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COCOON―そして少年は英雄の屍に出会う―
作:斎籐拓夢



三 異国からの革命児


     三 異国からの革命児


 弾手は、山の中腹から下にある中学校を見下ろしていた。屋上に敷きつめられたソーラーパネルに太陽が反射して眩しい。
「ルディ、双眼鏡」
 弾手は振り向いて手を差し出した。抱えていたリュックの中から双眼鏡を取りだし、強ばった顔をしたルディが手渡す。その周りにいる三人も、同じような顔つきだ。
「緊張しすぎるなよ」
 弾手は四人に声をかける。
「正しい判断ができなるからな」
 口の端で笑ってみせると、四人とも少しだけ表情が和らいだ。
 双眼鏡を目に当てて、学校を眺める。ひとつひとつの窓から中の様子がうかがえた。女教師が廊下を歩いているのが見える。特に慌てている様子もない。
「勘づかれてはいないみたいだな」
 携帯の着信音が鳴った。
「弾手、リョンからだ」
 携帯を受け取る。
「弾手さん、リョンです」
 聞こえてきたリョンの声は比較的落ち着いていた。少なくとも、興奮しすぎて冷静さを欠いてはいない。
 リーダーにリョンを選んで正解だったな。
 弾手は双眼鏡を再びのぞくと、今彼らのチームがいるはずの三階に向ける。二重にも三重にもなって建ち、渡り廊下でつながっている校舎の中でも一番奥にある校舎。その三階の階段で、今リョンたちは息をひそめているはずだ。
 弾手は左手にある腕時計を見た。
「十二時ちょうど。予定どおりだ。リョン、行け」
 言うと同時に携帯を切った。食い入るように、双眼鏡をのぞく。窓から階段が見える。そこから、小さな仲間たちの思い詰めた顔がのぞいた。
 先頭を切ったのはリョンだった。背伸びをして髪を茶色に染めた少年が、片手にパイプのようなものを持って突っ走る。それに十五名のチームが続いた。みな手に、同じような棒を握っている。
 すぐに三階は騒然となった。その校舎の三階にある教室は三つ。アルファベットで言えばEとFとG。
 単純に言ったら五人でひとクラスを襲うことになるが、一番奥のクラスに強いやつが固まっているから、そこだけ七名だ。
 離れたこの場所からでは、閉めきられた窓を通してまで中の声は聞こえてこない。けれども双眼鏡のレンズを通して、倒れる机の音や、叫ぶ女子生徒の声や、怒鳴る教師たちの声が、幻聴のように脳に届いた気がした。
 赤い閃光が教室を横切り、突くような風が生徒たちを廊下に飛ばす。恐れおののく生徒たちは我先にと廊下を醜く走り、階段から転げ落ちる。
 教室の中で乱闘が始まったのがわかった。机が次々と崩れ、椅子がなぎ倒される。
 チームのひとりが馬乗りになって殴られているのがわかった。
「クソッ」
 一緒に山から見下ろしていた仲間のひとりが山を駆け下りようとするのを、ルディがとめた。「俺たちが手を出しちゃいけないっ」と、相手の腕をつかむ。
「おまえだけじゃない」
 弾手が静かに言うと、ルディに手をつかまれている仲間が首に筋を浮き立たせた。今にも狂いそうな衝動をこらえているのだ。
 双眼鏡をのぞくと、殴られ続ける生徒は口を切って血を流していた。あれは……、あの横顔はロイか。
 指の関節に痛みを感じてから、双眼鏡が潰れてしまいそうなほど手に力が入っているのだと知る。それでも、緩めることなどできるわけがない。
 ロイを殴っている男子生徒の背中に、チームのひとり、ヒロキが棒を突き刺した。
「よしっ」
 ガッツポーズと一緒に、思わずそれが弾手の口をついた。
 男の身体は痙攣するように一瞬上下し、それから床の上を激しく転がった。うつぶせの状態で指を動かしてはいるが、立ち上がる様子はない。
 弾手はほくそ笑んだ。
 電気の量は正確なようだ。俺が設計したのだから、当然か。
 三つの教室では赤い光が走っては消えた。爆発のような突風で窓が割れ、グラウンドにガラスが散る。
「行けるぞっ」
 弾手の後ろで、誰かが喜びに震えてうわずった声を上げた。弾手の呼吸も荒くなる。
 これは、……行ける!
