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母さんが好きでたまらない、ただそれだけの話。

「あなた達のお父さんは本当にいい男だったんだからー」

 夜の一〇時。いつものように酔っぱらった母さんは、いつものようにのろけ話を始める。

「はいはい、また始まったー」

 姉さんも僕もこの話は耳にたこができるレベルで聞いているのだが、嬉しそうに話している母さんは見ているだけで楽しそうなので、姉弟そろってリビングのテーブルに腰を下ろす。

「そもそもの出会いはね……エロ本の巻末に載ってる開運ブレスレッドのセフレAの写真モデルのアルバイトをしていた時のことだったわ」

 毎回思うけどなんだそのバイト。あと実の子の前でエロ本とかセフレとか言うな。あれってやっぱりバリバリのやらせなのだね。まあ、今後買うことはないと思うけど。

「無職で借金まみれの中年Cのモデルだった父さんと一緒になったの」

 無職で借金まみれの中年Cのモデルに選ばれるような男がどうしたら「いい男」だったのかがずっと気になってはいるのだが、それを黙っておくのが我々姉弟のエチケットだった。

「その頃のお父さんはね。こういったブラックなバイトでなんとか生活しながらエロ本の読書コーナーの職人を続けていたの」

 これほど職人という言葉がなさけなく感じることがあるだろうか。いや、ない。

「私は夢に向かって一直線な若者のお父さんに一目惚れしたわけ」

 一直線に向かってるのはわかるけど、どこへ向かっているかわからない典型的な例である。

「そして、お父さんのハガキが載らない雑誌は長続きしないとまで言われるようになったの。お父さんの夢は叶ったってわけ」

 ここまで言われてもこの男の夢とやらがよくわからない。夢ってそんなにも安売りされているものなのだろうか。

「そして、なんやかんやあってあなたたちが生まれた」

 子供の扱いがここまで雑なのも珍しいが、おかげで特にひねくれることなくここまで育ってしまった。実にありがたい。

   ◇

 酔いつぶれた母さんを部屋に運ぶのは僕の仕事だった。母さんはとても軽い。だからいわゆる「お姫様だっこ」が可能なのだ。

 一階のリビングから二回の母の自室までのお姫様だっこはいい筋トレになる。おかげで普段運動をやっていない僕が学校の体力テストでそこそこ上位の成績を納めることができている。実にありがたい。

 よく授業参観で「お母さんに混じって一人だけお姉さんが来てる」と言われることがある。それは決まって僕の母さんのことで、よく友達から「俺の母ちゃんが後悔処刑を受けてるようだから、家でのフォローが大変だ。だからお前は俺に学食をおごるべきだ」なんてことを言われる。

 だから僕は彼に決まってワンパンを加えてやると小動物のような鳴き声をあげて倒れるので、実際に学食をおごったことはないのだが、僕が非暴力を訴える日本版ガンジーだとしたら僕はクラスメイトに学食をおごりすぎて消費者金融に走らなければ行けなくなる。

 そうなると実に困る。中学生の僕に消費者金融側が金を貸してくれるかはよくわらないが、とにかく困る。

 母さんは若い。姉さんを一八歳、僕を二〇歳で生んだから、年齢的にも他のお母さん方よりも若い方だが、同じ年齢の女性と比べても母さんは見た目が若い。というより幼い。
 実際、僕と姉さんと母さんの三人家族は端から見れば三姉弟としか見られない。両親はいないけど姉弟三人、元気に暮らしてます! と見えるらしく、近所に引っ越してくる人なんかはやたらと気にかけてごっそりとお裾分けをしてくる。

 それはそれで家計が助かるので母さんはそれをありがたくいただくのだが、いざ母親と子供二人だと知るとごっそりきていたお裾分けがちょびっとになったりする。ちょびっとでもお裾分けが続くのはシングルマザー補正がかかっているから、だと母さんは言っている。まあ、理由はどうあれお裾分けはありがたくいただくことにしている。

