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COCOON―そして少年は英雄の屍に出会う―
作:斎籐拓夢



二 賢い女たちの末裔


     二 賢い女たちの末裔


 学校にある飼育室の中で、芙美は水槽を眺めていた。横五メートル、縦二メートルはある大きな水槽で、下三十センチほどは水が溜められている。そしてそこから盛り上がるように陸地が作られ、草も植えられていた。
 陸地の一番奥には、柔らかい石を削って作ったという洞穴がある。直径は四十センチくらいだろうか。
 芙美はコンコンッ、とガラスを突いた。
 洞穴の奥、暗闇がうごめく。ふたつ並んだ小さな鼻先が突き出される。湿っているのか柔らかく艶めいていて、薄い黄緑色をしている。まるで髪の毛のような、細長い髭が生えている。
 それから口が出てきた。ワニのように細長い。鼻先まで翠玉を思い出させるような、深く透明感のある緑色のうろこで覆われている。
 もう一度、ガラスを突いた。おいで、と心の中で言う。
 目が現れた。芙美がこの動物に見せられている一番の理由が、この目なのだ。
 黄金の中に、まるで猫のような一本の黒い瞳を持った、この生き物の目。どこまでも深くて、吸い込まれそうだ。
 そして鬣と角、尖った爪を持つ四本の指、細いながらも引き締まった胴体が現れる。全身が細かなうろこで覆われていた。
 全長五十センチほどしかない、小さな竜だ。
「今日は、あなたを作った人がうちの学校に来るのよ。創立五十周年の記念講演なんですって。新聞にも大きく載ってたわ。あなたのパパ、本堂雅臣と浦沢慎司に続く有名人だものね。いいえ、もしかしたらそれ以上かも。竜のクローンを作るなんて、人類の夢を実現したんだから」
 草の上を歩いてくると、竜は首を伸ばして給水器のホースに口をつけた。細い舌を使って、器用に水を飲む。
 芙美は給水器の隣にあるタンクを取り外すと、水槽の隣にある小型の冷蔵庫から新しいものを取りだし、取り付けた。
 ビタミン、ミネラル、そしてエネルギー減となる脂質の入ったゼリーだ。竜のクローンを作ることに成功した水原所長でも、竜が何を食料とするのか、いまだにわからないのだという。
 草も、海草も、肉も、昆虫も、何も食べない。
 動物園で見ることができるようになっても、あいかわらず竜は謎の多い生き物だ。
「何を食べたらあなたのパパが手に入れた、あのしっぽの持ち主くらい大きくなるのかしらねえ」
 水原が生み出したクローンの竜たちは、大人になっても五十センチより大きくはならない。図鑑を見れば、竜の全長は最低でも二百メートルと書かれているのに。
「津曲さん」
 後ろから呼ばれて、芙美は振り向いた。腰まで届く長い髪が揺れる。
 クラスメイトの山下が立っていた。
「そろそろ講演、始まるわよ。早く行かないと」
「ええ」
 じゃあね、と竜に目配せをして、芙美は飼育室を後にする。
「いいなあ、竜の飼育係なんて」
「そう?」
 うらやましげな声を出した山下に、芙美は口元だけで微笑んだ。
「そりゃそうよっ」
 食いつかんばかりの山下の力説ぶりに、顔を引きつらせて身を引く。
「だって、たとえトカゲのように小さくたって竜よっ? よそじゃあ動物園じゃないと見れないわ。それなのにこの樟史女学院だけ特別に竜を寄付された。すべては医学界や薬学界で活躍している先輩たちの功績の賜ね。私、実家にいる弟に思いっきり自慢してやったの」
 顔を高揚させて熱弁しながら、山下は満足そうにウンウンとうなずいた。
「でも一番すごいのは、やっぱり津曲さんだわ。だって、その竜の飼育係に指名されるんだから。毒性学と薬草学、いっつも学年トップだもんね」
「でもその代わり、英語とか数学とか、後ろから数えたほうが早いわよ。体育も苦手だし」
