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同じ世界の短編(現代)

同級生の失恋


「好きなんだけど」
「…………うん」
「何その反応?」
「何となく、そうかなって思ってて」
「ああそっか、私別に隠してなかったもんね」
「自惚れだと、思ってたんだけど………」
「良かったね、自惚れじゃないよ。それで、返事は?」
「ごめん、僕は松本さんが好きだから」
「分かった。じゃあ、私帰るから。またねー」
「うん、あの、また明日……」

 二月上旬、私は生まれて初めての告白を行い、生まれて初めて失恋した。








 私が浅井あさいくんと知り合ったのは、二年生でクラスメートになったときだった。彼は教室の隅で黙々と読書に耽るような物静かな少年で、悪く言えば地味、良く言っても地味。それが私の持つ、真面目で大人しい浅井くんへのイメージだった。同じクラスとは言えども、そんな彼と話した事はなかった。
 私は、男女の友情なんて成り立たないと思っている。だからこそ、まるで好みではない、優等生タイプの浅井君に関わるつもりもなかった。相手の存在を意識する事も無く、知らず知らずの内に同じ空気を意味も無く吸っていた。

 そんな浅井くんと初めて会話をしたのは、同じクラスになって半年ほど経った、高校二年生の十月の事だった。当時、私には付き合っている彼氏がいた。そして、大喧嘩をして別れたのがその頃だった。別れた、というか他に好きな子が出来たと言われ、振られたのだ。腹立たしかった。どうして私が振られなければならないのかと、激しくむかついた。放課後の廊下で最後の言い合いをして、あまりに腹が立っていた私は、元彼の背に向かって悪態を吐いた。

『死んじゃえばいいのに』

 本気で死んでしまえと思うほど憎かったのかと聞かれれば、たぶん違う。ただ、その言葉は、他人へこれ以上ない悪意を込めるのにちょうど良かった。だから私は、まるで呪いでも掛けるようにそう思う事がある。そしてそのときは、それがうっかり口から漏れていた。

『だめだよ』

 それを聞き咎めたのが、偶然その場に通りかかった浅井くんだった。見るからに気弱そうな、大人しそうな見た目で、その割にはっきりとその言葉を口にした。振り返れば、びくりと肩を揺らす。彼のような男の子が、私のような女の子を苦手としていることは知っていた。学校でもメイクをしてスカートを短くし、髪を明るくしていれば派手な女子に分類されるのだ。そして地味な男子は派手な女子を特別に嫌う。逆もまたしかりだけど。

『文句あるの』

 気が立っていて、キツい口調で問い返せば逃げていくかと思った。それなのに、浅井くんはおどおどと所在なさそうに足踏みはしたものの、その場に留まった。言いにくそうに何度か口籠り、こちらが焦れて立ち去る直前でようやく口を開いた。

『そんな風に言うのは、良くないよ。人にそう言われたあの人だけじゃなくて、人に向かってそういう風に言っちゃった、楠木くすのきさんも現実に残るんだよ』

 浅井くんの言葉は、初めてまともに言葉を交わしたあのときから、いつもよく分からない。妙に小難しくて、ややこしくて、考えるのが嫌になる。だから、そのときも浅井くんの言葉なんてちっとも頭に入って来てくれなくて、私が考えていたのは至極簡単な事だった。『浅井くん、私の名前知ってたんだ』精々その程度の事だった。
 どうして浅井くんに説教されなければならないのかと、普段の私なら更に腹を立てた事だろう。偽善的な正論ほど腹立たしいものはない。しかし、浅井くんの言葉には自信というものが全く感じられなかった。不安そうな、心配そうな声で、一体何のつもりでそう呟いたのか分からなかった。

『残ったらどうなるの』
『楠木さんはそういう事を言っちゃう人なんだ、ってたぶん楠木さんを見る周囲の目が変わる』

 綺麗事を言ったかと思うと、続けられた言葉は妙にシビアだった。暗くて地味な奴、という浅井くんのイメージがほんの少しばかり上向き修正される。
 そのとき、初めて私はまともに浅井くんと言葉を交わし、彼という人間に興味を抱いた。その結果知る事が出来たのは、彼は物静かで読書好きで気が小さい、という見た目通りの性格と、伝えるのに沢山の躊躇いがあるだけで自分なりの考えをしっかりと持っている事。場合によっては譲ってくれないほど頑固な性格だった。

