドサドサッ…
驚きのあまり、本を落としてしまう。
その音で私に気付いた兵藤一は(女生徒は私に気付く余裕がなかったようだ)、私を見てニヤリと笑った。
『混ざる?』
と、その歪んだ口が音もなく訊ねる。
私は羞恥心と憤怒とでカッと顔が赤くなるのを感じた。
何も答えることができず、ただ私は、そこから逃げ出した。
何であんなトコで…
そんな疑問で頭がいっぱいになる。
てか早速、生徒を喰ってんじゃねぇっつの!
怒りのつっこみも、心中で言うだけでは、何の役にも立ちはしない。
彼に見惚れながら感心した、その翌日のことだった。
それからというもの、私は兵藤一が多くの生徒ととっかえひっかえに関係を持ってる場面に遭遇するようになった。
それは大抵、空き教室で、人気のない所。
なのになぜ私はその場に遭遇してしまうのか。
理由は簡単。
兵藤一が教員になる前から、私が空き教室を利用して息抜きしてたから。
だから、私も兵藤一と喰われるだけの女生徒同様に、空き教室に足を向けてしまうのだ。
まさか、事有るごとに同じ教室を利用するなんて、思いもしないじゃないか。
でも実際は、事あるごとに、彼らに遭遇していた。
女生徒らは自分が遊ばれているだけという事を知っている。
兵藤一が、たくさんの女生徒と関係を持っては切り捨てていることを。
それでも、兵藤一に憧れ、遊ばれるだけでもいいから一度は彼の特別になりたいと…
願い、彼に近付く生徒は後を絶たない。
一度捨てられた者も、もう二度とそのような関係にはなれないのに、それでも彼女達は兵藤一に近付いていく。
私には、とうてい理解のできない事だった。
そして今も、理解できない光景と遭遇している。
兵藤一がわが校に赴任して半年が過ぎた。
いい加減その光景にも慣れ、私は驚く事もせず、静かにその場を去った。
女生徒はやはり気付いておらず。
だけど兵藤一は、気付いているだろう。
嫌な男だ。
私は、兵藤一が嫌いだ。
数学は担当が違うため、授業で彼を見た事はない。
この、理解できない光景でしか、彼を見る事はなかった。
だから話したこともないし、半径5メートル以内にも入った事はない。
入りたくもない。
嫌いだ。
その気持ちは、色にするなら、くろ。
黒。
暗黒。
何色にも染まらない、闇の色。
どんなに鮮やかなピンクでも、暗黒の中では輝かない。
だから、くろ。
くろだったらいい。
……だけど。どれぐらい前の事かは覚えてないけど。
兵藤一が一人、夕暮れの教室で涙を流す姿を見た。
机に腰掛け、窓からグラウンドを見下ろし。
静かに、涙を流していた。
一すじ、二すじ。
流して、何かに祈るように目を瞑り……
静かに口の端を上げて笑った。
穏やかな笑顔だった。
二すじの涙と、その笑顔が切なくて……
くろの中に、さくらが一つ、蕾を付けた。
自分で微かに気付く程度の小さな蕾。
思わず、私はそれを握り潰した。
くろ。
黒。
暗黒。
それで塗り潰した。
だって、彼に対して、さくらなんていらないから。
そんな優しいもの、いらないから。
明日に卒業式を控えた夕暮れの教室。
空き教室ではなく、自分のクラスで暇を潰していた。
高校生活の最後を、兵藤一と女生徒の濡れ場で締めくくりたくはない。
だから、教室で暇を潰していた。
家に帰ればいいのにと、友人には言われるが、私は放課後の誰もいない空気が好きだった。