 芙美は照れながら笑った。自分でも呆れるくらいに、専門教科しかできない。
「全高会のうちの学校の代表、もしかしたら津曲さんなんじゃない?」
「まさか」
 あれは一番学業が優秀な生徒が選ばれるのだ。
「でも、うちの学校って一般教科、あまり重要視しないじゃない。あり得ると思うんだけどなあ」
 ふたりは講堂に向かって廊下を進んでいく。〈担子菌育成室〉という札のかかった部屋の前を通りすぎた。部屋の中では、全世界から集められた毒キノコが完璧な温度、湿度管理の下、育てられている。
 窓の外には薬草や毒草の菜園があり、スプリンクラーが水を撒いていた。
 空は、快晴だった。ここ二十年間の、このあたりの地域の天候を象徴するように、雲ひとつない。
 色画用紙を敷いたような、青い空。
 スプリンクラーの撒く霧のような水が、陽の光を浴びて小さな虹を作っている。
 講堂に続く渡り廊下が見えてくると、職員室と校長室の前を通りすぎた。そしてその壁には、卒業生たちが学会で表彰されたときのものに混じって、ひときは大きな写真が飾られていた。
 本堂雅臣。病死したときは、二十三歳だったという。その死去するわずか数週間前に国民栄誉賞を授与されたときの写真だった。
 まだどこか大人に成りきれていないような顔をした青年が、賞状と盾を両手に持ち、固い笑顔で廊下を睨んでいる。
 死後十五年経っても、いまだに英雄と讃えられている人。
 講堂に着くと、すでに生徒たちのほとんどが席に着いていた。教師にうながされ、芙美と山下は自分たちのクラスの場所の最後尾に、急いで腰を下ろす。
「水原所長、竜退治のときの話、聞かせてくれるかしら?」
 うきうきしている気分をそのまま言葉にのせて、山下が言った。芙美もうなずく。
「本人の口から聞いてみたいわよね。〈喜びの日〉になると毎年テレビで特集があったりドラマをやったりするけど、どこまで本当かわからないもの」
 講堂が暗くなり、暗幕が音を立ててしまった。明るくなった舞台の上には、花が生けられた大きな花瓶がふたつある。
 こんなにたくさんの花を飾るなんて、学校も奮発したものだ。
 芙美は変なところに感心する。
 ある地域は一年中豪雨、またある地域は一年中日照りで、まともな花を育てるにはとてつもなくお金がかかる。だから花の値段は今、野菜以上に高騰しているのに。
 この花だけでも、今日の講演会に学校側がどれだけ気合いを入れているかがわかるというものだった。きっと、水原を呼ぶのにもそれ相応の礼金を支払っているに違いない。
 芙美は首を回して座席の後ろを見た。そしてすぐに元に戻す。
 テレビ局のカメラは四台、記者はざっと十名か。中には外国人もいる。交通の便が悪いこんな田舎まで、ご苦労なことだ。
 講堂に、割れんばかりの拍手が響いた。もともと反響するように作ってあるのだからなおさらだ。芙美は、脳の芯がツンとするのを感じて眉を寄せた。
 拍手の中、まるでリハビリ中の人間のようなたどたどしい歩き方で舞台に現れたのは、四十代の男だった。痩せ形でわずかに猫背、洒落てはいないが清潔感はある髪型、名声を得て自信に満ちあふれている目。
 人気絶頂のアイドルが現れたみたいに、講堂中に熱気が溢れた。山下などは座席の上でぴょんぴょんと跳ね、後ろ座っている担任に怒られない程度の小声で「キャーキャー」言っている。
 けれど、その中で芙美だけが違和感に戸惑っていた。何かが違う。
 水原所長とは十五年前、博士号も取ったその竜に関する知識を買われて環境エネルギー省の特殊チームに在籍し、本堂雅臣と浦沢慎司のふたりにあの怪物の弱点が〈白い腹〉であることを教え竜退治に導いた、知の人。
 そしてその際にふたりが切り落とした竜のしっぽからDNAを取りだし、何体ものクローンを作る。竜の研究者としては、間違いなく世界でトップだ。
