一 神々の子孫
一 神々の子孫
外は激しい雨だった。台風のような暴風はないが、雨粒が分厚い雲から、まるで何かを打ち抜こうとしているかのように降ってくる。
「なんかすでに、悟りの境地だな」
校舎の二階にある臨時出入り口の前に立ち、正義は言った。
「雨音を脳が無音と変換してるみたいだ。むしろ、雨が降っていないときは静かすぎて、いや、普段雨音に邪魔されて聞こえなかった音が聞こえすぎて、シーンと頭の中で耳鳴りがする」
「雨が完全にやむの、週一くらいだもんな」
正義の隣に丹羽が並んだ。
ふたりは、出入り口の前に横付けされているはずの、ボートバスを待つ列に並んでいた。前方にあるアルミ製の引き戸は開け放たれていて、隣でメガホンを口に当てた学生指導の田村が「次に来るのは駅経由の大工町方面っ。五時五十分発!」と叫んでいる。
ふたりの前には四人の生徒がすでに並んでいた。みな部活帰りで、どこか疲れ果てた空気をかもし出している。
その頭のあいだから、駐車場に浮いているモーターボート数台と、さらにその向こう側に、水面から突き出た正門が見えた。
「次に芝生でサッカーできるの、いつかなあ?」
正門前の信号が青に変わり、黄色いボートがしぶきを上げて入ってくるのが見える。
「天気予報では、来週あたりには水が引くんじゃないかって言ってたけど」
「当たるかなあ、天気予報」
「当たらないだろうなあ」
廊下に水がかからないよう、ボートは静かにターンして出入り口に横付けする。生徒の列が動き出す。
壁にかかっていた時刻表と経路表を眺め見ていた生徒たちが、邪魔にならないようにと避けた。
ここ三日間、雨は今日のように激しい調子で降り続いていた。いつもは一時間おきに小雨になったり小休止を入れたりするのだが、そんな様子もない。
おかげで、水は校舎の一階部分をギリギリまで飲み込んでいる。濃い藍色に染まっている水面は、のぞき込んでも雨の連打でそれ以上は伺えない。
正義は手すりのついた階段を降りて、ボートの中に乗り込んだ。丹羽とふたりで、固いながらも一応はベルベット地の座席に腰掛ける。
作りつけの窓から外を覗くと、階段の上に見える出入り口で田村がしゃがみ込み、頭の上に両腕を持ち上げて大きく○を作った。
ボートバスの運転手がうなずき、船内に「出発します」というアナウンスがかかる。
今日はいつにも増して雨が激しいせいか、大通りに入っても交通量はさほど多くなかった。小雨の時は家庭用の屋根付きゴムボートが多く見られるが、大降りの日はボートタクシーやボートバスで移動するのが普通だ。
水で一階の空き店舗がほとんど見えなくなっているビルやデパートを通りすぎ、ボートは駅に到着する。
駅の正面玄関からは、水で濡れても滑りにくい特殊なタイルで舗装された屋根付きの桟橋が円を描くように丸く伸びていた。そこがボートバスターミナルになっている。
「じゃ、また明日な」
丹羽が「よいしょ」と重そうにカバンを持ち立ち上がるのを、「ああそうだっ」と、まるで今ちょうど思いついたかのように正義は引き留めた。
「今日配られた、期末テストの番数。丹羽は、何番だった?」
立ち上がり振り向いた丹羽が、正義を静かに見下ろす。そしてその心をざわめかせるような一瞬の間の後、へへっといつもどおりの笑顔になった。
「今回は十一だったよ。俺の完敗だろ?」
その番数に、正義は胸をなで下ろした。けれどそれを見抜かれないように表情を取り繕うと、ふざけるような口調を作る。
「けど、僕も六番だよ。テストが返ってきてるときから、今回はやばいなって気がしてたんだ。また丹羽に負けるんじゃないかって冷や冷やした。これでおあいこな」
片腕を拳で突くと、丹羽が「次は負けないからな」と笑った。
ドアを閉める合図であるピーッという音が聞こえてきて、丹羽が「ああ、降ります!」と走っていく。ボートが揺れた。
「神宮寺、じゃあな!」
