七 ウィークエンド2
正義が飛行機に乗り込んだとき、外には雲間からうっすらと日が差し込んできていた。帯状に見える日射しは地上に降り注いでいて、きっとどこかに虹が現れているに違いないと思わせる。
帰り着くところが雨であることはわかっていた。それも、かなりの豪雨だ。こっちにきてからは雨でも小降り、たまにやんだり晴れ間がのぞいたりする天気だったから、ずっと雨が降る場所がこの地球上にあるのだと思うと、つい一週間前までずっとそこに住んでいたというのに、ずいぶんと気が滅入った。
機内に入るとさっそくヘッドホンをつけ、音楽を聴こうとチャンネルを動かす。臨時チャンネルで全高会特集をやっていたから、そこは連打ですっとばした。
九州を抜けると、飛行機の下には一切雲がなくなった。窓の外を見下ろせばミニチュア模型よりも小さな町が一望できる。そうして関東圏にさしかかった辺りから少しずつ雲がまばらに見え始め、やがて分厚い雨雲に覆われた。
雲の中で少し飛行機が揺れたけれど、定刻通りに成田空港に到着した。もとの滑走路が全部水に浸かってしまい新たに一段高く作られた、水上の滑走路だ。
外に出ると、駐車場ならぬ駐船場までの桟橋があみだ籤のように伸びていた。水位は地上一メートル五十センチといったところだろうか。濁っていたけれど、桟橋から見下ろすと底のほうにかすかに駐車場の白線が見て取れた。
バスボートに乗り込み、時間を確認する。午後一時だ。お盆までの間は午後は自主練しているはずだから、学校に行けばきっとあいつがいるはずだ。
二時間弱バスに揺られ、途中で乗り換えもして、正義は三時前に高校に着いた。たった一週間ぶりだというのに、卒業生の気分になっているのが不思議だ。私服のせいもあるだろうか。休みの日に部活にくるのにも、体操服か制服だから。
一泊二日分の荷物が入っているカバンは、毎朝学校に来るたびに抱えているカバンよりもずいぶんと軽かった。それをひょいっと片手に持ち、体育館を目指す。
横切った校舎の中は人気がないせいかほこりの匂いがして、校長室の前にかかっている本堂雅臣の写真さえもわずかに傾いて見えた。
コンクリートの床を雨水に濡れたスニーカーが擦ってキュッキュという音を出し、誰ともすれ違わない薄暗い廊下に寂しくエコーする。
一歩体育館内に足を踏み入れると、ボールの跳ねる音や、床をダンッと踏んでいる音があちこちから聞こえてきた。汗が空気に散ったような、独特の匂いもしてくる。
正義は階段を上った。上りきったところで「あれ、主将なんでここにいるんですかっ? 今朝ニュースに映ってましたよ。いやあ、かっこ良かったっス」と汗をだらだら流しながら近づいてきた後輩を捕まえて、奴を呼びに行かせる。
「あー、先輩」
かわいい女子の顔をして、奴はやってきた。手に持っていた花柄のタオルを首にかける。前髪が汗で濡れていた。
「全高会って途中で家に帰れるんですね、こっちにいるってことは」
「うん。休みの日は何をしても自由だから」
「いいですねえ、飛行機のチケ代って高いのに」
開いている窓に近づくと、日枝はスリッパを履いてバルコニーに出た。正義もそれを追う。
「先輩のBグループ、御神竹緒さんがいるAグループと接戦ですね。大活躍じゃないですか、先輩。先輩が課題を話し合うときにリーダーをやると、決まって課題の点数がいいです。さすがスサノオの子孫って感じですね」
手すりに寄りかかり、中庭にたまった水の上を滑るように過ぎる風を気持ちよさげに頬に受ける日枝を、正義は睨んだ。
「それは嫌味か?」
「あら、どうして?」
日枝が振り返る。その振り向く一瞬、あのときと同じ顔をしていた。スサノオは本当にいたのでしょうか、と謎解きのように正義に問いかけたときと同じ、不敵で、自信満々な、大人びた笑み。
正義はカバンを下に降ろし、中から二つ折りにしたプリントの束を取りだした。それを広げて、前に掲げる。
「日枝、君は稗田阿礼の子孫だね。期間が二日しかなかったから細かいところまではわからなかったけど、うちの会社が懇意にしてる調査事務所に調べてもらった。これはメールで来た報告書を印刷したものだ。君の祖先は戦国時代に稗田の性を捨て、明治時代に日枝として名乗り直している。日枝家は女系、つまり長女が後を継ぐことになっていて、君は本家の長女。僕や竹緒と同じく、家を継ぐ立場にあるはずだ」
正義は日枝に見せていた報告書を自分に向けた。
「稗田阿礼って、女だったんだな。てっきり男だと思ってた」
昨日の深夜に調査事務所から届いたメールには、正義が知らなかった、教科書にも載っていなかった事実が書かれていた。
