情報
職安通りを東新宿駅に向かって歩いていた。時刻は正午になろうとしていた。空腹感はない。
職安通りは相変わらずの人の量に、交通量。携帯電話で上司と話しているサラリーマン、デジタルカメラを下げた香港の連中、横を通る奴にしぶとく交渉する客引き、二十代の男をカモろうとするポン引き、穴が開き、色が褪せたジーンズを掃いた薬中、いつも通り。
松宝ビルの前で曲がり、影でひっそりとした車の修理場が見えてきた。前まで来ると、油の臭いが漂ってくる。
中に入り、青いインプレッサの下に潜り込んだ男――江本晴久――に近寄る。
「悪いな。他の日にまた来てくれ」
力の籠もった声が聞こえてくる。溜め息をつき、しゃがむ。
「俺だよ」
それを聞いて頭だけを車体の底から出す。顔を見てまた戻る。
「昨日、陳に変わった様子はなかったか?」
溜め息が聞こえてきた。底から体を出し、立ち上がる。
「知ってるぞ。あんた昨日、楓林閣にいたんだろ?」
「まったくその通りだ」
後ろにあった、タイヤの上に座る。
「俺に被害は?」
「ない」
嘘。百パーセント安全なんてこの街には存在しない。江本が溜め息をつき、また潜り込む。
「変わった様子はなかったか?」
「いや。特に気になる事は無かったぜ」
車体の底で、車の整備しながら言った。それをタイヤの上に座りながら聞く。
「ほんとか?」
顔に真っ黒な油を付けながら出てくる。
「あぁ」
タオルで顔を拭く。溜め息をつきながらラークを取り出す。
「おい」
見上げる。江本が眉間に皺を寄せながら立っていた。
「ここは禁煙だ」
江本は壁に指をさす。その先には禁煙のマークが貼ってあった。タイヤから立ち上がり、外に出た。
「邪魔したな」
茶色いフィルターをくわえながら言った。江本が蠅を追い払う様に手を動かす。
火を付けた。煙を吐く。二丁目の中を通り、区役所通りに出た。
区役所通りを歩き、ゴールデン街の裏通りに入った。まだ昼だが人の量はまずまずだ。青いネオンで天国と映った二階建ての売春宿に入る。
「お早う御座います。木村さん」
入り口にいた男が笑顔で言った。俺は微笑みながら手を振る。通路を歩いていると目の前から肌を露出した服を着た女達が猫の様な声で来た。
「お早う御座います! 木村さん!」
何人かの女が腕を組んできた。
「今度あたしの所に来てよ木村さん!」
「ちょっとずるいわよ!」
「そうよそうよ! あたしの所に来てよ木村さん!」
忽ち女同士で口論になった。人気者は辛いな。
「分かった分かった。順番に君たちの所に行くよ。先ず最初に君だ」
適当に正面にいた女に指をさした。
「もうそれぐらいにしてやれよ」
後ろから男が微笑みながら来た。俺は助かったという表情を伊藤に向ける。
伊藤建。ここ、天国のオーナーだ。こいつとは街のガイドをやっている時に知り合い、それから俺の数少ない友人の一人だ。
「は〜い」
女達が通路を歩いていった。
「まぁ、入れよ」
伊藤がドアを開け、招く。俺は部屋の中に入った。
太陽の日が入らないここは少し暗い。部屋の中は白い壁で木製の大きなデスクが窓際にあった。俺は目の前の椅子に座る。
「で、今日は遊びに来たのか? いろいろいるぞ。アメリカ人? フランス人? ロシア人? タイ人? 中国人? 日本人?」
伊藤はニヤニヤしながら言った。
「そんなんじゃない」
伊藤がデスクの上に置かれた酒のボトルを持った。
「冗談だよ」
グラスに酒を入れた。
「最近、劉の様子がおかしい」
「劉? 劉偉の事か?」
伊藤が一口飲んだ。
「あぁ。頻繁に大林組の幹部の吉田敦史と会ってるみたいだぜ」
