「林君……そろそろ仕事に行ったら? 君、今日は外回りでしょう」
「仕事なんかしてる場合じゃないですって」
「くぉら! 林! まだそんな所にいたのかっ。さっさと仕事行かんかッ」
ほら。部長の雷が飛んできたじゃない。
あまりにもいいタイミングで、思わず笑ってしまった。
笑いながら彼を見ると、ボーっとこちらを見ている。
「……先輩の笑顔って、綺麗ですよね」
「何よいきなり。おだてても何もでないわよ」
「いやいや、本音ですって。先輩は美人だ」
「そんなこと言ってるんだったら、仕事行きなさい?」
「ふう。とりあえず行ってきます。……部長コワイんで」
彼はシャツだけで行ってしまった――上着、忘れてるわ。
先ほどからずっと彼を睨みつけていた部長の努力は実ったようだ。
だがシャツ一枚で商談は成立するのかどうか。
それにしても、彼は疲れているのだろうか。さっき、どことなく瞳が虚ろだった。
彼も……居なくならなければいいけど。
無駄な思考はそれきりにして、仕事に集中しよう。これ終わらないと帰れないもの。出来ることなら、夜までには仕上げたい。
でも……無理かもしれないわね。だって、今夕方だもの。
必死に目の前の仕事を片付けて、時計を見てみれば、時刻は夜の十一時。
すっかりどころじゃなく、しっかり暗くなってしまったじゃないの。
しかも、かなり暗すぎてよく見えないわ。
歩きながらそんなことを思った。
まだうちまでは結構距離がある。本当なら自転車だったのに、パンクしてしまったのだ。
しかも乗ろうとした瞬間に。とんでもなく苛ついた。
とぼとぼ歩くしかなかった。はあ……疲れるわ。残業手当もっと欲しいな。
人の気配がまったくしない暗い夜道を歩いていると、不意に目の前に人影が見えた。
酔っ払いかしら? と思っていると、その人影が声を発した。
「あれ? 先輩ですか……もしかして」
なにやら聞き覚えのある声だった。
「君……林君?」
影が近づいてきて、顔がなんとか見えた。
「やっぱり先輩だ。どうしたんですか、こんな時間に」
「仕事よ。なかなか終わらなくてね」
「そうですか。夜道っていいですよねえ、なんか怪しくて」
「そう?」
「はい。暗がりから、何か武器持った人とか出てきそうじゃないですかっ!」
「なんか……妙にテンション高くない?」
「ああ、さっきちょっと取ってきたんです、俺が欲しいもの」
隣を歩く彼の声は、なんだか楽しそうだった。
恐らく書店にでも行って、オカルト雑誌あたりを買ってきたのだろう。
そこで、ふと気づく。
彼……やっと上着を着たのね。
彼の服に黒っぽい色が見えたから。きっと身に着けたのだろう。
何着もってるのだろうか。
会社にも一着あったのに。
「ああ、そうだ、先輩」
「?」
先輩は……と彼が言って、いきなり私は彼に引き寄せられた。よく見えないけれど、いわゆる抱きしめられてる体勢になったような気がする。
「なっ……いきなり何する……」
「先輩は、俺の欲しいもの、くれますか?」
え――? 彼は、今なんと言った……?
彼が言った言葉を理解するより早く、胸に何か硬いものがめり込んで――それから熱くなった。燃え滾るように。
熱くなって、直後に激痛が走った、腹部に。
何が何だか分からず、パニックになる。
「はやし……君? 今何したの……」
よろよろと彼から離れて、自分の腹部を見てみると、中華包丁のようなものが突き刺さっていた。
手で触れると、生暖かいぬるりとした感触。
――血が、出ているんだ。
当たり前だろう……刺されているんだから。でもよく理解できなかった。
熱くて、痛くて、だんだんと力が抜けてきて。
道端に座り込んでしまった。
どうにかしなきゃ、血を止めなくては……って思ってるのに、眩暈がするばかり。
くらくらしながら、彼を見上げる。
彼はゆっくり近づいてきて言った。暗くなる視界のなか、彼の声が少しだけ聞こえた。
「ねえ、先輩の――を俺にください」
俺は自宅に帰ると、鞄からあるものを取り出した。
真っ赤な血に濡れたもの。俺が欲しいもの。
顔に当てて、鏡を見る。……今回も駄目だった。
多少いらいらしながら、それをゴミ箱へと放り投げる。
どうしてなんだろう。いつになったら手に入るのだろう。
先輩なら、俺の一番欲しいものをくれると思ったのに。叶えてくれると思ったのに。
血に塗れた自分の無表情な顔を見ながら俺はつぶやく。
「俺は、欲しいんだ……」
何度取っても欲しいものには届かない。いらないものばかり増えてゆく。
「……笑顔が……欲しいんだ」
虚ろな顔や、泣き顔。
怒った顔に……歪んだ、怯えた顔は、もういらないんだ。
そんなものいくらあっても意味がないんだよ。
無表情なのは、嫌なんだよ。でも自分で作れないんだ。
だから……だから、俺は。
俺は鏡を握りこぶしで強く殴る。
高い音がして、鏡に映った顔が歪む。
俺は、笑顔が欲しいんだ。それ以外の顔は、不要ないんだ。
――誰か……俺に笑顔をください―― |