一人で天界にいるような心地。
それを味わう。
今日ばかりは、自分の席ではなく…
窓際の席を借りて落ち着く。
ふと、いつかの兵藤一を思い出した。
あの涙と笑顔の理由は何だったのか。
知りたいと思うが、くろの中にさくらの蕾が小さく付いたので、また、潰す。
だいたい、知ろうにも私と兵藤一の接点はない。
会話もした事がなければ、半径5メートル以内にも入った事はない。
入りたくもない。
だから当然、知ることはできない。
……だから。
兵藤一は、私の存在を知っていたとしても、私の名前や声は知るまい。
全く関係のない、関係。
それが、私と兵藤一の関係だ。
そんな事を思いながら、窓の下、グラウンドを見下ろす。
卒業式を明日に控え、部活動はどうやら全て休みらしい。
静かなグラウンドに、赤い夕日が差している。
赤いグラウンドをしばらく眺めていると、教室のドアが開いた。
振り向くと、兵藤一がそこにいた。
「下校時刻は、とっくに過ぎてるぞ」
そう私に忠告する。
今日は午前だけの学校だった。だから、私は随分長いこと教室にいる。
兵藤一は、私がずっといたことについて驚いていなかった。
まるで、私がいることを確信していたかのような笑み。
「知っています」
一言、そう答える。私は再びグラウンドに目をやった。
「帰らないのか?」
兵藤一が訊ねる。
初めての会話。
でも、最後の会話でもあるだろう。
そう考えると、なぜだか笑えて、小さく息を漏らして笑った。
「まだ、帰りません」
「ふぅん」
気のない相づちを打つと、兵藤一は教室のドアを閉めた。
その音に、彼がいなくなったと思った私は、ドアの方をまた見た。
音がすると振り返る。
そんな自然な動作で。
しかし、兵藤一は、まだそこにいた。
一歩、二歩。
私に近付いてくる。
私は静かにそれを見ていた。
私が座る窓際までくると、兵藤一は無言でグラウンドを見下ろした。
初めての、接近。
でもきっと、これが最後だろう。
「いつも、放課後一人で何してるんだ?」
「答える義務がありますか?」
「……興味がある、その理由だけじゃ答えてくれないか?」
「……一人が、好きなんです」
「そうか」
互いに顔を見る事はせず、ただ声だけでやり取りをする。
「最初の頃は、びびってたよな」
笑いを含んで、兵藤一は言った。
一瞬、何の事かと考えたが、すぐに思い付く。
「平然としてる方が異様でしょう」
そう言って、初めて見た図書室での光景を思い出す。
胸焼けがする。
「最近では平気そうだったけど?」
「…半年も見続ければいい加減、慣れます」
「それもそうだ」
やはり、笑いを含んで兵藤一は相づちを打つ。
「……何で、あんな事しているんですか?」
実を言えば、ずっと抱いていた疑問。
もちろん、まともな理由など期待してはいない。
「求められるから」
濁ることも躊躇うこともなく、兵藤一は答えた。
思わず、彼の方を向く。
兵藤一も、真っすぐに私を見ていた。
目がかち合い、外せなくなる。
まるで石にでもなったように…
しばらく私が固まったままで何も言えないでいると、兵藤一は、ふっ…とおかしそうに笑った。
嫌な男だ。
「求められ、それに答えるのは当然だろう?」
言葉だけ見れば、それは正論。
しかし、その中身は背徳そのものではないのか?