 勝利を確信した次の瞬間、遠くに疫病神の笛の音を聞いた。
「予定よりも早いな」
 弾手が舌打ちすると、「リョンに知らせる」と仲間のひとりが電話をかけた。
 しばらくすると、校庭の土はパトカーのサイレンで赤く染まった。車は全部で五台。うち三台はサイレンを頭に点けただけの乗用車だ。
 学校からリョンたちが引っぱり出されるのを、弾手たちは五人は息を殺しながら眺めていた。校舎の窓からは生徒たちが怖々と、けれどもしっかりと身を乗り出して車に乗り込む反乱者たちを見ている。
 リョンたちは抵抗しなかった。興奮が収まらずに、自分の腕を握る警察の手をやや乱暴に振りほどいたやつはいたが、警察のほうもそこは心得たもので、「ハイハイ」となだめるように手を離した。
 弾手の携帯が鳴る。
「おまえの仕業だろ」
 聞こえてきた低くドスの利いた声の持ち主は校庭にいた。乗用車の運転席側に立ち、「おい、どこから高みの見物してんだ?」と辺りを見回している。
 坊主頭に柔道で鍛えた厳つい身体がくすんだ色のスーツを着ている。警官のステレオタイプがまんま歩いているような男だ。
 その坊主頭が、まるで胡麻のように小さく見えていた。
「あいつらがそう言ったのかよ」
 弾手は鼻で笑う。ルディたちのほうを振り向くと「糞林か?」と口パクで聞かれ、うなずいた。
「言うわけないだろ。だがあの武器にしろすんなり捕まるところにしろ、明らかにおまえの手口だろうが。まったく、いい信者を持ったもんだなあ、ルスタリ。あいつら、おまえのためなら死ぬんじゃないか?」
 糞林のせせら笑いに、弾手は一瞬で頭に血が上る。
「あいつらは仲間だ! 自分たちの意志で、自分たちのために行動しているっ」
「そういうのをマインドコントロールっていうんだよ。おまえ、教祖になる素質あるぞ。高校卒業したら宗教法人でも作ったらどうだ? ああ?」
 弾手は身体中の毛が逆立ちするのを感じた。奥歯を噛みしめる。目を閉じ、痛いほど力の入っている頬に緩まれ緩まれと念じながら静かに息をする。
 それから静かに目を開けた。まるで蔑むように糞林を見下ろす。蟻のように小さく見えている男を。
「俺を主犯だと思うなら捕まえてみろよ」
 それに糞林は答えない。
「おまえの手先が少年院に行ってもいいのか?」
「バーカ、俺が仲間にそんな思いさせるかよ。メンバーは全員、昨日までは模範生のように良い子だった。器物損壊と傷害で、せいぜい停学だ」
 電話の向こうで糞林が舌打ちをした。
「害虫がっ」
 その毒つきに弾手はほくそ笑む。
「ああ、俺たちは害虫だよ。いつかあんたらの身体に毒を回らしてやるぜ、糞林さん」
 熊林だ!という怒号が飛んでくる前に、弾手は電話を切った。校庭では糞林が携帯に向かって何やら怒鳴っている。
 その糞林が車に乗り込み苛立ったように激しくドアを閉めると、リョンたちを乗せた五台車は円を描くように旋回して校庭を出ていく。来たときとは違い、サイレンは鳴らさない。
「頑張れ」
 頑張れ、頑張れ。
 誰ともなく、口々にそうつぶやいていた。力強く、不安げで、誇り高くもあり、悲しそうでもある、そんな目をして車を見送る。
 弾手は携帯を握りしめた。
『俺たち、やります!』
 目を輝かせてそう言ったリョンたちの顔が、その輝きを失わないまま頭にこびりついて離れなかった。

「バカ野郎!」
 左頬に衝撃を感じた次の瞬間、弾手は床に投げ出されていた。頬のしびれが痛みに代わり、殴られたのだと知る。
「おまえは自分が何をしたかわかってるのかっ? リョンたちが今警察でどんな思いをしてると思ってるんだ!」
 台所から、母が不安げな顔でのぞき込んでいるのが見えた。弾手は立ち上がる。けれど、絶対に左頬を触ったりはしない。痛いというそぶりなど見せない。
「全部計画のうちだ。警察に行くことは、あいつらにも話してある。納得した上での行動だ」
 いつの間にか同じ目線になった父の顔をまっすぐに見る。褐色で彫りの深い顔だ。
