五 喜びの日、始まりの日:後
通されたのは、まるで倉庫のような保管室だった。背の高い棚が広い部屋の端までずらっと並んでいて、そこに衣装ケースのような箱が隙間なく置かれている。
興梠はその棚の森の中を進んでいった。過ぎても過ぎても棚は尽きない。
棚をひとつ、またひとつと通りすぎるたびに、頭がおかしくなりそうだな、と正義は思った。
ようやく部屋の端にたどり着いたとき、右の壁にドアが現れた。札もなにもかかっていない。
ノックもせずに、 興梠はドアを開ける。「どうぞ」と、柔和な顔で振り返った。
足を踏み入れた部屋は保管室の広さに比べると閉塞感を感じるほど狭く、そして薄暗かった。窓がないのだ。天井にはむき出しの蛍光灯があって、けれども点けられてはいなかった。
机の上のスタンドだけが耿々と灯っている。
教室の半分ほどの広さしかない部屋は、わけのわからない機械で埋め尽くされていた。手のひら以上もある大きな刷毛が無造作に置かれているかと思えば、棚には純水と書かれた容器があり、机の上には素粒子でも見られそうな大きさの顕微鏡がある。
なんだここは? 理科の実験室か?
正義が訝しんでいると、半開きにしていたドアがギィッと音をたてて開いた。振り向くと、ひょろ長い男が立っている。
長い髪をひとつに結んで白衣を着た男は、腕に細長い箱を抱えていた。
「やあ、パウロ君。ご苦労さん」
興梠が言うと、パウロと呼ばれた男はこくんとうなずく。
「パウロ?」
「彼のご両親は日系ブラジル人なんです。彼自身はニッポン生まれのニッポン育ちだから日本語が第一言語なんですが、無口な男でしてね」
パウロが部屋に入ってくると、部屋はいっそう狭く感じられた。無言で机に進もうするパウロとぶつかりそうになり、正義は慌てて避ける。
椅子に座ったパウロが、正義に何かを突き出した。
「綿棒ですよ」
戸惑う正義に、興梠が説明する。
「それで、口の粘膜を削いでいただけますか?」
「粘膜を? どうして?」
聞き返すと、興梠は微笑みながら目を伏せた。
「あなたのDNAに、用があるもので」
正義は机の上に置かれた、細長い箱に目をやった。見覚えがある。ついこないだ、いや、昨日見たばかりだから間違えるはずがない。
興梠のやろうとしていることがわかった気がした。けれどそれは本能が察知した身に迫る危険のようなもので、具体的な形を成してはいない。
その分、不安が増して、空が落ちてきそうな恐ろしさを感じた。
「お祖父様の、お言いつけですので」
柔らかくも有無を言わさぬ口調で興梠が言う。唇を噛み、正義は震える指で綿棒を受け取る。口の中をこすると、パウロに渡した。
パウロが机に置かれた細長い箱のふたを開ける。中からは干からびた真っ黒い腕が現れる。
「スサノオの腕……」
竜を倒し、神にまで登りつめた右腕。この腕があったからこそ、神宮寺はここまで盲目の信頼を得て繁栄できた。すべてはこの腕のため。
そのミイラの腕のつけ根、鉈で切り落とされたようにきれいに切り取られている部分に先の曲がったピンセットを当てると、パウロは固くなった肉を削りだした。
「ちょっ、何を!」
抗議しようとした正義の腕を捕まえ、興梠が「まあまあ」となだめた。
正義のほうをちらりとも見ずに小さな箱のようなものを明けると、パウロはその中に綿棒とピンセットの先をなすりつけた。箱を閉じてスイッチを押す。しばらくするとパソコンにCGのような二重螺旋がふたつ映し出され、くるくると回転し始めた。
画面で大きく[INDEPENDENT]の赤い文字が点滅する。
「この機械は、挿入されたふたつのDNAに関連性があるか調べるためのものです。つまり、あなたのDNAがこの右腕の持ち主のDNAとつながっているか、あなたが彼の子孫であるかどうかを調べているのです」
耳鳴りがする。正義は眉間に皺を寄せて目を閉じた。