 一度言葉を交わした事でお互いの存在に気を払うようになり、私の中のほんの少しの好奇心で何かと話し掛けるようになった。気弱な浅井くんはその度に、緊張を感じられる固い表情をするけれど、ぽつりぽつりと返事をくれた。

『本なんて読んで何が楽しいの?』
『楽しいよ。自分とは全く違う人間の人生が、色んな視点で描かれているんだ。少しだけ、人に優しくなれる気がする』

 ふうん、と私はさして気のない返事をしたように思う。私は本に興味がなく、本を読んでそんな風に何かを感じた事なんてない。ただ、本を読んでそんな感想を抱く浅井くんの見る世界は、一体どんな風に映っているのだろう、と少しだけ興味を持った。

 好きになったのは、いつだっただろう。年が明ける頃には、浅井くんの事が好きかもしれない、という感覚があった。どこが好きなのかと考えれば、よく分からない。ただ、気付けば彼と過ごす時間が特別になっていた。普段の私なら詰まらないと一蹴してしまいそうな、それこそ本の話題だって、浅井くんがぎこちなく説明してくれれば、何故だか無性に楽しかった。

 教室で休み時間に少しずつ話し掛けるようになって、その内一緒に帰る事も増えた。私が一緒に帰ろうよ、と誘えば気の弱い浅井くんは断れず、どぎまぎしながらも一緒に帰ってくれた。
 そして、私はそこで初めて知ったのだ。浅井くんの目が、誰を捉えているのかを。








 浅井くんの視線の先にいたのは、違うクラスの松本由香里だった。肩より短い真っ直ぐな髪で、清潔感のあるいかにも優等生然とした容姿をしている。全体に整った印象はあるが、飛び抜けて美人という訳でもなければ派手なタイプでも無い。何となく、いかにも浅井くんみたいな男子が好きになりそうな子だと思った。
 私と松本さんには全くと言っていいほど接点がない。しかし、私は話した事も無い彼女の事を知っていた。彼女では無く、彼女の幼馴染が有名過ぎた為である。

 我が校にはとんでもなく美しい男子生徒がいる。ギリシャ彫刻のように精悍で整った容姿をしており、ファンクラブという冗談みたいなものが結成されるほどの人気だ。もっとも、そのファンクラブも彼に恋人が出来た事で解散されてしまったそうだが。
 そんな人間の幼馴染で、その上例のファンクラブとも何故か良好な関係を築いていたとなると、興味が湧くのも人の性だろう。自然と松本さんの存在はけして目立った噂では無いが、校内の人間に知れ渡っていた。

「浅井くん、帰ろう」

 私が告白して振られた次の日、いつものように浅井くんに声を掛ければ彼はあからさまに動揺して、視線を右往左往させたものの黙って立ち上がった。心の中でせめぎ合ういろんな感情を、上手く言葉に出来なかったようだ。

「何、二人付き合ってんの?」

 クラスメートは時々今のようにからかおうとする。その度に浅井くんはびくりと身体を揺らすが、クラスメート達が本気で言っていない事くらい、見ていて分かる。私のこれまでの彼氏達と浅井くんのタイプは余りにかけ離れており、私と浅井くん自身も正反対の人種と言っていいだろう。元彼は皆、ノリが軽くて冗談ばかり言っているような人達だった。

「ううん。振られたから」

 正直にそう答えれば、楠木可哀想ー!と笑いが起きる。誰一人として、本気とは捉えていないだろう。ああやっぱりそういう反応が返るよね、と妙に納得した。だから、浅井くんはそんなにびくびくしなくて良いのに。
 恥ずかしいのか気まずいのか、いつも以上に俯きがちの浅井くんを促して、一緒に下駄箱へ向かう。いつも以上に浅井くんはおろおろしていて、下駄箱で靴を履き替えるだけなのに物凄く時間を掛けていた。下駄箱に上靴を入れるだけのことで、何故上靴を落としてしまうのか、意味が分からない。