 父が顔をゆがめた。
「いいか、弾手。リョンたちはおまえの提案を自分の頭で考えて納得したから行動したんじゃないっ。盲信しているからおまえの言うことならなんだって聞くんだ。おまえは自分のわがままのためにその信頼を利用したんだぞ!」
「わがままじゃないっ!」
 側にあった椅子の背もたれを引っ掴むと、床にたたきつけた。アルミでできたそれは壊れることなく、艶を失ったフローリングの上をバウンドする。
 椅子を振り下ろした格好のまま、弾手は激しく息をした。爪がくい込みそうなほど固く両手を握る。
 筋肉も脳の血管も破裂しそうだ。
「わがままじゃないならなんだ!」
 怒声が雷のように打ち付ける。
 視界の隅に父の手が見えた。指が足りない父の左手。
 跳ね上がり執拗に酸素を求め続ける心臓を落ち着けようと、弾手は大きく息をした。力んで骨の浮き出た手を見つめ、冷静になれと自分に言い聞かす。
 けれど苛つくほどのこの鼓動は収まらない。今すぐ肺を破ってえぐり出し、握りつぶしたいほどにうるさくて、弾手の思考を妨げる。
「言い訳ばっかしてるアンタになんか何も言われたくないね」
 自分でも驚くほど静かな声が出た。
「何が話し合いだ、何が労働組合だっ。そう言い続けて五年、何が変わったよ? 何も変わってないじゃないか。盾突くと給料が下がる? 警察が乗り込んでくる? 俺たちが学校に行けなくなる? 違うね。アンタはただ、怖がってるだけだ。自分を守りたいだけなんだ!」
「なんだとっ」
 父の顔色が変わったのがわかった。子供を叱る〈父親〉から自分の尊厳を守る〈ひとりの男〉になった瞬間だ。弾手は笑った。そうこなくっちゃ。
 台所から母が駆けてくる。
「弾手、お父さんを侮辱するのはやめなさいっ」
 掴まれた腕を、弾手は振り払う。
「じゃあ親が子供を侮辱するのはいいのかよ!」
「そんなこと言ってないでしょっ」
「言ってるだろ!」
 今にも泣き出しそうな母の顔から目を離すと、弾手は父を見据えた。
「敗北を恐れる人間は、戦いの舞台に立つことすら恐れる。アンタはそういう人間で、俺は違う。俺は必ず、世界の構造を変えてみせる。たとえそれが暴力だと言われてもな」
 きびすを返すと、弾手は転がっている椅子を超えてリビングを出た。名前を呼ぶ母の声が聞こえたが、振り向かない。
 玄関を出て歩いていると、階段の踊り場で姉の毬亜に会った。天井と手前と、三つの滑車に紐が巻き付きついていて、姉は一番下にある滑車に付いた取っ手を全体重をかけて回している。
「ちょうどよかった。弾手、手伝ってよ」
 姉は、額に薄く光った汗を手でぬぐった。弾手はため息をつく。
「一瞬だけだからな」
 姉に変わって取っ手を持つと、それをくるくる回す。学校で鍛えられている弾手にはそれほど重いものではないが、姉には十分きついだろう。
 下から、かごが上がってきた。中には水が並々と入れられたポリタンクが五つ入っている。近くの路地裏で知らないおばさんが売っている闇水だ。保健所の許可を受けていないから違法だが、水道局の水よりも三割ほど安い。
 その代わり、毒が混入されていようが中で大腸菌が繁殖しようが、自己責任だけど。
 踊り場の塀の内側に、姉がそれを引き寄せた。紐とかごとをつないでいたフックをはずし、「杏奈、上がってきていいわよ!」と、中学一年の妹がいる地上に向かって叫ぶ。
 弾手は姉の手からかごをもぎ取ると、床においた。女がひとりで持つには重すぎる。
「学校のスクラップ使って、今度自動で持ち上げられるやつ作っておくよ。モーターつければ簡単そうだ」
「本当? 助かるわ。ついでにエレベーターも治してよ。そしたら十五階建てのこのマンションを有効活用できるじゃない。人の足じゃあ、毎日上るのに五階から上は厳しいわ」
 簡単に言う姉に、弾手は「治せるけど電気代払えないだろ」と眉をひそめた。マンションの屋上にある中古のソーラーパネルは性能が悪くて、全家庭の電気をまかなうのにも十分ではないのだ。盗電すればできなくもないだろうけど。