稗田阿礼が実は女である可能性があり、アマテラスが岩戸に籠もったときに気を引くために踊りを踊ったと古事記に書かれているアメノウズメのモデルであること。
「古事記のストーリー、特に前半の日本神話の部分は各地を訪れて収集した民話や神話を元に、実在のモデルを使って阿礼が創作したものだと言われている。だとすれば阿礼は、スサノオにも会っているはずだ。君は何か知ってるんじゃないの? 阿礼が残したものの中にスサノオについて書いてあるとかさ。だからあんな思わせぶりなことを言ったんじゃ……」
「何かって何ですか?」
日枝が突き放したような口調で訊ねる。正義は口をつぐんだ。
「私が言ったこと、もしかして本気にしてるんですか? あんなの、冗談に決まってるじゃないですか。それとも何か心当たりでも?」
日枝はフフンと鼻で笑い、中庭の淡水の海を見下ろした。白い胴着から伸びている足の片方を宙に浮かせると、スリッパをぷらぷらと揺らす。
「……神話博物館で、スサノオの右腕を見た。竜の血を浴びて腕中真っ黒のアザになってるやつだ」
つまらなそうに雨水の集合体を見つめる日枝の顔を、正義は見据えた。汗がにじみ出る手のひらを握り直す。
「祖父の言いつけで、そこの館長に会った。その人から、出雲のスサノオ博物館にあるミイラと神話博物館にあるミイラの右腕は別人だって話を聞いたんだ。右腕をなくしたミイラは、スサノオの名前を語っていた人物じゃないかって言われた。君はそのことについて、何か知ってるんじゃないの? 阿礼が会ったのは、どっちのスサノオなんだ?」
自分がその偽物のほうの子孫であることを、正義はどうしても言うことができなかった。それは傑作!と日枝が吹聴して回るんじゃないかという恐れと、口にした途端にそれが現実として迫ってきて、逃げられなくなるんじゃないかという恐れからだ。
「隠さなくていいですよ」
ふてくされた子供のような表情のまま、見透かしたように日枝は言った。
「私、知ってますから。神宮寺家がその、スサノオの名前を語っていたほうの子孫だっていうこと」
やっぱり知ってたか。正義は唇を固く結ぶとうつむく。
「私、嫌いなんですよ、神宮寺一族。そんな私からでよければ、聞きますか? 本物のスサノオと偽物のスサノオと、阿礼という女性の話」
こちらを見やる日枝に、正義は神妙な顔でこくりとうなずいてみせた。
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阿礼が生まれたのは、旅芸人の家だった。十数人の親族が寄り集まって一座を築いていて、祭りがあれば神社の境内で踊り、田植えや稲刈りの時期にその土地の長に雇われれば、田んぼの真ん中で踊った。
男もいたが、楽器を演奏する者が数人いるだけで、踊りを踊るのは女たちだった。生まれたときから父親はいなかった。というよりも、子供のころの阿礼は〈父〉という言葉すら知らなかった。必要なかったのだ。〈母〉さえ知っていれば、一座の中ではことが足りた。
十四になったころ、阿礼は母に呼ばれた。母は一座の長だった。
「幼い頃からおまえには三つの才能があった」と母は言った。
「ひとつ目は誰よりもうまく踊れる才能。ふたつ目は踊っている間中、人の目を惹きつける才能。そうして三つ目が、見聞きしたものを一言一句逃さず覚える才能だ」
阿礼は昔から、新しい踊りでも一度見ただけで少しも違わずに踊ることができた。映像がいつまでも鮮明に頭に残るのだ。だからあとは、その像の見まねで踊ればいい。
人から聞いた話、特に物語もそうだった。耳から入った物語が頭の中で映像に切り替わり、そのまま保存される。
「この次行く村で祭りがある。そこではおまえが中心をやりなさい」
そうして阿礼は、一座の花形になった。誰よりもきれいな着物を着て、誰よりもきれいに舞って、誰よりも美しいと言われた。
スサノオという名前の青年に出会ったのは、そんなときだった。年の頃は十七くらいで、整った顔立ちに涼しい目をしていた。
出雲付近にある小さな神社の祭りで、一座は興行していたのだ。他の女たちが踊り終えた後、満を持したように登場した阿礼はひとりで舞う。太鼓も笛も空気を熱するように盛り上がり、観客たちは足を止めて阿礼に魅入っていた。
そのときだ。阿礼は踊るのに夢中になっていて気づかなかったが、母は一部始終を見ていたという。
小さな子供が、客の放り込んだ金を拾い集めていた。気をつけて見ていなければ客の足下に紛れて気づかないほど小さな子供だ。出店の影に隠れて、父親が指図していたのだという。