「independentの意味は関連性がない、です。つまり、僕はスサノオの子孫ではないと?」
「アマテラスの弟をスサノオだとするならば、まあ、そういうことでしょうね」
興梠は平然と言う。
「しかし、問題はここからなのです。パウロ」
興梠が声をかけると、パウロは引き出しから小さなケースを取りだして、それを慎重に機械の中に入れた。
パソコンの中のふたつのDNAが回転する。しばらくすると、青く[RELATIVE]の文字が現れた。
「今調べたのは、出雲のスサノオ博物館にあるスサノオだと言われているミイラのDNAとあなたのDNAのつながりです。あなたがこちらのミイラの子孫であることは間違いない。」
次々と入ってくる情報がいちいち理解できなくて、正義は頭を抱える。
「ふたつのミイラが、別人だということですか?」
自分で言っておいて笑い飛ばしたくなった。そんなバカな話があるだろうか。生まれたときから、いや、生まれる前からオロチを殺した右腕が自分の先祖のものだと信じていたのだ。地球が太陽の周りを回っているのと同じくらいに真実だ。
けれど興梠はうなずく。
「ふたつのミイラをDNA鑑定をしたので、それは間違いありません。もちろんこのことは、私とパウロと、あなたの親族のごくごく一部の方々しか知らない話ですが」
正義は身体の表面から血の気が引くのを感じた。とんでもないことになった。そう思った。こんな壮大な嘘、いったい誰が思いついたのだ!
「じゃあ、あの出雲にあるミイラ、僕と血のつながりがあるほうのミイラはいったい誰なんですか? スサノオじゃないならあの人はいったい誰で、そしてどうしてスサノオだということになってるんですかっ」
食いつくように言うと、興梠は困ったように口元を歪めた。
「実は、それがよくわからんのです。この博物館は、あなたのお祖父様から多額の寄付をいただいています。御神家の倍はあるでしょう。その見返りとして、私は極秘に調査を依頼されているのです。その依頼が、スサノオの謎を解明することです。今のところわかっているのは、あなたの先祖、出雲にあるミイラの男が生前に、自分がオロチを退治したスサノオだと名乗り、そのスサノオとして社会的に生きていたということです。それができたということは、あなたの先祖と実際のスサノオは年が近かったのでしょう。しかし調べてみたところ、この右腕のミイラは非常に年が若い。まだ二十歳そこそこといったところです。しかし伝承によればスサノオ、これはあなたの先祖、スサノオだと名乗っていた実際にはそうではない男ですが、彼は五十過ぎまで生きたという。出雲のミイラは、確かに中年の男性です」
興梠がひと言しゃべるたびに、正義はのど元にナイフを突きつけられたように息苦しくなった。心臓の音が大きくなる。
「この事実はいったい何を意味するのか。私はひとつの仮説を導き出しました。オロチを殺したスサノオは若くして死に、やがてあなた方の先祖の男がスサノオに成り代わった。そして状況的に考えて、あなた方の先祖である出雲のミイラは、スサノオの右腕を死ぬまで所持していた。なんのためか。自らがオロチを殺した本物のスサノオであることを自分の死後、本物のスサノオの姉であるアマテラスに証言させるためです」
絶句する正義に、興梠が表情を緩める。
「自分が見ることができない死んだあとのこの世でも、スサノオであり続けようとしたのでしょう。そしてその人生を賭けた計画はまんまと成功し、千五百年以上たった今でも人々は彼の策略に嵌っています。その証拠があなた方一族の繁栄ぶり。彼の勝利ですな」
その場に座り込むと、正義は目を閉じた。
「そのことを、僕のお父さんやおじいちゃんは知っているんですか?」
「もちろんです。真っ先に報告しましたので」
自分の仮説を披露できて浮き浮きしているような興梠の声が鼻につく。
逃避したい意識が白くなるのを必死でつなぎ止めながら、正義は祖父からあの箱を預かった日のことを思い出していた。