私は心の中で小さく憤る。
「でも、一度与えた後は、見向きもしないんですね」
精一杯の嫌味。
それを兵藤一は軽く一蹴する。
「願望が叶った後、再び求めるのは欲望だ。欲望の餌食になるつもりは俺には一切ない」
勝手な言い草だと思うが、なぜだか納得してしまう。
「……だけど、彼女達の花を咲かせて、散らせて、踏み躙るようなそんな事、どうして平気なんですか……?」
知らず、声が擦れた。
動揺していると、この時初めて自覚した。
兵藤一はそれを笑いはせず、静かにその質問に答えた。
「誰もが経験するだろう苦い思いを、俺は教えたのだと考えてるから」
「傲慢…」
「そうだな」
罵っても、兵藤一には効きそうもない。
傲慢さに、屈してしまいそうだ。
「……先生は、傷ついて泣いたりはしないのですか」
願いを叶え、しかし捨てられた女生徒達は、確かに再び彼に近付いていくが、中には傷ついてしばらく泣き続けた子もいたことを、私は知っている。
兵藤一が、一人夕暮れの教室で涙を流していたのを知っている。
あの涙は、理由は、何なのか。
この時強く知りたいと思った。
私の、願望。
蕾。
潰す余裕がなかった。
「…さぁ。答える義務は、どこにある?」
私が初めに答えたように、兵藤一も言った。
ずるい。
「ただ知りたいと、その理由ではダメですか」
擦れた声で私は問う。
兵藤一は息を漏らして小さく笑った。
「ダメ」
「なぜですか」
「俺には、お前の願望に答える気持ちがないから」
ばっさりと、身体を真っ二つに切り裂かれたような衝撃。
兵藤一によって、ついた蕾は潰された。
咲くどころか、膨らむこともできない私のさくらの蕾。
「俺は人間だから、全てに平等に接するなんて難しいこと、できない。だから…」
言葉を切る。
兵藤一は私を真っすぐに見据えた。
目を合わせ、私を石にする。
身を裂かれた衝撃も総じて、私は何も考えられない。
そのうちに、兵藤一は私に自分の顔を近付け、
私の唇に自身の唇を静かに重ねた。
「…俺の願望を叶えてもらうよ」
それは、感触が分かるか分からないかという、触れるだけの……
キス
なぜ……?
そんな疑問が浮かんだ時には、兵藤一は教室を去っていた。
意味が分からない。
分からない。
だけど……
くろの中、一つどころか、潰す事ができないほどの、蕾がついた。
それはみるみる膨らんで……
花が咲く。
さくらが咲く。
咲いたさくらは後は散るだけ。
散ることが分かっている私は、その切なさに涙した。先生。
兵藤先生。
あなたは私のさくらをも、咲かせて散らせてしまうのですか。
むごい。
なのになぜ、私のさくらはこんなに鮮やかなんでしょう。
咲けたことに喜びを感じているのでしょうか。
先生。
咲いたさくらを、私はどうしたらいいのですか。
散るのは辛い。だけど、咲き続けるのも残酷です。
……そうですね。咲いたものをそのままにはしておけない。
先生の理論は、賛成はできないけれど、正しいのかもしれません。
兵藤一は、結局、私の名を呼ぶことをせず……
キスで咲いたさくらを抱え、私は明日、高校を卒業する。
卒業式が終了し、最後のHRも終わって…
私も含め、卒業生は思い思いに写真を撮っている。
後輩や友達、クラスメートと撮った後は、自分のお気に入りの先生とのツーショット。
一番人気は、やはり兵藤一で。
フラッシュと女生徒に囲まれた兵藤一を遠目に見ながら、私は他の先生と写真を撮った。
昨日咲いたさくらは、やはり今日も美しく咲いていて…
これから散るのだと思うと、胸が軋んだ。
今日が、卒業式で良かったと思う。
放課後、写真を撮る生徒もいなくなり、教師陣は各々の仕事に戻る頃。私は図書室に入った。
兵藤一と女生徒の濡れ場を初めて目にした場所だ。
もしかしたら、今日もやってるかもしれないと思いながらも、私は図書室に行きたいと思ったのだ。
理由は分からない。もしかしたら、初めて兵藤一を強く意識した場所であるからなのかもしれない。
図書室に入ると、そこには誰もいなかった。
ホッとすると同時に、淋しさが自分を取り巻く。
何をやっているのだろうか。
何を、期待していたのだろうか。
なぜだか、ここに来れば兵藤一に会える気がしていた。
