三 異国からの革命児:後編
××××××××××
その日、正義は生まれて初めてスーツというものを着た。
ワイシャツとネクタイは柄が違うだけで制服とたいして変わらない。ネクタイが絹だと母は言ったが、手触りが少しつるっとしているくらいで、どう違うのかよくわからなかった。
スーツの生地は濃い灰色のイタリア製だった。曾祖父の代から懇意にしているという銀座の紳士服店で正義が選び、オーダーメイドで仕立ててもらった。
思わず「セバスチャン」と話しかけたくなるようなおじいさんにこれでもかというほどメジャーを身体に当てられて、既製品の偉大さを知った。
「行ってらっしゃいませ」
正義の晴れ着姿を見れてご機嫌らしい牧子さんと、ひとり置いてけぼりをくらって拗ねている信之に見送られて、家族三人はリムジンボートで家を出た。
艶やかに黒く光るボディを持ったボートの中は座席さえも特注で、背もたれがほどよく身体にフィットする。天井に埋め込まれた電気のカバーには透かし彫りがしてあった。
「全高会の代表に選ばれたのを祝うだけなんでしょ? どうして信之を置いていくの?」
正義は光沢のあるスーツをなでた。制服だったらそのまま布団に潜り込んで仮眠もできるけれど、このスーツでは座るだけでも皺ができないか気を遣ってしまう。
「今日は大人だけの食事会なんだ。まあ、正義の元服式ってところだろうな」
疲れたように首を回しながら父が言った。
「何それ? おおげさ」
正義は笑ったが、両親が神妙な顔のままだったから口を閉じた。卒業式や入学式でも着ないような高そうな付下げの着物を着た母が、「正義ももう大人なのね」と寂しそうにつぶやく。
「わかっていたことだし、納得していたことなのに、ため息しか出ないわ。変ね。別に、家を出て行くわけでもないのに」
わずかに眉をひそめて、困ったように笑う。
「気持ちはわかるよ」
父が母のほうを向いた。
「だけど、私も十七歳のときに全高会の代表に選ばれて、大人だけの食事会に招かれた。あのときは神宮寺の男として十分に認められたのだという喜びと、もう甘えは許されないという恐さの両方があったな。背負うものが背負うものな分、跡継ぎに早くその意識を持たせるというのは正しいと思う」
父と目が合い、正義は背筋を伸ばす。家にいるときはなんの意識もしないが、スーツを着てこんな内装のボートに乗っていると、この人が何十もの会社が属する大財閥のトップであることを思い出す。
上質な生地のスーツが溶け込むように身体に馴染んでいる雰囲気も、高級感のある座席に気後れしていないのも、年相応の顔の皺が醜さなく貫禄に結びついているのも、すべてはこの人の財閥トップとして歩んできた半生の賜なのだろう。
それは空恐ろしいくらいに〈僕の父親〉からかけ離れていて、けれど今度その距離が縮まるときは父がこっちにくる時ではなく自分があっちに行く時なのだと思うと、まるで目の前にどう猛な獅子がいて大きく口を開けて待っているような気分になった。
同じ年数経てば、僕もこんなふうになれるのだろうか。
「恐いか?」
労る声と視線の中に試すような色を感じて、思わず正義は「平気だよ」と応えた。
神宮寺の人間として生きると決めたのだ。
だからこれからは、まるで棚ぼたのようにして降ってくる恩恵は当たり前として頂戴するし、その代わりに負わなければいけない運命があるのならすべて無条件で受け入れよう。
たとえそれに、狂いそうになったとしても。
ボートが着いたホテルは、当然のように神宮寺財閥が経営しているものだった。財閥が持っているホテルは価格や客層に合わせて何種類かレーベルがあるが、その中でも一番高級な部類だ。
外観は海の波打つ様子を表しているようで、色は銀、全部で階は五十五ある。そのホテルを、下から大きなライト四つが見上げるように照らしていた。
金メッキで光る手すりの付いた大理石の桟橋にボートが横付けすると、ボーイがドアを開けた。桟橋には赤い絨毯が引いてあり、それが入り口まで続いている。
五階まで吹き抜けになっているエントランスロビーの中央には直径五メートルはありそうな噴水があり、ところどころに花が植えられていた。天井からは細長いシャンデリアがぶら下がっている。
「社長、取締役、正義様、お待ちしておりました」
総支配人という金色の名札をつけた男が深々と頭を下げて三人を迎えた。その総支配人の案内でエレベーターに乗り、五十階にあるレストラン街で降りる。
「皆様、すでにおそろいでございます」