ボートを出る瞬間に身を乗り出して手を振った丹羽に、正義も手を挙げて応える。
階段を数段駆け上り、丹羽は桟橋に消えていった。もともと、ボートの窓からは足しか見えなかったけれど。
窓にはバケツで水を浴びせかけたように雨が降りしきり、ただれた模様を作っては外の景色をゆがめさせている。
正義は目を瞑った。丹羽の番数を聞いたときに自然と湧いてきた安堵と喜びに、嫌悪感を覚える。
丹羽はいいやつだというのに、それに比べて、自分は……。
目を開けると、ボートが動き出した。桟橋の先には背の高い時計が立っていて、時計の下には木製の傘が、そしてその傘の真下には空中庭園のような花壇があった。
道ばたにあると、全部水に飲み込まれてしまうから。
ボートが住宅地に向かって走り出したとき、正義は肩を叩かれた。振り向くと、後ろの席で見慣れた女子生徒がニコニコと笑っている。
「丹羽先輩とのセリフ、聞いちゃいましたよ。期末テスト、六番だったんですか? しかもそれでデキが悪いほうだなんて、さすが神宮寺財閥の跡取り息子ですねえ。しかも本家! ご先祖様が古事記に載ってる人ってのは、やっぱり脳の中身が違うんでしょうか? 一応、神様ですもんね」
正義は露骨に嫌そうな顔を作った。
「そんな何千年も前の話、持ち出すなよ。それに神様なわけないだろ。あの人たちは人間だよ。水戸黄門と同じさ。多少、過剰に書かれすぎてる」
「でも、事実は事実です。先輩の家、十拳剣があるんでしょう? いいなあ。一度見せてくださいよ」
「ああ、天羽々斬のこと? あれなら今は国立美術館の保管庫の中だよ。父親の会社の仕事始めの日に朝礼で飾るんだけど、そのときだけ返ってくるんだ。その日に会社に行かないと、僕でも見れない」
日枝は、正義の部活の後輩だった。社交的な性格で同級生だけでなく先輩たちからも好かれているが、正義はどうも苦手な感じがする。
「でもこれで、来月から始まる全高会のうちの学校からの代表は先輩に決まりですね」
無邪気に言う日枝から、正義は目を逸らした。
「それはわからないだろ。これから先生たちの会議で決まるんだから。他の人が選ばれる可能性だってある」
言いながら、正義は胃から蛇でも這い出てきそうな気がした。心にもないことを体面のために口にすると、こんな感覚に囚われる。
「そうでしょうか? 二年生の他の成績のいい人たちは、部活をしていなかったり自主性に欠けるという評価を先生たちから受けている、と聞いてますけど」
日枝が冗談を口にするときと同じような軽い口調で言う。
どこからそんな情報を仕入れてくるんだと、正義は舌を巻いた。やっぱりこの女子、苦手だ。
「でも、丹羽がいるだろ」
「あら。丹羽先輩と神宮寺先輩の一騎打ちだったら、確実に神宮寺先輩の勝利ですよ」
日枝は、何当然のことをと言わんばかりに断言した。
「なんで日枝さんにわかるんだよ」
あまりに自信たっぷりで、思わず鼻で笑ってしまう。
すると、日枝が笑みを浮かべた。まるで幼い子供を褒めるときのような優しい笑みだ。でももしもその裏に鬼が潜んでいたとしたら、それは鬼の顔をした鬼よりも恐ろしいに違いない。
「だって丹羽先輩って、一年のときに神宮寺先輩に負けたから空手部を辞めて剣道部に入り直したんでしょう? 今じゃあお互いに部長ですけど、その時点で先輩の勝ちじゃないですか」
正義は身体中の毛が逆立つのを感じた。
「ちょっと待ってよ! 誰がそんなでたらめを……っ」
「でたらめなんですか?」
きょとんとしてみせる日枝に、正義は一瞬言葉に詰まった。
いや、完全でたらめではないのだけど……。
「丹羽と僕が試合をして、僕が勝ったからあいつが空手部を辞めたわけじゃない」
それだけが紛れもない真実だった。
「それに僕は、そんなことで自分が丹羽より優位に立つなんて絶対に嫌なんだっ」
腹の底から噛みしめるように言う正義の顔を、日枝は観察するように静かに見つめていた。