「浅井くん、大丈夫?」

 思わずそう問い掛ければ、彼は慌てて上下に首を振った。脳みそが揺れてしまうのではないかと、心配になる勢いである。それから、何度か言いにくそうに口を開閉して、隣を歩く浅井くんはぎこちなく言葉を発した。

「楠木さんは、どうして普通にできるの?」
「普通って?ああ、振られたのにって事?」

 そ、そういうとこ………消え入りそうな声で口にして、浅井くんが頷く。こんな事でそんなか細い声を出して、彼は本当に気が小さくて疲れてしまうんじゃないかと思う。

「浅井くん、私の事嫌い?」
「きっ、嫌いじゃないけど」

けど、好きじゃないんだろうなあ、心の中でそう呟いて、その感情を呑み込んだ。

「それなら一緒にいたいなあって思って。好き同士しか一緒にいちゃいけない、なんて決まってないでしょ」
「それはそうだけど………」

 私と浅井くんはタイプが違う。だから、当然考え方も全く違うのだろう。そしてきっと、浅井くんの方が真っ当で綺麗な考え方なのだ。

「私ね、相手が好きな人でも、好かれると嫌いになるの」
「え?」
「好きだなって思ってアプローチするでしょ?でも、相手の気持ちがこっちに傾いて来た時点で、無性に嫌いになる。だから、振られて正直安心した」

 浅井くんの顔に戸惑いが浮かぶ。彼には分からない思考回路なのだろう。言い訳をさせて頂けるならば、私にだって分からない。どうして、好かれた途端に嫌いになってしまうのだろう。たぶん私は、まともな恋愛が出来るようには作られていないのだろう。だから恋なんて叶わなくていい。でも寂しいから、適当に気が合う男の子とその場のノリで付き合って別れるのが一番楽だった。

「浅井くんに好きになってもらえなくて良いの。浅井くんが他の子を好きでもいいの。そうしたらずっと私は浅井くんの事を好きでいられるもの」

 私は、どうしようもない付き合いばかりしてきたと思う。そのときの気分で付き合って、そのときの感情で別れて。そんな私でも、好きな人をずっと好きでいられたら素敵だろうな、と思えるだけのメルヘンチックな思考回路を持っていたりする。だって、好きな人がいるってそれだけで楽しいから。
 だから別にいいんだよ、でも嫌いじゃないなら構ってね、と言う私に、浅井くんはこれ以上なく変な顔をした。








 三月は春に分類されるらしい。嘘付け。天気だってどんよりしたままだし、風は変わらず冷たいまま。日暮れは少しばかり伸びたような気もするけれど、気候は完全に冬のままだった。まだまだマフラーが手離せない。
 吹き付ける風に肩を竦めて駅前を歩いていれば、隣を歩く浅井くんの目がどこかに奪われていると気付く。その視線を辿ると、松本さんに行き着いた。ただし、その手は私服を着た男性と繋がれている。

「あれ、彼氏だよ」

 好きな人の好きな人に関して、ある程度の探りは入れている。松本由香里には彼氏がいた。相手は大学生らしく、駅前で手を繋いで歩いている事も珍しくないらしい。そこそこ格好良いとは思うが、ヘラヘラと笑う軽そうな人で、あの真面目な印象の松本さんの彼氏と思うと意外だった。もっとインテリ的な、真面目そうな人と付き合っているイメージだった。

「うん、知ってる」

 浅井くんは困ったように笑っていた。もっと激しく落ち込むかと思っていたのに、それを表面化させる事は無かった。

「何回か、彼氏さんが塾に迎えにきてた事もあったし」
「そういえば、松本さんと塾が一緒なんだっけ」

 以前そういった事を聞いたような気がして問い掛ければ、うん、と素直な返答がくる。何の接点もなさそうな松本さんの事をどうして浅井くんが好きになったのか疑問だったが、塾の方で接点があったからと聞いて納得した。
 しかし、私がそう伝えれば浅井くんはあっさりそれを否定する。

