こけ君という名
「こけ君?」
「は、はいっ!」
「……? 何をそんなに慌てておいでです? 何か私に気付かれたくないことがあるのですか?」えっ。道長は慌てて体裁を繕い、
「そんなことはないよ。清明。ん……そう……名、名の話だったな」おやおや……
「私は、こけ君と言う名は好きではなくてね。随分と子どもながらに悩んだものだ。知っているだろう? なのにどうしていまだにその名で呼ぶのか、それが気になって仕様がないんだよ」ふふふ……清明は意地悪く笑い、
「私は好きですよ。いい名じゃありませんか。だって苔はどんなに汚い水を掛けられても、どんどんと回りも構わずにはびこっていく……雑草が生えていても、大きな岩が邪魔していてもお構い無しだ。まるで今の『あなた』のようじゃありませんか……どんな『政敵』が現れても、どんな『嫌がらせ』にあっても構わずに「時の権力者」を誇っているあなたに、ぴったりの「名」ですね」ニヤニヤと笑いながらそう言ってのけた。
「な、なにをっ! こら、清明! この繊細な私に向ってよくもそんな口が叩けるもんだ。あぁ……どんなに日々を辛く送っている事か……帝の事を思い、人々の幸せを願い、日々忙しく働く私のどこが『苔』なのだ!」
は……そのまんま「めげない逞しさ」だけはこけ気味のままだ。
なんだってお前はいつもいつも……私のことをコケにするのか……だって「こけ君」でしょう?
あぁもう……馬鹿、違うだろ? そうじゃない。私の言っているのは……
顔を赤くして、やいやいと騒いでいるこけ君をあしらいながら、清明は水面を眺めている。
(そう、名……だ。どうして「あれ」は、あんなにも逆らうかな……ん、まぁ「これ」と一緒だが……)
ふと視線を「騒がしい方」へ戻すと、一人でわぁわぁとまくし立て、興奮気味のこけ君は……結構『楽しそう』である。ふふふ……満足そうに笑みを浮かべる清明の瞳はとても穏やかだ。
(こっちは……うん。これでいい。こけ君は分かっている。私が「愛情」をもって「こけ君」と呼んでいることを。意外と嬉しいのかもしれない。常に「難しい顔」をして「時の権力者」は政務をこなさなければならない。「道長」のその苦労が、積もり積もって病となるのだ。だからこそこの人には……発散させてやる場所が必要だ。くだらない話、くだらない遊び、くだらない子供時代……「くだらない」とは……決して「下る」ことのない事。ふふふふ……「大切なこと」だ。できるだけ「くだらない」ことを、私と一緒に。ね……こけ君……)
静かな視線を感じ取り、こけ君は、ふわりと笑い、箸を取って煮魚を摘みながら反対側の川面を見つめる。船はゆっくりと川面を下り、しとしとと降る雨はぼんやりと月を映す……「傘を被ったお月様」は、時折強く輝き、時折その姿を隠す……それはまた「赤子」をあやす仕草に似て、ほんのりと暖かい気分にさせる……
「なぁ、清明……」こけ君は水面に映ったお月様を見ながら声をかける。
「赤子とは……可愛い物であるね……」
「はい?」
突拍子も無い会話に清明は少したじろぐ……
「そうだな……私たちはまだ……子を持ってはいないね。でも……先日、知人宅に子が産まれた……私はそれを見に行って、感動したのだよ。(いいなぁ)と。小さな手足をばたばたと動かし、皺々の顔で「泣く」のだよ」こけ君はそう言って水面を見つめたまま瞳を揺るがす……
「いいなぁ……そう思った。この子はどれだけ『希望』を持っているのだろう……どれだけの「愛」を受けるのだろう……そして……親達はどれだけの「期待」をこの子に持っているのだろう。とね」こけ君……
「期待」も「愛情」もなく幼少時代を送ったこの『時の権力者』は「己の存在」を主張しようと、常に「手のつけられない悪戯坊主」だった。とても「藤原家のお坊ちゃん」とは見えないくらいにいつも泥だらけで薄汚いなりをしていた。あぁ、そう言えばあいつも………
「全くどうしてこけ君様だけはああなんでしょう。二人のお兄様達はとても立派であられるのに……」「仕方がないわ。「期待はずれの子」ですもの。女子として産まれていたら、随分と大切にされたでしょうにね。お可哀想に……」
口さがない女房達の評判を、こけ君はどう聞いていたのだろう。
「赤子」は……沢山の未来を握り、「夢」と「希望」を小さな手の中に握り、生まれてくるという。それは親の期待とは別の物だ。
親は、子供に期待を託す……それは「愛」ゆえの所業。子に幸せになってもらいたいからだ。自分よりずっと、幸せに……名は……そうだな、親が子に初めてかける呪かな……
付けられた名は一生ついて回る。それはまた宿命の一つだ。だから……かけられた呪は「神」の仕組んだものかもしれない……
この時代「赤子」は中々育たない。「病」が溢れ、医療の技術もまだまだだ。死んでいく子供は多い。だから「貴族達」は「幼名」をつける。赤子が一定の生命力をつけるまで……名というものは一人の人を呼ぶものであり、そこには沢山の「想い」がこめられている。幼くしてなくなった子に名が付いていたら、その想いが魂を留めてしまい、魂はそこから去ることが出来なくなる。だから「愛称」である幼名は「正式な名」が付けられたと共に消え失せる……しかしなぁ……
