七 ウィークエンド1
七 ウィークエンド
バスの前方に、まるで小学校の遠足の日の先生のようにして座っていたスタッフがプリントの束を取り出すと、車内には張りつめた空気が漂った。
スーツを着たその中年の男はプリントを上下ふたつに分け、通路を挟んで左右の一番前に座っている生徒に手渡す。プリントが前から後ろへと回されていく。静かに。まるで振動に敏感な爆発物のように。
このときプリントが裏向きに回されるのが、初日からの暗黙のルールだった。抜け駆けしてはいけないのだ。
プリントが後ろまで回されるとスタッフがかすかにうなずき、座席に座る。それを合図に、正義たち生徒は一斉にプリントを表に返す。
ギャーともキャーともオーともワアーとも取れないような取れるような声が、車内のあちこちから上がる。
AグループとBグループの点差が開いていた。昨日までは五点差でAグループが一位だったのが、今日は十五点差だ。十点差でKグループとRグループがBグループの下から迫ってきている。
「くっそお!」
正義の隣に座っていた同じグループの竹村が、悔しそうに顔を歪めて天井を仰いだ。
「昨日の課題、うまく案が浮かばなかったからね。しょうがないよ」
こういうこともあるさと隣人を慰めて、正義はさっさとそのプリントを四つ折りにした。
課題を考えるときには会議室のような個室がグループごとに用意される。もちろん、別の場所に移動してもかまわない。ひとつのテーブルを十人で囲んで意見をそれぞれ意見を出し合うのだけれど、昨日はうまくアイディアが出てこなかった。普段はもっと人の意見に触発されて、三人集まれば文殊の知恵方式でおもしろいようにアイディアが出てくるのに。
「ごめん、俺のリーダーが悪かったからだよね」
前の席から、うなだれて片桐が顔を出した。課題を全員で考えるときにはひとりリーダーとしてまとめ役を置くことにしているのだが、昨日はそれが片桐だったのだ。
「そんなことないって。昨日はたまたま、みんなの調子が合わなかったんだよ。気持ちを切り替えていこう」
正義が笑って言うと、「星回りが悪かったのよ」と頭の中で女子の声が聞こえた。いろいろあったからとうとう狂ってしまったのかっ? まあ、確かに我ながら心労は半端ない、なんて考えながらもどぎまぎして目を泳がせていると、「知ってる? 後頭部のすぐ後ろでしゃべられると、人間ってどこから声が聞こえてくるのかわからなくなるのよ」と今度はきちんと後ろから声が聞こえてきた。
振り返って後ろの座席をのぞくと、背もたれに寄りかかって文庫本を開いた芙美が、薄く微笑んでいる。
グループを組んでそろそろ一週間経つけど、つかめない奴だよなあ。
正義は唇を結ぶと目を細めた。
「星回りなんて、ずいぶん非科学的なことを言うんだね。樟史女学院では占星術の授業もあるの?」
隣に座っていたチュオンが、微笑みながら芙美を見下ろす。
チュオンは、開会式の日に一番最後にBグループ席に現れた奴だった。フィリピン系だとかで顔の彫りが深く、目が大きい。身長も一九〇近くありそうで、小柄な芙美の隣にいるとお互いに首が疲れるんじゃないかと思ってしまう。
「占星術なんて非科学的な言葉は、歴史の教科書に一行出てくるだけよ。でも、部活があるの。竜の飼育係を任されるまでは毎日暇だったから、友達に誘われて入部してたわ」
空を見上げるような角度で顔を上に向けて、芙美がにこやかに答えた。
「もっとチームワークをよくしたほうがいいのかな?」
片桐の隣の席から山口が顔をのぞかせた。メガネをかけた、ボブヘアの女子だ。
「そんなにチームワークが悪いとも思わないけど」、と正義は苦笑する。始終ベタベタはしていないけれど、ひとつの目標に向かって力を合わせると言う意味では、今のままで十分まとまっているはずだ。
「でもAグループは、朝食も昼食も夕食もグループ全員で取るんだよ。あのくらいやらないとだめなのかもしれない」