バス停に着くと運転手に定期を見せて、ボートを下りた。桟橋までは階段を上る。階段の部分は屋根がかかってないから、カバンを傘にした。
桟橋は住宅街に、まるで網の目のように行き渡っていた。道路の真ん中にあっては水が引いたときに車が通れず邪魔になるので、家々の塀の上に渡してある。
人と車椅子がやっとすれ違えるくらいの広さしかないその桟橋を歩き、正義は自分の家の前に立った。
変わった家、なのかもしれない。もともとはちゃんとした家だったのだが、雨が降り続くようになった二十年前に改築してこのような格好になったらしい。
瓦屋根を持つ平屋の家の上に、洋風の二階建ての家がある。まるで日本風の平屋の家を洋風の家が食い破り、成長したみたいな格好だ。
門を通り抜けると、家の敷地に入った。広い庭だったはずの場所は、今では松や桜の木がぽつんと水面から顔を出しているだけのプールのようで、青い芝生の面影もない。門から玄関まで吊り橋を渡らされているみたいで、不安にすらなる。
それでも時たま、衝動的にこの汚れた水の中に頭から飛び込みたくなるのは、何十億年も昔、生き物の祖先が水に生命を育まれた証だろうか。
「ただいま」
玄関を開けると、廊下の奥から「おかえりなさーい」という声が聞こえてきた。リビングのドアを開ければ、甘く香ばしい香りが漂ってくる。
「今日のおやつは、フレンチトーストですよっ」
台所で牧子さんが声を張り上げた。トレードマークのような、赤いエプロンをしている。
「それよりラーメンでも食べたいよ。インスタントでいいから。僕、部活帰りなんだよ?」
イタリア製だとかいうソファの上に重いカバンを放り投げると、台所まで絨毯の上を歩いて行った。
「カップラーメン、ないの?」
戸棚を開ける。
「ありませんよ。そんなもの身体に悪いもの、この牧子が正義さんたちに食べさせると思いますか? だいたい、晩ご飯が入らなくなったら困ります。あと三十分でできあがりますから、それまではこのフレンチトーストで我慢していてください。ラーメンと同じく、小麦と卵からできてます」
ハイ、と、牧子さんは正義にフレンチトースト二枚がのった皿を突き出した。
「信之さんはおいしいおいしいと喜んで食べてくれましたよ」
正義はリビングに目をやった。十コ年下の弟が、テレビの前でおもちゃの剣を振り回している。
ローテーブルの上には、空になった白い皿があった。
「信之さん、そんなに前でテレビを見てはいけませんよっ。テーブルの後ろまで下がってくださいと、いつも言っているでしょう。目が悪くなります!」
牧子さんの声が空中を弾丸となって飛び、見事に弟に的中した。ビクッと肩を震わせて直立不動になった信之が、「ハイッ」と言って後ろに下がる。
すると呪縛が解けたように、また剣を振り回し始めた。どうやらアニメを見ているらしい。
「ドラゴンバスターズか」
皿を持って、正義は信之の隣に立った。
「今ね、マサオミが森の中に入っていくところなんだよ。シンジは怪我している人を病院に連れて行ってるの。クイは博士のところに手紙を届けに行ってて……」
ひとりでチャンバラごっこをして身体が火照っているのか、信之は頬がうっすらと赤らんでいた。捲し立てるように、今週の話の筋をしゃべり出す。
アニメの中では、小学校高学年くらいの少年が剣を片手に暗い森の中を歩いていた。魔物が襲いかかってくると、超人的な跳躍力でそれを避ける。
シンジというのは、この少年と同い年の仲間だった。出番は同じくらいだが、主人公はマサオミだったはずだ。クイは、マサオミが博士から預かった鷲のアンドロイドだったような……。
正義自身、子供のころはこのアニメのシリーズを見ていたのだけれど、もう忘れてしまった。
同じマサオミとシンジが主人公のやつなら、今は週刊コミックで連載してる英雄伝説のほうが好きだ。もう十年以上続いているマンガで、ゲームは今度八作目が出る。