清明は、魚を口にほおばりながら興奮気味に「赤子」のことを話しているこけ君の横顔を見て、
(そのままこけ君だったらよかったのになぁ……)とつくづく思う。
道を長く続けろなんて、酷だよなぁ……その「道」がどんなに苦しいものかも知らないで。でも、藤原こけ君は……どう考えても「変」だよな、「苔長」「苔俊」「苔貞」……ん〜変なの……
「ぷっ……」思わず清明は噴出してしまう。
「ん? なんだ? 清明、なにがおかしい? あぁ 、さっきの、う○この話か? あははは……そうだろ? 思い出すだろ? それこそ私がこけ君だった頃の話……あの時は随分と大騒ぎになったな。「式家」の奴等の顔ったら……お前にも見せてやりたかったな。あの後しばらく「臭い」がとれなくて、女房たちにいつまでもしつこく責められたもんだ。ん? だがその話はとっくに済んだぞ……お前、反応鈍すぎ……なんだ? 疲れてるのか? よしよしそれじゃあ私が取って置きの面白い話をしてやろう」
この趣ぶかい宴の席で……う○この話かぁ? どこが「雅」を味わって……だ。
清明は「面白い話」を上機嫌でまくし立てているこけ君を横目で見やり、「ほっとした」表情で静かに瞼を閉じる。「期待」ね……
幼い頃に得ることの出来なかった「期待」を……今は嫌というほどに背負っている「時の権力者、藤原道長」は「今」はただの「こけ君」だ。口いっぱいに魚をほおばり、食べ物を飛ばしながら得意気味に話しているこの姿は……誰にも、そう両親にさえ見せない姿……
明るくやんちゃなこけ君は此処にいる。ただあの頃と違うのは……与えられなかった物を躍起になって追い掛け回していたこけ君はもう無く、無理矢理に背負わされた期待に押しつぶされそうになりながらも、懸命にそれを果たそうとしている「道長」のこけ君がいるということだ。「名前の呪」に捕らえられ、欲しかったものを手に入れた道長は……その代わりに「失った物」に気付いたときにはもう……
あぁだめだ……私がそんなことを「思う」ことすらそれが現実に近づいていく……
清明は小さく首を振り、こけ君から視線をそらす。今はそう、この人は大丈夫。私には他に考えてあげなければならない人が居る。
ふと目をそらした先に、夜目にも鮮やかな紫の花が目に映る。それはしとしとと降る雨を嫌がりもせず、むしろ嬉しげに凛とした姿で沢山の花をつけている。
「紫陽花……」ついと出た言葉に、こけ君は柔らかに笑い、清明の肩越しに紫の花を見る。
「ふふふ、やはりね。「お前」が気にしていたのはそれか……ずっと気になっていたのだがね。今日のお前はいつもと違う。何か気になっているのだなと思っていたが……紫陽花ね。実に趣き深い花だ……」
こけ君はゆっくりと船の流れによって去っていく、紫陽花を見つめ囁くようにそういった。
「光栄……あれは元気にしておるかな?」
「あ? うん……あいかわらずです」
清明は去っていく紫陽花から目をそらさずに答える。
「と、いうことは元気なのだね。ふふふ、あいかわらずか。保憲殿は……気を揉んでおられようね」
「ははは。気を揉むどころか……身が痩せる思いでしょうね」
「どうしてああも……逆らうのであろう。「光栄」という名に……」
「ふふ。自分はその「器」でないと」
「ならばそうなれば良い」
「は……それが出来ればね。誰も悩みはしない」
――そう……こけ君、あなたも同じ。そして「私」もね……
「妹君……紫陽花殿は」
「はい。あれもまた……あいかわらずに」
「そうか……こっちの「あいかわらずは」……余りよき事ではないね」
こけ君は悲しげに目を伏せる。あぁでも……
「少しはよくなって……」
「いいえ。残念ですが、あれはこれ以上……」
「そうか……美しい姫君という噂で、私にも「娶わせて欲しい」という者が後を絶たぬのだがね。保憲殿の娘ごだ。噂に違わぬ「美しさ」であろうね」勿体無い……
「はい。それはそれは。この世のものとも思われぬほどの美貌。(確かに、この世のものではないけれどね)「病」が無ければ、きっと素晴らしい「玉の輿」でしょうな。わが師匠も、気の毒に……」
「お? お前はまみえたことがあるのか? どうなんだ? お前の目で見た紫陽花の君の姿……」
興奮を隠し切れず「雅の君」は尋ねる。
「ふふ、勿論。幼き時より存じ上げておりますよ。師匠のお嬢さんですから。小さい頃はよく、膝に乗せてお手玉なぞして差し上げたものです。いつもいつも目を丸くして、私のすることに興味をお持ちで……はは、「娶ってくれ」と言われたらどうしようかと思ったものです」
「そんな気配があったのか? あぁ……保憲殿はそうか……二人の弟子に家督を継がせようと……光栄は「実子」だが、お前は……だから紫陽花殿の婿として?」
「そうではありますまい。おそらく手元においておくのが忍びなかったのでしょう」
「んん? どういうことだ? 自分の「娘」は普通……父親なら「手許」においておきたいものではないか? 私の父上でさえも、姉たちを「帝」に差し上げたはいいが、時折とても寂しそうに母上と話しておるよ。「婿取り」をしている家が羨ましい……と」
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