 芙美は、これまでに映像で水原を見たことがなかった。すべて写真だ。けれどインタビューは何度も雑誌や新聞で読んだし、竜退治で重要な役割を果たしたことはテレビやドラマで見て、尊敬していた。
 運動を苦手とする芙美にとっては、身体を張って竜を殺した本堂と浦沢よりも、知識を生かしてそれに貢献した水原のほうが身近な存在だったのだ。
 自分が飼育係を任されたあの竜の生みの親でもある。だから、今日会えるのを楽しみにしていた。
 なのに、なんなのだろう、この違和感は。なぜ身体が「違う」と感じるのだろう。
 歯がカフェインで汚れているせいか、口を閉じるたびに必ず一度唇をもにょもにょ動かすせいか、スーツのサイズが合っていないせいか。
 国民栄誉賞の授与まで決まっているのだから、自分に自信があって当然だ。それなのに、どうしてあの目の輝きを異様だと感じてしまうのだろう。
 しかし、芙美はその違和感を押し込めた。見ないふりをすることに決めた。〈あの人は素晴らしい〉と上書きした。
 へらへらと笑いながら拍手をなだめ、水原がしゃべり出す。
「本日は、〈賢い女たちの末裔〉である皆さんに会えうことができて、大変光栄です」
 高く、どこか不安定な声だ。
〈賢い女たち〉という言葉に、講堂にいた生徒全員の気が引き締まるのを芙美は感じた。行事があるたびに校長や教師たちが口にする単語だ。
 賢い女とはすなわち魔女のこと。けれどそれは悪魔と結びつく悪いイメージではなく、医術や薬草の知識に精通した産婆への敬称だった。
 教会から恐れられるほどに経験と知識に富んでいた彼女たち。国は違えど、その後輩であることを誇りにしなさいと教師は言う。
 魔女狩りの触りを前置きにして中世ヨーロッパから始まった水原の話は、西洋のドラゴンがアジアの竜の亜種であるという話を経由し、やがて自分の専門分野にいたる。
「今でも竜は、日向のどこかにいます。その証拠に、あそこだけ二十年前と同じように気候が崩れていない。晴れの日もあれば雨の日もあるという当たり前の天気が、あの地域だけに存在している。この気象異常の原因が竜だというのは、十五年前に本堂雅臣君と浦沢慎司君のふたりが私の力を借りて竜退治を行った後、その異常が嘘のように改善したことで証明されています。まあ残念ながら、わずか二年でもとに戻ってしまったわけですが」
 水原がフフッと笑った。
 芙美は、記憶にうっすらとだけ残っている雨上がりの景色を辿ろうとする。湿っていて、心地よくて、爽やかな緑と土の匂いがして、水たまりに白い雲のある空が映るのだ。
 でもそれは、芙美が四歳のころの記憶だった。あれから十三年間、一度も雨が上がる瞬間も雨が降り出す瞬間も体験したことがない。
 修学旅行で豪雨地帯に行ったときは降っている雨に感動したけれど、雨は三日間降り続いて、外に出れば友達の声も聞こえないほどだった。
 晴れの日も雨の日もある、今では夢のような地域。全高会はそこで開かれるらしいけれど。
「政府は竜は殺すべきと公式発表していますが、私は断固反対ですっ」
 突如興奮したように顔を赤くさせて、水原は台の上を叩いた。
「必ずや竜を保護し、すべての謎をこの手で解明して見せます!」
 講堂に再び拍手が鳴り響き、誰もが我先にと立ち上がった。スタンディングオベーションだ。満面の笑みを浮かべた水原が、両手を広げてそれに応えている。
 けれど、芙美は立ち上がらなかった。山下が「ほら、津曲さんもっ」と腕を引っぱったが、「私はいいわ」と断る。
 周りが盛り上がれば盛り上がるだけ、なんだか白けてくるのだ。
 立ち上がっている生徒たちの隙間から、滑稽なほど大喜びしている水原を眺める。これが本堂雅臣だったらもっとすごいことになるんだろうなあと、芙美はひとり冷静に考えていた。