「そりゃあ確かに、本堂雅臣はすごい人ですけどね」
牧子さんはなんだか悔しそうな声を出した。
「でも、あなたたちのご先祖様のほうがもっともっとすごいんですよ。なんていったって、ヤマタノオロチを退治しているんですから。どこかの学者さんの話によれば、ヤマタノオロチは竜の突然変異で、だから頭が八つもあったんだっていうじゃありませんか。本堂雅臣が倒した竜の頭はひとつですよ。ヤマタノオロチよりは弱かったに決まってますっ」
台所で牧子さんは不機嫌そうな顔になる。正義は吹きだした。
「そんなにムキにならないでよ。スサノオのオロチ退治は何千年も昔の話で、雅臣さんの竜退治はほんの十五年前なんだからさ。比べられないよ」
「そりゃそうですけど」
牧子さんの顔がしぼんだ。
「私は、あなたたちにもっと誇りを持ってほしいんです。あんなに素晴らしいご先祖様なんですから! 神に仕立て上げられていることからも、どれだけ当時の人々に敬愛されていたかがわかります。そしてその威光は、数千年経った今でもいまだに衰えていない」
「だからうちの系列会社全部、財閥全体が業績順調なんだもんね。わかってるよ」
子供のころから気づいていた。今の神宮寺家の繁栄があるのは、決して父や祖父、そのまた先の経営者たちがずば抜けて優秀だったわけではない。
言っても、経営者としては中の上だろう。
スサノオの威光で神宮寺財閥に憧れ入社してくる優秀な人材たちが、うちの会社を支えている。あの威光が消え失せたら、外資に乗っ取られるのがオチだ。
そしたらきっと、僕の人生も変わるんだろう。
リビングから出ると、正義は仏間の前を通りすぎた。階段へ向かう途中にある、この家の中で唯一の和室だ。
わずかに空いた戸の隙間から、壁にかけられた曾祖父たちの写真が見えた。その先頭には、白い服を着たスサノオノミコトの肖像画が飾られている。
部屋に入ると、机の上に立ててあった本類の中から大学ノートを一冊、取りだして広げた。ひと桁の数字が二列、並んでいる。
一列目の最後に、正義は〈十一〉という数字を書き加えた。二列目の最後には〈六〉を書き加える。そしてその数字を、列ごとに足していった。
二列の合計が、同じ数字になる。
身体中から息が抜けていくのを、正義は感じた。まるで穴の空いた風船がしぼんでいくように、ノートの上にうつぶせる。
しばらくすると、今度は胸が熱くなってきた。両手を固く握る。
よかった。なんとか並んだのだ。本当は、一番でも抜きたかったけれど。
両親が揃って仕事から帰ってきたのは、それから三十分ほど経ったころだった。一階のテーブルの上には牧子さんが作った晩ご飯が並んでいて、「おいしそうっ」とスーツ姿の母がサラダに入っていたエビをひとつ、つまみ食いする。
「それじゃあ、おふたりが帰ってきたので、私はこれで」
牧子さんが頭を下げると、父と母が「お疲れ様」とにこやかに手を振った。
父と母は社内恋愛の末に結婚した。出会ったした会社はもちろん、今では父が社長、母が局長兼取締役、祖父が会長をしている、神宮寺財閥の中核会社だ。
忙しい両親の変わりに、子供の世話や家事は、正義が小さいころから牧子さんが一手に担っていた。
「おいしいな、この豚。牧子さんのお品書きはっと……」
夕食が始まると、部屋着に着替えた父がテーブルの横に立てかけられている小さなホワイトボードをのぞき込んだ。
「鹿児島産の黒豚か。さすが牧子さんだな」
そう言って、父がそのソテーをおいしそうに啄む。
母は信之の皿に手を伸ばし、黒豚のソテーを食べやすいようにナイフとフォークでひと口大に切っていた。
いつそれを口にしようかと、正義はふたりの様子をうかがっていた。そしてできるだけ自然に、自分が舞い上がっていることを悟られないように必死で心をなだめて、両親に告げる。