 それは家族の数少ないルールの一つだった。

 なんでかわからないけど、母さんからはいい匂いがした。そもそも女の人からはいい匂いがする。なんでいい匂いがするのかがどうしても知りたくて、一回仲のいいクラスメイトの女子に聞いたことがある。

「女の子っていい匂いするよね」

 僕がそう言うと女子は少し照れたような顔をする。別に僕は彼女を恥ずかしがらせようとか、そんなつもりは一切なくて、ただただ日頃思っている疑問をぶつけただけなのだけれど、彼女はもじもじしてなかなか答えない。

「シャンプーとかの匂いだと思うよ?」

 彼女はそれだけ言うと顔を赤らめて僕の前から去っていってしまった。

 女の人のいい匂いはシャンプーかー。と、その時は勝手に納得していたのだけれど、よくよく考えてみれば、僕の家のシャンプーはいわゆる家族みんなで使える種類のやつで、母さんが使っているシャンプーは姉さんも使っているわけで、僕も使っているわけである。

 自分の匂いをかいでみてもやっぱり母さんのような匂いがしない。母さんはシャンプーに負けないくらいのいい匂いがする。それがなんだかはわからないけど、その匂いが僕は好きだった。
 母さんの髪は本当にさらさらだ。姉さんがけっこうなくせっ毛の中、母さんがここまでさらさらストレートなのかが全くわからない。さらさらストレートからは、匂いなれたシャンプーの匂いがする。たしかにこれはこれでいい匂いなのだが、正体不明のいい匂いはこのシャンプーの匂いと喧嘩しないでお互いに調和しあってくる。
 部屋のベッドに母さんを下ろすと僕は部屋の電気を小さくする。真っ暗にしていると怖いだと母さんは言う。そんなところが無償に愛らしい。

 顔を近づけると先ほどまで飲んでたワインの香りが漂ってくる。口からお酒の匂いが漂ってくる場合、大概の人が「お酒臭い」という表現をする。

 だけど、僕には「臭く」はなかった。それどころか少し好みの匂いだ。もしかしたら僕は将来酒豪になるのかもしれない。

 僕はそのまま唇を母さんに重ねてみる。

 母さんの唇からはワインのほろ苦さとつまんでいたドライいちじくの甘酸っぱさが相まっていて、なんだかすごく心地が良い味がした。

 僕は母さんのことが好きだ。

 それは、家族としての好き、ではなく、女性として――の話だ。

     ◇

「母さん、ご飯できたってー」

 僕は二階に上がって母さんを呼ぶ。

 高校生の姉と中学生の僕、そして会社帰りの母親がそろって夕食をとるのは決まって夜の八時。

 一般的な家庭に比べたら遅いかもしれないけど、高校生の姉と部活帰りの僕と仕事終わりの母親が揃う時間といったらどうしてもそのくらいの時間になってしまう。

 だいたい、夕食の支度をするのは姉さんの役目で、母さんはだいたい部屋で仕事の疲れを癒やしている。これは母さんがズボラなわけではない。姉さんが馬鹿の付くくらいの料理オタクで、自分が夕飯を作らないと気が済まないタチなのである。