 樟史女学院は、中学から大学までが一体となった学校法人だ。といっても国が助成金を出しているから、半官半民といったところだろうか。
 産婦人科医が激減しだしたころから優秀な助産婦の育成に力を入れ始めた政府が前身の国立大をつくり、やがて私立に移った。その際に大学名も今のものに変更され、学部に薬学部やバイオサイエンス学部が追加された。
 そして今では中学と高校も併設されて、英才教育が施されているというわけだ。
 中高大の三つの校舎が必要な上に、試験場や菜園のための敷地もいる。そのため樟史女学院は、周りを山で囲まれた場所に建っていた。中高を併設したときに移転したのだという。
 南地中海様式の、美しい校舎だ。
 その日の三時間目、芙美たちのクラスは菜園にいた。まるでそこだけ山の中から切り取ってきたみたいに、ばらまかれたようにして草木が生えている菜園だ。
 その草木は、十数年前に学校の周りにある山から植え替えられたものだった。
 二十年前から続く日照りの影響で、学校の周りの山々にあって生徒たちの学習の助けとなっていたはずの木や草はその種類を減らし、黄色い葉をつけるようになった。かといって山全体にスプリンクラーを仕掛けるわけにはいかない。
 だから学校は、山に生えている草木を菜園に植え替えた。山の面積の数百分の一の広さの畑に、ほんのひと握りの種類の植物を。
 水道代を考えてみれば、これが精一杯だったのだろう。
「これはアマチャヅルだ」
 薬草学の教師である三波が、木の幹に巻き付いていた細い蔓を指さした。靴だけローファーからスニーカーに履き替えている生徒たちはシャーペンと授業の最初に配られたプリントを両手に持ち、植物を踏まないように注意しながらその蔓に近づく。
 葉っぱは楓のように手のひらに似た形で、ぎざぎざしていた。
「アマチャヅルの若葉には朝鮮人参に含まれているサポニンのジンセノサイド十一種中四種が含まれていて、利尿、強壮の薬効がある。それからそっちは……」
 三波は芙美の足下を指さした。芙美は一歩下がる。薄く足跡のついた土の横に、高さ三十センチくらいの細く枝分かれした茎に、小さく固そうな卵形の葉っぱをつけた植物がある。
「そっちはオケラ。キク科の植物で、今はちょっと時期を過ぎてしまっているけど、春に新芽を食べるとうまい。先生のお勧めは天ぷらだな。中医学の授業で白朮という生薬の名前を聞いたことがないか? オケラの根っこの外皮を日干しにしたのが白朮だ。漢方では整腸、鎮痛、健胃などとして用いられる」
 三時間目の間中、芙美たちは畑の中を歩き回って植物の名前と食べ方、薬効を三波に教えられた。そしてチャイムが鳴ると今度は急いで家庭科室に移動し、さっき見たばかりの薬草を使って自分たちの昼食を作る準備をする。
 教師は三波から、寮の厨房を預かっているおばちゃんに入れ替わる。調理師免許と薬草学博士の資格を持っているらしい。
 そして昼休みに入ると、そのまま自分たちが作った料理を班で食べる。
「うわっ、苦い。ちゃんとアク抜きしたのにっ」
「でも、こっちは意外にいけるわよ」
 学食でも週に一度は薬膳料理が出るが、自分で作ると味も違って感じられる。
 あーだこーだ言いながらも、クラスメイトたちは楽しそうに昼ご飯を食べていた。
 芙美も、タンポポの葉のおひたしを口に入れた。ちょっと苦いが、小松菜だと思えないこともない。
「津曲さん、いる?」
 家庭科室の扉を開けたのは、担任の教師だった。
「はいっ」と、芙美は箸を持ったままの手を挙げた。騒がしかった教室がいったん静かになり、視線が芙美に集中する。
「お昼の途中に悪いんだけど、ちょっと来て」
 柔らかだけれど有無を言わせぬ口調で、担任は手招きした。
「はい……」
 何事だろうと戸惑いながらも、箸を置いて立ち上がる。
 私、何かしただろうか?