「そういえば、今日期末テストの結果が返ってきたんだよ。六番で特別いいほうではなかったけど、全高会の選考にはぎりぎり食い込めるんじゃない?」
最後のほうは、顔がにやけるのをとめることができなかった。
ぎりぎり食い込むどころか絶対に丹羽と自分の一騎打ちであることを、あのノートのデータから正義は知っている。
そして日枝の言うとおり、一騎打ちになれば確実に自分が選ばれるであろうことも。認めたくはないが、知っている。
「まあ、すごいじゃない。六番でも十分だわ」
母がナイフをおいて、拍手する真似をした。
「でも……」
父が怪訝そうな顔をする。
「何?」
「全高会の代表は正義だろ? もう決まってるはずだ」
「ええっ?」
手をテーブルについて思わず身を乗り出すと、握っていたナイフとフォークが皿に当たって大きな音を立てた。
「一週間以上前に校長から直接お父さんのところに電話があったぞ。言ってなかったか?」
「聞いてないよ!」
思わず大きな声が出た。
一週間以上も前? まだテストが始まってすらいなかった。その時点では、丹羽が勝っていたはずなのに……っ。
丹羽が勝っていたはずなのに、なぜ自分が選ばれる?
ボートの中での日枝との会話が頭をよぎった。
『だって丹羽先輩って、一年のときに神宮寺先輩に負けたから空手部を辞めて剣道部に入り直したんでしょう?』
あのときも、胸をえぐられるような罪悪感を覚えた。また、あのときと同じことが繰り返されるのか……。
父と母は「テスト前だからって、言うのは後にしようってことになったじゃない」「そうだったっけ?」という不毛な会話を続けていて、自分の息子がどれほどショックを受けているのか、気づきもしない。
信之だけが箸の先で正義の手の甲を突き、「お兄ちゃん、どうしたの?」と聞いてきた。
「ごちそうさま」
夕食を途中で放り出すと、自分の部屋に駆け上がる。
机の上に開いていたノートをビリビリに引き裂いた。
二年間の努力が宙に舞う。必死で集めた数字たちが、あざ笑うように机に床に、ふわりと落ちる。
「どんなに負けてても僕が選ばれるなら、頑張る必要なかったじゃないか」
笑いがこみ上げてきてどうしようもない。身体をくの字に曲げてハハハと笑った。崩れ落ち、床を叩く。
可笑しくて可笑しくててどうしようもない。
笑いがおさまると口をぽっかりと開け、天井を見上げた。今度は涙が溢れてくる。
「なんで僕のこと無視するんだよ……」
顔がゆがみ、嗚咽が漏れる。
わかっていたのだ。自分の頑張りが言い訳のための保険でしかないことを。丹羽に勝ったのは僕の実力なのだと、自分自身をだますためにノートをつけていた。
知っていたのだ。今まで自分だけの力で手に入れたものなんて何もない。進学校に入れたのも、部長になれたのも、あんなことがあっても丹羽が友達でいてくれるのも、きっとすべては神宮寺という着ぐるみのおかげなのだ。
僕はただ立っている。呼吸をして、突っ立っている。
なのにそれを見て人は僕を指さす。「こんにちは、神宮寺家のお坊ちゃん」と、笑顔で近寄ってくる。
僕の細胞ひとつひとつが神宮寺なのだ。皮を剥いでも目をえぐっても、本当の僕は〈心〉という目に見えない場所にしかいない。
目に見えている僕は、すべて神宮寺だ。
スッと涙が引っ込み、正義はぼんやりと床に落ちたノートの残骸を眺めた。
『名前ってなに? 薔薇と呼んでいる花を別の名前にしてみても、美しい香りはそのまま』
あれは確か、シェイクスピアの一節だったはずだ。家族ぐるみで仲の良い、幼なじみの女の子から教わった。
DNAという考え方がなかったころの人間は、そんなにもお気楽だったのだろうか。別の名前に変えたところで、その美しい香りこそが薔薇である証拠だというのに。
遺伝子からは、誰も逃げられないのだ。
立ち上がると、正義はカーテンを開けた。雨が小雨になっている。窓を開けると、昼間よりも冷たい空気が流れ込んできた。