吉田敦史。大林組の幹部で次期組長と言われている。なんでも昔、かちこみに来た鉄砲玉――殺し屋の事――三人を返り討ちにしたとか。
「いや、大林組とは最近もめてな。それで劉が行ってるんだ」
伊藤はへぇーと言う様な顔で見た。
「だが、念のために調べてくれ」
伊藤はショートホープを一本取り出す。
「お前は?」
「俺は明日から林さんの女のお守りなんだよ」
「女がいたなんて初耳だな。どんな女なんだ? 可愛いのか?」
伊藤が顔を近づけてきた。女の話になるといつもこうだ。
「情報頼むぜ」
伊藤が何か言う前に立ち上がった。
「へいへい」
ふてくされていた。ドアノブを回す。
「気をつけろよ。昨日からこの街の雰囲気が変わった」
「いつもの事だろ」
俺は微笑みながら部屋を出た。そう、いつもの事だ。
天国を出ると、歌舞伎町に夜が訪れようとしていた。太陽が真っ赤な光を放ちながら沈んでいく。
疲労が出てきたが、休む訳にはいなかい。携帯電話を取り出し、番号を押す。コール一回……二回……電子音が止まる。
『何だ?』
寝起きなのだろう。苛立った様子だ。
「会って話したい」
『…………』
煙草に火をつけた。
『三十分後だ』
「分かった」
電話を切り、ポケットに入れる。煙草をくわえながら区役所通りを再び風林会館に向かって歩き出す。
風林会館を左に曲がり花道通りを歩き
交番の前を通り、新宿ハイジア駐車場に着く。
静かな駐車場に靴の底が地面に当たる音が響き渡る。短くなった煙草を指で弾き、灰色のコンクリートに当たり火花が散った。
「五分遅れだ」
後ろにある真っ白のシビックから黒のパーカーに灰色のスエットを来た男が出てきた。
「なぁ、正一郎……」
萩原正一郎はシビックのボンネットに腰を下ろす。
「あぁ。言いたい事は分かってるよ」
なら良いんだがな。
「王に不信な動きはなかったか?」
萩原はゆっくり首を横に振る。
「静かなもんさ。韓国、上海、北京の妙な動きもないしな」
溜め息をついた。一日中ずっと歩き回って結局、劉が怪しいだけか。ラークの箱を出すが中身は残り一本。最後の一本に火をつけ、煙を肺に入れる。
「起こして悪かったな」
萩原は腰を浮かし、車の中に入った。エンジンが音を立てて生き返る。シビックが出口に向かって進み出す。俺はそれを煙草を吸いながら見送る。
駐車場に静寂が戻った。俺は駐車場を出て、花道通りに出る。夜の歌舞伎町。眩しい程に光るネオン看板。派手に露出した服を着た娼婦がちらほらと見え始めた。
歩道で軽く手を上げる。目の前にタクシーが止まった。煙草を投げ、中に入る。一番街、と告げてタクシーは動き出す。
タクシーを降り、一番街のアーチを潜る。人で溢れていた。かき分けながらなんとか塒の家に着く事が出来た。
ドアを開け、寝室に直行。コートを脱ぎ、そのままベッドに倒れ込む。すぐに眠る事が出来た。さすがに朝からずっと歩いていると疲れるものだ。
真っ暗な世界。手には黒い回転式拳銃のコルトパイソン。いつの間にか雨が降りしきる路地にいた。目の前には女がゴミ袋の山に倒れている。後頭部に大きな穴が開き、脳味噌が雪崩の様に流れている。真っ赤な血に濡れ。
動く。まるでゾンビ映画を見ている様だ。ゆっくり起きあがる。
「……さん」
なんだよ。良い所なのに。
「木村さん。起きて下さい」
目を開けた。若い男が俺の体を揺すっていた。頭が回ってきた。あぁ。下でバイトしている赤崎竜也だったかな。
「何だよ?」
目を擦りながら言った。腕時計を見た。八時二十九分。
「何か物騒な連中が下に来てますよ」