「気をつけてね」
 不安げな顔の山下に、とりあえずうなずいた。
 担任に連れて行かれたのは校長室だった。入るどころか、のぞいたことすらない部屋だ。
「失礼します」
 担任がノックをして、戸を開ける。
「津曲芙美さんを連れてきました」
 好奇心と恐怖が渦になって、芙美の心臓を高鳴らせる。うっすらと汗をかいた両手を握りしめ、口元を引き締めて背筋を伸ばした。
『全高会の代表は津曲さんかもね』という、山下の言葉が頭をよぎる。職員室ならわかるが、校長室に呼ばれるなんてそれしか心当たりがない。
 一般教科や体育はともかく、この学校の売りである毒性学や薬草学は誰よりもできるという自負はあった。全高会で学校側が他の高校との違いを打ち出したいのなら、自分が選ばれる可能性は十分にある。
 竜の飼育係を任されたことだって、それだけ信頼されているということなのだろうし……。
「入って」
 校長の声が中から聞こえる。担任が足を踏み入れた。その背中を見つめたまま、芙美も中に入る。
 広い部屋だった。敷きつめられた絨毯の上に革張りのソファとローテーブルが置いてあり、壁際には本棚がある。そして窓の前に重厚感のある机があって、校長が座っていた。
 スーツを着て髪をきれいにアップにした、五十過ぎの女の人だ。
「どうぞここまで」
 校長が机の前に手を差し伸べる。担任にうながされるように背中に手を添えられて、芙美はゆっくりと机に近づいた。
 けれど、視線はそこにはない。校長の隣に、誰か立っている。その人から目を離すことができなかった。
 窓のほうを向いて、校長の隣に立っている人。あの人をたぶん、私は知っている。すごくすごく、いつだって会いたかった人……。
 芙美は前にも増して鼓動が早くなるのを感じた。細胞のひとつひとつが跳ね上がるような焦燥感を抑えられない。
 お願い、こっちを向いて!
 机の前に立つと、校長が可笑しそうに微笑んだのが視界の端でわかった。けれど、やっぱりその人から目が離せない。
「顔を見せてあげたら?」
 首を回して、校長がその人に声をかけた。ゆっくりと、その人が振り向く。
「久しぶりだね。芙美」
 優しい笑顔だ。
 今にも叫び出しそうな口を、芙美は右手で押さえた。必死でこらえる唇が震えている。

 家庭科室に戻ると、みんな昼食はすんでいて、柿の葉の煎じ茶を湯呑みに注いでいるところだった。
「先生、なんて?」
 元の席に座ると、班の子たちが半分心配そうで、もう半分は興味津々という顔をして聞いてきた。
 目の前にあるすっかり冷めた昼食を少し箸でいじって、それから芙美は困ったように微笑みながら顔を上げた。
「全高会に、選ばれたみたい」
 しばらくの間の後で、教室に「えー!」っという絶叫が響く。クラスメイト全員分のそれは窓ガラスが割れそうなほどで、芙美は急いで耳をふさいだ。
「すごいじゃない! ほら、私の言ったとおりでしょっ」
 山下に抱きつかれて、芙美は箸でつかんでいたムカゴを机の上に落とした。それを拾ってトレイに入れながら、「あ、ありがとう」と応える。
「やっぱりうちの学校は一般教科よりも専門教科なんだね」
「津曲さんの毒性学のテストの点数、半端じゃないもの。歴第一位って先生が絶賛してたわ」
 興奮した様子のクラスメイトたちの声が、教室のあちこちから芙美の耳に届いた。それらをできるだけ気にしないようにして、冷めた昼食を食べる。
 全高会の代表に選ばれるほど自分が評価されたこと。それは自信にもつながってうれしかった。けれど、あの部屋であの人から言われたことは……。
 芙美の全高会代表をまるで自分のことのように喜んでくれているクラスメイトたちの向こうには、窓があった。そして二階にあるこの家庭科室から見える、晴れ続ける空。
