紫陽花
一、紫陽花
あぁ……なんだってこう蒸し暑いかな……ちっくしょう。こんな日はどっかの馬鹿貴族の宴にでも呼ばれ、
「舟遊び」でもしたいもんだよな……。清明は……くそっ、今頃道長んちで、冷たく冷やした
「瓜」でも食ってるんだろうな、実に面白くない! なんであいつばっかり
「いい目」をみてるんだか……俺様は
「賀茂家」のご嫡男様だぞ。偉大なる陰陽師の
「賀茂保憲」の息子だぞ。ふんっ。
ごろりと寝返りを打ち、だらしなく寝乱れた
「着物」は黄ばんでいる。
くだらねぇ……ぼさぼさの髪を掻きながら何とは無しに外を見やる。と……しとしとと降る雨に打たれ、紫陽花の花が気持ち良さそうに雨に打たれている。
あぁもう……そんな時期なんだな。去年は……そう、だな……あぁ馬鹿みたいに取り乱していた。うん、ほんとに……馬鹿みたいだった……
「紫陽花」それは俺の大切な
「妹」の名だ。
――しとしとと降る雨は、
「人」の心を憂鬱にする。
「日の神」の元に生きているこの
「豊葦原水穂国」の住人達は、
「日」を好み、
「陽」を好む。
「陰」である
「雨」は確かに
「恵み」をもたらす物と知っていても……
「憂鬱」を感じてしまうのは逃れられない事実だ。
「陰陽」は対であり、どちらが欠けても成り立たない。
「俺は雨が好きだぞ。な、紫陽花」
ぽつりとそう呟いて、黒く澄んだ瞳が優しさを宿す。
(さて……)日焼けのせいなのか、汚れているだけなのか、真っ黒な体を億劫そうに起こし、部屋中に散らばっている一枚の紙を取り上げ、じっと覗き込んでいる。
「成就日、月徳合、觜……か。うんうん、中々いい日だな。もしかしたら
「眠り姫」が目を覚ますかも……」
ぼりぼりと腹を掻きながらむさくるしい男は部屋を出ようとして、不意に庭を見る。
「ん?」誰かが見ていたような気がしたのだ。優秀なる陰陽師であるこの男は、そういった気配には敏感だった。
じっと庭を見据え、気を研ぎ澄ませて見る。だがそこにあるのは今咲いたばかりの可愛らしい紫陽花の花が、気持ち良さそうに雨に打たれているだけだった。ふと、紫陽花に白くたおやかな姿が重なり、にっこりと笑ったように見えた。
「あぁ……紫陽花か。待ってろ、今行くよ。え? これか? 分かったよ、禊いでから行く」
まったくなぁ……女というものは、何でこうもうるさいかな……いいじゃねぇか少しばかり
「汚く」ても……ずっと帝の元につめてたんだぜ。
「変な物」が出るっていうから……
「狢」なんて……あの野郎も、一体何処であんなもんくっつけてきやがったんだ。山奥まで追っかけて、散々に懲らしめてやったから、もう来ないだろうが……おかげで俺様はこのなりだ。まぁ別に俺は構わないが。帝に報告に行ったとき、蔵人の頭は随分怒ってたな……ま、おかげで帝の御前には行かなくて済んだが。父上が帰ったらまた怒るだろうな……
真面目にお勤めを果たし、遠方まで出張してきて、怒られるなんて……割にあわねぇよ。うんうん、世の中何かが間違ってる……
ぶつぶつとそんなことを呟きながら、
「母上、母上〜」どすどすと渡殿を歩いていった。
主の出て行った汚い部屋に、ぼんやりと薄く影が現れる。ほっそりとたおやかな姿は、何とも儚げで清らかだ。その影が、にやり。と笑う。どう考えても姿とは不釣合いな笑顔。
(ふん……光栄……我は汚いのは我慢できぬのだよ。この獣のような悪臭……おぉ、嫌だいやだ。我の身にまで染み付いてしまいそうだ。それに、
「病人」には
「不潔」は体に障る。紫陽花の病がひどくなってはいけないであろう? もっともまぁそれも……手遅れであろうがね……)
少し哀しげに目を伏せて、たおやかな影は消えていく。散らかった部屋の中に、しっとりと濡れた紫陽花の花がひとさし……哀しそうに空を見つめていた。
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