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Atheist 澪標廻廊 作者:はちゃち

三年生

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二十六話「慟哭」

 朝。
 日が差し込み、学校へ行く時間になった。
 だが、体が起きだそうとはしない。
 それでも十時前には家を出た。
「おはようございますっ」
 校門の奥から声が聞こえた。
「翔君、今日はお寝坊さんですっ!」
 俯き加減に歩いていたため、声をかけられなければ気づかなかっただろう。
 いや、気づかないだろうから、声をかけてきたのだろうか――。
「昨日翔君は外回りで早退してしまいましたからね! 今日は昨日の分までがんばりますよ!」
 無邪気に、笑みを零しつつ澪は言った。
「今日は何から調べるの?」
 だが、いつもの澪の無邪気さと比べると、違和感を覚えた。
 ――気を使わせてしまった。
 そう感じ取ると、悔しくて、自分が情けなくて、歯がゆい思いがまた溢れてきた。
「いくつか、聞きたいことがあるんだが」
「なに?」
「相沢瑞緒子と言う名前について」
 俺の問いかけに、キョトンとした表情を見せた。しかし、すぐに嬉しそうな、恥ずかしいような笑みを浮かべる。
「それは、私の本名ですよ」
「やっぱり……か」
 四縁の言っていたことは、間違いではないらしい。それは嬉しくもあり、悲しくもあった。
 ゆっくりと校舎に足取りを向けながら、澪は口を開く。
「『澪』という名前は、一種の願掛けです」
 そう語る澪の表情は、あまり好ましくなさそうだった。
「『ミオツクシ』という言葉があります。私の『澪』に『しるべ』と書いて、『澪標』です。澪標とは、船なんかの航路を示す標識の事なんです。……だから私の存在が――たとえ忘れられるとしても、誰かの航海を示す助けになればいいと。そんな願掛け――いえ、意思表明と言ったほうがいいかもしれません」
 だから、澪――。
「昔、偶然その言葉を見つけて、自分の名前の響きと似ていて、なんだか気に入ってしまったんです」
 苦々しく笑っていた。
「ごめんなさい」
「何が?」
「隠してたわけじゃないんだけれど――。ただ、『澪』で過ごした時間の方がずっと長いから、自分でもそっちで呼ばれてるほうが当たり前だったから」
「別に怒ったりしてないよ」
「……むしろ」
「ん?」
「翔くんには、澪って名乗ったから、澪のままがいいなって――」
 本名で呼んでもらおうか、悩んだことはあったらしい。
 ふと、俺と澪を引きあわせた手紙のことが脳裏によぎった。『名前は   だ。もしかしたら、名前が消えているかもしれない』以前に澪から事情を聞いた時に、確か聞いた。――自分に関する記憶は消える、と。写真でも姿が消え、直筆はもちろん、彼女に関する記載も消える。
 あの空欄には『相沢澪』という名が書かれていたはずだ。
 ならば、なぜあの場所だけ消えていたのか?
 他の記述は消えていない。
 それはおそらく、澪について書いた記述ではなく、澪に対する俺の想いを書いただけだからではないか。何かしらのクッションをはさめば残る。
 絵もそうだ。写真のように精巧ではない。癖や絵柄もあって、やはり澪ではなく、澪を元にした絵だったから。
 だが、直接的な証拠は掻き消える。
「澪は、澪だ。澪でも、瑞緒子でも、澪は澪だ」
 相沢澪と言う名前は直接的なんだ。
「はいっ」
 それはつまり、本名でなくても、彼女を指し示す名になっている証拠だ。
「澪」
「はい?」
「信じられないかもしれないが、言っておかないといけないことがある」
 そして俺は、昨日四縁から聞いた言葉を口にする。

「……凄いです。私が何十年もかかって見つからなかったことを、こんな短期間で見つけてくるなんて――」
 嬉しさと悲しさと、驚きと虚しさを兼ね備えたような、複雑な表情をしていた。
「本当は、違うって言いたいです」
 でも――と、自ら否定する。
「翔君がそう言うなら、私は信じます。どれだけ私にとって信じられなくても」
 澪は、大人だった。俺よりも、ずっと大人だった。
 だから――と、間髪を入れずに言葉を続けた。
「もう、いいですよ」
「……え?」
「もう、十分です。私はもういいんです。それよりも私は、翔君と残された時間を過ごしたいです――」
 その目は、深く闇を宿していた。
「私は、十代で死にました。その後の何十年も、罪を償うつもりで過ごして、そうして、今ようやく翔君に救われました。もう十分です。十分すぎます。私は、一生分の幸福を、もう貰うことができました。だからもう、いいんです」
 言葉が返せなかった。その言葉を覆せるだけの言葉が俺にはなかった。
「……明日から、また絵を描くよ」
「はいっ」
 最後のその返事は、いつものように無邪気な雰囲気を漂わせる代物だった。