山口はしかめっ面を作る。
「毎食グループ全員が一緒なんて、疲れるわ。ただでさえバスの中から課題提出まで一緒なのに。私、そういうの苦手」
口を歪めて、芙美が抗議する。
「疲れるとか苦手とか、そういう問題じゃないでしょ? 勝つためにはどんな努力もしなくちゃ! 全高会は一生に一度しかないのよ。これで人生が変わるかもしれないのに、優勝したくないのっ?」
山口が口調を強め、グループ全体を睨みつけた。
「そりゃしたいけど……」と迷うように片桐が言い、「当然、したいさ」と竹村がすまし顔で言い、それに他のメンバーたちが「まあ、どうせなら」「勝ちたいよな」「優勝するつもりで来たし」、と続く。
満足げにうなずいた山口と、正義は目があった。
別に、優勝になんか興味はない。とりあえず格好がつくように、上位に入れればそれでいいと思っている。祖父や父は僕があの事実をどう受けとめるかを見ているのだろうから、よほどマヌケなことをしない限り、順位にはそれほどこだわらないはずだ。
だけどねえ、と思い、正義はメンバーを見回した。山口や竹村の有無を言わさないような視線が頬に痛い。
ここで「興味ないよ」と言うのがイケナイコトだというのは、空手部主将の経験からしても、神宮寺財閥跡継ぎの経験からしても、よーく知っていた。
「もちろん勝つさ。たった十五点差じゃないか。まだ全高会は折り返し地点なんだ。僕らが力を合わせたら、いくらだって逆転できる」
メンバーの顔が見れるように、椅子から立ち上がって声を張った。さっき「勝ちたい」と言ったメンバーたちの顔が高揚し、士気というのだろうか、空気が一、二度上がったような感覚を覚える。
そんなメンバーの様子に満足して鼻から息を漏らすと、こっちを見上げている芙美と目があった。文庫本で少しだけ隠された唇が動く。
ウソツキ。
拗ねるような、怒っているような顔で音のない言葉をつぶやくと、芙美は眉をひそめて本を読み始めた。夜のように黒い前髪が邪魔をしてそれ以上表情が読めない。
嘘つきってなんだよ、嘘つきって。こんなの嘘のうちに入るかよ。ていうか、なんでおまえには僕の気持ちが読めるんだ。
憤慨したまま正義は芙美に背を向けて、椅子に座る。
「やっぱり勝ちたいんじゃない。敵を油断させるのが神宮寺の帝王学?」
通路を挟んで隣に座っていたAグループの竹緒が、今にも小動物をいびり殺しそうな笑みを浮かべながらこっちを見ていた。
普段は明るく、社交的で、子供受けの良い笑い方をするくせに、勝負となると負けなければなんでもありな悪魔が良心的な天使を監禁して御神竹緒を独占するらしい。
こいつが社長になったら御神財閥は最強だな。
「いや、そうじゃなくて。だから前にも言ったとおり……」
言い訳しようとしたけれど、途中で口をつぐむと右手を振った。
「なんか説明するの面倒くさいから、竹緒がそう思いたいなら勝手にそう思ってていいや」
「何よ、それ」
竹緒のひと睨みを無視すると、正義は肘掛けに肘をついて手のひらに横顔を乗せた。頬が持ち上がって、目の形が三日月型に歪む。
「ご飯を一緒に食べるのは無理かもしれないけどさあ、今度の土日、みんなでどこかに遊びに行かない? 結束力を高める意味で」
座席に膝をついて中腰になっているのか、こちらに顔を向けた片桐が提案する。
「悪いけどあたしはパスするわ。何度も言うけど、そういうの苦手なの」
芙美の声が後ろから聞こえてきた。片桐の隣で座席と座席の間からこちらをのぞいている山口は、だだをこねる子供にあきれて笑っている保育士のような顔をしていた。
「そう言わずにさあ」
得意の押しの笑顔を片桐が見せたけれど、芙美はそれには答えない。後ろからは、それとは別に申し訳なさげな声が聞こえた。
「ごめん。俺も土日は無理なんだ。ちょっと行くところがあって……。みんなで楽しんでくれる分にはかまわないんだけど」