 雨が降ってはやんで、そしてちゃんと陽の差す地域があるのだという。
 洪水でもなく、水不足でもなく。
 花が腐らず、枯れもせず。
 そしてそこには、とてつもなく大きな竜がいるというのだ。
 竜は、見たいな。あの子が大きくなったらどんな姿になるのか、見てみたい。
 芙美はクラスメイトが注いでくれたお茶を飲んだ。ビタミンCが豊富で、血圧低下の効能もあるという、柿の葉の煎じ茶。香ばしくて爽やかな味わいのそれは、芙美の中にあるわずかな不安を、少しだけ緩めてくれた。


 ××××××××××


 全高会の代表に選ばれるのは、すでに父から聞かされてわかっていることだった。だから校長室に呼ばれてそれを告げられたとき、正義は一瞬怒りを覚えた。
 こいつらは、僕が神宮寺だから代表に選んだのだ。それなのにそのことに欠片の疑問も罪悪感も持ってはいない。
 何食わぬ顔で、見て見ぬふりをして、ごくごく当たり前のように、「会議で決まった」などとほざく。
 会議で決まったなら、なぜテスト前に決まるのだっ。
 それでも正義はすべてを押し殺して、「ありがとうございます」とひと言応えた。声と表情が硬かったのを不審に思われないだろうかと思ったが、校長室を出た後で田巻に、「さすがのおまえも全高会となると緊張するか」と笑いながら肩を叩かれる。
 放課後だったけれど、教室に戻ると、状況をうすうす察して残ってくれていたクラスメイトたちから祝福を受けた。
 同じ学年から必ずひとり、誰かが選ばれるというのはわかっていたことだし、正義か丹羽のどちらかだろうと誰もが予想していたから、胴上げをしたりや抱き合ったりするほどではなかったけれど、肩を叩いて、口々に「おめでとう」と言ってくれる。
「でも、神宮寺だったかあ」
 男子のひとりが言った。
「俺、丹羽に賭けてたんだけどな」
「男子は、神宮司君と丹羽君のどっちが代表になるか、プリン賭けてたもんね」
 女子が茶化し、「そうなんだよ、何人に奢れば良いんだ?」とその男子が大げさに頭を抱えてみせると、連鎖するようにその場にいた全員がどっと笑った。
 正義も笑う。笑って見せる。
 笑わなくてはいけない。ついさっき初めて嬉しい報告を受けたことになっているのだから、ここにいる誰よりも喜ばなければ。
 でも、その努力はとまってしまった。クラスメイトたちの笑顔の隙間から、窓際に立っている丹羽が見えたから。
 そしてその丹羽が、『だって、友達が思い詰めた顔してんのって、耐えられないじゃん』と言ったあの日と同じ顔で、微笑んでいたから。
 まるで天使か菩薩か。
 哀れんでいるのか慈しんでいるのか。
 そこに一筋の邪気でも見つけられれば、「僕の勝ちだな」とたったひと言、嘘をつくのは簡単だっただろう。
 しかし丹羽は正義にそれを許さなかった。その微笑には、一粒の悪意も見つけることはできなかった。
 それでも僕は嘘をつかなければならない。人の目に映る僕の髪の先一ミリまでもが神宮寺だというのなら、僕には神宮寺として生きる他に道はないのだから。
 机の間を抜けて、丹羽が近づいてくる。息苦しさを感じながらも、正義は急いで肺を膨らませた。
 最初に言ってしまうのだ、「僕の勝ちだな」と。そうすればきっと自分自身、自分が勝ったと思いこむだろう。
 けれど正義が口を開き、「ぼ」と発するのをわずかにためらった次の瞬間に、丹羽が言っていた。
「俺の負けだな」
 あの日と同じ口調だった。
 ああ、負けだ。
 僕はまた、丹羽に負けたのだ。

 空手部の道場は、体育館の四階にあった。
 年中梅雨でグラウンドが使えるときなんかほとんどないから、体育館の二階には人工芝が敷きつめてあり、放課後はサッカー部がそこを使っていた。