向かいの桟橋をサラリーマンが歩いている。海のような庭では水面が風にさざめき、家の明かりと一緒に映った正義の影が揺らめく。
「僕は、着ぐるみのまま生きるしかないんだ」
神宮寺を身体からもぎ取ってしまったら、そこには砂粒ひとつ残らないから。
「ごめんな、丹羽」
世の中を不公平だと思っているのは、きっと損をしている人間だけじゃない。
あれは一年前の、秋のことだった。新人戦を一ヶ月後に控え、部活は熱を帯びていた。進学校なこともあり部活の練習時間は基本的には六時までと決められていたのだけれど、顧問の田巻が学校に申請をして、七時までみっちりと練習をしていた。
団体戦は先鋒、次鋒、中堅、副将、大将の五人ひと組。日ごろの練習から田巻が割り当てることになっていた。
「丹羽が大将で神宮寺が副将だな」
一年全員の前で田巻にそう言われたとき、正義は納得したのだ。自分でもそうなるのが当然だと思っていた。
型競技なら丹羽にも負けない自信はあるが、そうでなければ丹羽のほうが上だろう。総当たり式の新人戦であることを考えたら、単純に一番強いやつを大将にするのが良い。
しかし二週間後、その決定が覆された。田巻が、昼休みにふたりを職員室に呼び出したのだ。
「神宮寺を大将で行こうと思う」
腕組みをする田巻は、無理になんでもないみたいに振る舞っているように見えた。
「どうしてですか?」
丹羽が聞けるわけがないから、正義は自分から聞いた。
「選手申請ギリギリじゃないですか。それに、僕よりも丹羽君のほうが適任だと思います」
隣で丹羽がどんな顔をしているのかわからなかった。恐くて見れなかった。
この展開には覚えがあったのだ。
まだ空手を習い始めたばかりの小学生のころ、団体戦に出る技量がないときに上級生をさしおいて無理やり参加させられた。当然惨敗だ。
わけがわからず、けれども負けたことが悔しいのと突きが入ったところが痛いのとで家に帰って泣いていると、プレゼントを両手に抱えて祖父がやってきた。
「よく頑張ったな。試合は戦うことに意義があるんだ!」
頭をぐしゃぐしゃになでられて、おいしいケーキをお腹いっぱい食べられて、正義の中ではあったはずの疑問やもやもやした気持ちはきれいに消え去ってしまった。
自分自身空手の有段者である祖父の知人が大会を主催する団体の幹部にいて、そこに神宮寺財閥が寄付をしていること。
来賓として祖父が来ることを知った師範が、孫の晴れ姿を見たいだろうとただ気を回したこと。
それらを知ったのはずいぶんと後、それも、道場の先輩からの陰口でだった。
「昨日父から、来賓として祖父が大会に呼ばれているという話を聞きました」
田巻の顔が渋くなる。
「祖父に遠慮なんかしないでください。祖父は正々堂々としているのが好きな人ですから、自分が来賓として来るがために孫が副将から大将に格上げしたと知ったら、怒ると思います」
道場にいるときのように腹の底から声を出してそう言うと、何かを気にしているように身体を縮こまらせ、田巻が皮膚の硬くなった人差し指を口に当てた。チラッと横目をやったからそちらを追えば教頭と目が合い、咳払いの後で逸らされる。
田巻の顔には、自分を説得してもしょうがないと書いてあった。
言葉を飲み込み、正義は腹に力を入れた。田巻から教頭に移っただけで、敵がやたらと大きくなった気がした。
深呼吸をするように、隣で丹羽が息を吸う。
「今回はおまえが大将で行こうよ、神宮寺」
なんでもないように笑って言った。
「新人戦だぜ。来年になったらもっと大きい試合がいっぱいあるんだから、今回くらいいいよ。補欠に落ちたわけじゃないし。俺は、試合に出られればそれでいいんだ。団体戦で大事なのは、うちの学校が勝つことだろう? 俺とおまえのどっちが大将になるかじゃない」
それはそうだったかもしれない。丹羽の本音でもあったかもしれない。でも正義は、家のせいでまるで自分が卑怯者であるかのように見られるのが恐かった。