チュオンだった。これ幸いにと、正義もそれに乗っかる。
「僕もだめだ。いったん実家に帰ることになってる」
三人も欠席者が出てはさすがに無理だと思ったらしい片桐は、やたらと大げさに肩を落とした。
「三食一緒にご飯を食べるしかなさそうね」
山口の勝ち誇ったような笑みに、「で、でもそれはさあ」と少し慌てた様子を見せる。
「そんなことしたら片桐はAグループのお友達と一緒にご飯を食べれなくなるもんな」
茶化すように竹村が言った。正義は、ああ、と思う。そういえば、グループ分け前から竹緒たちのと仲が良かった、というよりかもともとあっちの人間だった片桐が、Aグループのやつらと夕飯なんかを食べているのを何度か見かけたことがあった。
別に漏れて困る情報なんてないから、授業が終わったら自由だろと、気にしていなかったけれど。
結局週末の話も三食ご飯を共にの話もなくなって、正義たちはただただバスに揺られた。朝のラッシュの時間帯だから大きなフロントガラスから見えるのはひたすら続く色とりどりの車のボンネットだ。
小粒の雨が窓をわずかに濡らしているらしく、ワイパーが動く。歩道との境目にある花壇に植えられたパンジーが、なぜだか色つきパンダの羅列に見えた。
ぼうっと前の景色を見つめながら、正義は今目の前のガラスをぶち破って外に飛び出したら、アクション映画のヒーローみたいに車の上を走れるだろうかと考えた。
ヒーロー。ヒーロー。
本堂雅臣は、伝説の男は、車の上を走ったことがあっただろうか。
「家に帰るんだ?」
竹緒の声に、正義の思考はプチッと、リモコンでテレビを消すように途切れた。
「うん」とうなずく。何を考えていたんだっけ? ああそうだ。ボンネットの上を裸足で走ったら雨ですべるのかなあ。ボコボコと凹むのだろうか。
「おじい様たちに意見を仰ぐなんてナシよ。もっとも、課題はその日のうちに提出だから、そんな心配いらないんだけどさ」
竹緒の声からは敵意も警戒心も消えていて、普通の幼なじみの声に戻っていた。
「そんなんじゃないよ」と正義は笑う。幼なじみとして笑う。
ただちょっと、知りたいことがあるんだ。
××××××××××
生美子の母親の友人が営む中華料理店で食事をした帰り、友達と食べる夜食をコンビニで買い込む竹緒を、正義と生美子は車の前で待っていた。生美子の母は駐車場の端で夫、つまりは生美子の父親に電話をかけている。
「もしかしてなんかあった?」
生美子はつっけんどんな訊ね方をした。
「何かって、何?」
正義も同じような応え方をする。
年に一,二回しか会わない、連絡も取らない異性の友人というのはなんだか変なものだ、正義は思った。前に会ったときの記憶のままでいると、雰囲気の違いに驚かされるときがある。何ヶ月も経っているのだから髪型が変わったり身長が伸びたりするのは当たり前なのに、こんな奴知らない、と思ってしまう。会った瞬間だけ初対面の男と女になって、その一瞬、ドキッとする。
まあしゃべっているうちに記憶と現実が擦り合わさっていって、友達のカテゴリーに再登録されるんだけど。
「さっき竹緒ちゃんが跡取りとしてふさわしかどうかお父さんたちにチェックされるって言う話をしたときに、僕はそんなこと言われてないって言ってたでしょ。じゃあ何を言われたの?って竹緒ちゃんが聞いたら、正義、黙ったじゃん。目ぇ泳いでたよ」
「あれ、そうだっけ?」
正義はそらぞらしくとぼけて見せる。とぼけるついでに顔を上に向けると、濃い灰色の雲間から小さな星がいくつか見えた。
地上が明るいから、星の数が少ない。けれど、ちゃんと星がある。小さな点が輝いている。
「星って、本当にこんな形してるの?」
何年前か、クリスマスツリーの飾り付けをしているときに、信之にそう聞かれたことがある。雨の止まない世の中になってから生まれた信之は、旅行先とプラネタリウムでしか星空をみたことがなかった。