 かごのふたを開けると、ポリタンクを一個、外に出す。
「これ、もらってくから。姉ちゃん、あとから上に俺のカバンと制服、持ってきてよ」
「何? またお父さんとケンカしたの?」
 姉が呆れたような声を出し、腕を組んだ。それを無視して弾手は階段を上っていく。
 七階につくと廊下を進んだ。家のある五階と同じで、天井の蛍光灯がきれいにはずされてその存在すら忘れられている廊下だ。
 紺色のドアは進行方向の左側に病室のように規則正しく並び、中ががらんどうである証拠として、死の香りにも似た空虚感を冷気と一緒に漂わせている。
 弾手は突き当たりの部屋の前に立った。他の部屋ではすっかり声をなくしたインターホンがあるはずの場所に、その部屋だけは四角い機械が備え付けられている。そこに指を押し当ていると、ガチャッと鍵の開いた音が聞こえた。
 学校の課題で作った指静脈認証システムを持って帰ってきて、基地の鍵代わりに使っている。ルディたちの指静脈も登録済みだ。
 玄関に入ると靴を脱ぎ捨て、空っぽの部屋にポツンと捨てられたようにひとつだけおかれているソファの前を通り抜けると、奥の部屋のノブを握り、引く。
 八畳ほどの広さの洋室だった。
 固くなったドアはギィッという音を立てた。中に入るとおいてあったスプレー缶を取り、振りながらドアのところに戻る。直径が五ミリもないノズルをドアの金具に押し当て、オイルを拭きかけた。
 何度もドアを開け閉めして音を立てなくなったことを確かめてから、スプレーを元の場所に戻す。プラスチック製の黒いケースの中だ。
 ケースは、大小含めて八つあった。アルミ製の細い板でつながっていっている姿は、上から見れば寝起きの蜘蛛が伸びをしているようだ。
 小さいものの中にはネジや導線、チューブが入っていて、大きなものの中には壊れたテレビやパチンコ台からかき集めた液晶パネルや半導体が入っている。工具や電池、モーター類は重いから、一番がっしりとしたケースの中だ。
 転がっていたゴーグルとマスクを適当な場所に放り込むと、工具の入っているケースの先に付いていた、赤いボタンを押した。
 小さくガチャンと音を立てて、八つのケースが動き出す。細いアルミの板がケースを持ち上げ、伸び縮みし、まるで積み木を組み立てるようにしてそれぞれの場所に収まる。
 弾手が手を伸ばしてパカッと鍵を閉めれば、飛行機内にも持ち込めるサイズのキャリーバッグのできあがりだ。
「あいかわらずコンパクトね。あんたの町工場は」
 後ろから聞こえた声に、弾手は振り返った。ドアのところに、肩にカバンを提げ腕に制服をかけた姉が立っている。
「昨日朝帰りだったのは、ここで武器を作ってたから?」
 姉はカバンを床に置き、制服のかかったハンガーをカーテンレールに吊す。
「まあね」
 弾手はキャリーバッグを押した。スルスルと壁に向かって転がったバッグは、ぶつかる瞬間にセンサーで対抗物を認知して自動的に停止する。
「まったく、よくできてるわね。さすが特待生」
 半分笑いながら、困ったように姉は首を横に振った。
 弾手たち家族がこのマンションに住み始めたのは、五年前のことだ。造船工場で働いていた父が機械に左手の薬指と小指を食いちぎられ、仕事をなくした。それまでは借家にいたのだが、ヘルパーとして働いている母の給料と父がなんとか手に入れた新しい工場での給料では払うことができず、引き払った。
 マンションは大通りから少し離れた場所にあり、築何年かは又聞きの又聞きですでに噂の類だが、六十年を超えてるらしい。少子化が進み廃墟と化したマンションに、同じく少子化が進んだために安い労働力として政策的に輸入された移民を中心とする低所得者が住み着いている。
 弾手の家族、ルスタリ家の場合、ルーツはインドネシアだ。技術者をしていた祖父が祖母をつれて日本に渡り父が生まれ、父は同じくインドネシア系の母と結婚する。