母が声をかける前に、その父親に声をかけた青年がいた。父親と青年が乱闘になり、殴られた青年が踊る阿礼の体にぶつかった。ふたりは同時に倒れ、あたりは騒然となる。
母が大きく指示を出す声を聞きながら、阿礼はその場に倒れたままだった。なぜ自分が倒れたのかがわからず、最後まで踊れなかったことへの物足りなさだけを感じていた。
「大丈夫?」と聞こえてきたのと同時に体が引っぱられ、立たされた。鋭い瞳と目があう。きれいな黒色をしている。なぜだろう、体が中心から熱くなる。
それがふたりの、阿礼とスサノオの出会いだった。
それから、恋だとも知らずに、阿礼はスサノオに惹かれていく。その村に三日間滞在しているうちに、スサノオからいろいろな話を聞いた。
喧嘩で人を傷つけ、国を追い出されたこと。幼い頃に死んだ母親の代わりに自分を育ててくれた姉を泣かせてしまったこと。帰りたいけれど、何か大きな手柄でも立てないととても帰れないこと。
スサノオには、いつも連れている友人がいた。謙虚と卑屈が同居していて、けれどふとした瞬間にぎらぎらとした嫌な色の野心が垣間見える目を持った、同じ年頃の青年だった。
彼の名前を、阿礼は記憶していない。阿礼と会うときスサノオはその友人を連れてこなかったし、なにより阿礼には彼がスサノオの影に見えた。
彼がスサノオの影なら、スサノオを見ておけばことが足りる。
一座がその村を発つ日はすぐにやってきた。けれど空が荒れていて、母の決断で発つのを一日先延ばしすることになった。
嵐だと村人が口々に言い、嵐は怪物を連れてくるのだと老婆が言った。
夜、本当に怪物はやってきた。八つの首を持った竜だ。あちこち旅をしてきたが、阿礼はこんなに首股の分かれた竜は初めてだった。
「私の踊りが神の怒りに触れたのかしら」
最後まで踊りきれなかったことを悔いていた阿礼は、降りしきる雨の中、宿を抜け出した。
そうして阿礼は見たのだ、やがて八岐大蛇と呼ばれるようになる竜を。神社の屋根に上り、剣を抜いて対峙しているスサノオの姿を。
阿礼は声を出したが、雨が激しく地面を打つ音にかき消されて、その叫びが彼に届くことはなかった。
スサノオが飛び立とうとしているオロチの体に飛び移り、腹側から心臓を突き刺す。八つの口が八つの絶命の雄叫びを発し、八つの首がもだえ苦しんだ。
上空からスサノオが振り落とされるのを、阿礼は見る。
走った。彼の元まで。長い髪が風に引っぱられて邪魔をするから、踊りの小道具として持ってきた小刀で切り捨てた。
神社の周りにある鬱蒼とした森の中で、阿礼はスサノオを見つけた。木々に打ち付けられて、身体中から血を流していた。
腕が……。右腕が、べっとりとした黒い竜の血で濡れている。
竜から振り落とされるスサノオを見ていたのは阿礼だけではなかったらしい。阿礼よりも先に、〈影〉がいた。スサノオの友人が。彼を見下ろしていた。
「スサノオ! しっかりしてっ」
駆け寄って阿礼がしゃがみ込むと、スサノオは少しだけ目を開け、笑った。
「どうしたの? 髪が短いよ」
そう言って阿礼の肩までになった髪に触れ、苦しそうに顔を歪める。
「××っ」
スサノオが友人を呼ぶ。怯えた目をしたその人は、スサノオの口元に耳を近づけた。
「俺の右腕を、姉の元に届けてほしい。帰りたかったと伝えてほしい。出来の悪い弟ですみませんでしたと……」
友人は必死にうなずいた。頬を濡らしているのは雨だろうか、それとも涙か。
「俺、もう帰ってもいいよな?」
「わかった、わかったから!」
しゃべるな、死ぬぞ、とすがるような声で友人が言った。知ってる、とスサノオが応えた。
「阿礼……」
スサノオが手を伸ばしてくる。震える手で、阿礼はその手のひらを掴んだ。ぬるっとした感触が伝わる。
君の髪が一房ほしい、とスサノオは言った。残っている髪から一寸ほどの長さを切り取り、阿礼はスサノオの右手に掴ませる。
自分が泣いているのか悲しんでいるのかもわからず、この人を永遠に失うのだという実感も湧かず、ただただ大変なことが起こってしまったという事実に戸惑い怯える。
激しい自分の息づかいだけが、阿礼の意識を現実につなぎ止めていた。
「ありがとう」
そう言って笑って、スサノオは息絶えた。阿礼の髪を握った腕が草の上に落ちる。雨は三人の体をこれでもかと濡らしているのに、スサノオの腕と阿礼の両手についた竜の血が流れ落ちることはなかった。
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