「違うよ、星は丸いんだよ。でも星はきらきら光ってるから、地球から見えたらこんな形に見えるんだ」
あのときはそんな答え方をしたはずだ。
厚い雲の隙間から見える星は、ちゃんとところどころ尖って見えた。
「スサノオのことを調べたいんだ」
頭の中にふと浮かんだことが、考えるまもなく口から出ていた。
もしも信之が全高会に選ばれたら、やっぱり興梠のところに行けと言われるのだろう。そしてあの事実を突きつけられるのか。これにおまえは耐えられるかと、牙を剥いたライオンのような目で上空から見下ろされるのだ。
「じゃあ、出雲の博物館に行けばいいんじゃないの?」
「いや、なんかもっとこう、根本から……」
正義は顔をしかめてうなると頭を掻いた。調べてどうしたいのか、よくわからない。ただあの干からびたミイラが気になっていた。出雲にある、あの右腕のない男のミイラが。
おまえは誰だ。そう心の中で言うとき、正義は自分がスサノオの子孫の立場から言っていることに気づいて愕然とする。
自分はもうスサノオとは、オロチを退治した古代の英雄とは赤の他人だというのに。
どこのどいつかもわからない、スサノオの栄光を何食わぬ顔で自分のものにした右腕のないミイラのほうの子孫だというのに。
それなのに気づかないうちにスサノオ側に立とうとする自分がいる。これは恐怖なのだろうか。自己防衛なのだろうか。
「博物館がだめなら、本当に最初のところから調べるしかないんじゃない? 古事記から」
「古事記から?」
あの作り話だらけの歴史書か。
「不思議な本だよな。その当時の有名人を神様のモデルに使ったのは、それで市民の興味を引いて古事記を広く読ませるためだったっていうけど、交通の便もメディアも発達していなかったあの時代、全国の人に名前が知れ渡ってる有名人なんていなかっただろうし。スサノオにしたって、出雲近辺と朝廷のある近畿あたりでは有名だったかもしれないけど、他の地域の人は知らなかったんだろうな」
正義はやけに明るいコンビニの店内を眺めながら言った。かごにお菓子や飲み物を放り込んだ竹緒が、レジに並んでいる。ただでさえ色素の薄い髪が、強いライトに透けて金髪のように見えた。
生美子の横顔に光が当たる。
「すべては稗田阿礼の功績だって言うよね。全国を旅して、モデルにふさわしい人間を捜してきたって。当時の全国だから、もちろん東北より上や南九州より下は入ってないけど、おかげで登場人物のモデルはあちこちに散らばってる。なんていうか、地元のアイドルみたいな感覚だったんじゃない? 知ってる子が全国誌に載ってたら、その雑誌買うでしょ。版元、つまりは朝廷にも親しみが出るだろうし」
「すごいよなあ。飛行機も新幹線もなかった時代に全国歩き回ってって……」
え?
ちょっと待てちょっと待てと、正義は先走る思考と焦り出す心臓をなだめだ。何かに気づいた。今確かに、何かに気づいたぞ!
「どうしたの?」
怪訝な顔をしてのぞき込んでくる生美子の顔をちらりとも見ずに、正義は記憶の糸が切れないように、恐る恐るそれをたぐり寄せた。
一瞬のあいだに、何かに気づいたのだ。生美子はなんと言った? そして僕は何を考えた?
そうだ、稗田阿礼だ。稗田、ひえだ……。まさかな。
「稗田阿礼に子孫ていたっけ?」
正義の額に浮かんでいる汗を奇妙な目で見つめながら、生美子は首をかしげた。
「少なくとも、正義や竹緒ちゃんみたいに有名じゃないね。今で言う一公務員だろうから、そんだけ働いてもボーナスもらってハイ終わり、とかだったんじゃないの?」
「そうか、そうだよな……」
正義は額の汗を手で拭った。頭の中で少女が笑う。不敵に。こっちのカードをすべて見抜いているように。
「日枝、か」
夜空を見上げた。生ぬるい風が雲を動かし、最後の星を食っているところだった。
|