「いや、話した事はないんだ」
「え?じゃあ何で好きなの?」

 私がそう問えば、浅井くんは困ったように眉を下げる。頬を搔いて、気まずそうに口を開いた。

「よく、ね。塾が終わると駅前の花壇のところとかで、じっと座ってるのを見掛けたんだ。その顔が、何だか寂しそうで………元々、読んでる本が一緒で気になってはいたんだけど」

 恥ずかしそうな浅井くんには申し訳ないけれど、なんて単純な話だろう、と思った。浅井くんは結局、自分の思い込みで美化した松本さんを好きになっただけなのだ。寂しそう、なんて端から見てても実際はお腹空いた、くらいの事を考えているかもしれないじゃないか。自分の頭の中の妄想に恋をしているのと同レベルだと思う。

「そんなの変だよ」
「そうかな。でも、あの、憧れみたいなものだから」
「それにしたって。だって、何にも知らないんでしょ?」

 私は知ってる。浅井くんが気弱で引っ込み思案ででも本が好きで、その話題なら話しが尽き無くて周囲の事も気にならなくなる。気が小さいのに、これと思った事は言わずにいられない性格とか、お人好しで私を突き離せない事もちゃんと知ってる。知って、好きになった。だから、浅井くんのその感覚は私には理解できないものだった。

「知らないよ。でも、」

 浅井くんが顔を上げる。珍しく私をじっと見つめて、少しだけ眉間に皺を寄せていた。

「どうして、楠木さんに否定されなきゃいけないの」

 それだけ告げて、ごめん帰るから、と言って浅井くんは私を置いて歩き去っていった。怒っていた、あの浅井くんが。いつもおどおどしていた浅井くんが、私に対して怒っていた。だから、いつだって人に合わせようとしてくれる浅井くんが、私を置いていってしまったのだ。私はそれに、とても驚いた。

 そして、ようやく理解する。知っていると、知らないなんて変だと、そう簡単に彼を否定した私こそが、浅井くんの事を何も知らないのだ。








 その次の日、浅井くんは私が登校すると一番に昨日はごめん、と謝ってくれた。難しい事は私には分からない。浅井くんが悪かった事なんてないだろう。簡単に人の事を否定した私が、きっと悪いのだ。それでも、そうやって素直に謝ってしまえるのが、浅井くんのいいところだと思う。
 そんな浅井くんが相手だから、短気ですぐに拗ねる私も、素直に謝る事が出来たのだ。

「松本さん」

 ちょっとした好奇心から、彼女に話しかけてみた。落ち着いたその様子に相応しく、松本さんはゆっくりと振り返り微笑みを浮かべていた。

「楠木さん、何か用?」
「私の事知ってるの?」
「ええ。だって楠木さんは目立つもの」

 目立つだろうか、と首を傾げる。規定通りに制服を着てる松本さんに対し、私は規定なんて無視して制服を着ている。髪も染めていてよく先生に怒られるので、真面目な松本さんからすれば印象的なのかもしれない。

「それで?何かあった?」
「ううん。別に。ただ松本さんに興味があって」

 そう素直に告げれば、松本さんは不思議そうに首を傾げた。その仕草一つとっても大人びていて、やはり私とは違う人種なのだと思う。理性的で頭がよくて、きっと感情的な言葉を吐く事も無いのだろう。

「ごめんね、本当に何でもないんだ」

 それだけ伝えて、すぐに私は松本さんに手を振ってその場から逃れた。清潔感があって、そこそこ美人で、真面目で大人びた優等生。ちょっと冗談が通じ無さそうだけど、まあうん。いいんじゃないかな。物静かな浅井くんが憧れるのも納得出来てしまうような気がした。
 正直やっぱり、好きな人の好きな人というのは良い気がしない。松本さんにとっても関係ないし、浅井くんにとっても私には関係ないと思う事だろう。それでも、好きな人の好きな相手が、嫌いな人間じゃない事に安堵くらいさせてほしい。

 松本さんには彼氏がいて、浅井くんは好きな人に話し掛けられるようなタイプじゃない。これまでもそうだったように、好きな人に憧れを抱いて、こっそり見詰めるタイプだ。だから、私の恋が叶わないのと同じように、浅井くんの恋だって叶わないだろう。だからまあ、いいのだ。