「母さん?」

 返事がないので僕は母さんの部屋に入る。

 母さんはベッドに寝っ転がって寝息をたてている。今日は木曜日、疲れもたまっていたのだろう。

 このまま、寝かせてやろうと思って毛布をかけようとする。すると、うすうら目を開けた母さんと目が合った。

「あ、寝てた?」

「うん、がっつり。ご飯は?」

「……食べる」

 どうやら母さんは眠気より食い気のようだ。そんなところも母さんらしくて好きだ。

 母さんが部屋から降りていくと僕はベッドに寝っ転がってみる。うん、やっぱり母さんの匂いがする。

 シャンプーだけじゃないとても好きな匂い。そんな風に母さんのベッドでゴロゴロしていると、ベッド横に置いてある写真立ての中の人と目が合った。

 ……そんな怖い顔で睨まなくてもいいじゃないか。

 写真に写っているのは、死んだ僕らの父親。スーツを来て、短髪に細い銀縁の眼鏡。

 一見したらどうみてもカタギの人間ではない。

 僕はその写真の男を睨み付けてみる。見ればみるほど、怖い男だ。なんで母さんがこんな男と一緒になったかわからない。

 しばらく見続けると自分の中で心がもやもやしてくる。何度見ても良い気分ではない。

 この気分は他の人には理解できないだろう。

 だって、わからないだろ? 

 かつての自分――、生前の写真を見てる僕の気持ちなんて――。

     ◇

 生まれ変わり、なんて物語の中の話だと思っていた。

 前世、とか輪廻転生とか、そんなものはありえないと思っていた。

 だって、そうじゃない。人は死んだらそれで終わりだから。体を焼かれて骨になって、それでおしまい。

 死んだ後の世界もない。天国? 地獄? そんなもの人間が勝手に作ったものじゃない。

 誰も天国に行ったこともないし、地獄も行ったこともない。

 でもみんな死後の世界があることは信じてる。

 なんだか、それが嫌だった。

 そのことにつけ込んで金稼ぎをしてる連中は最も僕が嫌いな人種だった。

 ただ、僕は1回だけ死後の世界の存在を望んだことがある。

 交通事故で死んだ――あの日のこと。

 もう、僕は死ぬことはわかっていた。もう自分は再び元の生活に戻れないことは自分自身がわかった。

 大好きな妻の声は聞こえる。

 その妻の姿を見ることも、返事を返すこともできない。ただ、だんだん意識が遠のくことだけがわかる。

 その時初めて神頼みをした。今まで神も仏もいないと思ってた。

 だけど、祈らずにはいられなかった。このまま妻と会えなくなることが僕には耐えられなかった。

 頼むよ。また、妻に会わせてくれ。こんな体じゃなくてもいい。動物でも魚でも草でも土でもなんでもいいよ。

 娘も生まれたばっかりなのに……いくらなんでもこのままじゃ……僕は、僕は……。

 そのまま、意識を失った僕は死ぬことになる。もちろんのことだが、意識がなくなってから妻と生まれたばっかりの娘がどういう日々を過ごしたかは知らない。

 ただ、僕が思ってたよりも死後というのはいろいろあるらしい。だって、僕は望んだ通りに愛する妻と再会することになったのだから。

 大好きな妻の……子どもとして。

愛する妻は「母さん」に。

 そして、生まれたばかりの娘は「姉さん」になった。

 生まれたばっかりであんなに手がかかった娘は、姉として僕の面倒を見てくれた。

 今まで苦労ばかりかけていた妻には、息子としてますます苦労をかけてしまった。

 いつも明るく振る舞ってくれる妻を見るのが逆に辛かった。

 元々、引っ込み思案で内気だった妻が僕が死んでからこんなにも変わってしまった。その原因は紛れもなく僕であり、明らかに無理をしているとわかるのはおそらく僕だけだ。

 だから、僕はなるべく妻――いや、母さんに苦労をかけないように生きることを決めた。だからできるかぎり勉強をしたし、生徒会にも入った。

 といっても前世の記憶がそのままな僕にとって小中学校の勉強は楽勝だったし、世間の荒波にもまれていた経験から生徒会として学校をまとめることは難しいことではなかった。

 そんな生活をやってると周りの女子も僕を放ってはおかなかった。

 そういえば、このころってだいたい勉強ができる、とか運動ができる、とかそれだけでモテるやつがいたっけ、なんてことを思い出していた。まさか自分がそういう役回りになるとは思わなかったけどさ。