 野球部は、時間単位で貸してもらっている青少年スタジアムで練習しているらしい。神宮寺財閥に属している食品メーカーが所有するスタジアムだ。
 体育館には全階除湿器がついていて、常に起動している。それでも湿気のほうがすごくて追いついていないから、一時間も練習すれば空手着の下に着たシャツは汗でびしょびしょになる。
 首にタオルをかけて、正義はバルコニーに出た。柵に身体をあずけると、一リットルのペットボトルをラッパ飲みする。
 昨日の夜中から、雨は小降りになっているようだった。今は、水面に傷を残さない程度の小雨だ。水位も少し下がっている。
「せーんぱいっ」
 聞こえてきた声に眉をひそめた。日枝だ。
「全高会代表、おめでとうございます」
 わざとらしく、ペコッと頭を下げる。
「日枝ださんは知ってたんだろ」
 皮肉で言うと、「知ってたんじゃありません。予想してたんです」と返された。
「でもこれで、三代続けて全高会代表ですね。お父さんも、おじいさんも代表ですもん。曾おじいさんのときは、全高会はまだありませんでしたから」
 指を三つ折って日枝が言った
「よく知ってるなあ」
「情報通なんです」
 ニコッと笑った顔はかわいい部類に入るのだろうが、情報通を通り越して気味が悪いくらいだ。
「情報通ついでに、先輩におもしろいこと、教えてあげましょうか?」
 日枝がわくわくしているような顔でのぞき込んできた。丸く大きな目が、知りたいでしょ?知りたいでしょ?と訴えかけてくる。
「いいっ」
 正義が断言すると「なんでですかっ?」と怒ったように言って、「じゃあ謎かけしません?」と手法を変えてくる。
 変な女子には付きあってられんっ。
 ペットボトルのふたを閉めて窓まで行くと、スリッパを脱いだ。
「本堂雅臣、好きですかっ?」
 背中から飛んできた声に、うかつにも足をとめてしまった。振り返ると、日枝がしてやったり、という顔をしている。
「そりゃあまあ、日本人ならたいてい好意的なんじゃない? 英雄なんだし」
「そう、彼は英雄です」
 日枝がうなずく。声の調子が、さっきまでと少し違う気がした。大人びているというか、不穏というか。
「ねえ、先輩。彼はどうして、英雄なんだと思います?」
「どうしてって……」
 竜を殺したからに決まってる。
 その答えを見透かしたように、日枝は「じゃあどうして浦沢慎司は彼ほどまで熱狂的に持ち上げられないんでしょう?」と質問を重ねた。
 目を落として一瞬考えたあとで、正義は「浦沢慎司が生きているからだ」と答える。
「そうです。死ねば、伝説になれる。ジョン・F・ケネディもリンカーンも暗殺されているし、義経も織田信長も殺されてます」
 スーッと、湿った風が吹いた。髪をひとつに束ねている日枝の、そこからこぼれ落ちた髪の毛が風になびく。
「じゃあ、先輩。スサノオは、どうして伝説になれたのでしょう? すぐに死んだわけでもない、殺されたわけでもないのに、どうしてあなたの先祖は神になれたんですか?」
 日枝は微笑んでいた。不安を呼び起こす、不敵な笑みだ。
「それは……」
 急いで考えるが、うまい答えが思いつかない。
「ねえ、先輩」
 日枝の後ろに、一面の水が見える。風が吹いてさざ波が立つ。
「スサノオって、本当にいたんでしょうか?」
 それはまるで、正義の今の心のようだった。
「本当に、オロチ退治なんてしたんでしょうか?」
 日枝が首をかしげ、甘えるように笑う。
「全部、作り話だったりして」
 正義の手から、ペットボトルが滑り落ちた。












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