 そう、思っていたのに。
 どうしてどうしてどうしてと心臓が暴れる。意味が分からない。血流が体内を駆け巡り、荒くなった呼吸で息が苦しい。春先でまだ肌寒いのに、冷や汗ばかりがどんどん流れだしていた。

 四月になり、三年生に進級すると、残念ながら浅井くんとはクラスが離れた。それでも私の生活は変わる事無く、さして友達も多くない私は授業が終わるとさっさと浅井くんの教室を訪ねようとした。そこで、見付けてしまったのだ。浅井くんの新しい教室の前で彼と話をしている松本さんを。
 私は慌てて踵を返し、その場から離れた。なんで、どうして。松本さんだって違うクラスだったはずなのに。今まで話した事もなかったくせに、どうして浅井くんと話しをしているの。

 階段を駆け下りて、慌てて一階の階段の陰になっている部分に隠れる。軽く荷物が置かれているだけで埃っぽいそこでは、呼吸をする事さえ憚られた。それなのに、息はどんどん上がっていく。どうして、酷い。そんな言葉ばかりが頭に浮かんだ。









 必死で心臓を宥めた。
 別にいいの、と。どうせ、私は浅井くんに振り向いてもらえたなら、きっと浅井くんの事を嫌いになるだろう。だから、付き合いたいとは思ってない。好きになって欲しいとは考えない。そうすればずっと好きでいられるから。
 浅井くんに何かを願わない。だから私は傷付かないし嘆かない。それで良かった。

「あ、楠木さん………」

 落ち着く為の時間が欲しくて、二人が話しているのを見掛けて以来、私から浅井くんに近付く事はなかった。私と浅井くんとの関係は、私の片想いによって成り立っている、残念なくらい一方通行なものだった。だから、私が避ければ浅井くんに関わるような事も無かった。
 今、偶然下駄箱で出会ってしまったのは、本当に運が悪かったと思う。

「久しぶり、だね」

 浅井くんの口調は相変わらずぎこちなく、けれど話し掛けてくれたのは珍しい事だった。少しだけ、気分が高揚する。高揚しただけ無駄だと、すぐにその気持ちも宥めたけれど。
 居眠りをしていると気付けば放課後で、帰宅部の人達は粗方帰った後だった。校舎に残っているのはもうほとんどが部活のある人達だけで、帰宅部である浅井くんまでどうしてこんな時間まで残っていたのだろう、と疑問に思う。
 普段なら、塾などで早く帰ってしまうのに。

「何か用?」

 私がそう問えば、それだけで浅井くんは口ごもった。口下手な所も相変わらずのようだった。上靴を下駄箱に突っ込み、ローファーを取り出すと、浅井くんは慌てて目の前から消えて行った。靴を履き替えていれば、ガタ、バタン!という大きな音がしてローファーに踵を入れながら浅井くんが現われる。どうやら靴を履き換えに行っていたらしい。

「いっ、一緒に帰ろうよ」

 浅井くんはずるいと思う。ずっと私が誘うばかりだったのに、こうして私が距離を置きたいと思ったときに限って、そんな嬉しい誘いをくれるのだから。
 返事に困った私が無言でその場から歩き出そうとすれば、慌てて浅井くんは私の隣に並んで歩く。ちらりと視線を向ければ浅井くんは気まずそうに俯いていて、彼らしいと思った。

「暖かく、なってきたね」
「そうかな。寒いけど」

 桜こそ咲いているものの、風がまだ冷たい。太陽の光に当たっているときはいいが、ちょっと日陰に入るとそれだけで肩を竦める必要があった。冷たく会話を切り捨てた私に浅井くんはとうとう黙りこんでしまう。

「………………この間」
「え?」
「この間、松本さんと話してたよね」
「あ、ああ!うん、そう」

 浅井くんは大袈裟に頷いた。

「移動教室で、本を置き忘れてたんだ。それを松本さんが届けてくれて、松本さんもその本を読んだって言うから、少しだけ話しして」

 聞きたくなかった。けれど聞かずにはいられなかった。話しの内容が気になって仕方なかった。浅井くんに好かれなくてもいいと思いながら、それでも私は浅井くんが好きで、彼の恋路が恐ろしい。