 俺は自室に着いた。たくさんの絵が飾られている。その中で、俺はかみ締めていたものが緩んでゆく。
 悔しかった。嫌だった。辛かった。自分は、なんて無力なんだ。
 ――もう充分です。
 澪のあの言葉が、俺の心に痛く突き刺さる。
 俺は何年かぶりに、涙を流していた。その涙は止まる気配を見せず、ずっと、洪水のようにあふれ滴っていた。
 俺には澪が救えない。そのことを突きつけられた。あの時と同じだ。何も出来ない。俺には救ってやることは出来ない。苦しむ姿を見ておきながら、何も出来ず、傍観することしか出来ない。何もかもが色あせて見えた。苦しくて、苦しくて、苦しくて――。また、失う。家族を失った時のように、最愛の人を、失う。
 涙は、朝まで止まらなかった。


 気付けば夏休みに入る。
 時間だけがどんどん過ぎ去っていく。
 澪の前では、少しでも笑顔でいようとしていた。少しでも楽しくしようと。でも、それが一時しのぎでしかなく、夏休みが終わり、秋になれば少しずつ俺は忘れていく。そして、澪はまた、悲しみの中で、独りになる。でも、どうしようもなくて、何も出来なくて――。
「翔君――」
 そんなある日、屋上でそう声をかけてきた。
「今まで聞けなかったことがあります」
 絵を描き上げ、二人の間に静寂が忍び寄った時のことだ。
「なに?」
「この三年の間、翔君は凄くつらそうな顔をしてる時が、時々あります。私が、翔君は独りだと言った時もとか」
 俺は、逃げるように視線をそらした。
「そう……かもな」
「教えて、くれませんか? 翔君の抱えているものを」
 澪は近づいてくると、そう、優しい口調で見上げながら言った。
「楽しい話じゃない」
「もちろん、分かってます。でも、私は知りたいんです。翔君のことが」
「だが――」
「お願いします。翔君にはいっぱいいろんなものを背負わせてしまいました。少しくらい、私にも背負わせてください」
 そう言われては、俺の方が折れるしかなかった。
「……分かった」
 出来れば思い出したくない。いや、認めたくはない。
 そんな過去の記憶を、俺は手繰る。
「俺の親は、もう死んでる」
 今まで、誰にも言わなかった俺の過去。誰にも言えなかった記憶。
「俺が小学生の時だ。交通事故で二人共即死だったらしい」
 ゆっくりと、冷静を保ちながら。
「最初こそ、友達やクラスメイトが心配してくれた。けど俺にはそんな周りの声にこたえられるほど、大人じゃなかった」
 次第に、俺には友達と呼べる人間は消えていった。
「俺には妹が一人いて、三歳年下だった。――俺たち兄妹は、親戚の家に引き取られることになったんだ」
 それが、今住んでいる家だ。
「けどまぁ、そこの奴らはクズばかりでな……俺たち兄妹に、日常的に暴力を振るってきた。世間体ばかり気にする奴らにとって、俺も妹も育ててやっていると、暴力で憂さ晴らしをされることが、金のない俺たちの役目だと、常々言っていたよ。両親の保険金目当てで引き取り、金を奪い取った挙句にな」
 本当に、反吐がでるほどのクズだった。
「俺自身は、小さい頃から野球をしていた関係もあって、結構力もあった。だから、少しくらい殴られたって大したことなかったし、反抗されるのを嫌ってか、頻度としては少なかった。だが妹は、まだか弱かった――。俺が見てないところで、いや、見えないようにして、妹を追い詰めた」
 知っていた。直接見ることはなかったが、あいつの表情を見れば、解っていた。
「それでも俺は、両親の死からふさぎ込んだままで、何もしてやれなかった――いや、何もしようとしなかった。中学になると、俺に友人と呼べるような人は誰も残ってはいなかったよ。結局、小学校の卒業式にも出ることはなかった」
 そして、あの日がやってくる。
「中学も行っていなかったが、学年で言うと二年生の時だ。妹が死んだ。自ら命を絶っていた」
 後悔という言葉では言い表せないほどの後悔を感じた。
「あいつは、俺なんかより、遥かに大人だった。妹は頑張っていた。両親の死にもめげずに、親戚の仕打ちにも耐え、必死に生きようとしていた。けど、そこに加わったのは学校でのいじめだ。そして、超えてしまったんだと思う。生きる希望よりも、辛さの方が。それで、ある日飛び降りたんだ。学校の屋上から――」