元服式みたいなものだ、と父は言った。これが儀式なのだろうか。今まで微塵も疑うことのなかった世界が音を立てて崩れていく。それを体験すること自体が儀式なのか。
絵に描いたように薄っぺらい、二次元の紙芝居ははぎ取られて、そこには奥行きのある三次元の世界が現れる。今日、僕が知った真実がその奥行きなのだとしたら、この世界には吸い込まれたら最後、絶望するしかないブラックホールのような真実がいったいいくつ存在しているのだろう。
一部屋に一台しかないテレビから、激しい雨の音が聞こえてくる。〈喜びの日〉に出演者を変え切り口を変え、けれど同じモチーフだから結局似たり寄ったりの話になること必至な本堂と浦沢による竜退治の教育系テレビ番組だ。
〈新証言を入手!〉とテレビ欄に書いてあったからなんのことかと思っていたら、その竜退治を運良く生放送したときのリポーターのおばさんが出てきて当時の様子を語っただけだった。
あれから十五年、毎年同じことをやっているのだ、そうそう視聴者も驚かない。本当に驚かせようとすれば、死んだはずの本堂を生きた姿で連れてくるしかないだろう。
正義は自分のベッドに寝っ転がって、その教育番組を聞き流していた。クイズをやられても、考える気にもならない。
「ねえねえ。竜って、本当に今でも高千穂にいると思う?」
話しかけてきた片桐に、正義はうっとうしげな視線を向ける。けれど片桐の目はわくわくしているように輝いていて、正義の鈍った視線は届かないようだ。
「さあ」
正義は素っ気なく応えた。証拠がない、と言おうかと思ったが、口を開くのも億劫だったのでやめる。
「でも、今でも高千穂では異常気象がないんだぜ。これは絶対、竜がいるんだよ」
布団に潜り込んだ正義の耳には、片桐の熱を帯びた声だけが届いた。
本堂と片桐は、高千穂にある、かつて天照大神が籠もったとされる洞穴の中で竜を見つけたのだという。そこから竜が出てくるところ、そしてその竜に向かって刀を振りかざし、鬣につかまって空高く上っていく本堂と浦沢の姿は、運良く生放送することができた放送局が〈喜びの日〉に誇らしげに繰り返し流していている。
布団の中に潜り込み、いつの間にか風呂にも入らず寝てしまっていたらしい正義は、夜中、のどが渇いて目が覚めた。時計を見ると二時を過ぎていて、十一人のルームメイト達は静かに寝息を立てている。
パジャマに着替えて歯を磨いた。鏡に映った自分の顔は泣いたわけでもないのに異様にむくんでいて、目は腫れているように見える。
洗面所にひとり立っているとルームメイト達の寝息も聞こえなくて、ただブラシが歯をこするガシガシという音だけが頭蓋骨を削るように頭に響いた。
鏡に自分が映っている。夜という闇の力か、今にもここにいる自分とは別に、狂ったように笑いながら踊り出しそうに思えた。
興梠とパウロの顔が、フラッシュバックするように交互に次々と脳裏に浮かんできた。目を瞑っても頭を振っても、消えない。出て行け!と念じても無理だ。
あのことをみんなに知られたらどうする? そう思うと心臓が縮んだ。みんなって誰だ? ひとりやふたりじゃない、この星にいる地球人全員だ。
胃が痙攣して、正義は慌てて歯ブラシを口から離した。ボウルに顔を近づけると、さっき飲んだばかりのお茶と、ほとんど腸に流れてしまって胃には少ししか残っていなかった夕飯の残りを吐いた。二回目の波がきてまた吐き、もう空っぽになった三回目ではわずかな胃液を吐いた。
喉の奥が焼けるように痛くなり、手ですくって水を飲む。
全部夢みたいだ。僕が僕なのか、わからなくなる。
口元から水を滴らせる自分の姿をぼんやりと見つめながら、正義は消えない喉の痛みに眉をひそめた。
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