「良かったじゃん」

 感情の籠らなくなりそうな声を、何とか自制してそう言った。このまま黙り込んで沈黙が落ちる事を恐ろしいと思い、その焦りを誤魔化すように慌てて言葉を紡ぐ。

「松本さん、綺麗だよね。真面目っぽいけど話しかければ意外と気さくな感じ。浅井くんが好きになるのも、まあ分からない事無いよ。私だってき、」

 ごくり、と唾を呑み込んだ。そんな所で言葉を切れば、どう考えたって不自然だ。だから早く言わないと、早く言葉を続けないと。

「嫌い、じゃな………」

 しかし、その後の言葉を続ける事はどうしてもできなかった。

 そんな事、言いたくなかった。嘘だ。本当は大嫌いだった。あんな女大嫌いだった。死ぬほど嫌いだった。だって私の好きな人が、好きだって言うのだ。大嫌いだ、そんな女。
 好きになってもらえなくてもいい、それだけは確かに私の本心だった。それなのに私は、嫉妬をするのだ。そんな権利、欠片も無い癖に。

 あんな女、好きになんてならないで。あなたの良いところを一つも知らないような女なんて。

「ど、どうして泣くの?」

 堪えられなくなって、溢れて来る涙を隠す為に顔を覆って俯いた。もう嫌だ、動きたくない。疲れた。何でもないふりなんて、我儘で身勝手な私には向いていないのだ。

「何で好きなの。何であの人の事が好きなの。ずるいずるいずるい」

 私は、浅井くんに振り向いてもらう事ができれば、それだけで彼を嫌いになってしまうかもしれない。ずっとそんな恋しかできなかった。簡単に相手を好きになって、こちらに興味を持ってもらえるごとに私は嫌いになっていった。自分から近付いて行った癖に、とんでもない女だと思う。
 それでも私は羨ましい。浅井くんに好かれる松本さんが、死ぬほど羨ましかった。ねえ、こっち見てよ。あなたを好きだって言う、私を見てよ。

「ごめん………」
「謝らないでよ。私、余計に惨めじゃん」

 浅井くんは酷い人だ。こんな時にまで私を気遣うような様子を見せる。急に泣きだした私を面倒だと置いていくこともなく、顔を隠して泣く私を、おどおどと心配してくれている姿が目に浮かぶようだった。

「あ、のさ。今まで黙ってた事があって」

 上ずった声が、彼の今の焦りを表しているよう。それでも私の涙は止まってくれない。こんなみっともない姿を見られたくないのに、それでも行かないで欲しいという未練が私の足と突き放す言葉を止めていた。

「僕は、例えば松本さんと話してても、楠木さんが悲しそうな顔をしてたら、楠木さんの所へ行くよ」
「知ってるよっ。浅井くん、優しいから」
「違うよ」

 違うと口にする浅井くんの声が、いつも自信のなさそうな彼にしては妙にはっきりしていて、私は驚いて涙で濡れた顔を少しだけ上げた。すると、困ったように眉を下げて赤い顔をした浅井くんと目が合った。

「違うんだ。ごめん!」

 浅井くんは自身の服のお腹のところをぎゅっと掴んで、慌てた調子で訴えた。

「ずっと、何でか分からないけど、楠木さんが僕の事を構ってくれて、でも分からなくてそのままにしてて、そうしたら楠木さんが好きって言ってくれて、でも僕は松本さんを好きだったし。楠木さんはけろっとしてるし、どうしたらいいか分からなくて。だって僕みたいな人間を、楠木さんみたいな人が好きになる訳ないって思ってたし」
「勝手に決めつけないでよ」

 不満を込めてそう言えば、うんごめんごめんね!と浅井くんは一生懸命謝ってくる。別にそんなに謝るほどの事でもないのに、そうして謝る浅井くんは卑怯だ。まるで私が悪いみたいな気がしてくる。

「僕とは全然違う人で、思った事をはっきり言って、良いなあって思ってたんだ。たぶんこれも憧れみたいなもので、簡単に揺らぐ自分が情けなかったし、楠木さんは好きになられると嫌いになるなんて言ってたから、絶対隠さないといけないと思ってて」