 そこまで言うと、澪が息を呑む音が聞こえてくる。
「俺のせいだ。俺だけが、あいつを救ってやることが出来たのに、出来る立場にいたのに……俺は、自分は不幸だと思ってその感情に溺れていた。殻に引きこもっていた。俺は無力で、無知で、無能だった。――俺が、殺したも同然だ」
「ごめんなさい――」
 そこまで話したところで、澪はそう謝罪する。
「そんなこと知らなくて、私、飛び降りちゃったりして――」
 少し前の記憶がよみがえってくる。確かに、あの時は驚いた。あいつもああやって飛び降りたのかと、知らないながらに、二人をかぶせてしまっていた。
「澪が気にすることじゃない。それに、俺はその場に居合わせたわけではないからな……全て取り返しがつかなくなった後で、知っただけだ」
 再び息を呑む。それは、澪にとって衝撃的だったに違いない。
「俺は、自分を恨んだ。そして同時に暴力を振るっていた親戚にも恨みを覚えた。それで俺は感情的になり、その親戚たちを殴ったらしい。気絶して、泡を吹くほどまでに」
 その時の記憶は、残ってはいない。
「俺は補導されたよ。その時に気付いたんだ。俺は一回暴力を振るっただけで、補導された。けれど親戚どもは、ずっと暴力を振るっても捕まらなかった。この世界は、そう言うところなんだ。この世界は生きた牢獄で、何の自由もなく、ただ一部の力ある者の都合で生かされているんだと――」
「翔君も、閉じ込められていたんですね」
「そう、かも知れない。――俺は、この世に絶望した。こんなところで、生きていく価値も、意味もない。そう思った。だから、俺も死のうとした。けど、俺は、そんな勇気すら出せない小心者だった。死のうとしても、直前に怖くなって逃げ出すんだ――」
 途中、澪が引き留めるように抱きついてきた。
「死ぬのを踏みとどまることは、小心者じゃないですよ……」
 その声は震えていた。
 死んでいる澪が言うと、すごく重たい言葉に聞こえる。
「そうだといいな」
 そうして俺は空を仰ぐ。
「――ある日、俺は親戚の家に戻された。親戚が訴えを取り下げたんだ。両親が事故死して、妹も自殺して、情緒不安定になっていただけなんだ――と、そんな建前で。本音は、自分たちの暴力が表ざたになるのを恐れたんだ」
 ひどい――そんな小言が聞こえた。
「俺は親戚の家で、離れ家を一つ渡された。そこは自由に使っていい。その代わり、親戚の奴らとは関わらない。そう言う約束を交わした。俺にとってその部屋は、唯一の居場所だった。親戚を恨んでいた。だが、この場所を追いやられては、俺には生きていく場所はなかった。……。……いや、それは俺の建前だ。本当は、妹と過ごした部屋を追われるのが嫌だったんだ」
 死者に固執した人間の末路――四縁の言葉がよぎった。
「何度も何度も死のうともした。でもやっぱり死ねなくて、グダグダと生き延びていた。ある日絵を描き始めた。かつて、両親が絵が上手いとほめてくれたことがあった。それを夢で見て思い出した。……俺は、絵の中に家族を求めていった。今、俺の部屋には家族が描かれた紙が壁にも天井にも貼ってある。絵の中の両親も、妹も、みんな笑っていて……俺は、そこに俺の居場所を求めた。絵は、決して俺から離れて行ったりはしなかった――」
「翔君が絵を描くのにそんな理由があったのですか……全然、知りませんでした」
「人に話すようなことじゃない」
 話をするほど、俺は声が震えていくのが分かった。
「俺は、怖い……。また、大切な人を失う。今度は、それが分かっていて、それでも俺は何も出来ない。最近は毎日時間が過ぎるのが怖いんだ」
 ふと、澪の手が俺のほほに触れる。気付けば涙を流していた。
「我慢しないでいいんですよ」
 澪の言葉は優しくて、俺を包み込んだ。澪の前で泣くのは恥ずかしかった。だから我慢しようとした。だが際限なくあふれてくるこの水を、俺は止められなかった。
 俺は泣いていた。
 声を荒らげて、泣いていた。
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