会ったところで、何の変化もありはしないだろうに。
いや。ただ、私はさくらを散らせる方法を求めただけかもしれない。
求める。
それは願望だ。
この願望は……やはり兵藤一は叶えてくれなかっただろうか。
昨日叶えてくれなかったように、やはり私の願望は、叶えてくれないのだろうか。
なぜ?なぜ、私の願望は叶えてくれないのだろう。
理由が知りたい。
…これもまた、願望。
咲いたさくらの隙間に、新たな蕾がポツポツとつく。
果てしない願望。
何だかおかしくて、自嘲した。
その時。
「俺の濡れ場でも期待した?」
バカにするような質問を背中に聞いた。
振り返ると、兵藤一がそこにいた。一人で。
「……期待なんて、してません」
突然のことに驚いて、だけど口から出たのは昨日同様かわいげのない言葉。
他の女生徒のように、私も素直であれば、願望は叶えられていただろうか。
「ふぅん」
気のない相づちを打ち、兵藤一は後ろ手に戸を閉めた。
「……先生。先生は、さくらが散って泣いたことはありますか」
唐突に、そんな質問をした。
“さくらが散って…”なんて比喩表現、私の心理でしか通じないというのに。
それ以前に、脈絡がない。
願望ばかりが先走り、考えるより先に、口から言葉がこぼれていた。
内心で苦い顔をする。
「さくら、か」
しかし、兵藤一はその比喩表現を汲み取り、息を漏らして微笑した。
もしかしたら、意外にも彼とは思考回路が似ているのかもしれない。
「答える義務はない。そう言わなかったか?」
昨日と同じ質問と、きちんと彼には理解された。
だから昨日と同じで、大人の余裕でかわされる。
予測していたことだ。
「では、違う質問を」
兵藤一はドアの近くから動いておらず、半径5メートル以上離れている。
だけどしっかりとその目を見つめ、もう一度、別のことを問う。
「昨日、先生のさくらは咲きましたか?」
“さくら”という表現は、彼にも通じるらしいので、私は比喩表現を用いたまま訊ねる。
昨日、兵藤一は言った。
『俺の願望を叶えてもらうよ』
と。
私にはその願望が何だったのか分からないけれど、叶えられたのかどうかが気になった。
兵藤一はしばらく黙り、しかし微笑はそのままに答えた。
「咲いた」
短い答え。
だけど、力強い答え。
「今もそれは、咲き続けたままですか?」
また問う。
「まだ、散ってはいないな」
「散らせる気ですか?」
「散るのなら、自然に散るだろう。手を貸すまでもない」
「そうですね。では、私は先生の願望を叶えたと言うことですよね」
「そうだな」
「じゃあ今度は私の願望を叶えて下さい」
「……」
私の願いに、兵藤一は何も答えない。
なぜ、私の願望は叶えてもらえないのか…
分からない。
だから問う。
「なぜ、私の願望は叶えてもらえないのですか」
「……」
やはり、答えてくれない。
私は沈み、図書室のカウンターに腰掛けた。
さくらが散ろうとしているのを感じた。
「お前の願望とは、何だ?」
兵藤一の問い。
思いもしなかった言葉に、さくらは持ちなおす。
一度逸らした目を、再び兵藤一に戻した。
「願望とは?」
私と目を合わせ、もう一度訊ねる。
黒めがちな目だな。
と、妙に冷静な感想を持った。
「……たくさんあり過ぎて、分かりません」
「強いて叶えたいと思うのは?」
男の割に、随分と長い睫毛に縁取られた黒い瞳に、吸い込まれそうになりながら、虚ろに考えた。
強いて、叶えたい願望……
何だろうか。
あの夕暮れの、涙の理由が知りたかった。
笑顔の理由が知りたかった。
初めての蕾はそれ。
だけど、理由が知りたいと思った、その、理由は……?
分からない。
分からない?
嘘つき。
分かっているだろう?昨日、咲いてしまったさくらで。
私は、この男に、兵藤一に恋していると。
その気持ちは、何度も否定し、くろで潰してきた……
さくら色。
淡く、頬を染めたような、優しいピンク。
好きです。
さくらが勝手に咲いてしまうぐらい、
好きです。
兵藤先生。
そんな思いが心を満たし、溢れた。
「……私の名前を呼んで下さい」
好きです。兵藤先生。
だから、私の名前を呼んで下さい。
そしたら、満足する。そんな気がします。
だって、先生は私の名前を知らないでしょう?