だから夜になるのを待って、祖父に電話をかけた。
品行方正であるはずの祖父に。
自分が尊敬する父の、その父が尊敬している祖父に。
ご先祖であるスサノオノミコトに顔向けできなくなるようなことだけはするなと、幼いころからあの大きな手で頭をなでてくれた祖父に。
「なんだ、とんでもない顧問だな。教頭に意見もできんとはっ」
電話の向こうで祖父がそう言ったとき、正義はホッとした。
「しょうがないよ、教頭は上司なわけだし」
「上司に間違いを正せないやつは出世せんっ。たいしたことのない男だ」
「出世って……」
巨大財閥の会長らしい言いぐさに正義は吹きだした。
教師なんか、出世したってどうせ校長止まりだ。
「それで、おじいちゃんから教頭に言ってほしいんだよ。僕、副将でいいんだ。大将になるなら実力でなりたい」
祖父がうなる。
「だけどな、正義。教頭に伝えるなら教育委員会にいる知り合いづてになる。大会の主催者にそんなこと言えるわけがないからな。私信にしろ教育委員会の人間からそんなことを言われてみろ、教頭は青くなるぞ」
「事実なんだから、しょうがないんじゃない?」
あの禿頭が青くなろうが赤くなろうが、関係ない。
祖父が笑った。子供のいたずらを優しくたしなめるような、まだ子供だからと哀れむような、そんな高見からの笑いだった。
「世の中、そんなに簡単じゃないんだよ、正義。おまえももう高校生なんだから、そろそろわかんとな。今回は儲けものだと思って大将をしなさい。それも運の内だ」
祖父の声が急に色あせて聞こえた。
儲けもの? 運? いったい何のことだろう。
孫の僕に狡をしろと、卑怯者になれと、あなたは言うのですか?
大将と副将が不自然なタイミングで入れ替わった事実は、まるで和紙に一滴ずつ水を落としていくかのように、じりじりと部内に不穏な空気を漂わせていった。
そして新人戦の当日、祖父が来賓に来ていたことで、先輩のひとりが真実に勘づく。
正義は生きた心地がしなかった。僕は抵抗した!と自分の無実を叫びたくても、そんなことをしては事実を認めることになってしまう。
バレたらきっと、部活にはいられない。
けれども新人戦が終わった二週間、その空気は一掃された。爽やかで澄み切った、まるで天上から流れてくるような透明な風が、その空気をどこかへと追いやってしまったのだ。
「実は俺、新人戦が終わったら剣道部に移ることになってたんです。部長が道場の先輩なんですよ。引き抜かれたっていうか。大将の話をもらったときにこれはヤバイと思って田巻先生に相談したら、副将に変えてくれて」
一点の曇りもない顔で丹羽は退部の挨拶をした。だから部員全員が信じた。
正義以外は。
「先輩から声がかかってたっていうのは本当なんだ。一年がみんな弱いらしくてさ」
空っぽの教室が見える階段の踊り場で放課後問いつめると、涼しい顔でそう言った。
まるで丹羽の行為を褒め称えるように、その日は珍しく薄い雲間から陽の光が何本も差し込んでいた。
「だって、友達が思い詰めた顔してんのって、耐えられないじゃん」
そしてまた、強く気高い天使のような顔で笑うのだ。
本当に強くないと本当に優しくもなれないと、幼い日にどこかで聞いた言葉が正義の頭を殴る。
「神宮寺と切磋琢磨して空手やるのいいなあと思ってたけど、ふたりして部長になるってのもいいよな。でもって、どっちの部活が優勝カップ多いか競うんだ」
負けないからなと言って、丹羽は微笑んだ。
まっすぐな目をした親友の横顔は眩しすぎて、陰がどんなに望んでも決して手の届かない光のようで、正義は目を伏せた。
窓枠においた自分の手が祖父のそれと重なる。
さすが私の孫だと両手で頭をなでてくれたあの大きな手。あの手を誇りに思うことは、きっともう二度とないのだろう。
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