 弾手はその三世だった。
 けれど父と母ですら、インドネシア語はしゃべれない。自分たちの遺伝子の元となった国に行ったこともない。
「お父さんを殴らなかったのは偉いわ」
 カーテンを脇に寄せると、姉は窓を開けた。七階の窓からは町が見下ろせる。
 ぎりぎりまで夕暮れを保ちながらも、瞬きをする間に夜に呑まれる町並みだ。
「自分よりも弱いやつは殴らない」
 窓に近づきながら弾手は言う。すっかり干からびて地面のひび割れた川が蛇の抜け殻のように見える。
 川のあっち側には、昔からの日本人が住んでいる。就職が有利で、給料が高く、お高くとまったやつら。
 川のこっち側には、ここ以外にも二十階建て以上のマンションがふたつ建っていた。ちょうど正三角形になるような格好だ。
 その中央にある小さな児童公園に、ワゴンが横付けするのが見えた。車で三十分ほどの場所にある工場の送迎バスだ。
「お父さんは、弱いやつ?」
 からかうように姉が言う。弾手は不愉快さを表すように、目を細めた。
「弱いよ。コンプレックスの塊だ。おまけに、それを指摘されるとすぐに頭に血が上る。子供な証拠だ」
「でもお父さんはこのマンションに住む移民たちのリーダーよ。ちゃんと交渉はしてるわ」
「けど、全然進んでない。はぐらかされてる。父さんの劣等感をハイエナのような嗅覚であいつらは感知する。そのせいでこっちが舐められるんだ!」
「だから暴力?」
 姉が弾手のほうを向いた。責めてはいない微笑みだった。
「革命だ」
 弾手は言い切る。
 送迎バスから、まるで蟻ん子のようにわらわらとこっち側の住民たちが降りてくる。そしてちりぢりに家に向かって歩き出す。
 あっちのマンション、こっちのマンション。
「現在を守るために耐えるお父さんも、未来を守るために戦う弾手も、私はふたりとも間違ってるなんて思わないわ。相反するものの両方が正しいことって、きっとこの世界にはごまんとあるもの」
 姉はその蟻ん子たちを見下ろしながら言った。
「父さんは間違ってる」
 噛みつくように弾手が言うと、可笑しそうに笑う。
「そういうあんたも子供だわ」
 一番大人なのは姉かもしれない、と弾手は思った。冷静で、達観してて、怒ることもなく、妥協点を知っている。
 でもきっと、そんな大人である姉に世界を変えることはできない。激流の中でふわふわと浮かぶみたいに泳ぐことに長けてはいても、その流れに逆らうことはしない。
 逆らったが最後、渦に飲み込まれて手足を引きちぎられ、泡と化すことを知っているからか。
 太陽が哀れむように欠片だけ置いていった残り陽がすべて溶けてしまうと、スゥッと空から明かりが消えた。まるでろうそくが吹き消されたみたいに。
 そして弾手は、マンションの低い方だけにポツポツと電気が灯る瞬間を見る。
「頑張れ、革命児」、と姉が低くつぶやいた。
 大人は知っているのだ、自分が見捨てた可能性の大きさを。
 取り繕われた凪の中を姉は行く。
 俺は自ら嵐を起こす。
 嵐の後にあるのは泡か、それとも真の朝凪か。
 覚悟さえあれば賭けられるだろう。
 声を捨てて陸に上がり、泡となった人魚のように。

 ルディが部屋にやってきたとき、弾手はソファで杏奈が持ってきてくれた夕食を食べていた。ゆでた野菜に唐辛子の入ったピーナッツのソースがかかっていて、両親がガドガドと呼んでいる料理だ。
 部屋には電気が通っていないが、弾手が中学生のときに遊びで作った小型の発電機でひと部屋くらいは明るくできた。
「おまえの作った棍棒、全部警察に没収だってよ。糞林がどっかに持ち込んで分解させるんだぜ、きっと。特許でも取っとけばよかったな」
 弾手の隣にボフッと腰を下ろすと、ルディは「もうだめだな、このソファ。スポンジぐしゃぐしゃじゃん」と自分の尻を見ながら顔をゆがめた。
「別にいいよ。あの程度のならいつでも作れる」