だから、きっと、私の名前を知ってくれていたら……さくらが咲くと思うのです。
「名前?」
「はい」
怪訝な顔で、兵藤一は私を見る。
彼には私の真意は見えていないらしい。
「それとも、私の名前は知りませんか?」
あれだけ顔を会わせていて。
だけど話したのは昨日が初めて。
接近したのも、昨日が初めて。
ねぇ、先生。私の名前、知っていますか?
まるで兵藤一を試すような願望。
ごめんなさい。
捻くれてて、ごめんなさい。
私は他の生徒のように素直になれない。
成績優秀なわけじゃない。
悪いわけじゃない。
品行が特別良いわけじゃない。
悪いわけじゃない。
特別、美人でも可愛いわけでもない。
決して目立ちはしない、普通の生徒。
授業も違う。
名前なんて知らないでしょう?
だからこれで、私のさくらは散る。
散らせることができる。
後ろ向きな願望。
「……」
数分、先生の言葉を待ったけど、何も言わなかった。
言えなかったんですよね。
だって先生は、私の顔や姿形は知っていても、
声を聞いたのは昨日が初めて。
これは当然の結果。
だから……
「先生。私の願望、叶いました」
嘘を吐いた。
まだ、さくらは散っていない。
だけど今、こう言ってしまわないと辛かった。
散るのは分かってる。
散るように仕向けた。
だから、先生。
兵藤一さん。
さようなら。
「さようなら」
初めて私は微笑んだ。
ゆっくり一礼し、兵藤一の横を擦り抜け、図書室を後にした。
目に熱いものが込み上げてくる。
瞬きをしない。
歯を食い縛る。
下を見ない。
顎を上げる。
早足で、正門に向かう。
我が校の正門は、校舎のある所から階段を30メートルほど下った所にある。
特殊な造りだ。図書室にしろ、空き教室の多さにしろ、特殊だと今さら思う。
階段を下りるのがもどかしい。
やっと、正門まで辿り着いた時、階段の上から誰かが何かを叫んだ。
男の声。
振り返ると、そこには振り切ったはずの、兵藤一。
なぜ……追い掛けて来てるのか。
意味が分からない。
ただ、兵藤一が息を上げているのが分かった。
「勝手に、結論づけるな。誰も、お前の名前を知らないとは言ってないだろう!」
怒鳴るように、彼は言う。
私が正門手前で動きを止めたのを確かめると、兵藤一は階段を下りてきた。
そして、ガシッと私の腕をつかむ。
つかんで、正門から出た。
正門から2メートル離れる。
そこで私を振り向き、睨むように私を見下ろした。
その目が怖くて、私は固まる。
そのことが分かったのか、兵藤一はつかんでいた腕を離した。
「勝手に、結論づけるんじゃない」
なぜそんな事を言うのか分からない。
ただ、その目が悲しそうに揺らいだので、私はじっと、彼を見た。
「私の名前を……」
最後まで問うことができない。
熱いものは、目だけではなく、胸にも喉にも、込み上げていたらしい。
言葉が震えていた。
「橋本」
「……」
名字なんて、上手くすれば誰かが呼んでいるのを聞いて知ることができる。
だから私の蕾は、びくともしない。
「橋本、涼華」
とくっ…
心臓が鳴る。
「涼華」
とくっ とくっ
兵藤一の呼ぶ声に、心臓が高鳴る。
早くなる。
蕾が芽吹く。
花開く。
さくらが、咲いた。
これでもかと言うほど淡いさくら。
薄く色づき…
だけどきれいなピンクのさくら。
私の目から、涙がこぼれた。
「……咲いた?」
まるでイタズラが成功した子供のような、無邪気な笑顔で彼は問う。
私は、無言で首を振り、頷くことしかできない。
「じゃあ、俺と一緒に、咲かせ続けようか」
そう言うと、兵藤一は私の頬をその手で包み、唇を重ねた。
瞬間。
昨日咲いたさくらが散って、
新たな蕾が咲き乱れた。