 だけど、僕はどう考えても周りの女子には興味がわかなかった。

 それもそうだ。20歳以上下の子どもに興味を持つほど僕はロリコンではないから。

 僕がいつも母さんの夜の晩酌に付き合うのは理由がある。お酒を飲んでる時の彼女の顔が「母さん」から「妻」に戻るからである。

 やっぱり10年たって母親になっても彼女は変わらない。前から幼い容姿ではあったんだけど、今もずっと大好きだった妻そのものである。

 酔った彼女は僕の話ばかりする。ただ、いつもいつも僕との出会いや僕の職業なんかはぼやかしてしゃべる。

 彼女はもしかして僕の死をまだ受け入れられていないのではないか、と思うことがある。

 もしかしたら元の僕を思い出したくないのかもしれない。

 僕はいるのに。目の前にいるのに。

 あの時と同じ、中身はそのままの僕がいるのに。

 そりゃ短髪で銀縁眼鏡の強面の姿の僕ではないけど。

 短髪で銀縁眼鏡の強面の姿だけど、実は小心者で内気で図書館の司書として働いていたあの頃の姿ではないけど。

 あの頃、君を好きだった僕は、今でも君の目の前にいるのに――。

 なんで君は僕を忘れようとしているのだろう。

 何度も本当のことを言ってしまおうか、と思った。だけどこのことを言って何になると言うのだろう。

 まず、信じてもらえるわけがない。気味悪がられるに決まってる。

 そして、信じてもらってどうなると言うのだ。だって彼女は僕の母親で、僕は彼女の息子なのだ。

 あの頃の――、夫だった僕と妻だった彼女には、もう戻れないんだ。


 僕は決まったように酔っ払った彼女をベッドに運ぶ。そして、去り際に口づけする。

 これが僕が今できる精一杯だった。これ以上踏み込んだら全てが壊れてしまうのはわかっていた。

 そもそも元をたどれば失った命だ。また彼女に再会できて、こうやって一緒に暮らせているのだ。

 これ以上何を望むと言うのだろう。

 僕は彼女の息子で、彼女は僕の母親、ただ、それだけの関係だ。

 それ以上でもそれ以下でもない。

     ◇

 日曜日。

 部活も休みだった僕は、ベランダで洗濯物を干していた。洗濯物、洗い物、掃除は僕の仕事だった。

 特に抵抗なくこの作業を続けられるのは、生前もこれらの家事は僕の担当だったからだ。

 洗濯物を全て干し終わった僕は、縁側に座ってぼんやり空を見上げる。

 もしも僕が今の体に生まれなかったら僕はどうなっていたんだろう。よく、亡くなった人が空から見守ってる――なんてイメージが映画やドラマでよく見るけど本当にそうなのだろうか。

 僕もあそこにいたのかもしれない。そして、何かの拍子でこの家の子どもになったのかもしれない。

 生前もわからないことだらけだった。だけど、一回死んでまたこうやって生きている今でもわからないことだらけだ。

 もしかしたら、この世界は僕が思ってるよりずっとずっとわからないことだらけなのかもしれない。

「お疲れ様」

 振り返ると、そこにいたのは姉さんだった。手にはマグカップが二人分。
 そして、珈琲の香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。

「ありがと」

 姉さんは僕の隣に座る。マグカップを受け取ると僕は静かに珈琲をすする。

 ブラックなのに――どこか甘みを感じる。もう、砂糖もミルクも必要ない。

 姉さんの珈琲は本当に素晴らしいと思う。豆を焙煎して、挽くのはもちろん豆選びからブレンドまでも自分でやってしまう。

 お店に出してもおかしくないレベル。それどころか下手なレストランの珈琲なんかよりよっぽど美味しい。

 姉さんは、本当に料理のことばっかり考えてるのかもしれない。これだけ美味しい珈琲を入れられるというのももちろんだけど、日頃作ってくれる料理も美味しいだけじゃなくて調理時間や材料の配分などに無駄がない。