少し怯えた表情でそう言った。その言葉で少し目が覚めた。起き上がり、窓から下を覗く。黒く派手なスーツ。髪をつんつんにした男達。大林組の連中だ。“面倒な事にならなければいいが”と思いながらコートに腕を通す。
「大丈夫だ。なんとかする」
赤崎にそう言ってドアを開け、階段を下りた。男達が一斉に中村を見る。
「何の用だ?」
「若頭が呼んでます」
若頭。吉川の事だ。
「呼ばれる覚えはないな」
そう言うと脇腹に何か当てられた。銃だ。黒いコンパクトなオートマチックのS&WM5906だ。コンパクトの割に十四発も入る銃なのだ。
「一緒に来て貰いますよ」
「こんな水鉄砲で脅そうってのか?」
笑いながら言った。左にいた男が近づいてき来る。透かさず腹にパンチを食らう。
「連れてこい」
両端に男達に腕をがっちりと組まれながら歩いた。
靖国通りに黒いベンツが止まっていた。その車に入った。両端に二人が乗り、前に一人乗り、車が動き出す。車は靖国通りを区役所通りに向けて走り、区役所通りに入り、風林会館を横切り、ビルが立ち並ぶ歌舞伎町二丁目に来た。車が止まった。右にいた男が降りる。
「降りろ」
俺は黙って車を降り、雑居ビルの中に入った。正面のエレベーターに乗る。窮屈だ。エレベーターを降り、事務所の中に入った。入ると、正面に男が堂々とデスクの上に足を置き、葉巻を吹かしていた。何時見ても気に食わないな。
この男が大林組の幹部、吉田敦史だ。
「連れてきました」
「おう」
デスクの前まで行った。
「何の用だ? 用が無いなら帰るぜ」
吉田が睨んできた。まさにヤクザだ。
「まぁ、座れ」
目の前の椅子に座った。
「ブツは何処だ?」
葉巻をガラスの灰皿に擦りつけた。
「何の事だ?」
「とぼけるな。倉庫のブツの事だ」
まったく言ってる意味が分からない。
「そりゃこっちのセリフだ。」
吉田はデスクの引き出しから何か取り出した。写真だ。
「こいつらを知ってるだろ?」
写真には楓林閣で襲ってきた男二人が写っていた。
「何を隠そう。こいつらは昨日の十一時頃、楓林閣に来ていた岑を拉致るために行った。だが戻ってこなかった。全員死んでたんだよ。一人を除いてな」
手に汗が滲んできた。
「何故お前は生きてる? そもそも何で、倉庫を担当している岑がお前と一緒に飲んでるんだ?」
「誰からその事を?」
吉田は写真を引き出しにしまった。
「それは問題じゃない、だろ?」
拳を強く握った。
「話を戻そう。ブツは何処だ?」
「知らん」
「早く見つかった方がお互いの為じゃないか?」
俺は立ち上がり、後ろのドアに向かった。吉田が笑顔で手を振っている。
「また会おうぜ」
ドアを勢いよく閉めた。さっさとビルから出て、近くにあった煙草の自動販売機でラークを買う。すぐに箱から一本出し、火をつける。不味い。
俺は花道通りを考えながら歩いていた。
まず、そもそも岑が俺を誘った理由。奴とはそれほど仲が良い訳でもないのに。次に何故俺があそこにいた事を知ってるのか。あの時間は野次馬以外に人は見ていない。次に吉田の言葉だ。奴は拉致するために行かせたと言うが、明らかに殺す気で行かせた筈だ。何故なら男が入ってきた時の目だ。冷酷な目だった。拉致る奴の目じゃない。
短くなった煙草を捨て、新しいのに火をつけた。た。胸の中にある靄は消えなかった。
「大丈夫?」
振り向いた。高橋絵里だった。
「何ともない」
「ねぇ、この後用ある?」
煙草の煙を深く吸い込んだ。
「別に」
「じゃ、決まりね」
高橋が笑顔で腕を絡ませた。どうやら今日は高橋と夜を過ごす様だな。
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