 大慌てで言葉を紡ぐ浅井くんの話の内容は、いまいち私の頭に入って来なかった。それでも根気よく耳を傾けていれば、まるで私にとって都合の良い、夢みたいな話のように聞こえて来た。

「あのさ、少なくとも僕は今、楠木さんに泣かれるのが一番悲しいと思う。…………そう言ったら、楠木さんは僕の事を嫌いになる?」

 その癖はっきりとは聞かせてくれない浅井くんに、どんな顔をすればいいのか分からない。嬉しい、と言えるほど私は素直でも単純でもないし、そんないい加減なものはいらないと突っぱねるには、彼の言葉が私には甘過ぎた。

「分かんないよ。浅井くんは、私の事をどう思ってるの」
「あ、えっと、好き、かも」
「はっきりして!」
「好きだよ!……………たぶん」

 こんなときくらい、この場の勢いだけで適当に言ってくれればいいのに。そうする事ができない浅井くんを、私は好きになったのだ。おどおどして、自分に自信がなさそうなのに、自分の意見をきちんと持っているのが、浅井くんだった。

「ねえ、楠木さんは僕の事を、嫌いになる?」

 不安そうに、浅井くんが私の顔を覗き込む。私にとってもそれが一番不安で、恐ろしい事だった。私は割とすぐ人を好きになるタイプだった。そして、嫌いになるのもまた、すぐだった。相手の好意を感じると、自分でも気味が悪いほど簡単に嫌悪感を抱いた。
 けれど、今、私の中にあるのは。

「分かんないけど。どうなるか分かんないけど、今は私、死ぬほど嬉しい」

 そう正直に言えば、恥ずかしそうに頬を赤く染めた浅井くんが、死ぬなんて言わないでよ、と消え入りそうな声で呟いた。








 浅井くんはその見た目通り、かなり奥手と言うかピュアと言うか、情けないくらい付き合うという事が覚束なかった。焦れた私から手を繋げば、だらだらと冷や汗を流すほどである。私と手を繋ぐのがそんなに嫌なのかと訴えれば、慌てて違うから!と言って繋いだ手をぎゅっと握りしめてくれた。

 私は元々我儘に出来てるし、浅井くんだってこれだと思った事を譲る人ではない。だから時々喧嘩もするし、まどろっこしい浅井くんにイライラする事もあるけど、嬉しい事に私は浅井くんを好きなままだった。
 もしかしてこれまでの人は、本当の意味で好きだった訳ではないのかもしれない、と思った。私の勝手なフィルターに通して相手を見て、自分の中の妄想の人を好きになる。だからこそ、現実に触れたとき、途端に相手を嫌いになってしまったのかもしれない。

 浅井くんは全然私の好みではなかった。だからこそ、余計な夢も幻想も抱かずに、そのままの彼を好きになれたのかもしれない。

「浅井くん、私の事好き?」

 三年生になって、浅井くんの塾に通う時間が増えた。だから、一緒にいられる時間は必然的に減った。そうなれば余計に言葉というものが欲しくなるもので、そう問いかけた私に、浅井くんはすすすっと目を逸らした。

「い、言わないとだめ?」

 それで私が許す訳がないと知っている癖に、浅井くんはいつも無駄な抵抗をする。隣を歩く浅井くんの顔を掴んで無理矢理こちらを向かせれば、眉を下げてほんのり頬を赤く染めた彼とようやく目があった。

「言ってよ」

 浅井くんの、空気が好きだった。穏やかで、ゆったりしてて、隣にいると落ち着いた。話すときの声のテンポが好きで、笑ってくれるタイミングが心地良かった。どこが、という訳ではなくて、そういう彼を形成するあらゆるものに心惹かれた。
 そうだなあ、うん。これは嫌いになれるはずがないのかもしれない。

「………………………………………………好き、だよ…………」

 ぎこちなく告げてくれる言葉にそんな風に納得して、私も大好き!と大きな声で答えた。





 読んでくださってありがとうございます。
 高校生の恋愛ものでした。浅井君は今までにあまり書かなかったタイプの少年だったので、結構楽しかったです。
 松本さんについて、何かに気づいて頂けましたらとっても嬉しいです。

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