 花嫁修業なんかではない。むしろ、彼女には恋人どころか友人と呼べる存在がいない……と思う。少なくとも僕は知らない。

 基本的に学校から帰ってくると家でお菓子作りだのパン作りだのを始めている。夕飯の準備の他に――である。

 もう高校生なのに男っ気ひとつない姉は弟として少し心配である。

 ――いや、父としても。

「何見てたの?」
「ん……空」
「ロマンチストだね。君は。さっさと女の子にモテればいい。大貧民とかしてパスタ作って、激おこぷんぷんまるーで家庭的な女子と結婚でもすればいい」

 姉は女性に――というより他人にやたら厳しい。誰に似たのだろう。

 ……僕似じゃないことだけは祈る。

 珈琲を見ながら僕はまた空を見上げる。すると、姉さんもまた空を見上げている。

「ねえ、あの雲がさ。食べられたらいいと思うよね」

「姉さんらしいね。綿飴みたいに」

「綿飴もいいけど、アイスクリームがいい。あの雲全部がアイスクリームなの。もしも私の手が空まで届いたらいいな、って思う」

「いつでも食べられるから」

「そう、いつもみたいにうちで夕飯を食べてるじゃない。甘い物欲しいなーと思ったら私が手を伸ばして雲のアイスをスプーンですくうの。そしたらみんなでお腹いっぱいアイスクリームが食べられるよ」

「お腹壊しそうじゃない?」

「いっぱいのアイスに負けない胃腸を作りなさい」

「いや、酸性雨とかがまじってるでしょ。雲のアイス」

「むー! 若者のくせに夢がない! 勉強のしすぎだ。若者は野山を駆けまわりカブトムシやクワガタをとって日が暮れろ!」

「うーん。もう中学生だしなあ」

「そんなに大人ぶっちゃって。そんな男の子はモテないんだぞ」

 さっきからモテるって言ったりモテないって言ったり、僕はどっちサイドで青春を過ごせばいいのやら。

「ねえ」

 僕が珈琲を飲み干した時、姉さんが僕の頭に手をぽんと乗せてきた。

「生まれ変わりって信じる?」

 珈琲を飲み終わった後で本当によかった。もしもまだ飲み終わってなかったら口の中の珈琲を思わず吹き出してしまっていただろう。

「前世って信じる?」

 僕は何も答えなかった。黙ってマグカップを口元に傾ける。もう、珈琲は入ってないのに。

 ただ、口元を姉さんに見られるのが怖かった。おそらくぶるぶると震えていると思うから。

「私はね。前世の記憶があるの。前世の私は今と同じ高校生の女の子だった」

 僕はただただ平常を装った。まばたきが多くならないように。貧乏ゆすりもしないように。

 何でだろう。普通でいることがこんなにも難しいなんて。

「私には好きな人がいたの。おそらく向こうも私のことが好きだった。だけど、前世の私は病気で長く生きることができなかった。彼の悲しむ顔が見たくなくって私は黙って学校をやめた。そして、私は黙って――死んだ」

 口元のマグカップが冷たい。冷たさで口が切れてしまうかと思うほど。

 口だけじゃなくて僕の体全体や心まですっと切れてしまうような、そんな感覚を覚える。

「そして、私は彼の前からいなくなるつもりだった。だけど、神様のいたずらで私は生まれ変わるの。彼の娘として――」

 頭の中に勝手に押し込んでいた高校時代が脳中にこぼれ、広がる。

 彼女と僕は、お互い友達がいなくて、いつも隣り合わせの席で本を読んでいて――、中々しゃべりかけられなくって、だけど好きで好きでしょうがなくって、どうにかしゃべりかけて、だけど君は僕のことを怖がっていて。
 思い切って告白して、そしたらなぜか僕のほうが泣いてしまって。

 それで彼女は急に僕の前からいなくなった。

 「彼は私を愛してくれた。娘として……。相変わらずの強面で私をおっかなびっくり接してくれた。ぶっきらぼうだけど優しかった。私は思ったの。いつか大きくなったら――。彼と出会った歳になったら、生まれ変わりであることを告白しようって。だけど、彼――父さんは死んじゃった。私がしゃべれるようになる前に死んじゃった」