 弾手はガドガドを口の中にかき込んだ。皿を膝の上に乗せると、背もたれに身体をあずけて上を向く。目を瞑って野菜を噛んだ。
 粗大ゴミの日に拾ってきた古いソファだが、こうして頭を預けてしまえば自分の脳みそすら支えなくていい。昨日は姿勢が悪い状態で棍棒を作り続けたから、肩どころか首まで凝りまくっている。
 ……そういえば、このソファを見つけてきたのはリョンたちだった。『基地に何もないのは寂しいですよ』と、夏の暑い日に汗をだらだらかきながら、四人がかりで運び入れた。
 あのときはまだ、あいつらは小学生だったか。
「大丈夫か?」
 その声にうっすら目を開けて顔を傾けると、ルディが哀れむような顔で微笑んでいた。
 ゴクリと野菜を飲み込み、「何が?」と訊ねる。
「寝不足じゃないかとか、おっちゃんに殴られたほっぺたは痛くないかとか、糞林の挑発を引きずってないかとかだよ」
 ルディは弾手の膝の上にある皿に手を伸ばすと、ひと口大に切られたウィンナーを口に放り込んだ。
 うまい、と首を縦に振る。
「寝不足だし、ほっぺたは痛いけど痛くないし、糞林のヤローは死ね!くたばれ!処刑されろ!だよ」
「やっぱり利いてんじゃん、挑発」
 ムクッと起きあがると、弾手は皿と箸をルディに突き出した。「どうも」と受け取り、ルディがそれを食べる。
「家で食わないのかよ、晩飯」
 弾手は肩を回した。凝り固まっている筋肉が引き裂かれそうだ。
「母親が他人の子供のために養分を腹ん中に取り込んでるんだぞ。パクパクパクパクよく食うんだ。自分の母親の腹で赤の他人が育ってるんだぜ、気味が悪い。一緒になんか食えるもんか」
 ルディの母親はシングルマザーだった。今は代理出産を生業にしている。
「しかもその赤ん坊はドリーらしい。遺伝子の提供者は依頼主の父親で、五年前に死んでるんだとさ」
「自分の父親を育てるのか」
 俺なら虐待しかねないな、と弾手は自嘲する。
「水、飲むだろ?」
 ソファから立ち上がると台所に行き、シンクの横に伏せてあったコップを取り上げた。息を吹きかけてうっすらとあった埃を飛ばす。そこに闇水を注ぎ、ルディに渡した。
 水がたぷたぷ揺れるコップを、ルディが電気に照らす。
「リョンたちは今ごろ、水道の水を飲んでるんだろうな。まあその代わり、ベッドは硬いけどさ」
 そう言って水を飲み干す。
 弾手は窓に近づくとカーテンを開けた。空っぽの川には家々の明かりが反射することはなく、黒い帯に橋の街灯かかっているようにしか見えない。
 リョンたちが今いる警察署は、あの川の向こう側だ。
「俺は、リョンたちを欺したんだろうか」
「何?」
 コップを逆さにしたルディが、顔を上に向けて舌を伸ばしている姿が窓に映っている。
「なんでもねーよ」
 ため息をつくと、弾手はカーテンを閉めた。
 大丈夫だ。明日になればリョンたちはこのマンションに戻ってくる。そして数ヶ月もすれば停学は解かれる。
 そしてあいつらが再び学校に行ったとき、生徒たちのあいつらを見る目は変わっているだろう。それは畏怖であり、恐怖であるかもしれない。
 しかし、再びコケにされたり罵られたりすることはなくなるはずだ。もしそうなったら、またやり返せばいい。あいつらは、自分たちでも戦えるのだという自信を得た。
 少しずつ変えていくのだと親たちは言う。染み渡るように、血を流さず。
 だけどそんなの、待っていられるものか。そんなことをしている間に仲間たちは傷つき、バカにされ、踏みにじられる。
 急激に世界をねじ曲げるには衝撃がいる。革命が。
 そして一番シンプルな衝撃は暴力だ。〈痛み〉という、本能がもっとも敏感に反応する感覚を刺激する。
 世界を変えるほどの暴力はひとりでは生み出せない。だから俺には仲間が必要だ。俺の夢を実現するためには仲間が。
 ……俺はあいつらを、利用したのだろうか。












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