そう言って通されたのは、懐石料理を出す店だった。店の一番奥、尾形光琳の紅白梅図屏風を現代風に写したふすまで仕切られている個室を、指のきれいに揃った手のひらで差される。
「遅くなりました」と父がふすまを開けて先に入った。
「失礼します」と軽く頭を下げて母があとに続いた。
そして正義も足を踏み入れた。よく磨かれた、艶のある畳だ。カタンッと、うしろでふすまの閉まる音がする。
顔を上げた。左を見て、それから右を見た。祖父がいて、そして見覚えのある顔がずらずらと並んでいた。
ざっと三十。
男もいれば女もいる。
祖父より年寄りなのもいれば二十歳そこそこに見えるのもいる。
みんな、今年の正月に正義にお年玉をくれた人たちだった。君はまだ子供だからと、その証拠にくれた年玉。
どうやら来年はもらえそうにない。
「よく来たなあ、正義。元気そうだ」
恰幅の良い祖父が、床の間の前に座ってそう言った。身長が百九十近くと、その年の人にしてはずいぶん大柄だ。生やした髭とつるりとした着物が威厳を増長させる。
「おまえの席はここだ」
低くよく通る声が、父の向かい側、母の隣の座布団を指した。正義は言われるままにそこに座る。祖父のすぐ隣の席に。
座る瞬間、ふと祖父の後ろにある床の間を見やった。スサノオが描かれた掛け軸があり、そして。
「天羽々斬……ッ」
思わず声に出してつぶやいた。
そこには、一年に一度、父の会社にわざわざ行かなければ見ることの出来ない剣があったのだ。刃先はところどころ欠けていて、柄の部分に装飾があるもののそれがなんなのか判別すらつかないくらいに古く、錆びた鉄の塊と化している国宝の剣。
国立博物館にあるはずなのに……!
「おまえのために、わざわざ警備員を雇って運んできたんだぞ。許可を取るのが大変だった。保険をかけさせられたよ」
父が笑って言った。
「でもおじいちゃんが、それがあったほうがおまえが実感しやすいだろうと言ってな。その剣の存在そのものが神宮寺家の象徴だから」
ジッと、正義はその剣を見つめた。
「持つか?」
祖父が懐から薄い手袋を出した。
「いいのっ?」
今までどんなにねだっても、指一本触れさせてはくれなかった。いつだって剣は鍵のかかったガラスケースの中だ。
「今日は特別だ」
祖父が目を細め、ニィッと笑った。
両手に手袋はめて、正義は剣を持つ。浮かせた瞬間、ぐいっと重みがかかった。何キロあるのだろう? 十キロ……いや、それ以上か?
顔の前まで持ち上げると、ふわりと鉄の香りがした。鼻の奥をなでられるような匂いだ。
剣を縦に持つと、向こうに親戚たちが見えた。みな微笑ましく、それでいてどこか緊張した顔をして座っている。
「本堂雅臣みたいだ」
子供のふりをして、正義は少しはしゃいだ声を出した。マンガに出てくる剣に形が似ている。信之に言ったら、うらやましがるだろう。
「義経か」
祖父が笑った。小バカにするような笑いだ。親戚たちもあとを追うように顔に薄笑いを浮かべる。
父が諫めるように正義を睨んだ。母が申し訳なさげに目を伏せる。
正義は、大人たちがなぜ笑っているのか、わからない。
「まあ、座りなさい」と、祖父が手招きをした。
ふすまが開き、着物を着たウエイトレスたちが膳を運んでくる。見よう見まねで、椀のふたを開けた。
「義経には憧れるな」
箸を取り上げ、横一文字に盛られたご飯をつまみながら祖父が言った。
「その義経ってなんのこと?」
僕は本堂雅臣と言ったのに。
「本堂雅臣は義経と似ているだろう? 英雄と持ち上げられ市民からの寵愛を受けた後で、若くして死んだ。そして今でも歌舞伎になったりドラマになったり、まるで伝説扱いだ」
正義は「まあ、ね」とうなずく。
「だが義経は何も残してはいない。しょせんはただの道化者だ。歴史に彩りを添えるだけの飾りだ。ちょうどこの」
祖父は汁物の真ん中に浮いていた青菜を箸で釣り上げた。
「この三つ葉みたいなもんだ。あったほうがきれいだが、なくても別に困りはしない」
「本堂雅臣も?」
正義はその部屋にいる大人たちの誰にも悟られない程度に眉をひそめ、不愉快さを表した。
「ああ」と祖父は言い切る。
「でも、竜を倒したよ?」
「我らが先祖もオロチを退治したぞ」
祖父が自分の後ろを指す。そこでは、天羽々斬を持ったスサノオが後光を背負ってたたずんでいた。
『スサノオって、本当にいたんでしょうか?』
日枝の不吉な言葉がふと頭によみがえった。けれどすぐに否定する。あんなの、ただからかわれただけに決まっている。