 姉さんの細くて長い指が僕の髪に絡む。

「君は本当に父さんそっくりだね。違うのはこの髪くらいかな。君は母さん似だもんね。父さんみたいに癖がひとつもない。さらさらだ」

 マグカップの冷たさに耐えきれずに僕はマグカップを足下に置く。

 すると、僕の冷たい唇に暖かくて、柔らかい何かがぶつかった。

 姉さんは僕をぎゅうっと抱きしめる。姉さんの唇は甘くて――そして苦い。

 母さんとはまた違ったほろ苦さがあった。

 姉さんの火照った顔を見ているとこっちまで熱くなってくる。さっきあんなに口元が冷たかったのに、今ではこんなにも暖かい。

「――なんて話を考えてみたんだけど、面白かった?」

 姉さんの口元には涎で潤っている。その涎が僕のものか彼女のものかはわからない。ただ、どっちにしても珈琲のほろ苦さがあるのは確かだ。

「姉さんは小説家にでもなればいい。料理ができて小説も書けるなんて男の子がほっとかないよ」

「……ねえ、今の話」

「わかってるよ。未来の作家さんの処女作の冒頭でしょ。早く部屋に戻って新人賞にでも応募しなよ」

「……うん。ごめん」

 何がどう「ごめん」なのかはわからない。僕は、二つのマグカップを流し台に片付ける未来の作家さんの背中をみつめた。

 あの背中……そしてあの唇。

 おそらく、姉さんとキスをしている時の僕の顔は、前世の高校時代にタイムスリップしていたんだと思う。その時の顔を姉さんに見られなくて本当によかったと、僕は空を見ながら胸をなで下ろす。

     ◇

 やっぱり、キスの感触っていうのは人によって違うのだと思う。母さんの唇の暖かさは姉さんのそれとまた違ったものがある。

 僕は、今まで愛した女の人は二人だけで。今日はその愛した女の人二人と唇を重ねた。

 この感情はなんだろう。幸福とは違う。欲情ともまた違う。

 なんとも言えない切なさとなんとも言えない寂しさと、どこからくるかわからないこのもわもわした気持ちよさ。

 どうにかなってしまいそうだった。だからいつもは一瞬ですませる母さんとのキスもだいぶ長くなってしまっている。

「ん……」

 やばい。母さんが起きる。

 僕は離れようとすると、母さんは腕をゆっくりと僕の背中にまわす。

「……父さん」

 心臓が止まるかと思った。とりあえず、自分を落ち着かせてみる。

 母さんは酔っているんだ。さっさとこの部屋から出なければ。

 そんなことを考えている余裕は正直なかった。

 僕は母さんの胸に引き寄せられる。

 そして、初めて僕は母さんに唇を押しつけられる。こんなに積極的な彼女は本当に初めてだった。

 酒の力だろうか。

 唇を重ね合いながらも僕は母さんと抱きあい続けた。

 こんなにも彼女の匂いに包まれたのはどれくらいぶりだろう。

 もっともっと彼女を抱きしめてやればよかった。死ぬ前はそう思っていた。

 そのことを思い出して僕は、きつくきつく彼女を抱きしめる。彼女の息が荒くなるのがわかった。

 僕が腕の力を弱める。そして、僕はふと我に返る。

 そして、僕はものすごい後悔に襲われる。

 何で僕は気がつかなかったんだろう。この珈琲の匂いに。

 ドアを見やると、床にひとつのマグカップがおかれていた。中には湯気のたつ珈琲。そして、階段を下りていく音が聞こえた。

 珈琲の香りが広がる部屋の中、僕はただその場に座り込む。

 しばらくして僕は珈琲をすする。ぬるかった。

 そして、いつもあるはずの甘さは感じられず、ただただ苦みが広がるだけだった。

(了)



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