おもしろくない冗談を言うやつなのだ、あの日枝って女子は。
ウエイトレスたちが盃の乗った盃台と銚子を盆に置いて運んでくる。盃が全員に回り酒が注がれると、祖父が見回した。
「正義の全高会代表の決定を祝って」
乾杯、と盃を上げた。乾杯・乾杯・乾杯と、大人たちの声が共鳴しているようにあとに続く。そして、壁紙に染みこんでいく。
「いただきなさい」
母にささやかれ、正義も盃に口をつけた。ぬるい酒は柔らかく、そして山葵のようにアルコールが鼻に抜ける。
「全高会には全国の高校生の代表が集まる。その学校が将来有望と自信を持って押し出した生徒だ。当然、大学も企業も注目する。そこから選んでおけばまず人選を間違うことはないからな。優秀な生徒同士を出会わせ、刺激し合うというのが名目ではあるが、まあ、才能の青田買いのためのカタログ大会みたいなものだ。うちも毎年何人か、そこで目をつけた生徒と直接コンタクトを取って大学卒業後に入社させている。幹部候補だ」
祖父は銚子を持つと、空になった自分の盃に酒を注いだ。
「正義が全高会に選ばれたということは、うちの跡取りはそれだけの人間であると政界や経済界の人間たちに知らしめることにもなる。つまりおまえは認められたんだ。神宮寺財閥の後継者として」
ガハハと笑うと、祖父は「偉かったぞ」と正義の頭をなでた。ぐりぐりと、大きく温かな手で、目が回りそうなほど力強くなでる。
「僕もうれしいよ」
くしゃくしゃになった頭のまま、正義は笑顔の見本のように笑った。
「これをおまえに預けよう」
祖父は懐の中から薄い箱を取り出した。甲虫の背中のように艶やかに光っている箱だ。厚さは一センチほどだろうか。小さな蝶番が付いている。
場の空気が緊張したのを感じて、正義は部屋を見渡した。親戚たちが、そして父が母が、何かそれが重大なことであるようにこっちを見ている。
「そして、これがその鍵だ」
ネックレスのようにして首にかかっていた鎖を、祖父が正義の首にかけた。ネクタイの上を、燻し銀色の、まるで小人のそれであるかのように小さな鍵がコロンと滑る。
「日向に着いたら箱を開けなさい」
秘密のベールを被せて、意味深に祖父が言った。
はい、と正義は応える。秘密の先を問うてはいけない。
それでもホテルから帰る途中、ボートの中で、正義は父にたずねた。
「お父さんも、全高会の時にこれを開けたの?」
「ああ、そうだったな。おじいちゃんのお父さんから受け取ったよ」
酒の匂いを身にまとった父は、少し疲れた顔をしていた。どこか辛そうにも見える。
正義は蝶番を触る。サイコロのように小さいが、ちゃんと装飾を施されている。
「これ何? お母さんも中身、知ってるの?」
ヒントがほしいだけだった。あるいは映画の予告編のような。それもだめなら、「それは開けてのお楽しみ」と、親らしくさらりとかわしてほしかった。
けれど正義がふたりの顔を交互に見たとき、口をつぐんだ母が父に助けを求めた。父は目をそらし、窓の外のやまない雨を眺める。
「聞くなっ」、と吐き捨てるように言った。
そのひと言で、正義は父が自分を審査する側に回っていることを悟る。
採点しているのだ、僕の行動を。
つやつやと光る木目の美しい箱に目を落としたまま、「すみませんでした」と正義は言った。
窓の外のビル群はネオンの明かりを増して色とりどりに輝いていた。壁に取り付けられた大きなテレビにドラマの予告が流れている。〈喜びの日〉に放送される、特別ドラマだ。
人気のイケメン俳優が本堂の役を演じていた。竜の背中にしがみついて空を高く高く上っていく姿が一瞬だけ音楽に乗って流れる。
竜はのうろこが眩しい。それに必死でしがみついている青年の姿も眩しい。
本堂の顔が一瞬丹羽とかぶって見えて、首を振った。
別に憧れてるわけじゃない、と心の中でつぶやいた。
〈憧れ〉は自分とつながっている。レーサーに憧れている人間はどこかでレーサーになりたいと思っているし、NYに憧れている人間はNYに行きたいと思っている。
僕は、本堂雅臣になりたいとは思っていない。死んだ後もたくさんの人に愛され、尊敬されるような選ばれた人間だとうぬぼれたりはしていない。
今はただ、格好良いなと思うだけだ。マンガを買ったりゲームを買ったり、映画を観に行ったりするだけだ。
そして未だに〈憧れ〉を口にする友人たちを、子どもっぽいと笑うのだ。
顔を下に向けて、正義は笑みを噛み殺した。
僕はきっと、祖父や父のようなご立派な大人になれるだろう。
〈つづく〉 |